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〝角栄新幹線〟北越戦争の勝ち組と負け組【1971年11月】

新幹線のルート選定が、政治力によって大きく左右されることは言うまでもないだろう。札幌まで延伸される北海道新幹線についても、倶知安、小樽経由の山線ではなく、洞爺、室蘭、登別、苫小牧、千歳を通る室蘭線ルートであれば、違った未来が待っていたはずだ。1971(昭和46)年11月8日号の「週刊文春」では、時の実力者・田中角栄の剛腕によって誕生した、上越新幹線の停車駅を巡る舞台裏の暗闘に迫っている。

ケンカ両成敗の“政治駅”

上越新幹線は来年、開業40周年を迎える。当時は新潟に新幹線が通ると知り、「ああ、あの大物の政治力だな」と合点したものだが、いまではその大物、田中角栄の名前を想起する人は少ないだろう。一大勢力を誇った後援会組織の「越山会」も、解散から30年以上が経過した。諸行無常、盛者必衰を感じずにはいられない。
この記事が掲載されたとき、田中氏は通産相のポストに就いていた。「日本列島改造論」をぶち上げ、宰相の座を射止めるのは翌年夏のことである。
〈上越新幹線の停車駅決定に、陳情が集中したのは、新潟三区出身の、いまをときめく田中角栄サンであったのはいうまでもない〉
沿線自治体の首長にとって、わが町に新幹線が停まるか否かは、政治生命にかかわる一大事であった。陳情に熱が入るのも無理はない。
 結局、県内の停車駅は越後湯沢、浦佐、長岡、燕三条、新潟に決まったのだが、「定員5」のうち、湯沢温泉やスキー場を擁する観光地の越後湯沢、人口1位・2位の新潟と長岡は順当として、残る2枠は何が明暗を分けたのか。
〈「浦佐、湯沢ともに“政治駅”です。六日町は何百年来、交通の要衝、かならず停まらなきゃならんのです。死力をつくして運動してたのに、ツルの一声でこんなになってしまって……。ここ、田中支持でかたまってたんですが、もうひとりも入れる人はいないはずですよ。こんどの選挙のとき、アナタ、また取材にいらっしゃい!」〉
そう憤慨するのは、地元の温泉旅館組合長だ。浦佐駅が作られる、おとなりの大和町は人口1万5千ほど。町の規模では上回っていただけに、悔しさもひとしおだったのだろう。
ただ、越山会六日町支部長の富所四郎氏(町会議員)は、立場的に田中批判はできないとあって、〈「新幹線は30キロ間隔で駅をつくるという大方針があったんだし、“政治駅”なんてことはねえでしょう。これにかわる道路だけは立派につくってもらえればいいです」〉と言葉を濁している。
只見線が開通したばかりの小出も落選組。だが、桜井貞一町長は〈「私だけでも数十回、陳情しました。が、技術的(小出駅は山と川に挟まれているため)にどうしてもダメだっていうんじゃ、しかたねえです」〉と、サバサバとした様子で話す。小出町は大和町と共闘していたこともあり、浦佐が選ばれたのは次善、と割り切った空気もあったようだ。
一方、六日町と共闘していた、飯山線の十日町も落胆の色を隠せない。
〈「人口五万とこの辺ではいちばん大きいが、いかんせん、選挙区でいうと新潟四区で、そこが問題なのだ」〉
 十日町は関越自動車道のルート選定でも苦汁を味わっていた。十日町を通ることがほぼ決まっていたにもかかわらず、土壇場で3区の六日町に変更されたのだ。
地元紙編集長がこう解説する。
〈「四区の田中彰治代議士が失脚したあと、ここは陣笠ばかりしかいないため、三区の実力者にもっていかれた」〉
3区の実力者が誰かは言うまでもない。
新幹線で“勝ち組”となった大和町だが、「浦佐は妥協の産物」との声があったことも事実だった。地理的に3つ並んでいる六日町、浦佐、小出のうち、新幹線駅を設けるのは1つだけ。田中氏が下した決断とは――。
〈「六日町と小出、ともに角サンが強いところ。越山会がガッチリ町をおさえている。そこで、どっちとも決めかねて、間をとって浦佐という線が出た。ケンカ両成敗みたいになったという意味じゃ“政治駅”ともいえる」(地元紙記者)〉
つまり、浦佐は“漁夫の利”を得たという図式だ。ちなみに、当時はギクシャクしていた六日町と大和町だが、2004(平成16)年に合併して南魚沼市となったのだから歴史は面白い。
また、燕三条駅を巡っても悶着があった。
〈「燕市は立候補もしていなかったのに、燕・三条(当時は仮の名称だった)というのはおかしい。三条・燕ならまだしもね」〉
こう話すのは、85歳の全国最年長市長として注目されていた三条市の渡辺常世氏だ。この老市長、スンナリと三条駅とならなかったことが気に入らなかったらしい。燕市側は、駅名を「新燕」にしてほしいと提案するなど、両市の対立は根が深かった。
「ツバメを入れるなら、カモも入れなければ」というジョークも聞かれたが、これは近くに加茂(かも)市があったから。加茂は信越線の駅であるため、上越線沿いの新幹線ルートからは外されたようだ。
燕三条駅こそ政治的配慮が働いた“政治駅”といえる。登記上の駅の所在地は駅長室がある三条市になっているが、駅は両市の境界線に跨っているのだ。所在地を三条とするかわりに、燕を先に持ってきたのは、田中氏の“大岡裁き”であったとされる。
ロッキード事件で晩節を汚したものの、田中氏の一国のリーダーたる胆力は傑出している。田中氏と比べては気の毒ではあるが、背後に黒幕が見え隠れする自民党新総裁が軽量級に思えてならない。

