
本日の漁獲!ソ連原潜一頭
半世紀前の北海道は、亡命を企てたソ連のベレンコ中尉が9月にミグ25で函館空港に強行着陸した大事件以来、原子力潜水艦の活動が活発化するなど、報復を口にするソ連の脅威にさらされていた。そうしたなか、1976(昭和51)年11月12日号の「週刊朝日」では、稚内沖のオホーツク海で起きた「珍事」を報じている。国境の緊張感は隠せなかったものの、関係者の証言からは意外な事実も。朝日新聞稚内通信員・尾形浩一氏のルポをみていこう。
波高しオホーツクの怪

事件が起きたのは10月8日。その日、カムチャッカ半島西岸250㌔地点のオホーツクの海には強風が吹き荒れ、荒波の中、第55大東丸はそれでも底引き漁を続けていた。
その後、26日に稚内港へ戻ってきた乗組員から、驚くべき証言が飛び出したのである。以下、関係者の言葉は漁師訛りのまま書かれており、それがまたいい味わいを醸し出している。
〈「朝七時半ごろだったべな。オレがコック長なんかとサロン(食堂)で雑談してた時さ。急に壁さ押しつけられて、船がグワーンと一回転ぐらいさせられたみてぇになってよ。それから、高速でスタン(後進)かかってよ。うしろにどんどん引っ張られるんだ。わけ分からなくて、すぐブリッジさ上がったんだ。船頭(漁労長)と一等機関士に『アテかかった(網が海底の岩をひっかけた)べ』と二回も聞いたが、二人とも機械のレバーさ握ったままボンヤリしてるだけだ。よほどショックだったんだべな」(笹原正作通信長)〉
しかし、笹原さんの見立ては違っていた。太さ約3㌢の底引き網のワイヤロープを巻き上げたところ、大東丸の左舷船尾すれすれに黒い山のような“獲物”が浮かび上がってきたのである。笹原さんは当初、海の底が上がってきたのでは、と思ったという。
証言は続く。
〈「そのうち潜水艦ということが分かって、大騒ぎになった。若いもんなんかカッパやズボンまかなって、とも(船尾)さ行ったら、ボーンと潜水艦が浮いているんだもんな。おまえら機関銃で撃たれるぞっていったら、ダーッと逃げたり、そこらに隠れるものもいたっさ、アハハ」〉
案の定、艦尾にはロシア語の文字が認められた。幸い無事であったから、こう気楽に話しているが、なにせ相手はソ連の潜水艦であり、身柄を拘束されても不思議ではない状況である。
笹原さんの話を引き取ったのは、船の最後尾で様子をうかがっていた甲板長の新谷茂良さんだ。
〈「撃たれたってなんだって、オラ、責任上、漁具は守らねばなんねえしね。向こうは艦長らが出てきた。そして手マネさ。まず甲板長がワイヤ切ってけれと、手で腕を切るマネして合図するんさ。こっちが二本切ったら網が落ちてしまうべさ。実際、何百万の損害よ。ソ連の軍艦だからってオタオタして、相手の指令ばかり聞いていられねえよ。だから腕を下に指して、アンタがた沈んで行きなさいって。そしたら、沈むのはだめだと。潜望鏡でも折ったら大ごとだと思ったんだべさ」〉
いかに生活がかかっていたとはいえ、恐ろしいソ連の軍人に逆らうとは、新谷さんの胆力に敬服するほかない。46歳の新谷さんは、桧山の漁師の家に生まれ、過去には何度も遭難して波の下をくぐった経験を持つ腕利きで、潜水艦が出現したぐらいでは動じなかったのだ。
〈「ワイヤ切るなら、アンタがた切れっていってやったんだ。ヤツら考えたんだべな。一人が命綱つけて、びしょぬれになりながらタガネのようなもので一本切ったもんだ。もう一本切られたら、綱さ落ちて商べえできなくなる。しゃにむに全速で回しちまえと、オレが合図して潜水艦のぐるりさ旋回して、はずしてやった。オラの機転がきいた度胸のいいところに、おそらく船長も呑まれたんでねえか。しばらくそこら見回してから、浮き上がったまんま北のほうさ行った」〉
こうして、約1時間の奮闘のすえ、どうにか危機を脱したわけだが、物陰からこっそり撮った写真が大きな反響を呼ぶことになった。
〈後でその写真を分析したところ、この潜水艦はソ連の最新型原潜「C型」と呼ばれるもの。核ミサイルも備えた五千㌧級の精鋭で、西側にとっては軍事的に貴重な資料といわれる〉
