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牛を追う7人の若者はいま…【1971年6月】

今日の「酪農王国」北海道の礎を築いたのは、パイロットファームの功績が大きいといえるだろう。しかし、その過程においては、多くの苦労や挫折があったことは言うまでもない。1971(昭和46)年6月18日号の「週刊朝日」では、広大な北海道で壮大な夢を実現しようと奮闘した、九州出身の若者たちの姿に迫っている。入植から10年。7人の盟友にはどんな人間ドラマがあったのだろうか——。

パイロットファームの10年 

舞台は野付郡別海村(当時)。長崎県立北松農業高校を卒業した、山口晴夫君をリーダーとする19歳の若者7人が、〈さいはての原野に、おれたちで、共同経営の理想的な農場を作ろう」〉と、希望に胸を膨らませ、この地に「北松農場」を開いたのだった。彼らの入植時に取材をしていた週刊朝日の永井記者は、〈「十年たったら、また、見に来てくださいよ」〉という言葉を思い出し、カメラマンとともに再び7人のもとを訪れたのである。

〈総面積約一万一千ヘクタール。東京の世田谷区が二つもはいるという広さに約三百戸の農家が点在している〉

あまりの広さに、7軒の住宅を見つけるのに相当苦労したようだが、そのうちの4軒は廃屋になっていた。

〈「ええ、四戸が離農して、いまは山中、浦島、山口の三戸だけが残っています。これから六月、七月にかけて遊ぶひまもないほど忙しいの。牧草刈入れの期間は、パイロットファームの四十戸の共同作業にかり出されて、これが一ヵ月かかるんです。その間、男は家にいませんから、私たちが牛の面倒一切みるんです。朝は四時半から搾乳……」〉と話すのは、浦島久子さんだ。久子さんは中標津で店員をしているとき、敏雄さんに見染められたという。

全国の農村同様、パイロットファームも深刻な嫁不足に悩んでいたが、残った3人のうち浦島敏雄さんは入植2年目、山口さんと山中健一さんはその翌年にそれぞれ家庭を築いていた。浦島さんの場合は、〈「アサヒグラフ」にのった彼の写真をみて、函館に住む娘さんが求婚してきた〉というから、永井記者が恋のキューピットともいえるだろう。

やがて主人たちが帰宅し、3家族が一緒に食事をしながら、近況報告と昔話が始まった。

豪快にコップ酒を呷ったあと、浦島さんが〈「おれはいま酪農の仕事を離れて、トラクター乗りだ。今日はバキュームカーで牧草地に人糞や牛の尿をまいてきた。金ためて、牛飼いをもう一ぺんやりなおそうと思うんだ」〉とつぶやいた。詳しい経緯は後述するが、酪農の仕事に見切りをつけたのち、出稼ぎで必死に食いつないできたが、やはり牛との暮らしが恋しいのだという。

別海に着いた7人はまず道東牧場で1年間の実習を積み、どうにかやっていく自信が芽生えたものの、未成年だったため入植資格を得られなかった。そこで、故郷の父親を手紙で説得。名義を借りて土地を入手したのだが、その時点で7人が持ち寄った僅かな自己資金は底をついてしまった。

〈「道東牧場では五百円のこづかいで、一年後に一人四万円くれる約束だった。いくら十年前でも五百円のこづかいじゃ、やっていけない。またたく間に米びつはからになってしまった」〉と、山中さんは振り返る。やむなく道路工事の仕事で生活資金を補うなど苦労の連続だったが、若い7人は口角泡を飛ばして、共同経営の方向性を語り合った。

そのうち、農場経営が軌道に乗って牛も増え、7人全員が所帯を持ち、明るい未来が待っていると思えたのだが——。好事魔多し、昭和41年、予期せぬ苦難に見舞われたのだった。

▲「週刊朝日」’71年6月18日号

夢をあきらめた四人

7人は新たな取り組みにチャレンジした。それは、真四角にカットした牧草を梱包し、ビニールをかぶせて大きな穴に埋めるという試みだった。

〈きびしい冬をむかえて牧草を掘り出してみたら、全部くさっていた。空気が入ったのである〉〈「越冬飼料が全部だめになった」悲痛な言葉が吐き出された。七人の共同経営農場にはじめて暗い空気が流れた〉

1千万円もの莫大な負債を背負い、山口昇さん、加藤亨也さん、富岡宣之さんが去っていった。一度は再起を決意した福浦秀臣さんも、1千万円の借金というシビアな現実と改めて向き合い、静かに荷物をまとめ始めた。

