特ダネ速報 !! ランチタイム時限爆弾の戦場
50年前の8月30日、白昼の東京・丸の内が阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。三菱重工ビルで時限爆弾が爆発し、8人が死亡、380人が重軽傷を負ったのである。この悲惨なテロの現場近くで、たまたま毎日新聞東京本社の写真部員が取材をしていたため、週刊各誌の報道のなかで「サンデー毎日」の写真が群を抜いてショッキングであり、まさに特ダネ速報と打つにふさわしい。1974(昭和49)年9月15日号のグラビアと特集記事をみていこう。
私はそのとき現場にいた
スクープをモノにした浅井優一カメラマンは、その凄惨な光景を〈ベトナム戦争の最中のサイゴン市内のようだった〉と記しているが、その言葉は誇張ではない。ガラスの破片が一面に散乱する路上に血まみれの通行人がバタバタと倒れており、そのうちの一人は、爆風で衣服が吹っ飛び、左手は肘から上、左足は付け根からなくなっている。あまりにも生々しい写真であり、今の時代なら掲載を見合わせているだろう。
以下は現場の恐怖が伝わる浅井氏のルポである。
〈それはまるで、パントマイムの惨劇でも見ているような、奇妙に静かで、あまりにも残酷な数分間だった。ドッカーンと、たしかに音は一回だけだった。この衝撃がひびいたのは、社会部の才木記者と丸ビルでの取材を終えた帰り道。東側に煙が見えた。ガス爆発か、それともボヤか〉〈事の重大さに気づいたのは、頭から顔、腕からも血をしたたらせた二、三人のケガ人がユラユラ、フラフラ現れたときだった〉
浅井氏は無意識にファインダーをのぞき、夢中でシャッターを切り続けたという。しかし、自力で歩ける彼らは軽傷者であり、やがて被写体は遺体に変わった。
〈三人の遺体があった。トラックの荷台の後ろにひとつ。その遺体は、ほとんど人間の形をしていなかった。三つ目の遺体に目をやったとき、なぜかクラッとめまいがして、それ以上シャッターが切
れなかった〉〈不思議な習性なのか、形のなくなった遺体でもファインダーではのぞけるが、肉眼では、つい目をそむけ、それを直視できないのだ〉
プロカメラマンの本能でスクープ写真を撮影したものの、めまいがするのも、直視できないのも、一人の人間として当然の反応である。
現場では、なお危険が迫っていた。
〈上のほうで、ガラスが落ちるぞ──と怒鳴る声がして、あちこちで、チャリン、チャリンとまだ降りつづける〉〈こんどは近くの車が火と煙を噴き出した。ガソリンに引火したらしい〉
こうした状況下、取材を続行しようと決めた浅井氏は、電話ボックスへ走った。社に連絡し、ヘルメットと応援のカメラ要員を依頼したのである。
ここからは現場にいた人たちの証言をみていこう。
三菱重工ビル1階の喫茶店「ポポロ」の支配人・石内哲己さん(26)はこう話す。ちょうどランチタイムで、店内には80人近い客がいたという。
〈「大音響とともに、体が一瞬、吹き飛ばされそうになった。割れたガラスの破片が、お客さんの手足に突き刺さったようだ。店内は、痛さでしゃがみこむ人、出口へ向かう人で大混乱だった。通りへ出てみると、道路にうっ伏して助けを求める人、手足を引きちぎられたのか、うめいている人、茫然とたたずむ人など恐ろしい光景だった」〉
続いての証言者は、三菱重工原動機第二部の黒田守征さん(30)。
〈「下を見ると、重工の玄関前に二人の男の人が血まみれで倒れ、明らかに即死していました。向こう側の歩道に一人の女性が血だらけで倒れていて、その人はフラフラと立ち上がり、歩こうとしていた。だけど歩けなかった」〉
このほかにも浅井氏は多くの証言を集めているが、みな最初は何が起きたのかわからなかったようだ。
この時点ではまだ、「犯人は過激派説が有力」としか記されていないが、なぜ「三菱重工」がターゲットになったのかについては、このような推論を示している。
〈「三菱重工」といえば、日本の兵器産業のトップであり、世界でも有数の軍需企業。過激派の反戦グループだけでなく、市民組織の間にも広く“死の商人”のイメージは浸透している。三菱だけの責任ではないにしても、総合産業の旗手として“狂乱物価”に始まる大企業へのウラミツラミを受けてもおかしくない立場である〉
