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人間ドキュメント 東亜国内航空の社員【1971年7月】

企業の吸収合併には、さまざまなリスクもつきまとう。半世紀前の7月3日、東亜国内航空機が函館市の横津岳に墜落し、乗客乗員68人が犠牲(生存者なし)となった事故は、日本国内航空と東亜航空の合併により、5月15日に誕生したばかりの同社に大きな衝撃を与えた。1971(昭和46)年7月17日号の「週刊新潮」では、事故後の社員の混乱ぶりを克明に追っている。旧日本国内航空派と旧東亜航空派のチームワークの欠如が原因で、遺族の怒りを買う場面も。社員たちの長い数日間をみていこう。

大事故の非常呼集

 「ばんだい号」関連の話題は、函館空港の諸設備の脆弱さ、東亜国内航空の一枚岩ではない企業体質など、各誌がさまざまな角度から取り上げているが、「新潮」の人間ルポが最も興味深い。

丘珠発函館行きの「ばんだい号」は、予定時刻を過ぎても到着せず、やがて一切の交信が途絶えてしまった。同社の札幌支店に異常事態が知らされたのが午後6時23分。札幌グランドホテルでのパーティーに出席していた中村豊造・札幌支店長は、電話連絡を受け、大至急、ホテルから近い支店に戻った。

〈「これは最悪の事態も考えられると緊急非常体制を敷き、社員の呼び出しを続けさせました」〉と、当時の状況を振り返る。

7時29分、NHKが「ばんだい号行方不明」の第一報。これを見て駆けつけた社員もおり、8時30分までには28名の社員が全員顔を揃えた。支店には、社員のほか、報道陣や乗客の家族も続々と訪れ、電話回線がパンクする事態に。また、支店にはテレビがなかったため、〈乗客の家族たちにせっつかれて、あわてて近くの電機店から三台のテレビを借り受けてセットした〉というドタバタ劇もみられた。

一方、富永五郎社長は新宿区西落合の自宅で寛いでいた。

〈水割りを一杯飲み終わったところで電話が鳴った。羽田にある本社運航管理室からだと奥さんが言うと、社長は「事故かな」と言って立ち上がった〉〈電話に出た社長の表情は変わった。気象状態、函館空港の状態などを矢継ぎ早に質問したのち電話を切り、社からの迎えの車を待たず、タクシーで羽田へ向かった〉

14人の役員もみな、血相を変えて社に急行した。彼らの胸に去来したのは、「こんな時期に……」との思いだった。新会社が発足したばかりというだけではなく、事故の直前まで労使が揉めに揉めていたからだ。

〈合併は決してスムーズに実現したわけではなかった。『国内』と『東亜』の両組合が労働条件の統一と大幅賃上げを要求して長期のストに入り、一方、従来待遇のよかった『東亜』側のパイロットが、合併による待遇の悪化を嫌っていっせいに辞表を提出した。争議は五月二十九日に解決したが、それまでは九割の便が欠航せざるを得なかった〉

利用者にすれば、「ストが終わった途端にこの大事故か」との怒りがあったろう。日本航空、全日空に次ぐ「第三の翼」は、その期待に反して、大規模なスト、そしていきなりの墜落事故によって、会社の信用も地に堕ちてしまったのだった。

事故当日、社員の中で最も多忙を極めたのは、企画室次長の金沢賢治氏だ。残業をこなし、羽田を出たのが6時半頃。横浜市の自宅に帰ると、すでに出社命令が待っていた。

〈乗客を地域別に分けた名簿を作り、地方は各地支店を通して家族に連絡、確認した。次に、『ばんだい』がほんとうにダメなのか、三沢とか八戸に降りているのではないか、という疑いからの問合せ作業。函館へ家族や応援社員、報道陣を送る臨時便の確保。運輸省航空局との連絡もある。技術部長、事故調査課長などの自宅への電話。翌日の捜索に備えて『日航』からビーチ・クラフト機をチャーターする交渉〉

まさに超人的な働きである。結局、金沢氏は翌日の昼まで不眠不休、食事も取らず奮闘を続けたのだった。

翌4日午後5時25分、陸上自衛隊のヘリコプターが、ついに横津岳山腹で「ばんだい」の機体を発見。これを受け、6時半、東京本社で安達平八郎副社長は記者会見に臨んだ。

▲「週刊新潮」’71年7月17日号

山へ登ろうとした社長

〈会見場に腰をおろしたとき、顔色はすっかり青ざめ、目は真っ赤。発表資料を持つ手はワナワナと震えていた〉

狼狽するのも無理もない。合併前まで安達氏は東急不動産の重役であり、「空」とはまったく無縁のキャリアを歩んできた人物なのだから。

その頃、函館市内の4つの旅館で待機していた遺族たちは、テレビで機体発見のニュースを見て、遺体収容現場である七飯小学校へ案内するよう急かしたが、会社側はバスに出発指示を与えなかった。なぜなら、午前中、泣面山で機体発見という誤報が流れ、社員が振り回された苦い経験があったからだ。結果、情報確認のため、遺族を待たせたことも、会社に対する印象をいっそう悪くしてしまった。

