
列島改造の落とし子「上越新幹線」
遅れに遅れている北海道新幹線の延伸工事は、膨張する工事費に加え、さまざまな不正も明るみになるなど、ネガティブな話題ばかりが目立っている。1982年に開業した上越新幹線も、田中角栄元首相の力で実現した経緯があっただけに、田中氏がロッキード事件で失脚すると、にわかに多くの問題が指摘されるようになった。1976(昭和51)年10月3日号の「サンデー毎日」では、ボスを失い暗雲が立ち込めた新幹線沿線の現状を伝えている。
田中死すとも“しるし”は残る

〈有名な話がある。新潟県刈羽郡西山町の農村で少年時代を過ごした“角サン”の夢――。「西山から長岡へ行くには峠を越さねばならぬ。トンネルを掘れば、どんなに便利になることか。オレはやる」〉
その地蔵峠を貫き、新潟と東京の距離を縮めるのが、田中氏の夢が結実した上越新幹線であった。ロッキード以前の田中氏は、権勢をほしいままにした「今太閤」。1972(昭和47)年に田中氏が著した「日本列島改造論」は大ベストセラーとなり、前年に着工された新幹線は、まさに「改造」のシンボルといえるものだった。
浦佐駅を巡ってはこんなエピソードがある。正式な路線計画発表前に、田中氏は駅の誘致を訴える陳情団に対し、謎めいた言葉をかけた。
〈「そのうち毘沙門さまも世に出るだろうよ」。時を同じくして、地元では土地の買い占め騒ぎがあった〉
この発言には解説が必要だろう。浦佐には古くから親しまれている毘沙門天があり、つまり「浦佐駅は必ずつくる」という太鼓判だったのである。
しかし、新幹線計画は順風満帆には進まなかった。
〈昭和48年の石油危機。ブレーキに足をかけながらの経済成長が始まる。新幹線工事のテンポは目にみえてゆるやかになっていく。そこに降ってわいたのがロッキード事件。「角サンがつかまって新幹線はどうなるだろうねぇ」地元は“角の力”をあらためて知った〉
さすがに工事中止とまではならないまでも、地元が予算の大幅な縮小を懸念するのは無理もない。実際、鉄建公団新潟新幹線建設局は〈「今年度の要求千八百億円に対し、認められたのは千三百億円。工事費を用地買収費に回すこともあるので思うように進まない」〉とコメントしている。
また、不安材料は他にもあった。受け皿が限られている佐渡島の場合は、〈島外資本の流入は必至である。島民が資本参加できない観光と環境の急変に警戒の声も高まっている〉といった問題が。島外資本を海外資本に置き換えれば、近年のインバウンド急増に伴う地元との軋轢に通底するテーマといえるだろう。
〈7月1日のこと。長岡市と西山町を結ぶ「薬師トンネル」(15㌔)が開通した。着工いらい15年ぶりだ。少年時代、角サンが抱いた夢は実現した。「田中逮捕」が東京地検の日程にのぼりはじめていたころだった〉
結局、1982(昭和57)年に上越新幹線は大宮―新潟間で華々しく開業したのだが、記事では「55年春以降」との見通しを示しているから、北海道新幹線札幌延伸ほどのひどい工期遅れではない。サン毎の結びの一文が印象的だ。
〈遅れているとはいえ、上越新幹線は必ずできる。「田中“死す”」とも「高度成長期の“しるし”」は残る。そして将来の教科書はこれをどう説明するのだろうか〉
北海道新幹線も、遅れているとはいえ、必ずできる。採算の見通しが立たずとも、談合疑惑が浮上しようとも、コンクリート品質試験での不正が発覚しようとも。なぜなら、新幹線建設の背景には巨大な利権が絡んでいるからだ。そして、上越新幹線と異なるのは、延伸の代償として、無情にも並行在来線が見捨てられる点である。
浪花節をうなるドン・キホーテ佐藤孝行

田中角栄前首相が逮捕されるなど、ロッキード事件の嵐が吹き荒れるなか、北海道出身の大物議員も「渦中の人」となっていた。「週浪花節をう な るドン・キホーテ佐藤孝行刊文春」28日号が、衆院選を前に、道南の選挙区で必死の訴えを続ける佐藤孝行氏の苦戦ぶりを伝えている。