〈残った三人は、「個人営農にきりかえて再出発するしかない」〉との結論に至った。山中さんが苦闘時代を回想する。

〈「牛にエサを食べさせられなきゃ、売るより仕方ない。根釧原野に雪がないのは一年に五カ月。だから越冬飼料の確保が大切だ。次々に牛を売って、七十頭ぐらい手放したかな。最大のピンチが訪れたわけだ」〉〈「個人になるっていうことは、組合時代とまるっきり信用度がちがう。結局、土地の一部を処分したあと、一千万円の借金と四十頭の牛を山口と分けたんだ」〉

1千万円の負債が山口さんと山中さんの2人に重くのしかかった。残留メンバーのひとりである浦島さんは、〈「この土地は去らないが他の仕事で現金収入をはかる」〉との道を選び、借金返済を免れたかわりに、酪農家の夢を断念したのである。これが冒頭の「もう一度、牛飼いに……」という発言の背景であるが、3人ともに相当な覚悟であったことは想像に難くない。

繊細で神経質なタイプだった別海を去ったメンバーとは対照的に、山口さんと山中さんは楽天家だった。

〈「サイレージの作り方も進歩している。こういう時代だから借金を苦にせず、よい牛をつくって、乳量を増やしていく以外にない」〉と山口さんはあくまで前向きであり、また徐々に牛の数も増えていった。

そんな頼もしいリーダーは、再び酪農への意欲を燃やし始めた浦島さんを慰めるように、こう語りかけた。

〈「また仲よくやろうじゃないか。このパイロットファームを去っていった、四人の級友にも帰ってきてもらいたいよ。この開拓地の酪農家は多かれ少なかれ借金をしょってるんだ。おれは広大な土地を持っている。五十五、六歳ごろには借金も消えるだろう」〉

共同経営の夢は潰えても、7人の絆は揺るぎなかった。失意のうちに帰郷した仲間も、パイロットファームでの成功を願っていたに違いない。

こうして3人が踏ん張って来れたのは、妻たちの頑張りがあればこそといえる。誰かが〈「この三軒が十年間もったのは、カアちゃんがよかったからよ。荒野に女っ気なしでいたらつかみあいになっているよ」〉と口にしたが、内助のみならず、大変な重労働の「外助」もこなし続けた妻たちの存在なくして生活は成り立たなかったろう。

最後に山口さんが、これまでの人生を噛みしめるように〈「おれたちゃ、そんなにみじめじゃないってことよ。とにかく、苦しみをたのしみにかえてきたんだから……土に生きるも人生、離れるも人生……」〉と締め括った。強い意志を持った3人は、その後も愚直に「土に生きた」はずだ。

日本“最後”のデラックス汽車旅行

今年のGWも、帰省や旅行を諦め、ステイホームを余儀なくされた人が多かったに違いない。先が見えない自粛生活でストレスが溜まりがちなみなさんに、せめてもの慰みになればと、懐かしい“誌上旅行”を楽しんでもらおうと思う。「サンデー毎日」13日号で紹介しているのは、東京発長崎行きの寝台特急「さくら」だ。

〈時刻表のどのページをひっくりかえしてみても、これ以上のデラックスな旅はない。合理化ばやりの日本で最後の豪華な汽車旅行〉とあるが、それはチケットが高額ということだけではなく、スピード重視の新幹線時代にあって、心の贅沢を味わえる旅だからだった。

〈列車番号「1」。東京駅から長崎駅まで、十九時間三十五分の旅の始まりである〉

列車番号の「1」は、まさに名列車の証しといえた。「さくら」の歴史は古く、1929(昭和4)年に登場した東京—下関間の特急列車に遡る。日本で初めて列車に付けられた愛称(当時は「櫻」)であった。

その後、東京—長崎・佐世保間の寝台特急となり、一時は空前のブルートレインブームを巻き起こしたが、東京—九州間のシェアは完全に飛行機に奪われ、2005(平成17)年、惜しまれつつ廃止となった。

サン毎記者が乗り込んだのは、最上級の個室寝台。とはいえ、オリエント急行など海外の豪華列車の快適さには遠く及ばず、〈マイ・コンパートメント。とても、ゆったりとくつろげる空間ではない。広さは畳一枚だろうか。あくまで合理的で、そしてせせこましい日本の部屋。赤字の重さに押しひしがれそうな国鉄が、ゆっくり旅行をしながら、しかもプライバシーを大切にしたい人のために、ハイ、これがギリギリでございますと差出したのが、この部屋である〉と皮肉を書き連ねているが、総額1万590円の旅は、庶民には高嶺の花であった。当時の高卒国家公務員の初任給は約3万2000円。「さくら」で往復するだけで、月給がほぼ吹っ飛ぶ料金だったのだから。

