アーカイブスヘッダー

虜囚よりも原始人の道を選んだ横井庄一【1972年2月】

札幌冬季五輪が開幕した半世紀前の2月は、グアム島のジャングルに28年も潜伏していた横井庄一さん(56)の帰国の話題で持ちきりだった。週刊各誌もほとんどが五輪と横井さん関連の話題で占められている。数ある報道の中から、1972(昭和46)年2月13日号「サンデー毎日」の現地ルポをみていこう。横井さんが隠遁生活を続けていたジャングルは、想像を絶する世界だった。昨年12月、入院先のカルテが見つかるなど、横井さんの軌跡が改めて注目されるなか、しっかりと戦争の愚かさ、平和の尊さを胸に刻みたい。

ススで真っ黒なへや

横井さんの失われた28年間を疑似体験すべく、報道陣が向かったグアム島のジャングルは、一切の文明を拒絶した過酷極まりない世界だった。

〈けものの通る道とてないうす暗いジャングルをかきわけ、かきわけ、わずか二キロ余り進むのに三時間もかかる〉〈幅二メートルぐらいの清流にぶつかる。タロフォフォ川の支流だ。「ここはヨコイがエビをとっていたところだ。彼の穴はもうすぐだぞ」とグアム警察のクルス警部がいう。ほら穴を出て魚とりをしていた横井さんがグアム人の漁民二人に発見され、つかまったのは、このあたりだ〉

この場所は、人家のある村から5キロほど。絶海の孤島ならまだしも、原住民の集落がある地区で28年もの間、誰とも遭遇しなかったのは、横井さんの警戒心の強さを物語る。
〈「ほら、それがヨコイのほら穴だよ」とクルス警部が叫ばなければ、確実に見落としていたろう。群生する孟宗竹の間に、よくみると竹製のスノコのようなものがあった。警部がそのスノコを取りのけると、人一人がやっとはいれるほどのタコツボのようなタテ穴がぽっかりと開いた〉
 写真をみると、ほら穴の入口は完全に自然の一部と化しており、よもやここに人間が潜んでいるとは到底思えない。ここでも横井さんの慎重な性格が垣間見える。

〈穴には麻縄でゆわえたしっかりした竹のハシゴがかかっていて、約二メートル下の穴の底に容易に降りられるようになっている。底からさらに横穴が続いている。マッチの明かりに照らし出された横穴の中は意外に広かった〉

広いといっても畳一畳ほどしかない。立つと頭がつかえる狭さであり、取材記者は〈地底特有の湿っぽさとクンセイのような臭いがミックスして異様なふんいきだ。こんな狭苦しいところで、横井さんは来る日も来る日も何を考えて暮らしてきたのだろうか〉との感想を漏らしている。

横井さんが発見された当時、所持していた生活道具の一覧が載っている。そのなかで手製の物は――「樹皮製の洋服」「シュロの火縄」「ヤシの縄」「繊維製袋」「竹製ヤナ」「おろし金」「ひしゃく」「ランプの火立て」「手提げつきナベ」「雨水採取用竹筒」「ネズミ捕り器」「ナイフ、包丁、ナタ」「アルミ製小皿」「オーブン兼煙消し」「千枚通し」「竹の串保管用の竹筒」「真鍮製縫針」「クツベラ」「ヤシの実製水筒」「ヤシ繊維の灯芯」――と、実にさまざまだ。常人には計り知れないサバイバル能力に驚嘆させられるばかりだが、本人は記者会見で〈「一番困ったのは火をおこすことでした。はじめは懐中電灯のレンズを持っていたので、ココナッツの繊維をほぐして太陽の光で火をつくった。レンズを壊してからは、木にみぞをつけて木の堅い棒とこすりあわせたり、砲弾の破片をぶつけて火花を飛ばしたりしたが、時間がかかるし、雨の日は火がつかなくて困りました。そこでシュロの皮で火種を作って、いつも火ダネをたやさないようにしておいた」〉と話していた。サバイバル能力だけではなく、そこにあるものをどう活用するかという生活力にも秀でていたからこそ、極限状態で生き抜くことができたのだろう。

