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最後の遺体〝女性24歳〟の同行者【1971年8月】

前回は乗客乗員68人が犠牲となった「ばんだい号」墜落事故を取り上げたが、この悲劇から1ヵ月も経たぬ7月30日、全日空機と自衛隊機が岩手県雫石町上空で激突、乗客乗員162人全員が死亡する大惨事が起きてしまった。週刊各誌は事故の模様を詳報したが、そのなかで異色だったのが1971(昭和46)年8月16日号の「週刊文春」だ。最後まで身元が判明しなかった24歳女性を巡る、札幌での謎の行動を推理している。事故直前、札幌でどんなドラマがあったのだろうか――。

“見知らぬ男女”を結ぶ点と線

千歳発羽田行き全日空機の墜落事故では、悲劇のなかでちょっとしたミステリーが話題となっていた。当初、搭乗者リストから、東京都狛江市在住の武田洋子さん(27)と思われていた遺体が別人と判明したからだ。旅行先の伊豆から帰宅したところ、報道陣が押しかけており、そこで初めて自分の“死亡”を知ったという。
〈武田さんは事故の2日前、勤務先(垣内商事)の同僚である村田和也さん(今回の事故で遭難死=34)から札幌までの航空券3枚(往復)の手配を頼まれていた〉のだが、武田さんはそれを庶務に取り次いだだけで、実際は村田さん本人が航空券を買いに行き、3枚とも男性の名前で予約したと聞いていた。狐につままれた様子の武田さんにかわり、同社総務部の渡辺駿さんが経緯を説明する。

〈「武田さんが手配したときまでは、取引先である名古屋市の国際建資の篠田喬社長(今回の事故で遭難死=39)と同社社員の水谷さんと村田、この3人の名前だった。村田は自分でも全日空のほうへ申し込んだようです。これがスンナリとれたので、武田さんが手配したほうをキャンセルした。このとき、村田は“男2人、女1人”として手配したものらしい。その女の名前に『武田洋子』を使っているんですな」〉

 なぜ、武田さんの予約分をキャンセルし、わざわざ彼女の名前で手配(水谷さんは日程の都合で不参加)したのか、肝心の村田さんが亡くなってしまった以上、真相を知る術はない。ただ、その後、家族の申し出により、問題の女性は尼崎市の西野陽子さん(24)であることが明らかになった。同誌では、この陽子さんと2人の男性を巡る関係について、いくつかの仮説を立て、推理を試みている。

〈推理1 西野陽子さんは村田和也さんの“女”ではなかったのか?〉
 村田さんは大阪出身。夫婦円満で子煩悩といわれていたが、出張や帰省で帰阪した際、梅田の阪急地下街に勤務していた陽子さんと関係ができ、水谷さんのかわりに同行を持ちかけたとする説だ。しかし、この説には疑問点があった。

〈「西野陽子」の名前で連れて行くことにはうしろめたい気持ちもあったので、武田さんの名前を借りすることにした〉〈ところが、この推理からすると、切符を手配する時点で女を連れて行くことを知っているのは村田さん1人であるはずで、それを渡辺氏が公知の事実の如く知っていたのはおかしい〉

 この点に加えて、3人の札幌での行動も不可解だった。宿泊したパークホテルの部屋はツインとシングルで、シングルは村田さんが使用していたと、ホテルマンが証言しているのだ。

〈自分の女をわざわざ札幌くんだりまで連れ出しながら、別々の部屋に泊るバカがどこにいるだろうか〉

 まったくその通りだろう。仮に陽子さんと篠田さんが同衾したとなると、次の仮説が浮上するのだが――。

〈推理2 西野陽子さんは篠田喬さんの“女”ではなかったのか?〉

しかし、名古屋で会社を経営する篠田さんと陽子さんの接点が見つからない。篠田さんもまた、周囲が羨むおしどり夫婦で、2児に恵まれ明るい家庭を築いていたという。結局、〈苦労を重ねてようやく国際建資の設立にこぎつけたのである。会社の創成期の大事な時に、女にうつつを抜かすいとまがあるとは思えない〉と、この仮説も打ち消している。

このあと、「推理5」まで記されているが、これらは“偶然”の要素があまりに強く、説得力に欠けるので、オミットしてよかろう。それにしても、犠牲者の写真まで載せ、あれこれプライバシーを詮索して傷口に塩を塗るような内容は、今の時代では考えられない。

陽子さんを巡る謎はまだある。事故(30日)の10日前に家を出た陽子さんは、23日に電話で姪と話し、こう告げている。〈「すごく快適に旅行しているから安心して」〉

「快適」という言葉から、酷暑の名古屋や東京ではなく、涼しい札幌が連想されるのだ。だとしたら、なぜ村田さんは彼女の分も含めて東京発の往復航空券を購入していたのか。逢瀬を楽しむなら、現地で待ち合わせたほうが好都合だったはずである。さらに、陽子さんが何か思い詰めた内容の「置き手紙」を残して旅に出たこともわかっており、より背景を複雑にしている。