個室の割に狭かろうが、窓の外とは明らかに別世界であった。

〈東京駅の内外をせかせかと歩きまわる人々の動作が、透視鏡の向こうの世界のように、信じられないほど遠いものに見え始めた〉

折悪しく、翌日は空前の規模のストが予定され、「さくら」が走行する東海道本線が闘争拠点となっていた。

〈「どうか、不要不急のご旅行は、お見合わせ下さるよう、お願い申し上げます」〉

コロナ禍のようなアナウンスが繰り返し流れたが、サン毎記者は〈不要不急? 私の旅こそまさにそれだ。目的地の長崎には、べつに用事という用事はないのだ。途中でストに出くわすだろうか? 何時間、立往生させられるだろうか? だが、ストになってもよし、ならなくてもよし。もっとも厳密な意味での「不要不急の旅」である〉と開き直る。「用事がなければどこへ行ってもいけないと云うわけではない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」という名文でおなじみの、内田百閒の名作『阿呆列車』に通じる心境であろう。

▲「サンデー毎日」’71年6月13日号

老車掌の回想談

専務車掌の山下三郎さんが、古き良き時代の寝台列車の思い出を回想する。

〈「昔はね、一等寝台というのは、だれでも乗れるというもんじゃございませんでした。代議士さん、財閥のかた、よほどの資産家でないとね。ですから、お客様は自然に決まってきて、私など何人も、各界の名士といわれる方にお見知りをいただくようにもなりました」〉

山下さんは17歳でボーイとなり、以後、国鉄一筋33年の車掌人生を歩んできた。続いてはボーイ時代の話題に。

〈「一等寝台のお客様には、そりゃあサービスをいたしました。洋服のお召変えを手伝う、駅弁を買いに走る、お休みになってから履物をちゃんと磨いておく。お客様に、なんとか楽しい旅行をしていただきたい。そればかりに心を砕いておりました。ボーイの制度が廃止されてもう十三年になります。それまでは誠心誠意に尽くすかわりにチップもいただいた。それが、いつのまにか国鉄職員は公務員だ、公務員がチップを取るのはおかしいという堅苦しいことになりました。で、チップがなくなったかわりに、靴も磨かない、お使いにも走らない。旅が無味乾燥になってくる。いやはや……」〉

そんな山下さんの昔語りを聞き、サン毎記者は〈人生は旅。だとすると、私たちは忙しい旅をし、忙しい人生を生き、やがて忙しい死を死んでいくアニマルということか〉と感慨に耽るのだった。

列車はストの影響を受けることなく、深夜の大阪に到着。東海道本線から山陽本線に入り、朝日に照らされた瀬戸内の絶景区間を駆け抜ける。

〈オレンジ色の光の箭を瀬戸内海の上に放つ。矢の一本一本に射すくめられた島が一つ一つ、明るくなった東の空を背に浮かび上がる〉

食堂車も旅の楽しみの一つであった。

〈「おはようございます。ゆっくりお休みになれましたか」車掌さんが立ち止まって声をかける。こんなうれしいこと、ザマミロ、新幹線にはないだろう〉〈「この食堂、門司の日本食堂なんですよ。女の子たちはおととい長崎から東京へ行き、西へ折り返してきょうで四日間の勤務の終わりです。楽じゃない仕事ですよね。九州の娘だからこそ勤まるようなもんです」〉

車掌の話によると、食堂車の女の子と車掌が結ばれることが多いという。お互い、月のほとんどが車中という職場環境だけに、必然といえば必然だろう。

列車は霧のため、40分ほど遅れていた。車内には長崎港から五島列島へ渡る客が12人おり、「このままでは1時の船に間に合わない」とざわつきはじめた。この船を逃すと翌朝まで便はなく、〈「結婚式があるんだが、どげんかしてくれんの」〉と車掌に懇願する。

これに対し、車掌は〈「船のほうにも、少し待ってくれるよう、いま連絡をとっています」〉と回答。やがて〈「五島へおいでになるお客様に申し上げます。諫早駅から船に待ってくれるよう連絡を取っておきました。機関士も(船に間に合う)十三時十分前に着くよう頑張っております。改札口に一番近い二号車のデッキにお集まりください。急いで改札を出たら、すぐタクシーに便乗してください。船着場までは五分で行けるはずです」〉との車内放送が流れた。

今の時代、ここまで親切に対応してくれる車掌がいるだろうか。ボーイはいなくとも、こんな人情がまだ息づいていた時代だった。

13時ちょうど、45分遅れで長崎着。車掌に「楽しかったですか」と問われたサン毎記者はこう答えた。

〈「昔のように旅そのものを楽しむ時代は、もう終わったんでしょうかね。ぼく自身が、知らず知らずのうちに新幹線文化に飼育されてしまっているんでしょうか」〉

2015(平成27)年に「北斗星」が姿を消し、ブルートレインの歴史は終焉した。新幹線ばかりが路線網を拡大し、ローカル線のみならず並行在来線まで切り捨てられ、しかもコロナ禍で自由な旅もままならない時代を生きる私たちは、サン毎記者が味気ないと嘆いた半世紀前の汽車旅を羨むほかないようだ。