〈人間にとって“恥”ほど、やっかいなものはない。ロッキード事件に連座した元運輸次官“小角栄”佐藤センセ、いつ、どこで、恥とやらを落とされたか、もともとそんなやっかいなものはお持ちあわせじゃなかったのか、選挙を控え、票田にお里帰り、すこぶる精力的に動きまわっておられる。失礼ながら、理論というよりは浪花節、今回は、ちとお苦しみ。それでもセンセ、身の潔白とやらを御力説。苦しみは、これからだ!〉
こう厳しい言葉を並べるのは、作家の落合恵子氏だ。
写真をみると、ご本人も、集まった聴衆も、表情は冴えない。文春のキャプションは〈この二週間、佐藤センセイはマイクロバスを駆って、連日約十ヵ所“国会報告会”なるものを行っているが「人の集まりが悪くて商売にならない」とは当人の弁〉と記している。
とはいえ、根強い支援者も少なからず存在していた。佐藤氏の主要な支持母体である漁業関係者からは〈「ロッキード? そんなもん関係ねえ。そこの突堤をつくったのもセンセイじゃ」〉〈「私は二十年前からの信者なんだよ。いまさら疑えといわれても……」〉といった声が。彼らにすれば、ロッキード事件など遠い世界の出来事であり、目先の生活のほうが大事なのだ。佐藤氏も、激しい逆風のなか、そうした地方ならではの「情実」に、一縷の望みを託していたのだろう。
〈「みなさんが漁船を建造したとすると、安くて性能がいいエンジンをつけると思う。その場合、結果がまずかったとしても、責任は組合ではなく買った船主さんにある。飛行機だって同様。責任は買った会社にあるのであって政治家にはない」〉
ロッキード疑惑に対する抗弁だが、要領を得ない話との印象は禁じ得ない。文春の記事は〈さながら世の常識に傲然と立ち向かうドン・キホーテのようだ〉と、皮肉を込めて結んでいる。
結局、「ロッキード選挙」と称された12月の衆院選で、佐藤氏は議席を失った。自民党が過半数を割ったなか、ボスの田中角栄氏は当選を果たしたのだから、まさに「悪名は無名に勝る」である。その後、佐藤氏は1896年に有罪が確定。しかし、執行猶予明けに総務庁長官として復権を果たし、当選11回を重ねたのは見事というほかない。2011年、83歳で鬼籍に入った。
ロッキード事件から半世紀――。あれだけの批判を浴びたにもかかわらず、いまだ「政治とカネ」の醜聞が絶えない現実には呆れるばかりだ。
ニッカ一万五千円の“大物”

近年の世界的なウイスキーブームのなかで、その品質の高さが評価されているジャパニーズウイスキー。道産子が愛するニッカブランドも、国内外問わず熱烈なファンが少なくない。
「週刊現代」28日号では、ニッカウヰスキーの創業者で、半世紀前は会長を務めていた竹鶴政孝氏が渾身の力を注いで送りだした、高級ウイスキーの話題を取り上げている。
〈「おそらくこれが竹鶴サン“最後の作品”になるでしょう。それだけに、これを以てしてもサントリーを追い抜けなかったら百年目ということにもなりかねません」(業界誌記者)〉
巨艦サントリーを追撃するべく開発された自信作が「鶴」だった。お値段は1万5千円ナリ。今なら「高級」というほどではない価格帯であるが、当時としては破格だったのである。
〈「これまでの例をみても、自身の名前からブランド・ネームをとったのは今回が初めてです」(同社社長室・杉原聡氏)〉
このとき、竹鶴氏は82歳。まだまだ元気だったとはいえ、年齢からも「最後の作品」と目されていたのだった。
〈実績シェア七〇㌫前後を占めるサントリーは、ニッカにとって追えども追えどもなかなか近づけない存在である。数量はともかく、ブランド・イメージだけは上回りたい、というのは竹鶴サンにとって無理もない願いであろう〉
この新商品に全精力を注ぎ込んだ竹鶴氏は、3年後の1976年に亡くなった。そして、「鶴」は好評を博したものの、2015年に終売となってしまった。この前年、NHKの朝ドラで竹鶴夫妻の生涯を描いた「マッサン」が放送され、世はニッカブームに沸き返っていたのだが、あまりに人気が出過ぎた結果、原酒が足りなくなり、需要増に応えられなくなったことも終売につながったのだから皮肉だ。
今年は没後50年。天国で「日課」だった晩酌を楽しんでいるに違いない。
国鉄ストは中止すればいいの?

