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乳牛三万余頭の人工授精から入院まで【1971年12月】

動物病院の“患者”というと、イヌやネコなどのペットが連想されるが、1971(昭和46)年12月10日号の「週刊朝日」の連載ルポ「日本一」では、年間、3万3千頭もの乳牛を診る標茶町家畜診療所の多忙な日々を追っている。同診療所は、診察数だけではなく、設備の面でも全国トップクラスであり、まさに「日本一の動物病院」と呼ぶにふさわしい。町域が広いうえ厳寒地でもあり、小動物相手の病院とは比較にならない苦労があったようだ。

三千万円かけた自慢の設備

〈「日本一? そんなことをいわれると荷が重いですねえ。そりゃあ、診療と人工授精を合わせて手がけている牛の数では、たしかに日本一ですがね」〉
そう謙遜するのは、標茶町農業共済組合の斎藤淳一参事だ。同組合が作っている標茶町家畜診療所が前年に診療した乳牛は1万8千頭で、人工授精を施したのが1万5千頭。合計3万3千頭は、全国の動物病院でダントツの数字である。
ここが「日本一」と称されるのは、頭数だけにとどまらず、設備面でも農林省畜産局から「優秀も優秀。間違いなく日本一」とお墨付きをもらうほどだった。その話は後述するとして、まずは診療所の概要を紹介しよう。
当時、標茶町の人口は1万4千人。これに対し、牛は2万3千頭であったから、酪農がいかに重要な産業であるかがわかる。当然、診療所が果たす役割も大きかった。
〈斎藤さん以下、十八人の獣医が勤務している。標茶にいる“人間のための医者”は、町立病院の四人に、開業医が一人、歯科医を入れても七人にしかならないから、医者の数でも“牛上位”なのである〉〈診療所は獣医のほか十八人の人工授精師、十三人の一般職員、合計四十九人が陣取る大所帯。なにせ香川県ほどの広大な標茶だから、本部のほかに四カ所の分院があり、獣医のうち六人、人工授精師は十五人が分院に常勤している〉
事務室がある本部には、最新式の実験研究室と入院施設が設けられていた。その費用はざっと3千万円以上。これほどの投資を行った理由について、斎藤さんは〈「この町みたいな田舎の医者は、昔は聴診器を当てて診察するだけだったんですよ。いつまでもこんな状態でいいわけがないんで、血液検査や尿検査、乳質の分析、細菌培養などができる実験研究室をつくったんです。これからの獣医はカンだけでなく、科学的な診療もやっていかねばなりませんからね」〉と説明する。こうした設備を整えたのには、別の狙いもあった。
〈最近の若い獣医さんは、ほとんどが都会で就職し、田舎の家畜診療所には来たがらない。そのため、どこの診療所も人手不足に悩まされている。たまに新卒の獣医が来ても、三、四年たって一人前の腕になったら都会へ出て行ってしまう。若い獣医をひきつけ、定着させるには、なによりも彼らの学問的な欲求を満足させる設備を持つこと〉と考えていたからだ。近年、都市部への医療偏在が問題視されているが、当時の家畜診療所は実に先見的な視点を持っていたといえる。
一般的に、多忙な酪農家は、いちいち牛をトラックに積んで診察に出掛けられない。いきおい、獣医の診察はほぼ往診ということになる。従って、家畜診療所に特別な診療施設や入院施設などないのが普通だ。斎藤さんは〈「全国で、こういう施設をもっているのはここだけですよ」〉と胸を張る。これぞ「日本一」の矜持であろう。

