
■動かなくなった体をもう一度…再生医療“幹細胞治療”の挑戦
「一度傷ついた脳は、元には戻らない」
国内に130万人以上の患者がいると推計される脳梗塞。脳の血管が詰まり、脳の一部が傷つく病気です。命が助かっても、失われた脳の機能を取り戻す治療法はない―それがこれまでの“医学の常識”でした。
その常識を変えようとする挑戦が、北海道大学(北大)病院で始まっています。脳梗塞の後遺症に新たな可能性をもたらす再生医療「幹細胞治療」の治験です。
今回の取材で出会ったのは、東京から3ヵ月ごとに北大病院へ通う塩崎諭さん(49)。2022年、出勤前の朝、突然バットで殴られたような激しい頭痛に襲われ、脳梗塞を発症しました。左半身に重い麻痺が残り、手足は思うように動かず、記憶や言葉にも障害が生じました。
「自分がこれまでしてきたことが続けられないことが辛い。泣いて、泣き疲れて、枯れるくらいまで泣きました」
その言葉には「自分らしさ」を失うことへの深い悔しさがにじんでいました。

* * *
発症から約3年後。塩崎さんは北大病院で行われている幹細胞治療の治験を知り、自ら参加を希望します。治験には未知の部分もありますが、それでも迷いはありませんでした。
地方公務員として社会に貢献してきた経験から「今の自分にも誰かの役に立てることがあるはず」と考えた塩崎さん。北大病院の研究に希望を託し「未来の医療のために、自分を役立ててほしい」と治験参加を決意したのです。
この治験を率いるのが、北大病院脳神経外科の藤村幹医師です。幹細胞治療は、患者自身の骨髄から採取した「間葉系幹細胞」を体外で培養し、傷ついた脳の周囲へ直接投与する治療です。自分の細胞を使うため拒絶反応のリスクが低く、本来備わる組織の修復力を引き出すことが大きな特徴です。
藤村医師はこう語ります。「動かなくなった体を、もう一度動かしたい…そんな患者さんの願いに、新たな可能性をひらく治療です」
目指すのは、車いす中心だった人が杖で歩けるようになる。杖で歩いていた人が階段を上れるようになる。〝もう一歩〟の回復が、患者さんの人生を大きく変える希望になるのです。

新たな一歩を踏み出した塩崎さん
治験後、塩崎さんの体にも変化が現れました。それまで2本しか動かなかった左手の指が動き始め、その後、毎日9時間に及ぶリハビリを続ける中で、すべての指が動くようになったのです。(※治療の効果や回復には個人差があります)
「信じられない…常識を覆しているな、と感じました」。そう語った瞬間、緊張の面持ちだった塩崎さんの表情に、穏やかな笑みが浮かびました。現在は、多くの仲間に支えられ職場へ復帰。「自分の経験が、次に続く誰かの希望になれば」と、新たな一歩を踏み出しています。
もちろん、この治療はまだ治験の段階です。藤村医師は「安全性と有効性をしっかり検証し、一人でも多くの患者さんに届けられる治療にしたい」と話します。
さらに、再生医療は新たな段階へ進もうとしています。今年10月、北大病院では、国内で開発された幹細胞治療薬「アクーゴ」を用いた世界一例目の治療が始まる予定です。対象は、交通事故などによる外傷性脳損傷の患者さんです。
長年、幹細胞治療の研究を牽引してきた脳神経外科医の寳金清博・北大総長は「これまで後遺症を受け入れるしかなかった頭部外傷や脳出血などにも、新たな可能性が見えてきました」と語ります。
再生医療は「研究」から「実際の医療」へ。患者さんが〝もう一歩〟前へ進むために…その挑戦は今、北海道から医療の未来を切り拓こうとしています。
■治験
新しい薬や医療機器などの候補について人への効果や安全性を確かめ国の承認を得るために行われる臨床試験。参加は強制ではなく、十分な説明(インフォームド・コンセント)を受けた上で自分の意思で決める。3段階に分かれ、少数の健康な成人などを対象に薬の安全性や体内での動きを調べる「フェーズ1」、少数の患者を対象に最適な投与量や効果、副作用を確認する「フェーズ2」、多数の患者を対象に安全性を確認する「フェーズ3」と進む。北大病院の治験に関する情報は脳神経外科ホームページで。
(K)