今の時代、JRの列車が運休になるとすれば、事件・事故か自然災害といった理由がほとんどであるが、労組の力が強かった半世紀前は、ストに振り回されることが珍しくなかった。全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」(14日号)の「新聞閲覧室」から、北海道で起きた混乱ぶりをみていこう。ネタ元は「北海道新聞」。
〈公労協の“月末スト”は回避――。二十七日深夜まで、道内の国鉄労使は中央での交渉の推移を本部と本社からの連絡やテレビで注目していたが、「収束、回避」の情報が伝わって、すっかり緊張をほぐした感じ〉
中央の動向を様子見していたわけだが、ストを決行するとなると激しい批判にさらされるだけに、双方に「やれやれ」との思いもあったに違いない。しかし、利用者の側からすれば、これで一件落着とはならなかった。ストを見越し、大事な予定の変更を余儀なくされていたからだ。
〈高校の修学旅行シーズンで、旅行の延期や中止を決めた学校は八校にのぼり、スト計画による傷跡は残った〉
中止・延期は免れても、列車のかわりにバスやフェリーを手配するなど、急な対応に追われた学校も少なくなかったのである。延期組の場合は、年明けにずれ込むケースもあり、「冬ではなく、季節のいい秋に行かせたかった」との声も。修学旅行といえば、「団体列車」が一般的な時代であった。
これまでも一再ならず国鉄ストの不条理さを報じてきた「新潮」は、〈冗談じゃない。ストは中止すればいいというものではない。そのために、どれほどの結婚式や葬式がすでに延期され、約束がキャンセルされたか。マッチポンプよりタチが悪い!〉と憤る。
日本社会では、ストという行為を目にしなくなって久しいが、その是非はさておき、よりよい労働条件や賃金アップを勝ち取るため徹底的に戦う、という熱量が漲っていたことは確かだろう。一部の人を除き、「物価は上がるのに給与は上がらない」時代にあって、そんなエネルギッシュな昭和が、少しだけ懐かしくもある。
「北炭」萩原式鉱脈発掘術

1889(明治22)年に設立され、長らく北海道に君臨した、「北炭」の愛称で知られる北海道炭礦汽船。その総帥・萩原吉太郎氏は、中央の政財界とも太いパイプを持つ大物であり、その豪胆なキャラクターは、しばしばマスコミの注目を集めていた。
「週刊新潮」14日号では、「どれほど赤字を出してもつぶれない会社」と揶揄された「北炭」の再建案を巡り、水面下で暗躍する萩原氏の策略を伝えている。
〈月々七億円からの赤字を続け、八月には「会社更生法適用申請」が報道されたし、九月には「不渡り説」「負債一千億の大型倒産」などとささやかれていたのだが……。その“危篤状態の病人”が、萩原吉太郎会長(73)の提示した一片の“処方箋(再建案)”で息を吹き返したというのだから、やはり現代の“奇跡”である〉
前年11月に起きた幌内炭鉱の大爆発事故などもあり、当時、苦境に直面していた北炭が進めていた再建案は、通産省の指導により役員会で決定した幌内炭鉱の縮小案。この方針を180度転換したのが、東京・日本橋の北炭本社で開かれた萩原氏の記者会見だった。
〈「事故以来、さらに政治活動に対する私への批判が厳しい折柄、一切の活動を停止してきたが、北炭がここまで窮地に陥った以上、あえて火中の栗を拾うべく再登板した」〉と切り出し、こう続けた。
〈「再建にあたっては、従来の再建案ではなく、幌内炭鉱の全面復旧しかないが、北炭自身には資金がないから、すべて政府に頼らざるを得ず、それが不可能だというのなら、私は敗残の老兵として引退するしかない」〉
この発言には、当然、通産省や銀行が反発した。石炭産業は国の保護を受けていたとはいえ、「あまりにムシのよすぎる話」と受け止められたからだ。幌内炭鉱の復旧には、200億円が必要と試算されていた。
こうしたバッシングに対し、萩原氏は、新潮のインタビューで滔々と自説を披瀝している。
〈「ワシがモノをいうと、(社長だった)斎藤君の立場がない。実はその案は、ワシはあえて見なかったのだよ」〉
なぜ見なかったのかについては語られていないが、役員会で決めた縮小案で労組と協議しようとしたところ、労組側が態度を硬化。ストを示唆したため、経営陣は右往左往、右顧左眄となり、緊急役員会が開催されることに――。