隠れた“日本の美”再発見旅行

旅行ネタをもうひとつ。「週刊現代」24日号で、全国各地の穴場的な観光スポットを紹介している。

最初に登場するのは、奈良県の十津川峡谷。十津川村は大和八木と新宮を結ぶ日本最長路線バス(所要時間は約6時間半)の途中にあり、新十津川町の母村としても知られている。明治22年、記録的な豪雨によって村が甚大な被害を受け、多くの村人が北の新天地に移住したのだった。また、西村京太郎のトラベルミステリーでおなじみの十津川警部は、この村が名前の由来だ。

〈緑にむせかえる山あいの細い道。そのかたわらを蛇行する十津川の渓谷〉〈上野池にある谷瀬の吊り橋は日本一長く(対岸まで297メートル)、下の十津川までは60メートルというスリル満点の景勝地だ〉

谷瀬の吊り橋は、かつて生活用の丸木橋を洪水のたびに流されてきた村人が、1戸あたり20〜30万円という大金を出し合って完成させたという逸話がある。橋が完成した昭和29年当時、教員の初任給が約7800円であったから、いかに安定した橋を欲していたかが分かる。

現在は日本最長の座は三島スカイウォーク(静岡県)に譲ったものの、秘境ムードは三島の比ではなく、その渓谷美は昔も今も変わらない。

北海道からは支笏湖と月寒の2ヵ所。

〈北海道の朝は、夏でも肌寒い。まして、早朝のもやを抜けて、湖上へ舟を漕ぎ出して釣るチップ(アイヌ語でヒメマスのこと)は、よほどの覚悟が必要だ。しかし、この時刻が釣果は絶好調。六月一日の解禁を待ちわびた釣り人たちは、寒さを忘れて押しかける。白い噴煙を上げる樽前山の麓、エゾ松、トド松の林が湖面に影を落とし、美しい自然の調和のなかでチップ釣りに夢中である〉

チップはサケ科の淡水魚。味は淡白で臭みがなく、漁期の6月から8月にかけ、生のチップ料理を味わうことができる。

支笏湖はアイヌ語の「シコッ」(大きな窪んだ池)が由来。秋田県の田沢湖に次ぐ深度を誇り、最北の不凍湖でもある。

早朝の支笏湖に対し、月寒は夕焼け。

〈羊ヶ丘展望台からみる月寒は広い。雄大な地平線はどこまでもつづき、ポプラ並木と羊の遊ぶ牧歌的な風景は、日本の土地であることを忘れさせる〉〈牧草地で放牧されていた羊たちが小屋に戻り始めると、夕日が落ちていく。そんなときが、一日のうちでいちばん美しい。“ツキサップ”のもつ音の響きが、ぴったりと感じられる一瞬である〉

月寒の地名は札幌市豊平区に残るが、1871(明治4)年の入植時から1943(昭和18)年までは「つきさっぷ」と呼ばれていた。

クラーク像が立つ羊ヶ丘展望台にはのどかな牧草地が広がるが、月寒地区はかなり都市化が進み、羊ヶ丘から望む風景は当時とはかなり趣が違っているだろう。

▲「週刊現代」’71年6月24日号

“世界の競馬”ベスト15

騎手が馬の顔を蹴る騒動がケチをつけたが、ばんえい競馬は売り上げが過去最高を更新と絶好調だ。ネット投票が主流になった今、ステイホームの娯楽にぴったりなのだろう。「週刊現代」17日号では、「世界の競馬」特集の中で、日本から唯一、ばんえい競馬の旭川競馬場が選ばれ、のんびりとした様子が紹介されている。

〈かつて北海道の農民は、自分の持ち馬の力くらべをするため、馬ソリに米俵などを積んで競走した。戦後、それは正式に競馬の一種目として認められ、馬券が売り出されるようになった〉〈近在の農家から集まったオヤジさんや若い衆が、弁当を広げ、頭に手ぬぐいをかぶり、ヤンヤのカッサイを送る。騎手は免許が必要だが、ほとんどが地元の農民で、「良作ガンバレ!」の声援を背にムチをあてる〉

かつて旭川のほか、岩見沢、北見、帯広の4場で開催されていたが、旭川は2006年度をもって撤退。現在は帯広のみで行われている。北海道遺産にも登録された世界でここだけの貴重な馬文化が、いつまでも継承されることを願いたい。

▲「週刊現代」’71年6月17日号

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