「サンデー毎日」’72年2月13日号
▲「サンデー毎日」’72年2月13日号

横井さんにいたわりを

横井さんの行動パターンからも、尋常ならざる慎重さが浮かび上がる。昼は穴で息をひそめ、夜に食糧探しに出かけた。

〈歩行には万全の注意を払い、足跡など絶対につけぬようにした。小石といえどもひっくり返さないようにし、パパイヤの実とりも、全部はとらず、せいぜい三分の一くらいにとどめた〉
 敵は米軍だけではなかった。いつ終わるとも知れぬ孤独との闘い――。

〈「一日一日が長くて長くて、穴の中にいても何かしていないと、気が狂いそうだった。洋服をつくったのもヒマつぶしだったんです。あれでも、一着つくるのに三ヵ月かかりました」〉

強靭な精神力を持った横井さんとはいえ、孤独の無間地獄と激戦の悪夢は、日を追って心身を蝕んでいったようだ。グアムの病院に収容されたのち、突然、涙を浮かべ〈「部下の亡霊が出てくるんだ。横井、ひとりで帰るのか。オレも連れていってくれと。ほんとうに、この耳に聞こえてくるんだよ」〉と訴えていたという。

横井さんの帰国に際し、作家の大岡昇平氏は「横井さんにいたわりを」という一文を寄せている。

〈厚生省援護局の役人は、規定で合計三万九千円しか支給できないと最初いったが、世論が沸き立つと、局長自ら十万円の見舞金をグアム島まで持っていった。なんともばかばかしい話である。大臣が一人五万円ずつ醵金した。散々政治献金を食い荒らしているくせに、一晩の遊興費にも足りない金を出せば気が済むとは、大臣とはまことに不思議な人種である〉

また、横井さんの「天皇陛下にお目にかかりたい」という発言がクローズアップされていたが、天皇への忠誠心があることは認めつつも、〈元大元帥陛下に「お目にかかりたい」とは、兵隊の口から出るはずのない言葉である。マスコミの誘導にちがいない〉と断じ、〈まずは名古屋の肉親のもとに帰すこと、平穏な日常生活をさせてあげることである。国を挙げての歓迎も結構だが、しばらくは、そっとしておくことだ〉と横井フィーバーに釘を刺した。

〈敗兵にこのような生活を強いたのは「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓だが、あれはまったく悪い条項だった〉という主張は、自身の戦争体験を元に『俘虜記』を著した大岡氏ならではの思いといえよう。

帰国後の横井さんは、徐々に日常を取り戻し、1997(平成9)年、82歳で亡くなった。横井さんが本当の「戦後」を生きたのは、ジャングルを放浪した28年に満たない25年。サン毎の記事は〈戦争はかくも多くの悲劇をもたらした。東条英機など、当時の戦争指導者は絞首刑に処せられ、刑場の露と消えていったが、これで贖罪はすんだのだろうか〉と結んでいるが、横井さんの死から25年、改めて「あの戦争とは何だったのか」という検証が必要だろう。

書きかえられる殺人「新郎」のしおり

挙式前日に新郎が殺人鬼となっていた――。人口3万人の小さな街・士別市で起きた衝撃的な事件の背景を、「週刊新潮」5日号が伝えている。

吉原勝(25)と山本福子さん(仮名・21)は1月23日、士別市民会館で晴れて夫婦となるはずだった。2人は森永乳業士別工場に勤務する同僚。殺された山口妙子さん(22)も同じ職場の仲間で、結婚式の発起人の1人でもあった。

その日、新婦の山本さんは、何も知らぬまま美容室で着付けと化粧を始めていた。準備もほぼ終わった頃、吉原の母親が飛び込んできて、重い口調でこう告げた。

〈「息子が、実は昨夜起った事件のことで、いま警察に行っていますので、今日の結婚式を中止してください」〉

ふつうならパニック状態になっても不思議ではないところだが、山本さんは〈「彼は、そんな悪いことをするような人じゃない」と、ポツンといって、あわてもせず、泣きもせず、吉原の母親に詰問する様子もなく、黙々と花嫁衣装を脱ぎはじめた〉という。この気丈さが同情を誘う。

1月23日は札幌冬季五輪の聖火が士別を通過する日でもあり、市民会館には聖火ランナーや市長など関係者が集まっていた。会館管理者の横山四郎氏は〈「きょうは天気がよく、聖火が通るし、結婚式もあるし、いい日だな」〉と、上機嫌で話していたのだが――。