〈「その時だよ。ワシが初めて意見を述べたのは。で、ワシの全面復旧案を出したんだ。通産省の案では北炭はつぶれてしまう。だからすぐ決まった。居直りでも何でもない。通産も債権者も納得できる材料を、ワシはちゃんと持っているんだから」〉
そう自信満々に語った萩原氏は、大事そうに抱えていた黒い鞄から分厚い書類を取り出した。どうやらこれがその「材料」らしいのだが、内容を尋ねた新潮の記者に対しては、「秘中の秘だ」とだけ言って、詳細は明かさなかった。
通産省側は、大金を注ぎ込んで幌内炭鉱を復活させても、どうせ巨額の赤字になるのだから閉山が妥当、という見解だったのだが、萩原氏はこの見立てにも真っ向から反論する。
〈「冗談じゃない。とんでもない計算違い。ワシは三十年間、石炭をやってきた男だ。一年や二年、石炭を勉強したヤツに何が分かるか。最終的には二十四億の黒字が出る」〉
また、萩原氏の強気な発言の背景には、「人道問題」という切り札もあった。事故後、幌内炭鉱の地下1000㍍には、まだ13人の遺体が残されており、閉山の決断は遺体を見捨てることになるからだ。
ただ、閉山は免れたとしても、北炭社員の士気は低下するばかりだった。
〈なんといっても給料が遅配なのだから。八月分は北海道庁からの緊急融資でなんとかしのいだが、九月はついに一部遅配。夏のボーナスはいまだに支払われていない〉
萩原氏は、「8年前から役員報酬を受け取っていない」と、経営改善のために自身も身を切っているとアピールしたが、札幌テレビ(STV)や日本カーフェリーなどの役員を務め、年収2500万円は下らなかった。一般社員とは、置かれた立場がまったく違うことは言うまでもない。
〈この人、これまでに三回、北炭の社長、会長として“現役復帰”を繰り返してきた。今の会長職も、昨年春、夕張新鉱の開鉱を前にして相談役から返り咲いたわけである。北炭の危急存亡の折には必ず躍り出てくる妙な“実力者”。そのためか、萩原氏が北炭に戻ると、株価も上がる〉
実際、前年の2月に50円の最安値をつけていたのが、会長就任後、半年で221円まで急騰。その後、幌内炭鉱の大事故があり、深刻な債務超過から「上場廃止」が噂されると株価は急落し、60円台と低迷していたのだが、萩原案のインパクトは大きく、再び上伸の動きをみせていた。当時の萩原氏は、マーケットを左右するほどの“政商”だったのである。
〈萩原会長自身は、むろん、坑内の鉱脈から石炭を掘る人ではない。が、政財界の“金脈”をあやつる名人であることだけは確かなようだ〉
しかし、そんな萩原氏を以てしても、時代の変化には抗えず、夕張新鉱の大事故が決定打となり、1995(平成7)年に明治以来の百年企業は“命脈”が尽きたのである。北炭の終焉を見届けた萩原氏は、その6年後、98歳で大往生を遂げた。
「四島」をカネで買ったら…

プーチン大統領が初めて北方領土(択捉島)を訪問し、改めてロシアの主権をアピールした。日本にとっては由々しき事態であるが、愚かなウクライナ侵攻の思わぬ苦戦で、まともな思考など期待できない裸の独裁者がトップの座に君臨する限り、四島への距離は遠のくばかりだろう。
「週刊文春」14日号では、世界を驚かせたミグ25の函館空港強行着陸事件以来、ソ連の脅しにさらされる根室の厳しい状況を伝えている。
〈「日本漁船の拿捕は加速度的に増えています。去年の総件数が二十三件なのに、今年はすでに二十九件ですからね」〉〈「貝殻島(ノサップ岬に最も近いソ連の有人島)に監視船がはりついているんです。漁民にとっては脅威だが、それでも生活のためには出漁を控えるわけにはいかない」〉
ただでさえ緊迫しているなか、9月に宮沢喜一氏が初めて現職の外相として視察に訪れたことで、いっそうソ連を刺激することになったという。
〈ソ連は伝統的に領土的野心が強い。戦争で得た領土を、そうオイソレと返すことはあるまい〉
狂気ともいえる領土支配欲がウクライナに悲劇をもたらしたわけだが、この先、ウクライナがクリミア半島を奪還できれば画期的な快挙といえる。経済的には日本が優位に立っていた当時は、一部に「話し合いがダメならカネで」という声もあったようだ。
しかし、ソ連には〈「帝政時代、アラスカをアメリカに二束三文で売った。今となれば軍事的、経済的に大変な損失だ。アラスカの二の舞はしない」(ソ連当局者)〉というトラウマがあり、「買収」もまた現実的な選択肢ではなかった。
ロシアがかつてのソ連崩壊のような激震に見舞われたとき、わずかなチャンスが生まれるのだろうか。