8時過ぎ、遺体を待つ遺族の前に、運航担当常務の野尻幹男氏が現れた。

〈彼は、横津岳があまりにけわしくて、夜間の遺体収容はきわめて困難なので、今夜は打ち切らねばならないと説明するつもりであった〉

ところが、野尻氏が平身低頭すると同時に、遺族から罵声の集中砲火を浴びたため、言葉に窮して、ただ謝罪を繰り返すばかり。野尻氏は戦前から名パイロットとして鳴らした人物であったが、あまりの萎縮ぶりに、地元警察や町長が助け舟を出し、遺族への説得役を買って出るほどだった。

しかし、騒動は終わらない。

〈遺体搬出作業の打ち切りを絶対に認めない遺族二十人が、静止を聞き入れず、遺体のある横津岳へバスで向かった。それを見ていた富永五郎社長も車であとを追った〉

社長の心情は察して余りあるが、夜の横津岳は危険極まりない。

〈あわてたのは、地元の消防団員や警察官たちだ。山の中まで追いかけて、やっとつかまえ、引き返すように説得した〉

富永社長は東大工学部航空科を卒業後、飛行機一筋の人生を歩んできたが、戦後、ヤミ商売に手を染めた経験もあり、単なるエリートの技術屋ではなく、庶民の気持ちも理解できる人物と評されていた。

翌5日、会社側の状況説明は二転三転し、遺族の怒りに油を注いだ。こうした不手際は、合併まもない企業の弱点を露呈したともいえた。

〈函館に集まった三百人からの社員たちが、お互いの顔をあまり知らず、そのために彼らの間での指揮系統が、ほとんど体をなしていない有様〉だったのだ。遺族に提供する200人分の寿司を巡り、注文→キャンセル→再注文と、店主を呆れさせる事態もあった。

両派の対立は、腕章にも反映されていた。

〈正式の『東亜国内』の腕章をつけていたのは、三百人のうちただ一人〉というから、由々しき愛社精神の欠如といえる。なかには、日航からの応援を装い、遺族とともに東亜国内の悪口を並べ立てる社員すらいた。こうした連中を束ねなければならない、富永社長の苦労は並大抵ではなかったはずだ。

午後7時、ようやく68人全員の遺体を収容。まだ身元確認が終了していない遺体もあったが、その夜に函館慰霊堂で仮法要が開かれた。

6日午後6時35分、社員たちの長い4日間が終わった。

〈朝から遺骨を胸にした遺族たちが、『東亜国内』の社員に見送られては続々、函館を去っていったのだが、最後の一団が『東亜国内』東京行の特別便に乗って空に舞い上がった〉〈函館空港のロビーで、この飛行機を見送った『東亜国内』の一人の社員は、まるで精根尽き果てたのごとくにヘナヘナとしゃがみこんでしまった〉

極度の緊張が弛緩したとき、人間はこうした状態になるのだろう。ただ、会社的には事故原因の精査や補償金問題など、まだまだ難題が山積しており、社員たちが心から安堵できるのは、かなり先の話だった。

事故原因については、ヒューマンエラーの可能性も指摘されたが、いまだ真相は明らかになっていない。事故の1年後、横津岳の山頂に慰霊碑が設置された。

その後、東亜国内航空は日本エアシステム(JAS)と名称を変えて30年余り飛び続け、2004(平成16)年、日本航空に吸収される形で消滅した。その日航が御巣鷹山に墜落し、520人もの犠牲者を出したのは1985(昭和60)年のこと。JASからの移籍組の中には、2つの事故を体験した社員もいたに違いない。悲惨な航空機事故が二度と起きないことを切に願う。

海山2泊3日の特選コース

GWに続き、今夏も本格的な旅行は自粛せざるを得ない状況になりそうだ。「あそこはインバウンドで混雑しそう」などと考えながら、夏休みのレジャー計画を練っていた時代が懐かしい。

 「週刊現代」22日号では、全国各地のおすすめ「2泊3日」旅行を紹介している。東京発のコースが大部分を占めているが、札幌発のコースも一つだけ載っているので、誌上旅行を楽しんでみるとしよう。