▲「週刊朝日」’71年12月10日号

一日二百円の入院費

入院施設を作ったおかげで、人手不足のため病気の牛の面倒を見きれず、泣く泣く手放してしまう酪農家が激減した。入院費は1日のエサ代にあたる200円のみ。これならば、治癒したのち手元に戻れば、経済的な損失は発生しない。
ただ、人間の治療と決定的に違う部分もある。金銭的な問題はさておき、あくまで人命優先に徹する人間とは異なり、「経済動物」である牛の場合、治療が長期にわたり費用がかかりすぎるケースでは、“命の選別”を決断せねばならない。もっとも、「経済動物」であるがゆえ、酪農家は牛の病気に対し、細心の注意を払っていた。
〈うっかり死なれたら、二、三十万がフイになるからだ。「わたしら、子どもが腹が痛いと言ったぐらいでは、めったに医者を呼ばないが、牛が元気なかったら、すぐ獣医さんに来てもらうものな」と酪農家たちは口を揃える〉
朝日の記者は、往診に行くベテラン獣医の竹下高徳さんに同行した。移動中、竹下さんは〈「今でこそ自動車がありますが、昔はオートバイ。零下二〇度にも下がる冬はたいへんでした。道路もアイスバーンでコチコチで危険でしたね」〉と苦労話を語る。今は移動こそ楽になったものの、急な難産などで深夜の往診に向かうことも珍しくなく、気が休まる暇がない。
〈獣医が酪農家を訪れる回数は、年間六十回から七十回に達する。一週間に一度以上の割合だ〉〈田舎では家畜診療所は獣医という大学卒のインテリが多数集まっているところだ。酪農家は獣医を頼りにし、診療以外にも酪農経営のことなど、さまざまな相談をもちかける〉
ときには、跡継ぎを嫌がり、東京に出たがる息子への説得役をお願いされることも。こうして酪農家たちと濃密な人間関係を築いていく姿は、沖縄の離島で奮闘する医師の活躍を描いた『Dr・コトー診療所』とダブる。
一方、人工授精の仕事も、危険と隣り合わせだったようだ。
〈「かつては一部でホンコーもやってたんですがね。発情した種牛は狂暴で、角にひっかけられたりして、ずいぶん死者が出たりしたんですよ」〉と斎藤さんは振り返る。「ホンコー」とは「本交」、つまり種牛と雌牛を実際に交尾させること。競走馬の世界ではホンコーが主流なのは、種牡馬は種牛ほど危険ではないためなのだろう。
斎藤さんは〈「乳牛の雄に生れるほど哀れなものはないですよ」〉とも言う。生まれた子牛が雌なら育てられるが、一部の種牛を除き、雄ならただちに肉となってしまうからだ。
人工授精用の精子を搾取するには、擬牝台という装置を使うという。
〈木で牛の型をつくり、牛皮を張ったものである。発情した種牛は擬牝台を牝だと思ってのしかかっていく。するとゴム製の人工膣が仕掛けてあって、その人工膣へ種牛が放出するのだ〉
いわば“オモチャ”にしか射精できないのだから、雄はやはり哀れだ。
家畜診療所のスタッフは、〈将来は標茶の酪農の中核センターにしていきたい〉との夢を描いていた。その夢は叶い、現在、診療所は「NOSAI道東釧路中部事業センター」となり、標茶の酪農業を支えている。

百家争鳴ラーメンなんでも百科

 北海道は一段と寒さが厳しくなり、熱々のラーメンが恋しい季節となった。札幌ラーメンは観光客にとっても欠かせない名物となっているが、半世紀前には東京でも一大札幌ラーメンブームが巻き起こっていたようだ。「週刊朝日」17日号が、当時の東京における札幌ラーメン事情を詳しく解説している。
〈「東京で三千店、都内だけだと二千店は超えた」〉
そう話すのは、千葉県の中山競馬場近くで札幌ラーメン店「菊や」を営む菊池庸さんだ。昭和40年に開店した菊池さんは、札幌ラーメンの“元祖”のひとりを名乗っており、「正統派札幌ラーメン」の定義について、こう力説する。
〈「北海道出身で、直接にラーメンをつくること。それと材料はすべて北海道産であること」〉
その言葉通り、「菊や」で使う麺や味噌などの食材はすべて札幌から空輸している。元々は札幌劇場の宣伝部に勤務していた菊池さんは、ラーメン職人としてはズブの素人だったが、ラーメン好きが高じて、〈店先に行列ができ、「何事か」と警官がとんできた〉というほどの人気店の経営者となった。
記事では、札幌ラーメンが有名になったきっかけについて、〈さる三十年、「週刊朝日」の連載ルポ「日本拝見」で、花森安治氏が「ラーメンの町サッポロ」と紹介したことである〉としている。いささか“手前味噌”と思えぬでもないが、反響の大きいルポであったことは確かなようだ。
〈いまそれが「札幌ラーメンの特徴だ」とみられているみそラーメンにしても、まだ登場していなかった。みそラーメンは、“かくし味”できそっていた薄野一帯のラーメン屋さんのある店で「何か変ったものはないのか」とお客さんにいわれて話合いながらつくりあげた「客と店の合作」だったのだ〉
すべて事実かどうか定かではないが、当初はすこぶる評判が悪かったらしい。ラーメン通の漫画家・六浦光雄氏は〈「あれはラーメンのにせもの」〉、日本中華そば連合会の永野英明会長も〈「札幌ラーメン? あちらは素人ですから」〉と酷評している。
また、ラーメンと札幌ラーメンの違いとして、前者は〈スープはしょうゆ。シナチク、ナルト、焼豚、それにほうれん草とノリなどを加える〉、後者は〈スープはその六〇%ぐらいがみそ味。モヤシ、ひき肉、タマネギ、それにニンニクとラードを加える〉と記している。まあ、だいたいそんな感じであろうと思うが、かつては味噌味の札幌ラーメンが邪道とみられる風潮もあったのだろう。
「うちが一番古い」と胸を張るのは、「元祖札幌や」の中村寿一さん。昭和38年に渋谷の路地裏で開業したのが始まりで、たちまち大好評を博し、銀座にも進出した。しかし、銀座店は失敗に終わった。地代が高く、どんなに客が来ても、薄利多売のラーメンでは採算が合わなかったからだ。
昭和42年に日本橋の三越本店屋上で「えぞっ子」を開いたのが駒沢清さん。〈以来、三越とラーメンとは強く結びつき、三越パリ支店にもラーメンコーナーができたほどである。三越は「札幌ラーメン」ブームに一役買っていたわけだ〉
パリっ子の間でも、札幌ラーメンは「デリシャス」と受け入れられたようだ。
そうしたなか、札幌ラーメンの人気ぶりに着目し、チェーン化を打ち出して成功を収めたのが「どさん子」を展開する北国商事の青池保さんだ。
〈ラーメン店を開きたい、という人がいて、五百万円の開業資金を用意すれば、一ヵ月以内に開業できるように一切の世話をするという会社をつくった〉〈そのかわり希望者は十万円を納入したうえ、めんやタレを北国商事から仕入れることになる〉
まさに時代を先取りした、フランチャイズの走りといえよう。「どさん子」は順調に店舗数を増やし、やがて傘下の独立店も現れ、その独立店もまた店舗を増やしていった。現在はアスラポートと社名を変え、世界各地にも進出している。というわけで、道内にある「どさん子」は東京からの「逆上陸」である。
近年、本場すすきのではラーメンの価格が上昇傾向にあるが、シンプルな具材で構わないので、いつまでも庶民の味であってほしい。