記事は〈3人の葬儀は東京、名古屋、尼崎とそれぞれの家庭でしめやかにとり行われたが、陽子さんの魂はどちらの男性のもとに飛び去ったのであろうか〉と結んでいるが、2人の男性とまったく無関係だった可能性も否定できないだろう。いずれの遺族も「知らぬが仏」かもしれない。

▲「週刊文春」’71年8月16日号

『ばんだい号』を免れた調教師

競馬の世界は「運」に左右される。これは馬券を買うファンだけではなく、競走馬をレースに送り出す調教師も同じだ。どんなに強い馬であっても、不利、故障、落馬など運に見放されては、勝利の女神は微笑んでくれない。

 競馬での「勝負運」はさておき、「強運」ということなら、「週刊新潮」14日号が取り上げている西塚十勝調教師(60)に勝る人物はそういないだろう。その仰天エピソードをみていこう。

〈この人の身辺、「厄災のほうが避けて通る」らしいのだ〉

前号で紹介した「ばんだい号」墜落事故では、〈札幌市内から丘珠空港へタクシーを飛ばしたが、「混雑のため到着が遅れ、キャンセル待ちが自分の四、五人前で打ち切られた」という。氏は「座席指定なし」の往復切符を持っており、調教のため、函館に戻る予定だった〉と、すんでのところで難を逃れたのである。空港ロビーで雑談した、調教師仲間の柏谷富衛氏は犠牲になっている。札幌市内の喫茶店で事故を知った西塚氏は、〈「その日に限って、ナゼだか飛行機に乗りたくなかった。これ、ホントですよ」〉と振り返るが、“虫の知らせ”は昭和29年の「洞爺丸」事故でも経験していた。

〈東京の競馬会で会合があり、西塚氏は乗船を予定していたのだが、「風が出てきたため」スケジュールを変更。人に切符を譲り、その夜は函館市内の料亭で芸者数人を呼び、騒ぎまくった〉

当時は連絡船の切符は入手が難しく、知人の船員に頼み込み、やっと手にしたものだった。

記事にはないが、少年時代は1923(大正12)年の関東大震災の際、玄関から道路に飛び出した直後に家屋が倒壊したという。また1982(昭和57)年には、朝まで飲み明かしたおかげで、宿泊予定だったホテルニュージャパンの火災に遭わずに済んだ。あまりの神がかりぶりが話題となり、「奇跡の人」としてテレビ番組に取り上げられたこともある。

西塚氏は、名前(十勝)の通り、十勝地方の中川郡出身。昭和5年、札幌競馬場で騎手デビューしたが、目立った実績を残すことはできなかった。調教師に転身後も、晩年にミスカブラヤ(エリザベス女王杯)を手掛けたくらいで、お世辞にも名伯楽とはいえない。

当時、スズランパスを預託していた馬主の鈴木武二氏(美鈴コーヒー社長)はこう西塚氏を評する。

〈「騎手生活が短かったのは、正直いって才能がなかったからですね。馬を預けている私がこう言うのもナンだが、調教師としては死んだ柏谷さんのほうが腕はよかったな」〉

騎手としても調教師としても凡庸であった西塚氏だが、“牝馬”の扱いには長けていたようだ。

〈陸軍上等兵として応召、満州から北支を舞台に「諜報活動」に従事。「巧みな中国語をあやつり、周囲をあざむき、出没するときはいつも女といっしょ〉〈ニギヤカなその女性関係。特に「年増のクロウト女」がお好みのよう〉〈“入れ代わり、立ち代わり”の状態らしい。そのせいで、「困った病気」もしばしばかかったという剛の者〉

コンプライアンスに厳しい今のJRAならアウトの武勇伝だが、大らかな時代であった。事故を免れた際も、ほとんど女性と過ごしていたそうだから、「女運」もよかったということか。

浮気三昧の一方、情に厚い一面も持ち合わせていた。

〈過去、十人の子供を知人からもらい受け、それぞれ成人するまでリッパに育て上げたという〉

自身が若くして両親を亡くしていることもあり、根は寂しがり屋で、身寄りのない子どもを放っておけなかったのだろう。

西塚氏は2006(平成18)年、94歳で大往生を遂げた。「無事是名馬」の人生であったことは間違いない。

▲「週刊新潮」’71年8月14日号

牧場づくりは芸術である!