実際、それまでも同社は、火炎瓶を投げ込まれるなど、一再ならず被害を受けていた。
その後、「東アジア反日武装戦線」が犯行声明を出し、三菱重工以降も多くの爆破テロを起こすことになる。今年1月、メンバーのひとりである桐島聡が潜伏先の横浜で見つかり、数日後に末期ガンで死亡するというニュースが世間を驚かせた。事件から半世紀──「最後は桐島聡で死にたかった」と供述したが、何も語らず逝った卑劣な犯罪者の悪名は、地獄の閻魔帳に「桐島聡」の本名でしっかりと記載されているに違いない。
30円で355㌔、13時間も乗れました
物価高のあおりを受けて、庶民は旅行と無縁の夏休みになっているようだ。円安ニッポンを満喫し、贅沢三昧の外国人観光客が羨ましい。
おカネはないがヒマと体力はある、という鉄道ファンにおすすめしたいユニークな日帰り旅が「サンデー毎日」15日号で紹介されている。実際に体験したサン毎の竹内光記者は「ともかく、乗ってみました。疲れました。とてもじゃないが二度とゴメン」と嘆いていたのだが……。
〈三十円区間切符で、不正では決してない“最長距離乗車”を試みた〉
これがこの旅のテーマである。出発前夜、竹内記者は東京駅で出札窓口の駅員とこのような会話を交わした。
〈「三十円区間の切符で、東京近郊区間内ならどの路線でも全部乗り回っていいのはホントですか」〉〈窓口氏の答えは明瞭だった。「その通りですよ。規則には抜け道がありますからね。ただし、この場合、途中下車、同一路線の二度乗りはダメ。検札にあったときはよく説明してくださいよ」〉
ルール上は問題がないことを確認した竹内記者は、翌朝、再び東京駅を訪れ、4時31分の京浜東北線始発電車に乗り、おとなりの「神田駅」を目指す13時間の旅をスタートさせたのだった。
〈車内には女二人、男八人。クーラーなしだが、とても涼しい。ラッシュ時がウソみたい〉
ガラガラの電車は根岸線を経由し、5時43分大船に到着。東海道線の静岡行きに乗り換えたところで、最初の検札がやってきた。
〈「どちらへ」〉〈「神田です」〉〈「神田じゃ反対方向でしょう」〉〈「近郊区間を回るならいいんじゃないですか」〉〈「ハハーン、いいですよ」〉
物わかりのいい車掌でよかったが、キセルを疑われるケースもあるに違いない。茅ケ崎で下車し、相模線の橋本行きに乗り換える。電車からディーゼルカーに変わり、少し旅気分を感じられたようだ。竹内記者はタブレット交換や腕木式信号機がまだ残っていることに感動し、〈「ローカル線って感じがひしひし」〉と記している。
ラッシュがピークの時間帯になり、混みあう横浜線の電車で橋本から八王子へ。八王子からは八高線のディーゼルカーで高麗川、高麗川で川越線に乗り換え、9時56分大宮に到着。大回りコースの外周、しばらく田舎然としたところを走ってきたので、大宮が大都市に感じられたのではなかろうか。
京浜東北線で南浦和へ出て、前年に開業したばかりの武蔵野線に乗り新松戸へ。車中、2度目の検札では、車掌がルールをよく理解していなかったが、面倒臭くなったのか、咎めることもなく立ち去っている。
武蔵野線沿線は新興ベッドタウンが続々と誕生し、人口が急増したエリアで、それに伴い治安が悪化していた。
〈新松戸の隣接駅馬橋付近では一人暮らしのOLや主婦が、六月末から連続して殺害された。また、この日の午後、吉川駅そばで中学生が隣家の五歳の少女を絞殺、箱詰めにする事件が発生〉
のんびりした旅のルポに、突然、物騒な話題が登場する。
新松戸からは常磐線。竹内記者は11時45分着の我孫子で、野菜行商の女性たちと一緒にホームで立ち食いそばを啜っている。我孫子の立ち食いそばといえば、かつて山下清画伯が働いていた弥生軒に違いない。
〈行商のオバサンたちは、毎朝3時に起きて初発電車で都内のお得意さん宅を回る。ざっと五〇㌔の野菜を運ぶが、荷物を包む風呂敷の色やSLが成田線を走っていたことからオバサンたちには『カラス部隊』との愛称がついているとか〉
文中に出てくる成田線は、空港へのアクセス電車が走る、銚子方面に向かう幹線のことではない。我孫子─成田間の地味なローカル線も成田線と呼ばれ、沿線には行商人が多いことで知られていた。