やがて会館前に婚礼中止のお知らせが掲示されたが、なにせ開宴直前のドタキャンである。事情を知らぬ招待客らが詰めかけ、会場は重苦しい空気に包まれた。

〈出席予定者は百三十人、会費は一人千三百円、料理などはすべて用意されていたのである。なかでも、すべての客にくばられることになっていた新郎・新婦のプロフィールを紹介した“しおり”の痛々しいムダは、集まった人々の印象に強く残ったようだ〉

その「しおり」には次のように書かれていた。

〈昭和二十二年、樺太に生れる。士別高校を優秀な成績で卒業と同時に森永乳業に入社。小さな物ごとに動じることなく、“わが道を行く”という頼もしい存在。スポーツでは、特にバレーボールに高校時代から情熱を傾け……〉

こうした結婚式の新郎紹介では、得てして長所ばかりが強調されがちであるが、仲間内では「金使いが荒い」という一面が知られていた。詳しくは後述するが、あまりに短絡的な殺人の動機も金だった。

「週刊新潮」’72年2月5日号
▲「週刊新潮」’72年2月5日号

せっぱつまった母からの借金

吉原は母親と二人暮らし。樺太で教師を務めていた父親は終戦と同時にソ連軍に抑留され、以後、消息不明のままだった。兄は結婚後、千葉に移住している。過保護に育てられ、母親には頭が上がらなかったようだ。

吉原の懐事情について、親友の長谷川茂雄君はこう証言する。

〈「彼がボウリング、パチンコ、マージャンなど遊びに熱中して、相当金を使っていることは聞いていました。また、昨年の夏、自動車の免許を取りたくて友達の車を借りて運転し、事故を起こしてしまったことがあったんです。車をメチャメチャにしてしまい、その弁償金だけでも相当払わなきゃならなかったんじゃないでしょうか。彼の給料は五万五千円くらいですから、新婚旅行の費用なんかとても作ることができなかったと思います」〉

吉原は、母親が菓子店で働きコツコツ貯めた20万円を借り、すべて遊興費で蕩尽していた。借金の返済を迫る母親に対し、〈「旭川の友人に頼んで、あの二十万円で森永の株を買ってもらっているんだ」〉と、ウソをついていたという。結婚式の前日、20万円の件を蒸し返された吉原は、友人に株を処分してもらうと告げて家を出た。その後の行動は支離滅裂である。

警察での供述に基づき要約すると、山口さんを喫茶店に呼び出し、夜に樹氷を眺めながら士別神社で参拝する約束を取り付けた。この日は吉原の誕生日で、毎年、参拝するのが慣例だったのだ。このとき、山口さんは山本さんへの結婚祝いにとリボンフラワーを託し、吉原はその足で山本家に届けている。まもなく殺害する相手のプレゼントを、まもなく裏切る新婦に平然と渡すあたり、もはや通常の神経ではなかったのだろう。

そして、2人は士別神社で落ち合った。

〈参道を歩いているうちに、ムラムラと殺意がわいてきたのだそうだ。「もし、この女を殺し、この女の金持ちの義兄に、誘拐したといっておどかせば、金を持って来るだろう」〉

山口さんを絞殺したのち、吉原は計画通りに脅迫電話をかけ、金を待つ間に、なんと山本さんとボウリングを楽しんでいた。人質を殺してから身代金を要求する手口といい、いまなら心神耗弱と判断されてもおかしくない異常な行動といえる。

結局、稚拙すぎる犯行は失敗に終わった。

〈犯行の動機について、「新婚旅行の費用が欲しかった」と自供した〉

前代未聞の事件の悲しい結末に、士別警察署の長谷川五郎署長は「それっぽちの金欲しさに、どうして人を殺したのかサッパリわからない」と首をひねった。

〈仮に将来、吉原と福子さんが結ばれるとしても、“しおり”は書き換えられなければなるまい。彼のひき起こした前夜の殺人事件を当然書き加える必要があるからだ〉

吉原のプロフィールには「無期懲役」が加わることとなった。

それにしても、山本さんが吉原の悪魔性を見抜けなかったことが悔やまれる。彼女の“しおり”に、改めて「幸せな結婚」の一文が加えられたことを願うばかりである。