全国各地のさまざまな「日本一」を訪ねる「週刊朝日」の連載企画で、27日号では上士幌町の牧場を取り上げている。

牧場の正式名称は北海道十勝中部地区大規模草地。堅苦しい名前なのは、国が8億円を投じ、日本で初めて国家事業として造成した牧場だからだ。元々は国有地で、戦前は軍馬の育成場として使われていたという。

〈総面積千六百八十九ヘクタール、ひとつの牧場の広さでは、だんぜん日本一〉〈牛の数が千八百頭で、これまた日本一〉

広大なだけではなく、起伏が大きいため眺望も素晴らしかった。

〈十勝平野を見下ろす丘の上でクローバーに深々と身をしずめて、じっと東の方角に目をこらすと、地平線に阿寒の山々がかすんで見えた〉

 牧場の管理を一手に引き受けている伊藤具英さん(34)は、こう理想を語る。

〈「私は人間と家畜の融和ということを夢に描いて、この仕事にとびこんできました。牧場づくりはひとつの芸術だと思います。牧場の機能とその美しさとは、究極で一致するというのが私の信念です」〉

伊藤さんは札幌生まれ。この夢を実現するため、帯広畜産大に進んだ。

〈若い牛を農家に代って育てあげ、人工授精によって妊娠させて乳の出るようになったところで農家に帰してやるというのがその役割〉

このシステムにより、農家の負担は劇的に軽減された。低く抑えられている預託料と人工授精の費用さえ払えば、煩瑣な育成と設備投資から解放されるのだ。管理事務所の小崎正勝所長(41)は〈「ひらたく言えば牛の幼稚園といったところですかな。人間にくらべたら妊娠だけ余計ですが」〉と苦笑するが、農家の仕事が楽になったぶん、所長以下30人ほどの職員の日常は多忙を極めた。

〈雨が降ろうが嵐がこようが、一頭一頭について、草の食べ方から歩き方までのチェックが毎日行われる〉〈(越冬する)四百五十頭の半年間の飼料はサイロに入れてたくわえられるが、その量は二千百㌧〉〈この膨大な量の牧草を、秋の初雪のくるときまでに刈入れてサイロに運びこむのが飼料調製の仕事。毎年五月、牛の放牧が始まると同時に、明けても暮れても草刈が続けられる〉

こうした苦労の連続だけに、手塩にかけて育てた牛には並々ならぬ愛情を感じるようだ。小崎氏がぽつりとつぶやいた。

〈「秋の初雪がくるころ、牛を農家の人に引渡すときの気持ちは、何とも言えませんね」〉

この記事から半世紀を経て、お役所的な名前の牧場は「ナイタイ高原牧場」として生まれ変わり、多くの観光客が十勝らしい雄大な牧歌的風景を楽しんでいる。

▲「週刊朝日」’71年8月27日号

“雪の祭典”ファッションショー

悪評フンプンの東京五輪の影響を受け、札幌市が2030年の招致をめざす冬季五輪への気運は下がる一方だ。たとえ感染が収束しても、IOCや組織委を巡るネガティブイメージが定着してしまった以上、五輪熱のV字回復は考えにくい。

が、半世紀前の札幌は、半年後に迫った冬季大会に向け、街全体が高揚感に包まれていた。ユニホーム公開の模様を「週刊朝日」27日号がグラビアページで伝えている。

〈運営委員、通訳、コンパニオン、聖火ランナー、合唱隊などそれぞれ男女別につくるのだから、全部で32種類、1万着にも上る。ユニホームについていえば、東京オリンピックの22種類をしのぐ大がかりなファッション作戦となった〉〈お値段のほうは帽子、コート、セーター、ズボン、手袋、クツなどいっさいひっくるめて1万着分で1億円。中でもコンパニオンの3万3千円が一番お高い〉

 当時と今では貨幣価値がまったく異なるので単純な比較はできないが、1着平均約1万円だから、べらぼうに贅沢というわけではないだろう。お披露目の会場は真駒内スケート競技場と屋内スケート場。バッチリとポーズを決めたスタッフそれぞれのユニホームが、ファッション雑誌ふうの文体で紹介されている。

〈プラカード要員 色はアイスブルーで統一。コートはダブルにしてリズムに乗って行進する軽快さを表現した。帽子はバッキンガム宮殿の儀仗兵のようにスマート〉〈表彰要員 帽子をスノーホワイトの毛皮にし、ミティのコートのウエストを太いベルトで締め、白のパンタロンとともに若さと躍動を取り入れたコンビネーション〉〈コンパニオン コートはこの秋流行が予想されるミモレ丈(ヒザすれすれ、ミディより短い)を採用〉――といった感じだ。

