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同盟が北方領土に取り組む真意

 ロシアによるウクライナ侵攻が長期化するなか、西側陣営に与する日本に対してロシア側は強硬な姿勢を崩さず、北方領土返還運動には逆風ばかりの状況で、無力感すら禁じ得ない。そんな現状と比べると、半世紀前は、奪われた四島を取り戻したいとの熱量が高かったといえる。1976(昭和51)年9月26日号の「サンデー毎日」では、当時、それなりの影響力を有していた同盟(全日本労働総同盟)が、返還運動に本腰で取り組む意欲を示したという話題を大きく報じている。その背景には、どんな思惑があったのだろうか――。

いまこそ国民的総意を示すとき

▲「サンデー毎日」’76年9月26日号

 北方領土の島影を望む根室は、ピリピリとした緊張感に包まれていた。ソ連の監視船が度々姿を見せ始めたのだ。根室市役所の職員はこう話す。
〈「宮沢外相の根室視察日程が発表された直後からのことです。しばらく漁船の捕獲は途絶えていたんですが、ここへきて七隻も拿捕されました。まったくひどいものです」〉

 宮沢外相とは、のちに首相となる宮沢喜一氏である。過去にも視察団が訪問するたび、ソ連側は嫌がらせのように監視船で威圧し、関係者の眼前で漁船を拿捕したことも。今回は初の外相視察とあって、いっそう神経を尖らせており、ビザなし墓参の一方的な中止まで通告していた。そのうえ、後述するミグ25戦闘機の亡命事件までが――。
〈「この際、戦闘機と北方領土を交換しては……」といった無責任な議論まで飛び出すなど、否応なしに、国民の目は北方領土に向けられている〉

 同盟が返還運動への本格参加を打ち出したのは、まさにそんな「絶好の」タイミングであった。全国横断キャラバン隊を結成。8月31日と9月4日、福岡と東京から、それぞれ根室へ向けて出発した。
〈福岡を出発したのは西日本ブロックの地区同盟で、途中、香川、広島、大阪など五地区の代表が合流。宣伝カーなど九台三十人が、署名運動、チラシ配布などの街頭運動を続けながら、七日に東京入りした〉

 東京では、民社党書記長の塚本三郎氏らが加わり、大々的なアピールを行ったのち、東京湾からフェリーで釧路へ。一方、東日本ブロックは、〈関東代表に、東北、北陸の各地区代表が途中から加わって、車十二台、四十七人のキャラバン隊を編成。七日、津軽海峡を渡り、陸路、釧路をめざした〉

 そして9日、地元の北海道代表が東西両ブロックのメンバーを迎え、約500人が釧路に参集してセミナーを開催したのち、根室に乗り込んだのである。各地で集めた署名は100万筆を超えていた。
 キャラバン隊という言葉自体が時代を感じさせるが、その熱量も凄い。同盟・北方領土返還実現要求実行委員会の遠藤繁明委員長が、苦難の行程をこう振り返る。

〈「隊員は同盟の若い活動家が中心です。みんな手弁当、マイカー持ち込みの参加で、経費はすべて職場仲間のカンパです。途中ガソリン代が無くなったら、その場でカンパの資金集めをやってきたんです」〉
 若いパワーが活動を支えていたわけだが、そんな人たちが高齢化し、返還運動に情熱を傾ける新たな若い世代はほとんど現れないのだから、国民の関心が薄れていくのは当然といえる。

〈北方領土返還を求める根室町の住民大会は二十二年に開かれたが、これをきっかけに、北方四島の返還を求める国民の声は全国に広まった〉
 とあるが、〈沖縄と違って、いま一つ運動に盛り上がりがみられない〉という現実も。1972年に沖縄は悲願の本土復帰を果たしたが、交渉相手が民主主義の米国とは異なり、共産主義の冷徹なソ連であったため、「まともな話し合いなどできるはずもない」と諦めにも似た考えを持つ人が多かったという側面もあろう。

〈この間、北方海域に出漁した漁船千五百二十六隻、漁船員一万二千七百一人がソ連監視船に拿捕され、抑留生活を強いられている〉
 これが国境の町・根室の現実であった。

 同盟が北方領土問題に本腰を入れ始めた理由を、佐渡政利組織局長が説明する。
〈「日本がこのまま黙っておれば、ソ連の評価を認めることになります。返還運動は一部の意図的な運動ではなくて、国民的な運動であるという答えを出してやらないといけないのです」〉
 ここでいうソ連の評価とは、「日本の北方領土問題返還運動は日ソ友好を阻害しようとする一部の人たちの策動」というブレジネフ書記長の発言を指す。