〈二泊三日の北海道旅行はちといそがしいが、焦点をぐっとしぼれば、観光地ずれしないおもしろい旅が味わえる。たとえば積丹半島などはその一つ〉

出発地点は余市。文末に交通費の内訳が掲載されているが、札幌—余市間のバス料金が490円と安い(現在は1030円)のが時代を感じさせる。ただ、東京—札幌間の空路1万2900円は逆に高い。LCCを使えば、4千円台のチケットもある。当時はまだ飛行機は庶民にとって高嶺の花の時代であり、列車と青函連絡船を乗り継ぐのが一般的であった。

〈「石狩湾に面した余市から半島の突端の余別までの海岸線がいいところです。砂浜あり、岩場ありで、水泳も楽しめるし、豪快な磯釣りにも最適。かつては札幌市民は小樽の海水浴場で泳いだもんですが、いまは汚れていて、みんな積丹半島へ出かけます。そのわりには秘境ムードのあるところで、風がゴーゴーと吹き、いかにも地の果てにきたって感じです」〉と話すのは、札幌在住の男性だ。

奇岩が続く積丹ブルーと称される海岸線は、これからの季節に青さを増す。積丹半島の先端に位置する神威岬へ足を延ばせば、ゴーゴーと唸りをあげる強風を体験できるだろう。積丹半島は全域が「北海道遺産」に登録されており、半島を含む1市8町2村の広大なエリアは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」の指定を受けている。

一方、地元グルメについて熱く語るのは、北海道ファンという東京のOLだ。

〈「海岸の民宿では、ツブ貝を使った浜鍋が特徴。生ウニをご飯にかけてつくるウニドンブリもいかすわ」〉

積丹地区のウニ漁は、6月中旬に解禁となる。

そして、ナイトスポット紹介では意外な証言も。

〈「岩内は、実は北海道一の美人ぞろいの町です。銀座のホステスなど足元にもおよびません」(北海道観光連盟)〉

岩内町の人口は1万1811人(4月末時点)。ルポによれば、30軒以上のバーが営業していたそうで、半世紀前はそれなりの賑わいがあったのだろうが、それにしても天下の銀座を凌駕するとはにわかに信じがたい。

積丹半島の風情は当時とそう変わらないはず。青い海と絶品のうに丼を堪能して、コロナ禍の陰鬱な気分を晴らしてみてはいかがか。

▲「週刊現代」’71年7月22日号

さよなら“スガモ・プリズン”

池袋のランドマークとして、コロナ禍でも賑わいをみせているサンシャインシティ。が、ここに集う若者のほとんどは、この地がかつて暗い歴史に彩られた場所であったことを知らないに違いない。

1978(昭和53)年に華々しくサンシャインシティが開業する以前、広大な空き地には一種独特の雰囲気が漂っていた。というのも、ここには「巣鴨プリズン」と呼ばれた東京拘置所が建っていたからだ。その巣鴨プリズンが解体される様子を「週刊新潮」10日号が伝えている。

〈冷たく暗く長いコンクリートの通路の入口近くに立つ白いヘルメット、制服。工事現場の警備員の後ろ姿に、一瞬、二十年前のMPの幻がダブって見えはしないだろうか?〉〈戦後の十三年間、多くの“戦犯”を収容、スガモ・プリズンと呼ばれてズバリ戦後そのものの象徴だった東京拘置所がいま解体の日を迎えている〉

文中に登場するMPとは、進駐軍憲兵隊(ミリタリー・ポリス)の略称。当時、MPと記されたヘルメットをかぶった米兵が、我が物顔で闊歩していた。

〈ズズーン、ズズーン。地響きまで伴って壁を崩す。重さ一トンから一トン半のスチールボールの音が、すなわち、消えゆく過去への弔鐘であった〉〈未決・既決の囚人が、怒り、恐れ、絶望とともにくぐった門を、きょうはダンプカーが抜ける〉

写真をみると、廃墟のなかに怨念のような重い空気が充満している印象を受ける。取材した記者も、同様の感想を抱いたようだ。

東京拘置所の歴史は、1895(明治28)年に完成した警視庁監獄巣鴨支所(のちに巣鴨刑務所に改称)に遡る。その後、巣鴨刑務所の閉鎖に伴い、1958(昭和33)年、東京拘置所に生まれ変わったのだった。

〈北のスミに区切られた一画は、ご存知の13階段。絞首台のあった刑場跡。スガモ・プリズンでは東条英機大将をはじめとするA級戦犯7名、B・C級53名の計60名が処刑されている。なおこの土地は、今回の解体・整地の対象からはずされて、ヘイの外にもうひとつのヘイを建て、保護されていた〉