▲「週刊朝日」’71年12月17日号

全戸離島、捨てられた羽島

 福島原発の事故による強制避難区域は別として、ある日突然、地域の住民が完全にゼロになるというケースはまずないだろう。「サンデー毎日」19日号では、そんな稀有な事態が現実となった、山口県萩市羽島に暮らす住民の最後の日々を追っている。
〈「島ぐるみ売りたい」と島民の代表が市役所を訪れたのは、今年1月21日のことだった。事情を聞いた菊井市長も「やむをえない」と了承。それから島民の家も含めて島全部六〇〇〇万円也で買手を捜し出した〉
44人の全島民が羽島を去りたい事情とは、歯止めがかからぬ過疎化であった。
〈水がなく天水にたよらざるをえないことを除けば、電気も電話も本土から海底ケーブル引かれ、17㌶の畑はほとんど平地。その畑に10年前から葉タバコを栽培。年収平均1戸二三〇万円と豊かだ〉
葉タバコという堅実な産業はあっても、いかんせん後継者がおらず、収穫期には近隣の島から人を雇ってどうにか切り抜けてきたのだが、〈若者はすべて島をすて、たとえ残っても島に嫁にきてくれるような殊勝な娘はいない〉といった先のみえない絶望感が、島民たちに故郷を捨てる選択を余儀なくさせたようだ。ただ、わずか44人といえども、よく全員の合意が得られたと思う。
6千万円という価格が高いのか安いのかは何とも言えないが、興味を示す業者が現れた。しかし、羽島は北長門国定公園に含まれていたことから、商談は頓挫してしまう。県が〈「へんな買手がついて、へんな島にされたのでは困る」〉と待ったをかけたのだ。そこで、県が所有する案が検討されたものの、8ヵ月に及ぶ議論を重ねた挙句、〈「援助はするが県が島を買い上げることはできない」〉との結論に。すでに島民は〈移住資金として農協から三三九〇万円を借り、萩に家を建て始めていた〉だけに、島の売却を認めた手前、責任を取らねばならない市は、市有地にすると意気込んだのだが、〈市議会が「赤字財政なのに島を買うなんてもってのほか」と拒否してオジャン〉と、迷走ばかりが目立った。一連のスッタモンダは、まさにお役所仕事の典型といえよう。
全世帯が離島する「お別れ式」は、すでに島を去った人や親類縁者が勢揃いし、島始まって以来の賑わいとなった。島の世話役・井町勝一さんの〈「後継者がいないことから長年住みなれた島を離れることを決めてから十ヵ月。いざ離れるとなると感無量です。慣れない本土での生活を考えると、どうしても不安が先に立ちます……」〉との挨拶に、涙を浮かべる人もいたが、お通夜のような雰囲気ではなかったようだ。
〈人々の表情は不思議なほど明るい。先祖の墓を掘り返し、十年前に五百万~六百万円かけて建てたばかりの家を捨てていくというのに、人々はあきらめというより、ほっとした安堵の表情である〉
島への未練や新生活への不安は、全戸離島という苦渋の決断を下した時点で消化してしまったのだろう。〈「ご先祖さまだって、にぎやかな本土に行かれるんだから喜んどるじゃろうよ」〉という老婆の言葉が島民の心境を代弁しているに違いない。
「お別れ式」に顔を出した市長は〈「もしだれも買手がつかなければ、私個人で買いますよ」〉と大見得を切ったが、島民はどんな気持ちで聞いていたか。結局、その後の島は県と市が所有し、1981(昭和56)年に「羽島海洋パークセンター」を開園させたが、苦し紛れの観光振興は軌道に乗らず、1995(平成7)年に閉鎖した。いま島の歴史を伝えるのは、荒れ果てたレジャー施設の残骸ばかりである。