〈『米屋』『柳屋』といった成田山新勝寺みやげのヨウカンの看板が見えはじめると、もう成田。十一両編成の東京─成田間快速電車専用ホームは、閑散として、開港しない成田空港の滑走路みたい〉
激しい反対闘争を経て、空港がオープンに漕ぎ着けたのは4年後のことである。
成田からは、総武線で成東、さらに東金線に乗り換え大網というルートだ。
〈東金線は昨年八月に電化され、総武線を走っていた『ゲタ電』が回されてきている。14時20分発のモハ72は昭和二十八年汽車会社製。とにかく揺れること揺れること。大網駅にゲタ電が着いたときには、さすがに疲れている〉
ファンなら感涙ものの名車だが、竹内記者にとっては乗り心地の悪いオンボロ車両でしかなかったようだ。だが、外房線で千葉へ移動すればゴールは近い。
〈総武線の黄色い電車で江戸川をこえて、またまた東京入り。お茶の水着は17時32分。中央線に乗り換えて、夕方のラッシュ時の目的地「神田」には17時41分に着いた〉〈この三十円大旅行は、十三時間六分がかりで、乗車距離は三五五・三㌔、ほぼ東京─名古屋間。停車駅は、東京近郊区間内の全三百三十八駅中、百二十五駅であった〉
実はこのコースは最長ではない。南浦和─西国分寺─新宿─田端─日暮里─我孫子にすれば400㌔超えになったと、最後に打ち明けている。夜になってしまうのが嫌でショートカットしたようだが、どうせなら最長距離に挑んでほしかった。
このルール、もちろん現在も存在しているので東京発神田行き「150円の旅」を再現することができる。ただし、その後、京葉線が開業し、範囲が長野県の松本、群馬県の水上、東北線の栃木県黒磯、常磐線の福島県浪江まで拡大されたので、「当日限り」という条件で回れるかは微妙だが。
ちなみに、この近郊区間ルール、東京、大阪、名古屋のほか、福岡、仙台、新潟が加えられたが、なぜか札幌は含まれていない。
日本ハム式サンドイッチ
球界参入1年目の日本ハムファイターズは、前期・後期とも最下位に低迷し、中西太監督の手腕に批判が集まっていた。そうした状況下、「週刊文春」16日号が、記者とファンの対話形式で話題のニュースを斬る「地獄耳」というコーナーで、皮肉交じりに日ハムの内情を明かしている。
〈記者 8月中旬、三原球団社長が大社オーナーに「私が采配をとりましょうか」と現場復帰を申し出たが、「中西でいい」と断られた〉〈ファン 不振つづきでも“留任”した息子のために、世間テイを考えて“叱っておく”ポーズ?〉
三原の娘と結婚した中西は義理の息子。表向きは厳しいことを言っても、どうにか助けてやりたいと思うのが人情だろう。成績のみならず、選手の好き嫌いが激しいのも中西の評判を落とす一因となっていた。こうした声に対し、三原はうまく切り返している。
〈「温情で勝てるんなら、ワシは毎晩選手を銀座に連れていきまっせ」〉
中西とソリが合わない選手は誰かというと、張本勲と大杉勝男の名前が挙がっていた。いずれもチームの浮沈を左右する大物である。
〈記者 中西は張本、大杉には遠慮して何もいえない。中堅の大下あたりがワリを食って、中西の“腹心”河野コーチと口論。ホームランを打っても、三塁コーチャーの河野と握手もしない」〉〈ファン 西鉄監督時代と同じで、気が弱すぎるんだろうな〉
ただ、大社オーナーは中西を擁護しており、結果が伴わないのは「古い体質のせい」と断じ、シーズン終了後の思い切ったトレードをほのめかしていた。
〈ファン それを新聞で読んだ張本が、その日から猛ハッスル。ホームランを打つわ、好守備をみせるわで“優等生”に変身した。なにしろこのチーム、オーナーは三原と中西に気がねし、三原はオーナーと世間に気がねする。親子にサンドイッチにされたハム(選手)こそいいツラの皮だ〉
結局、日ハムは8月に20敗を喫するなど浮上せず、最下位のままシーズンを終えた。そうしたなか、張本は首位打者を獲得したものの、大杉は22HR、90打点と、いずれもチームトップの成績を残しながらヤクルトにトレードされた。反目が噂された中西の意向というより、前身の東映時代のカラーを一掃したかったようだ。
翌年、中西監督2年目は、主砲の大杉を欠いた影響か再び最下位に。さすがの三原もかばいきれず、中西は首になり、大沢啓二を新監督に迎えた。2年連続最下位という屈辱から始まった日本ハムファイターズ50年の歴史──。今年は西武が“定位置”に居座っているので最下位の心配はなさそうだが、なんとかAクラス入りを果たしてメモリアルイヤーに花を添えてほしい。