週刊誌の読者はほぼ男性と思われるが、このグラビアだけは、世の奥さまたちが夢中になって見入ったことだろう。

〈真夏のさかり、防寒のユニホームを着てとんだりはねたり。がまん会よろしくのユニホーム披露だった〉と結んでいるが、モデルたちの表情は一様にハレバレとしている。温暖化などなかった時代の北海道は、8月といえども、意外と涼しかったのかもしれない。

どうやら世論を無視して強行されそうな東京五輪で、選手やスタッフがどんなユニホームを身に着けるのか関心はないが、どれほど素晴らしいデザインであろうと国民の心には響かないはず。冬季大会以上に“お寒い”真夏の祭典となりそうだ。

▲「週刊朝日」’71年8月27日号

ムツゴロウ島に住む

無人島生活――TVのバラエティ企画をみてロマンを駆り立てられる人もいるだろうが、文明の利器と隔絶された環境は甘くない。だが、大自然と動物に囲まれて生きることをライフワークとしているムツゴロウこと畑正憲氏にとっては、単なる移住先の一つでしかないようだ。「週刊文春」16日号が、浜中町霧多布沖に浮かぶ嶮暮帰島でスローライフを満喫する畑ファミリーの姿を紹介している。部外者の訪問を歓迎していなかった畑氏だが、同誌で連載を担当していた縁もあって“上陸”を許可されたものと思われる。

〈孤島の生活を始めた動機は、ヒ熊の飼育観察であった。だから畑さんの生活は、すべてヒ熊〈どんべえ〉が中心になる。広さ12畳の部屋も半分を提供。当年1歳。体重35キロ。相撲をとると近頃では五分五分になった。人になつかない凶暴な野獣として知られるヒ熊との共同生活は、貴重な資料となりそうだ〉

いかに動物の扱いに手慣れている畑氏とはいえ、ヒグマの場合はいつ野性の本能が剝き出しになるかわからない。ヒグマの恐ろしさを知る道産子としては、驚かされるばかりである。このヒグマ以外の“家族構成”は、人間3人、馬2頭、犬1匹、カラス1羽であった。

アイヌ語で「ハンの木の下」というこの島を、地元の人たちは「ムツゴロウ島」と呼ぶようになっていた。畑氏は島での生活について、〈島に住んで四ヵ月。注文しておいた新造船も出来て快適な日々である。商店が一軒もない所へ住みつくには相当な覚悟がいると家族に反対されたりもしたが、住むほどにそれが長所にもなってきた。自給自足しようとするため、思いもかけぬ幸が手に入る。この島に住んだことは、私の終生忘れ得ぬ思い出にもなろう〉と記している。

畑氏は「第五ムツゴロウ丸」を操り、カニ、サケ、コンブを捕獲し、なんと海苔まで製造していた。さすがのサバイバル能力である。充実した島ライフであったようだが、〈ただ一つ不便なのは、いくらか有名になったため、予定しない客がくることである〉との皮肉も。熱心なファンやマスコミであろうが、畑氏は動物目線で人間を眺めていたのかもしれない。

▲「週刊文春」’71年8月16日号

秘境 五箇山

秘境と呼ばれる場所は年々消えつつある。知床半島もかつては紛れもない秘境であったが、観光ブームによって姿を変え、世界遺産登録後は外国人観光客が押し寄せるようになった。「サンデー毎日」1日号では、観光収入に頼るほかない、変わりゆく秘境・富山県五箇山の現状に迫っている。

〈タイムマシンにのって歴史をさかのぼった?――そんな錯覚が生まれるような風景がそこにある〉

独特な合掌づくり住宅が並ぶ集落は、確かに日本の原風景といった趣だ。五箇山への道は険しく、タクシー運転手は〈「このあたりを“人喰い谷”というんですよ」〉と言って、深い谷底を指さした。

しかし、前年に国鉄バスの定期観光ルートが開通したのを機に、この集落にもブームがもたらす変化が表れ始めていた。

〈ペンキ塗りの民宿の看板。その民宿用改造工事のためのコンクリートミキサー。おなじみコカ・コーラの宣伝看板〉

取材記者は複雑な思いを抱きつつも、〈それらをニガニガしく思ったりするのは都会人の独善というものだろう〉と理解を示す。それは、村役場で〈「戦前この地方では、和紙、養蚕、木炭の三つが生活の支えとなっていました。戦後は三つとも斜陽化して、今ではここの労働力は主として建設現場の労務者に流れているのですよ。この地方を支える将来の産業としては“観光”しかないんです」〉という話を聞いたからだろう。

1995(平成7)年、五箇山は岐阜県白川郷などと世界遺産に登録された。合掌づくりの雪景色は特に美しい。アクセスが大幅に改善された今は秘境といえないまでも、伝統を守り続けてきた風格と、都会人を癒やす郷愁は損なわれていない。

▲「サンデー毎日」’71年8月1日号

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