 佐渡氏は続ける。
〈「右翼と根本的に違うのは、北方領土の返還は日ソ友好条約締結の条件の一つということです。右翼はソ連を敵対視してますからね」〉
 こうした同盟の意欲的な動きは、元島民や根室の関係者に歓迎された。
〈「集会を開くときは、必ず各政党と労働組合の各団体にも出席してもらうよう、協力を求めています。しかし、同盟さん以外は参加してもらえなくて。社会党はついに一回も出てくれません。その点、同盟の支援は本当に心強い」(根室市役所領土対策課)〉

 名指しされた社会党の場合は、社会主義を標榜するソ連とあって、それなりに配慮せざるを得ない事情もあったようだ。
 同盟の意気込みもむなしく、その後、領土問題に何ら進展がなかったのは周知のとおり。同盟は1987年に解散し、後継組織の日本労働組合連合会に名称を変えた。コロナ禍で中断されたビザなし交流と元島民の自由訪問の協定は、ロシアによるウクライナ侵攻後、突然の破棄を通告され、再開のめどは立っていない。
 無謀なウクライナ侵攻が長期化し、経済の疲弊を覆い隠せないロシアの自滅を期待する「熟柿作戦」しかないのだろうか。

ミグ25“襲来”の衝撃波

▲「サンデー毎日」’76年9月26日号

 半世紀前の函館空港では、全世界の耳目を集める重大な事件が起こっていた。「サンデー毎日」26日号のグラビア特集が、ソ連の戦闘機ミグ25で飛来し、亡命を企てたベレンコ中尉の姿を追っている。

 トップページの大きな写真には、〈強行着陸から約3時間後の6日午後4時すぎ、シートをかけられ、けん引車で運ばれるミグ25〉との説明が。当時、ミグ25は、アメリカのYE12と並び世界最速機と称され、NATO諸国の間では「フォックスバット」というコードネームで呼ばれていた。直訳すると「キツネコウモリ」となるのだが、どういう意味なのかはよくわからない。

〈ミグ25は2000㍍の滑走路の手前から侵入。途中でパラシュートを開いたが、滑走路端から約200㍍オーバーランして止まった〉〈草原の上に車輪の跡を残し、ローカライザー(方向指示電波発射装置)の手前10㍍のところでようやく止まったミグ25.オーバーランの途中、アンテナ2本を主翼でなぎたおした〉

 写真をみると、緊急着陸の緊迫感が伝わってくる。翌日に函館中央署の捜査員が実況見分を行った結果、前輪2本はパンクし、主輪も歪んでいたが、操縦席には異常がないことが確認された。
 5番スポットに駐機されたミグ25は、市民にとっても関係者にとっても好奇の対象となった。

〈軍事専門家が詳細に調べるため? 8日に機体のまわりに鉄ワクが組まれ、鉄板の囲いでかくされた〉
 8日までの間、ミグ25は5番スポットに駐機され、その姿をさらしていたので、ひと目みようと大勢の市民が殺到した。ミグ25のすぐ近くで、東亜国内航空機が飛び立つ写真も掲載されている。

 結局、損傷した機体は、後日、ソ連へ返還されたのだが、ネジの1本まで“丸裸”にされたことは言うまでもない。
 一方、ベレンコ中尉のほうは、湯の川グランドホテルに滞在したのち、翌日、道警本部のヘリコプターで千歳空港へ移送された。関係者に付き添われ、上着で顔を隠し、ホテルの調理室から抜け出す様子も収められている。その後、千歳で陸上自衛隊の輸送機に乗り換え、埼玉県にある入間基地に向かった。

 これらの写真には、本誌4月号で取り上げた、毎日新聞北海道支社の佐藤正カメラマンが関わっているはずだ。佐藤氏は同年に起きた「道庁爆破テロ事件」の発生直後の惨状をスクープ撮影した有名カメラマンであり、取材の中で、このミグ25事件の思い出も語っていた。

 ベレンコ中尉は、念願叶い、すんなりとアメリカへの亡命を果たした。米ソ冷戦時代とあって、米政府にすれば中尉は「使える」存在であったのだろう。移住後に家庭を持ち、3年前の9月に76歳で亡くなっている。

 千歳基地から自衛隊機がスクランブル発進したものの、ソ連戦闘機の侵入を許した日本は、防空体制の脆弱さを露呈することとなった。防空体制といえば、いまはロシアが首都・モスクワでさえウクライナによる長距離ドローン攻撃のリスクに直面している。ロシア側の戦況が悪化し、戦死者増加のペースが加速するなか、口には出せねども「西側に亡命したい」と考えている軍人も少なからずいるに違いない。