偉大なる球団 巨人軍栄光の40年
プロ野球の話題をもうひとつ。「週刊現代」5日号が、創設40周年を迎えた読売ジャイアンツの歴史を秘蔵写真で振り返っている。
ジャイアンツが誕生した1934年は、2年前に野球統制令が施行された厳しい時代であった。アマチュア野球が禁止されるなか、正力松太郎氏が「それならばプロ球団を作ってしまえ」と立ち上がったのである。資本金は50万円。現在の10億円に相当する大金だが、野球文化の隆盛を願う企業など各界から多額の寄付が寄せられたという。
こうして日本初のプロ球団が誕生したものの、2年後に大阪タイガースなど7球団が揃うまで国内に対戦相手はおらず、アメリカ遠征で実力を磨いた。戦局の悪化を受け、一時解散を余儀なくされる苦難を乗り越えたのちは、「球界の盟主」と呼ばれる存在となり、この年(1974年)は前年に史上初のV9を果たした黄金期であった。
ここからは貴重な写真をみていこう。1枚目は1934年に開催された日米野球のポスター。「野球王ベーブ・ルース」の文字とともに、彼の顔だけが大きく描かれている。
〈このポスターをみて、日本行きを渋っていたベーブ・ルースが日本遠征を決意したそうだ〉
日本で自分の人気と知名度が、これほど高いとは想像していなかったのかもしれない。そのベーブ・ルースの数々の大記録を、日本人メジャーリーガーの大谷翔平が打ち破っているのだから、改めてその凄さに感服するばかりである。
〈昭和11年当時は、プロ野球の選手には選手証という身分証明書があった〉
証明写真の人物は、スーツ姿の沢村栄治だ。沢村は昭和13年に召集され、2年間の軍隊生活ののち復帰。「沢村賞」として名を残すほどの活躍をみせた。
戦地へ駆り出されたのは沢村ばかりではなかった。
〈昭和19年当時は、太平洋戦争も末期に入り、野球選手たちも戦場へ出て行った。写真は特別操縦見習士官から少尉に任官したときの川上哲治〉
軍服姿の川上は実に凛々しい。説明がなければ、「野球の神様」とわかる人はいないだろう。
〈後楽園球場では東条陸軍大臣を迎え、「銃後奉公愛国大会」が開かれる。昭和16年〉
国威発揚のための場だったのだろうが、やはり球場に軍人は似合わない。戦時下では、ストライク、ボール、アウトなどの用語が「敵性語」とみなされ、使用禁止になるという荒唐無稽な統制が行われた。
〈終戦。大選手が次々と帰還。シベリア抑留を終えて帰ってきた水原茂、迎えるはスタルヒン。昭和24年〉
スタルヒンの父は日本への亡命者とはいえ、ロシア生まれのスタルヒンがシベリア帰りの水原を迎えるというのは皮肉だ。1984年に完成した旭川市営球場には、旭川で育ったスタルヒンの功績を称え、「スタルヒン球場」の愛称が付けられた。球場正面にはスタルヒン像が建っている。開場から60年目の今年、日ハムの主催試合がないのは残念だ。
〈昭和23年。東西対抗で首位打者になった千葉茂二塁手。賞品はカップと子ブタ。ユーモラスなスナップの中に終戦直後の食糧事情がしのばれる〉
元気な子ブタを手に、「猛牛」千葉が苦笑いを浮かべているのが面白い。
〈昭和29年。プロレスラーの馬場正平が投手として入団。身長測定のスナップ〉
測定する女性が、椅子に乗っても届かないくらいデカい。のちのジャイアント馬場は、1軍の試合にも登板したが、ケガのため投手人生を断念。力道山に弟子入りし、同期入門のアントニオ猪木と切磋琢磨しながら、プロレス界の二大巨頭となった。「東洋の巨人」と呼ばれた馬場は、「元巨人」というプライドを原動力にしていたという。
〈昭和32年、立大より長嶋茂雄が入団。続いて33年、早実より王貞治が入団〉
巨人軍栄光の歴史を支えた長嶋と王。この記事が掲載された40周年シーズンは、王が三冠王に輝いた一方で、長嶋は「巨人軍は永遠に不滅です」の名セリフを残してユニホームを脱いだ。
チームも3位に甘んじV10の偉業こそ逃したものの、この頃のジャイアンツはとにかく強く、「巨人、大鵬、卵焼き」という流行語が生まれたほど。だが、大鵬がこの言葉を嫌悪していたとのエピソードは意外だった。その理由は、本誌連載中の「大鵬伝」(8月号)をご覧いただきたい。