緊迫したやり取りの中、シャッターを切った乗組員はお手柄だったといえる。
オホーツクで操業する漁民にとって、ソ連艦隊による「臨検」が脅威であったことは確かだが、個人としては別の感情もあったようだ。新谷さんはこう話す。
〈「ソ連の人は人種としては正直だし、おとなしいもんだよ。なんていうか、親近感っていうんだか、友だちと話しているようだね。言葉はわかんねえけど……」〉
プーチン大統領が択捉島を訪問するなど、ロシアの対日政策は厳しさを増すばかりであるが、新谷さんの時代のような「国は国」といった人間関係が再び構築される日を願うばかりである。
六輔七転八倒尺貫道中

かつて使用されていた尺貫法が禁止されたのは1959(昭和34)年のこと。メートル法に統一(土地・建物取引は1966年から)され、違反者には50万円の罰金が科されることとなった。
今では当たり前のメートル法が導入される以前は、長さでは「里」「町」「間」「尺」「寸」、面積では「町」「反」「坪」、体積では「石」「斗」「升」「合」、質量では「貫」「斤」「両」などが日常生活に浸透していた。ただ、廃止されたとはいえ、現代でも「箱根八里」「二十間道路」「一寸先は闇」、「建坪」、「百万石」「一斗缶」「一升瓶」「一合」、「斤量」など、意識せずに使っている単位は少なくない。「升」や「合」が似合う日本酒は「ミリリットル」では雰囲気が出ないし、「斤量」は競馬ファンにはおなじみの用語である。いまはNGだが、子どもの頃は「百貫デブ」という悪口があったのを思い出す。もっとも、これらの単位をメートル法に換算できるかと言われれば、ほとんどの人はピンとこないであろうが。
前置きが長くなったが、この尺貫法廃止に異を唱えていたのが永六輔氏だった。「週刊現代」4日号では、永氏が日本各地の伝統文化・行事を訪ね、尺貫法表記の良さを再確認するというユニークな企画を掲載している。
歩いたのは、東寺の弘法市(京都)、城端の石彫(富山)、三木の刃物(兵庫)、松野の竹竿(静岡)、安倍川の凧(静岡)、三条の曲尺(新潟)、日の出町の棺桶(東京)などで、池田の葡萄酒(北海道)も。それぞれに興味深い内容だが、ここでは池田町の「ワイン祭り」をみていこう。
〈牛の丸焼きを中心に飲み放題、食べ放題。1万2千人の全町民を無料招待というスケールはさすがにワインブームの頂点にある町〉
全国に数あるワインの産地から、池田町が選ばれたのは名誉なことといえるだろう。永氏は、同行していた盲目のミュージシャン長谷川きよし氏とともに町民の輪に紛れ込み、大いに食べ大いに飲んだ。
〈「町民還元用ワイン」という特別なワインに舌鼓をうつ。瓶は720ミリデシリットル、つまり4号瓶。生産量を聞いたら、「石」(こく)で答えてくれた〉
今年は10月4日に開催されたこのイベントは53回目を数える。つまり、永氏が参加したのは第3回だったわけだが、さすがに今は無料とはいかず、大人6000円のチケットを買わねばならないものの、名物の牛の丸焼きは健在だ。
爽やかな秋空の下、永氏は「何合」のワインを飲み、「何斤」の牛肉を食べたのだろうか。
天然のダイゴ味

牛の丸焼きの話題をもうひとつ。写真をみると、草原に集まったカウボーイ風の男たちが、豪快に肉を食らっている。アメリカのテキサス州あたりを連想させる一コマだが、ここは北海道の駒ケ岳山麓にあるソダ・シャロレー牧場。「週刊文春」11日号のグラビア連載「食欲のある風景」が、文字通り食欲を刺激される、牧場の秋の恒例行事を紹介している。
〈総面積二千ヘクタール。フランス産のシャロレー種をはじめ、各種ヨーロッパ牛、千二百余頭の食肉牛を飼育するユニークな牧場だ。これらの牛を世話するのが、ブルージーンとテンガロンハットを着こなした、およそ二十名の若いカウボーイたち。厳しい大自然を相手に、日夜いそがしく働いている〉
北海道での牧場生活に憧れ、全国からやって来た若者たちだけに、お世辞抜きにカウボーイファッションがお似合いだ。秋も深まり、牧草の刈り取りやサイロ詰めなどの重労働が一段落したところで、待ちに待ったお楽しみが、四季折々に内輪で行うこのバーベキューだった。