函館の007たちのスパイ大作戦

▲「週刊朝日」’76年9月24日号

 9月の週刊各誌は、ミグ25関連の話題が盛りだくさんだが、「週刊朝日」24日号の現地ルポをみていこう。日ソ関係の行く末や、日本の防空体制の問題点など、お堅い論調の記事が目立つなか、ユーモラスなタッチで大騒動の顛末を振り返っている。

〈ベレンコ中尉が、ロシアより愛をこめて運んできたミグ25。世界最高のこのトップシークレットめがけ、日本駐在の各国の007氏たち、はるばるきたぜ函館へと相成って、ニッポン警察が神経をとがらせて警戒するハコダテ・エアポートは、たちまち国際情報合戦の舞台に。題して「フロム・ロシア・ウィズ・ミグ」の一席――〉

 文中にある「ロシアより愛をこめて」というフレーズは、ジェームス・ボンド扮する諜報員が活躍する映画「007」シリーズのタイトル名である。

 強行着陸の1時間後、函館空港から近い湯の川グランドホテルに「大事な客だ」との電話連絡があり、3階のツインルーム3部屋が押さえられた。電話の主は警察である。
〈この夜の注文はタマゴどんぶり六つ、翌七日朝は目玉焼きとトースト、コーヒー六つ、昼はソバ六つ。それぞれ、ホテルのルームサービスで取った〉

 これらは警官用の食事で、ベレンコ中尉のものは別に手配されていた。
〈市内の仕出し屋がこしらえて、こっそりと部屋に運んだのである。六日の夜はサンドイッチ、翌日はボルシチかピロシキか、ともかくもそのたぐいの洋食。ただ、ホテルのコーヒーは一服毒を盛られる危険がある、と中尉には最も安全な水道の水ばかり飲ませたらしい〉

 中尉の身に何かあれば国際問題に発展しかねないので、口から入るものには最新の注意を払ったのだろう。それにしても、朝日の記者はよくここまで調べたものだ。
 7日午後、中尉の身柄は道警のヘリで千歳に移送され、残されたミグ25のまわりに007たちが群がり始めた。
〈まず正面切って乗り込んできたのは英国大使館の駐在武官氏。空港事務所で調査したいと要請したが、お断り。事務所側では、おしぼりをサービスし、お茶を出したところ、武官氏「イクラデスカ」。「金をとられると勘違いしたんだねえ」と空港職員〉

 料金の支払いを申し出るあたり、さすが「英国紳士」といったところか。
 8日になるとマスコミが一気に増え、日本の記者に逆取材される007も。
〈「日本は平和ですね。これが外国なら、すぐ見えないところに持って行って、軍隊が銃を構えて警戒しますよ。それがこうして見えるんですから。ありがたいですよ」〉

 警戒態勢こそ厳重ではあったものの、他国と比べれば、ローカル空港ののんびりした空気が感じられたようだ。
 某紙の記者が空港で活動する007の姿をカメラに収めた。だが、写真説明を入れる段になって、どこの国かわからず、適当に「ソ連人」と書いてデスクに出した。ところが――。
〈その新聞社に電話がかかってきた。「あの新聞に出ている写真ですがね、私はソ連人じゃありませんよ。イタリア人ですよ」と本人からの抗議だった〉
 これまたユルいエピソードである。まさか身内の恥を晒さないであろうから、「某紙」が朝日新聞でないことは確かだろう。

 函館の海上自衛隊所属の2人も格好の週刊誌ネタとなった。
〈初日は白い制服、制帽だったが、二日目は田舎のおっさん風。前日会った記者をつかまえて、「これも仕事でね、情報集めろといわれてね。敵のスパイが不利益行為をしないよう警戒でね」〉

 いかに任務遂行のためとはいえ、ドリフのコントみたいな「変装」をさせられるのだから、ご苦労なことである。
〈かくして、七、八日の両日は、一流スパイらしい外人と、にわかスパイの地元勢が、とにかく空港を行ったり来たり。それが、九日になると潮が引くように007氏たちは姿を消した。八日夜、ミグ隠しの鉄板の囲いが完成したからである〉

 ただ、囲いが設けられる以前の、シートをかけられた状態のミグにしろ、防衛庁関係者は「戦闘機のエキスパートでもない限り、その性能をそれだけで判断できるかは疑問」と冷ややかな見方を示していた。では、なぜこれほどの007が集まったのか。朝日記者の調べでは、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、イスラエル、ベネズエラ、ユーゴスラビア、そして当事国であるソ連の9ヵ国を確認したという。