▲「週刊文春」’71年11月8日号

無策 北海道・住友二山

北海道の発展は石炭によってもたらされ、石炭産業の衰退が地方都市の活力を奪ったといえるだろう。「サンデー毎日」7日号では、閉山通告を受け、暗く沈んだ歌志内と奔別(三笠市)のヤマの現状を伝えている。
〈住友石炭は北海道に残る三山のうち、赤平礦だけを残し、歌志内、奔別の2礦を閉山することに決めた〉
奔別の場合は、住友奔別から分離されて「奔別炭鉱」となり、わずか25日目の死刑宣告であった。組合員大会の写真からは、集まった労働者の暗い表情が見て取れる。
〈前列に並ぶ炭労や組合幹部に“責任追及”をせまるヤマの男たちの声も、「こんなみじめな閉山なんて……」とさけぶ主婦の涙声も、むなしく講堂の天井に消えていった。600余人の沈黙だけが重苦しくのしかかる大会の雰囲気はやりきれなかった〉
奔別の中ノ沢炭住は、閉山した北九州の筑豊炭田から移住してきた家族が多かった。希望を託した北海道でもまた行き場を失った人たちの〈「ようやく北海道にも慣れたと思った矢先……。就職口さえあればもうヤマを離れたい」〉と絞り出した言葉に絶望感が滲む。
奔別と同じくして長い歴史に幕を閉じることになった歌志内鉱。〈かつて国木田独歩は「空知川の岸辺」の中で――さすがに幾千の鉱夫を養い、幾百の人家の狭き渓に簇集している場所だけありて、宿引なるもので二三人待ち受けていた……と記した。しかし、今の歌志内は人口二万を割る全国で二番目に小さな市だ〉とあるが、人口はさらに減り続け、現在は「日本で最も人口が少ない市」という不名誉な称号を与えられている。
〈閉山後の対策として、工場誘致のほかに市は総合開発公社を発足させ、12レーンのボウリング場、どじょうの養殖などを考えているという〉
しかし、ヤマの火が消えたあとの経済立て直しは容易ではなく、ボウリングもドジョウも確たる成果を挙げたという話は聞いたことがない。むしろ、それぞれの鉱山施設を整備した産業遺跡が人気を集めている。
ルポは、〈労働力の確保、保安、採算、この三本柱の一本が欠けても石炭産業は成り立たないという。単一の私企業ベースに希望はありえない〉と総括し、佐藤栄作首相の無策を批判しているが、石油へのエネルギー転換は抗い難い流れではあったのだろう。
住友三山のうち、唯一残った赤平鉱も1994(平成6)年に幕を閉じ、やはり産業遺跡が観光資源となっている。