〈手塩にかけて育てた牛を、うまそうに食べる顔は明るい。会長の曽田玄陽氏は「牧場の牛を食べることは、牛への友情におぼれることで、最高の愛の表現なんですよ」と肉をほおばる〉
いちいち感傷的になっていては、この仕事は務まらない。彼らの胃袋に収まった牛も本望だろう。
何の味付けもしていない、ただ炙っただけの肉を、手際よくナイフで切り取り、野菜スープで流し込む。牧場で汗を流した者だけが口にできる、最高の味が羨ましい。
文藝賞は東大法学部四年生

索漠とした東京生活を経験したことがある道産子ならば、「北帰行」という言葉に哀愁や郷愁を感じるであろう。小林旭のヒット曲が知られているが、元々は旧制旅順高等学校の愛唱歌であった。
ここで紹介するのは、歌ではなく、小説の「北帰行」の話。「サンデー毎日」14日号が、河出書房新社が主宰する「文藝賞」を受賞した「北帰行」の作者、外岡秀俊氏の素顔に迫っている。
当時、東大法学部に在籍する23歳。札幌出身で、南高からストレートで合格した秀才だった。
サン毎の記事では、冒頭で作品の内容を説明しているが、まずはその一部をみていこう。
〈二十歳になる「私」は、列車に乗り、雪まじりの風が吹く故郷へ向かう。かばんの中には啄木の歌集「一握の砂」。それは「私」にとって「集団就職で上京してからの五年間、私が読み親しんだのはその本だけであり、私の心を支えてくれたのも、ただその本だけだった」というもの〉〈そして、この旅は「私」が啄木の“都落ち”の足跡を追って盛岡、函館、札幌、小樽、釧路と辿りながら、同時に「私」の少年期の傷跡を追認していく――という重層構造になっている〉
説明はさらに続くが、最後まで読んでも、凡人には些か理解が難しい。だが、選考委員のひとり、江藤淳氏はこう激賞している。
〈この若さで、自分と違う若者の生活を作って書いている。なかなかできることではありません。私小説ふうでありながら、これだけ作れるのは、端倪すべからざる才能です。村上は単に新しがっているだけでね……〉
新しがっているだけと揶揄した村上とは、この年、「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞した村上龍氏のこと。マリファナ、ロック、ファックといった頽廃的な若者文化を扱った村上氏と、あくまで純文学を追求した外岡氏は、同世代でありながら作風があまりに対照的だったため、当時の文壇は勝手にライバル視していたのだ。
「文藝」の寺田博編集長も賛辞を惜しまない。
〈「文学的資質は十分にある。天性のものですね。思考力の粘りづよさ、文章の質は高橋和巳に、抒情的な部分は島尾敏雄さんに似ている。部分的に幼いところもあるが、四百枚を書き抜くエネルギーと情熱は素晴らしい」〉
以下は、河出書房新社を訪ねたサン毎記者のインタビューである。まずは〈一八〇㌢を超える長身。北国生まれらしい色白。ナイーブな優男。黒いトックリにコールテンのジャケットがよく似合う〉と、スマートな好男子ぶりを記している。
作品では啄木が重要な存在となっており、「啄木は好き?」との質問に、〈「特に親しんだわけではないんです。啄木は明治の生き方の典型だったと思う。これを現代の典型とぶっつけてみて、現代の青年像を描いてみたかった。必然性は弱かったかなあ」〉と。
また、ずいぶんと難しい漢字を多用している点を指摘すると、〈「わざと多く使ったんです。主人公がテレビを拒否して、活字から多くを学ぶという姿を表現したかったので」〉と答え、その横で話を聞いていた寺田編集長が〈「辞典を引き引き書いたそうですよ」〉と付け加えた。
昔から文学少年かと思いきや、〈「スポーツ少年でした。中学は三年間バスケットボール部、高校は一年間剣道部。大学に入ってからラグビーを始めたけど、鼻の骨を折って一年でやめました。中学時代から、ずっと毎晩マラソンをしていたので、からだには自信があります」〉との答えに、サン毎の記者が驚く場面も。文武両道のエリートだったのだから、なおのこと凄い。