 ある007が小声でこうつぶやいた。
〈「だって、せっかく日本にいるんだし、せめて写真でも写して本国に送り、オレは仕事をやっているぞ!ってところをみせなくちゃあ」〉
 いずこの国も、「お上」の役人が考えることは同じようである。

誰が「大森」を教育するか

▲「週刊新潮」’76年9月23日号

 50年前の3月2日に起きた道庁爆破事件。8月に緊急逮捕された大森勝久の取り調べに手こずる道警の苦悩ぶりを、全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」23日号の「新聞閲覧室」が伝えている。ネタ元は「北海道新聞」。
〈彼は九月七日、二十七歳の誕生日を迎えた。苫小牧フェリーターミナルで逮捕されてから二十八日、接見禁止という孤独に閉じ込められながら、両親の面会、いったん釈放即再逮捕という揺さぶりにも動じた様子もなく、これまで完全黙秘〉

 そんな大森の素顔を、岐阜時代の高校の担任はこう語る。
〈「要領のいい生徒じゃなかった。学生運動に熱中し、大学生、社会人になると巧みに身をかわす者が多い中で、彼は逆。愚直なんだな」〉
 岐阜大学教育学部を卒業後、赴任先の中学まで決まっていながら、〈「背広を着てふんぞり返りたくない。もっと苦労したい」と、あえて日雇いに〉という人生を選んだのだった。

 札幌へ来てからは、すすきののクラブや駐車場で働いたが、駐車場の元同僚は〈「遅刻、欠勤ゼロ。頭は切れるし、まじめだった」〉と証言している。クラブ時代の仲間のため、アパートの家賃を立て替えたこともあったようだ。

 大森が黙秘を貫いた背景には、豊富な知識があった。
〈「犯罪捜査」「犯罪鑑識」といった捜査の専門書を熟読。爆弾関係の法律とその罰則を詳しく研究していた〉
 連日の厳しい追及にも、大森はのらりくらり。〈「状況証拠は完全にクロ」と捜査関係者は断言〉していたものの、物証には乏しく、別件での逮捕ということもあって攻めあぐねていた。

〈「それにしても食欲が衰えず、よく眠る」と大森の“コマンドぶり”にいら立つほど〉
 1983年に死刑判決を下されたが、結局、決め手を欠いたまま時間だけが経過し、昨年6月、弁護団は4度目の再審請求を行った。まもなく逮捕の日から50年。獄中で大森は何を想っているのだろうか――。

生命力の溢れる市場

▲「週刊文春」’76年9月9日号

 かつては「庶民の台所」と呼ばれた市場。大型スーパー増加の影響を受け、各地で次々と姿を消しているのは残念だ。
「週刊文春」9日号では、作家の原田康子氏が札幌を代表する二条市場を訪れ、「食欲のある風景」という連載コーナーにエッセイを寄せている。

〈檀一雄氏の足もとにもおよばないにせよ、私も市場に出かけるのが好きである。オンナの身ゆえ、やむなく出むかねばならぬ場合も多いのだけれど、そういう場合でも市場に足を踏み入れると、なにかほっとする。おそらくそれは、人間の生命力のたくましさ、といったものに触れるせいなのだろう〉〈札幌の二条市場は、生命力の横溢した市場の代表格である。ごった返す買出しの客と威勢のよい呼び声、店頭のゆたかな生鮮食料品。なかでも目を引くのは海の物だ〉

 冒頭で名前が挙がった檀は、「火宅の人」で知られる無頼派の文豪だが、豪放磊落なイメージと反して料理家の顔も持つ食通であった。
 写真をみると、おいしそうな魚がズラリと並んでおり、大きなソイらしき魚を手にした原田が莞爾として笑みを浮かべる様子が印象的だ。

〈身はお刺身にし、あとはうしお煮にして、などと、私も食欲を刺戟されて、いつのまにか夕餉の献立を考えていた〉
 最後は作家ではなく、主婦の目線で一文を結んでいる。

 生まれは東京だが、生後1年で釧路へ移住し、ベストセラーとなった「挽歌」で確固たる地位を築いたのちも北海道を拠点としていた原田は、道産子作家と呼んでいいだろう。

 二条市場の始まりは明治初期。当初、石狩の漁師が鮮魚を売っていたのが市場として賑わうようになった。1902年の大火で全焼したが、有志の熱意によって再建され、現在に至っている。
 いまはもう昔日の雰囲気はなく、外国語が飛び交うインバウンドの人気スポットと姿を変えたが、どんな形であれ市場文化が無くなってしまうよりはマシだろう。