▲「サンデー毎日」’71年11月7日号

全国大都市《格安店一覧》

 100円ショップやドン・キホーテのような量販店がなかった半世紀前は、まだディスカウントショップという言葉も業態も、庶民にとって身近なものではなかった。「週刊現代」4日号では、あらゆる生活必需品が高騰するなか、全国9大都市のおすすめディスカウントショップを紹介している。
記事によれば、当時の札幌は「物価が高くて住みにくい」と言われていたようだ。もっとも、夜の歓楽街については、「安くて美人が多くて日本一」と評判を取っていた。出張族には懐に優しい街だったのだろう。
〈「ここ二、三年前から市民生協とかスーパーなどが相次ぎ設立され、いずこも現地直送による流通革命を起こしたため、かなり生活がしやすくなった」〉
そう話すのは、地元月刊誌『政界』の深沢昭一編集長だ。
〈安くなったのは野菜、鮮魚類など北海道の豊富な生鮮食品だけで、衣類などは依然として高い〉
札幌の場合、メーカー側が特に強気だったのがカラーテレビだ。その理由は、札幌冬季五輪が目前に迫り、需要が一気に伸びたことで、完全な売り手市場になっていたから。そうしたなか、生協は安売り路線で対抗していたようで、〈市内の生協は現在三十三店、一括大量仕入れで、カラーテレビ20型(NEC)をアンテナ付き十万八千円という画期的な値段で売り出しており、札幌物価高の汚名返上の主役となっている〉とある。
アンテナ付きとの表現が時代を感じさせる。当時の物価感覚からすれば、画期的とはいえども、10万円台の家電は、庶民には高嶺の花だったに違いない。
 電気製品では、生協以外のディスカウントショップとして、〈北洋電線電機本店(北三条西二)、そうご電器(南三条西一)〉、食品などの日用品では、〈さきの生協チェーンをはじめ、スーパー・サンコー(北四条西二)、エイトショッピングセンター(八軒二条)、大阪屋(北一条西三)、それに約百軒の安売り食料品店が並ぶ二条市場(南二条)など〉と、懐かしい名前がみられる。二条市場がディスカウントショップというジャンルに組み込まれているのが新鮮だ。
長引くコロナ禍で庶民の財布の紐がますます固くなるなか、年々進化を遂げているディスカウントショップには頑張ってほしいと思う。

▲「週刊現代」’71年11月4日号

どんどんどんどん日本縦断

 「週刊文春」8日号では、前年に日本人初のエベレスト登頂を成し遂げた冒険家・植村直己氏の日本縦断密着ルポを掲載している。
スタート地点は日本最北端の宗谷岬。稚内から日本海沿いを南下し、52日間かけて鹿児島へ至る壮大な旅だ。
〈「不安と緊張の両方ですが、まあ土の上ですからねえ」と朝6時15分、壮途についた〉
当時30歳。気力、体力とも最も充実していた時期であろう。南極大陸3000㌔単独横断という夢の実現に向け、ほぼ同距離の稚内―鹿児島間で予行演習を、との意味合いもあった。
〈出発時の持ち物――現金35000円、貯金通帳、手帳、腕時計、セーター、下着、タオル、ビニール各1枚、強精剤、洗面道具はなし〉
徒歩旅行とはいえ、所持金は心許ない気がする。所持品に寝袋は含まれていないが、途中、野宿をしたのか、旅館やホテルに泊まったのか、そのへんの事情はルポが説明不足で定かではない。大事な現金と通帳は、ずっと腹巻の中に入れっぱなしだったという。
牛が草を食むのどかな稚内市内の国道40号線を、軽やかに駆ける写真が載っている。右手に握っているのは英単語帳だ。世界を股にかける生活だったから、語学の習得に余念がなかったのだろう。
秋田県八郎潟では、〈札幌近郊で空巣と間違えられてから、植村さんは胸を張って歩くことにした〉との気になる記述があるが、騒動の顛末は、別稿の加藤芳郎氏との対談に詳しい。まずはゴールまでを追い、後段で紹介するとしよう。
兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市)は植村氏の出身地。1年ぶりに立ち寄った、実家でのやり取りが面白い。
〈両親と兄夫婦が農業兼ワラ加工業を営む。「いま何をしとるんじゃ」と母・うめさん(72)「稚内から歩いて来たんじゃ」「歩いてどうするんじゃ」「言うてもわからんじゃろ」「はええとこ嫁でももろうて落ち着いてくれんと……」〉
田舎暮らししか知らない両親にすれば、エベレストだの南極だの、想像もつかない別世界の話に違いない。
島根県津和野町(現津和野市)。水路で錦鯉が優雅に泳ぐ城下町を歩きながら、〈トレーニングのために始めた徒歩旅行だったが、歩き続けるうち、日本の新しい顔を発見することでもあった〉と考える。それはまさに、この頃、巷で流行語となっていた「ディスカバー・ジャパン」の旅でもあった。
九州へは建設中の関門大橋を渡った。総工費306億円と聞いて、〈「その金で南極へ何度行けるかなあ」〉と。
熊本県水俣市。〈眼下にチッソ工場の吐き出す煙があった。臭気の中を急いで通り過ぎる〉
雄大な北海道、原発のある福井県美浜町、故郷の豊岡、古都・津和野、世紀の大工事が進む関門大橋、炭鉱の閉山により生活保護所帯が日本一となった筑豊地区、そして公害問題が注目されていた水俣――週刊誌のグラビア特集とあって、“絵になる”ポイントを選んでいることがわかる。
稚内を発って52日目の10月20日、ついに終点の鹿児島に到着。体重は5キロ減り、足の裏はマメだらけだ。薩摩美人の歓迎を受け、〈「長いってことだけはわかりましたよ。世の中、悪い人はいませんね」〉と感想を述べ、笑顔をみせた。世界の秘境に挑み続ける植村氏にとって、日本縦断は軽いリハーサル程度だったのだろうが、それなりに苦労はあったようだ。
さて、ここからは加藤氏との対談記事をみていこう。
〈「札幌の近郊で、植村さん、泥棒にまちがえられて、おまわりさんにつかまっちゃったでしょう。新聞ダネにもなったけど、あれはたいへんだったね」〉と話題を振られ、〈「稚内を出発してちょうど一週間目だったんです。浮浪児みたいな格好で、車のあまり通らない道をトボトボ歩いていたんです。そうしたら、急におまわりさんが二人見えまして、強制的に車にのせられて、署で職務質問されたんです。だれかが、ぼくがへんな格好をして歩いていたものだから、「あの人が、ドロボーだ」と言ったらしいんですよ」〉と答えている。
実際、近くで本物の泥棒が出現していたため、そのヨレヨレの風体から植村氏に嫌疑がかけられたようだ。
ただ、道中は親切を受けることのほうが多かったそうで、民家で水を飲ませてもらったり、「泊まっていけ」と声をかけられたり、靴屋で新しい靴をプレゼントされたりと、行く先々で人情の機微に触れた体験も語っている。鹿児島到着時に漏らした「世の中、悪い人はいませんね」という言葉は、こうしたことを指しているのだろう。
その後の植村氏は、冒険家として絶頂期を迎え、数々の偉業を打ち立てたが、1984(昭和60)年にカナダのマッキンリー山中で遭難。43歳の若さで帰らぬ人となった。
その翌年、植村氏の遺志を実現すべく、帯広郊外に植村直己野外学校が開校した。生前、この地に野外学校を開きたいと、熱心に現地を視察していたという。現在、多くの青少年に雄大な自然に触れる機会を提供し、心身の健全な育成に寄与している。また、今年4月、豊岡市の植村直己冒険館がリニューアルオープンした。
コロナによる閉塞感に覆われた今の時代、「冒険」に殉じた植村氏の生きざまを振り返ってみれば、苦境のなかで前を向く力が湧いてくるのではなかろうか。