〈「受賞のときの気持ちは」〉〈「外出から帰ったら、下宿のおばさんが、大変だって言うんです。僕は何か悪いことをしたのかな、と思って……。うれしいというより、怖いような気持ちですね。たくさんの人が読むわけでしょ。銀杏並樹賞のほうが素直にうれしかった」〉
処女作「白い蝙蝠は飛ぶ」で受賞した銀杏並樹賞とは、東大の学友会誌「学園」の最高賞である。
〈「村上龍クン、どう思う?」〉との少々意地悪な質問には、〈「本は読んでいないけど、素直な人じゃないかな。いつか、お酒を飲みながら話してみたいなんて思っています」〉と如才がない。受け答えも優等生である。
ただ、小説家志望ではなく、「新聞社を受けたい」と公言しており、卒業後は有言実行で朝日新聞に入社し、海外特派員を務めるなど活躍した。
一方、村上氏のほうは、押しも押されもせぬ売れっ子作家となったのは周知のとおりである。南高時代の同級生には、札幌出身の作家・久間十義氏がおり、1987年の「文藝賞」で佳作となった。
外岡氏は、2011年に両親の世話をするため新聞社を辞して帰札。そして68歳のとき、札幌国際スキー場で心不全を発症し、帰らぬ人となった。
早過ぎる死だったとはいえ、出世コースを捨て、親元へ戻った自らの決断は、悔いのない「北帰行」だったに違いない。
京福電車の旅情

秋の京都は多くの人を魅了してやまない風情がある。もっとも最近は、インバウンドの急増によるオーバーツーリズムの弊害ばかりがクローズアップされているのだが。
「週刊朝日」増刊1日号は、「紅葉の京めぐり」と題した特別企画。丸ごと1冊、さまざまな角度から京都の魅力に迫っている。その中から、京福電車の旅にご案内したいと思う。
〈クマが出た話をしよう〉
と、記事は意外な一文から始まっているが、もちろん北海道の話ではない。5月10日の夜、京福電鉄叡山線の二の瀬―市原間で、運転士が子牛ほどの大きさのクマを目撃したのだという。現場は鞍馬山に近い山間部であり、ツキノワグマが出没してもおかしくはないのだが、今とは違い、当時は相当な「珍事」だったようだ。
吉岡鉄道業務課長は〈「シカやイノシシは線路上でよく目にするが、クマは初めて」〉と話している。クマはレアケースとしても、「京都市内でシカやイノシシが?」と驚く記者に、吉岡課長はこう言葉を続けた。
〈「イノシシは、ドーン、ドーン、よう電車に当たりましてねえ。以前は乗務員がぼたん鍋にしよりましたが……」〉
なんとものどかな時代である。
京福電鉄という社名は「京都」「福井」の頭文字を合わせたものだ。かつて両都市を結ぶ計画があったのだが、実現しないまま、現在に至っている。当時は、四条大橋から嵐山、途中の帷子ノ辻から北野白梅町への嵐山線と、出町柳から八瀬遊園、途中の宝ヶ池から鞍馬への叡山線の2路線を有していた。叡山線のほうは、1986年に叡山電鉄へ譲渡されている。
「あらしやま」線ではなく「らんざん」線と読むのが渋い。嵐山線は駅名も古都らしく典雅かつ難読で、車折(くるまさき)神社、有栖川、帷子(かたびら)ノ辻、太秦(うずまさ)広隆寺、蚕ノ社(かいこのやしろ)、西院(さい)など、文字を見ているだけで旅心をくすぐられる。
〈電車も古いけど、乗務員も中高年層の人が多い。平均年齢四十歳。ピシッと詰襟の制服を着た車掌さんは、おなかのあたりに大きな皮のカバンをさげて切符を切る〉〈この電車、なんとなくスッキリしている。車体にも車内にも、ほとんど広告がない〉
昔ながらの雰囲気を守ろうという会社の気概が伝わってくる。広告を掲出しない理由について、吉岡課長がこう説明する。
〈「気が付きましたか。会社の方針で、広告は極力少なくしてあります。時代遅れみたいな考えですがねえ。扇風機もついてない、クーラーも入っていない……」〉
赤字経営に苦しみながら、広告に頼らない姿勢は、伝統と美意識を重んじる京都人の矜持といえるだろう。
あれから半世紀――。さすがに近代化されたとはいえ、通称「嵐電」(らんでん)は、いまも地元の人たちに愛されている。沿線には、石庭で有名な龍安寺、太秦撮影所、仁和寺など観光名所が多く、いつもインバウンドで混みあっており、つい「昔はよかった」と思ってしまうのだが、閑古鳥が鳴き、廃線の危機に瀕するよりはマシだと思う。いつまでも走り続けてほしい。