▲「サンデー毎日」’71年12月19日号

“賞”を射るにはスターター

半世紀前の師走は、札幌冬季五輪の開催が近づき、地元は言うに及ばず、全国的にも関心が高まりつつあった。「週刊文春」20日号では、五輪の主役であるスケーターではなく、脇役である“スターター”の話題を載せている。
〈さあ、これでメダルはいただき――と関係者なら思わず、ニンマリしたくなる話。それは札幌五輪でスピードスケートのスターターに日本の高林三郎氏(日本水連理事)が決定したことだ〉
スピードスケートは100分の1秒単位で争われる世界とあって、スタートの巧拙が勝敗を分ける。そこで重要になるのが、スターターとの微妙な“呼吸”であった。
〈“将を射るには、まず馬”と、国際水連に猛烈に働きかけ、とうとうスターターでは日本NO・1の高林氏を、この大役につけることに成功した。理屈からいえば、大会中、全レースでピストルをうつ高林氏、日本選手だけにヒイキするはずはないのだが……〉
高林氏の詳しい経歴はわからなかったが、畑違いの水泳からハンティングされたことからも、相当な凄腕であったのだろう。ただ、残念ながら外国勢の壁は厚く、本番では男女ともメダルには届かなかった。
また、次のページでは、聖火ランナーの最終走者を巡る報道の過熱ぶりを伝える短信も。
〈東京五輪のときも、このアンカーをどこが抜くかで大騒ぎしただけに各社とも力の入れ方が違う。スケートの一部関係者は、毎日追っかけ回されてすっかりノイローゼ気味。「たとえ私は火あぶりの刑に処されても口を割らん」という名セリフまで飛び出している〉〈報道陣と組織委とのこの戦いを目撃して外人記者も「ニッポンすさまじい!」とびっくりしている〉
ネットがなかった時代に、厳重な緘口令が敷かれた情報をスクープするのは、至難だったに違いない。結局、意外な人選が世間を驚かせることになるのだが、その詳細は次項で。

▲「週刊文春」’71年12月20日号

札幌聖火ランナーの選ばれ方

札幌冬季五輪の最終ランナーは、サプライズといえる2人の若者が選ばれたのだが、その過程には色々な“大人の事情”があったようだ。舞台裏の駆け引きを報じた「週刊新潮」25日号の記事をみていこう。
白羽の矢が立ったのは、札幌北高校1年の辻村いずみさん(16)と、札幌旭丘高校1年の高田英基君(16)。史上最年少ランナーの2人は、まずフィギュアスケーターの辻村さんがトーチを掲げながら氷上を滑走し、そのトーチを受けた高田君が聖火台へ続く階段を駆け上がり点火する、という流れになった。
北高、旭丘高ともスポーツの強豪校ではなく進学校のイメージが強いが、どういう経緯でリストアップされたのか。
〈これまで「開催国の有望選手」を選ぶのが通例だったが、辻村さんは昨年、北海道フィギュア選手権に優勝したのが唯一の輝かしい成績。高田君にいたっては、バレーボールの名選手(?)ではあるが、スキーやスケートとはあまり縁がない〉
実は、最終決定権を持つ竹田恒徳式典専門委員長は余市高校のスキーヤーA君に惚れ込んでいたが、是が非でも地元からランナーを出したい札幌市サイドの猛反発に遭い却下され、憤然とする場面があったという。地元紙記者がこう解説する。
〈「竹田さんは次期五輪の“予備軍”を選びたかったらしいのだが、川崎道体協理事長らが猛烈に運動して、この二人を推したというのが真相のようだ」〉
辻村さんの父親は喜茂別高校の校長で、高田君の父親は会社役員。記事は〈「“親の毛並み”を気にしたあたり、やはり“プリンス”竹田らしい人選といえよう」〉と皮肉交じりに結んでいるが、そうした大人たちの思惑とは関係なく、2人の若者にとっては一生の思い出となったに違いない。

▲「週刊新潮」’71年12月25日号

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