歴史的価値が高い建物とあって、ひとまず解体を保留したのだろうか。そのまま保存し、戦犯史料館にでもしていれば、貴重な「戦争遺産」になっていたと思うのだが。

また、戦犯のみならず、晩年は全学連や反戦運動で暴れた多くの若者も連行されてきた。戦犯と学生運動ではイデオロギーがまったく異なるが、彼らも暗鬱な牢獄の中で、並々ならぬ怨念を燃やしていたことは想像に難くない。

〈1万8千坪の跡地には都心再開発計画によって、超高層ビルが建つことになっている〉

新都市開発センターの担当者は〈「ホテル、デパート、住宅、文化施設、そして緑と水の楽しい空間——とすべてをそろえたユニークな複合都市をつくる予定です。いまの池袋の面影を一新するような……」〉と話しているが、7年後に完成する、その夢のプランがサンシャインシティだったわけだ。

まさに暗から明。実際、サンシャインシティの誕生を機に、池袋のイメージは一変した。しかし、再開発の大義名分のもと、戦後史を雄弁に物語る遺構が、巨大な商業ビルによって消し去られたとの印象も禁じ得ない。取材した新潮の記者も割り切れぬ思いがあったのか、〈万斛の思いを込めたこの建物の姿も完全に消えるわけだ。またひとつ戦後が消えて、超高層ビルが出現する……〉とルポを結んでいる。

▲「週刊新潮」’71年7月10日号

農民は自殺している

気象条件に左右される農家の苦労は昔も今も変わらないが、半世紀前は尊い人命を奪うほどの悲劇も珍しくなかった。「サンデー毎日」4日号が、冷害と減反によって絶望し、自殺にまで追い込まれた上川郡風連町(現・名寄市)の柏樹正さん(42)の無念を伝えている。

西風連地区の農事実行組合長だった柏樹さんが、自宅と隣り合わせの馬小屋で首吊り自殺をしたのは3月3日のこと。妻の節子さん(45)が当時の状況をこう振り返る。

〈「買い物から帰ってみたら、父ちゃん、昼間から酒のにおいをプンプンさせて、布団の中で寝ていたんです。なにかをじっと思い詰めているような顔だったので、はっとしたんです。そしたらまもなく起き出して、『ちょっと馬小屋へ行ってくるよと』といって出て行きました。それっきりでした」〉

柏樹さんが所有する土地は3ヘクタール。このうち1ヘクタールは、地元農協からの借金250万円を元手に、丘陵の牧草地を水田に転作したものだった。

〈「その頃、父ちゃんは農家が収入を上げるためには、タンボをうんと造るべきだ、と組合のみなさんに造田事業の促進を呼びかけていました。借金をしてまで、牧草地を水田にしたのは、模範を示そうという気持ちもあったんです」〉

そうしたなか、政府が打ち出した減反政策。記録的な冷害も重なり、人一倍責任感が強かった柏樹さんは、仲間に造田を勧めた手前、失意と慙愧の念に苛まれたに違いない。それまでは、将来は町会議員に立候補し、地区の仲間の意見を町政に反映させると張り切っていたという。

遺体の腹巻から発見された「道北一農民の叫び」と書かれた遺書が、故人の心境を切実に表している。

〈「四十三、四年と造田をつづけ、やっと自立農家になった。しかしその喜びも、四十四年春の異常低温と四十五年度からの減反政策のために、無残にも敗れ去った。しかも米価は二年据置かれて、負債はますます増えるばかりである。今年度の生産調整量が発表されたが、政府の買入れ制限量があまりにきびしくなっているのをみてガクゼンとした」〉〈「その数字は、われわれのように政府売渡し量の少ないものにとって、こんご一切米を作ることはまかりならんというのにひとしいものだ。こういう政策のもとで農業を続けていくことは、もはや不可能に近いものと思う。私は農業の前途にすっかり望みを失った。よってここに、深く死を決意する」〉

悲壮な文面に、零細農家に対して非情な政府への怒りが横溢している。前年の6月、米価審議会の席上、ある委員はこう言い放った。

〈「減反で農民が自殺をするというなら、ほんとうに死ぬところをみたい」〉

非情なのは、地元の町役場も同じだった。以下は役場から上川支庁へ送られた報告書の内容である。

〈「柏樹さんは、四十四年の冷害で借金がかさみ、さらにその年の秋に出稼ぎ先で足にケガをした。そのうえ、長男の大学進学問題が持ち上がったので、ノイローゼ気味になった。自殺の原因は、それがこうじたためと思われる」〉

収入はわずか26万円。借金と5人の家族を残され悲嘆する節子さんは、死者に鞭打つようなこの報告をみて、どんな心境になっただろうか。

件の米価審議会以降、柏樹さんを含め15人もの農民が相次ぎ自殺したという。15人の死は、「ほんとうに死ぬところを……」という暴言に対する無言の抗議でもあったはずだ。

▲「サンデー毎日」’71年7月4日号

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