▲「週刊文春」’71年11月8日号

ウマも売ります

コロナ禍の影響をもろに受け、百貨店業界は苦戦が続く。いまやネットショッピングや量販店が主流であり、たとえコロナが収束しても、業績のV字回復は考えにくいだろう。
「週刊朝日」19日号では、百貨店が元気だった時代のユニークな話題を紹介している。
舞台は東京・立川の高島屋。3日間にわたって開催されたセールスイベントに、なんと競走馬が登場して来店客を驚かせたのだった。
〈デパート横の空地を利用した特設売場に展示された馬は、サラブレッド二十頭とアラブ一頭の計二十二頭。お値段のほうは、最高五百万円、最低がアラブの百五十万円。しめて八千四十万円の商品である。来年秋には晴れてレースに出走できるとか。北海道は日高地方からはるばる運ばれてきた〉
おそらく大レースを狙えるような期待馬は皆無で、サラブレッドにしてはお買い得な価格設定といえるが、とはいえ庶民がおいそれと買える“商品”ではない。世は爆発的な競馬ブームであったが、この企画を考案したスタッフは、なかなかのアイデアマンだ。
〈馬を買う場合は、産地に出かけていって、そこでのセリ市か生産者との庭先での相対取引かによるのが普通。しかし、産地が遠方にあるので、馬主は調教師まかせで購入するケースがかなりあるという〉
このセールスは、馬主が北海道の牧場まで足を運ばずとも、自分の目で若駒を見定めできるメリットがあったわけだ。初日の約定は5頭。買い手は主に中小企業の社長だった。
ある馬主の奥さんは、亭主の気まぐれな散財に、〈「馬をみれば買うって言い出すに決まってるんで、家に来た即売会の案内状も隠しておいたんですがね。新聞に出ちゃって……」〉と言い、渋面をつくった。その亭主は、記者の取材に「きょうは本当に見るだけ」と繰り返していたにもかかわらず、その30分後に320万円也の高い買い物を即断してしまったのだから呆れる。本業に差し障ったため、5年前に馬道楽と決別したそうだが、久しぶりに馬に触れて、またぞろ火がついてしまったらしい。
記事は〈ともあれ、われわれ報道陣もふくめて、デパートの商売上手にウマく乗せられた一幕だった〉と結んでいるが、会場に集まった大部分が馬主とは無縁な野次ウマだったことは説明するまでもないだろう。

▲「週刊朝日」’71年11月19日号

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