アーカイブスヘッダー

上場直前地方にある業績急伸会社の株の買い方【1972年8月】

 異常な水準の円安が多くの企業を圧迫し、ひいては未曽有の物価高を引き起こすなど、不穏な世界情勢の影響が日本経済にも波及している。こんな先が読めない状況では、株への投資意欲も削がれるに違いない。翻って半世紀前は、株式市場が空前の活況を呈していた。1972(昭和47)年8月31日号の「週刊現代」では、上場直前とされる全国の元気な地方企業にスポットを当てている。その後の明暗が分かれた北海道関連の3社をみていこう。

土着優良企業の点検報告

〈「いま株は、需要があるのに供給が不足しています。だから、旧ダウ平均が四千円の大台乗せというほど株価が高くなっているのです。買い手はたっぷりいる。だから証券会社としては、商品をそろえなくてはならないので、新規上場会社の発掘に血眼になっているわけです」〉
 そう嬉しい悲鳴をあげるのは大手証券会社の重役だ。証券マンの「モーレツ」な働きぶりが目に浮かぶ。みなが仕事に忙殺されながらも、未来に希望が持てる良き時代であった。

〈「株式上場を条件に中小企業投資育成会社という国と金融機関が共同でつくった最優良企業として、有利な融資を受けており、近く上場は必至」〉
 北海道新聞の経済記者がこう解説するのは、札幌のナカ工業。資本金4億円、従業員856名、年商34億7700万円とのデータが記されている。

〈社長の中博光氏が考案した建築金物の特許製品を中心に高度の技術が売りもの〉とあるが、その原点は札幌で開店した金物店「中博光商店」である。2022年はその中博光商店の誕生から90年の節目を迎えた。

 道新の記者も現代の記者も「上場は必至」「近々の上場はまちがいのないところ」などと断定的な見解を示しているが、鷲野忠正経理部長のコメントは〈「せっかく上場しても、上場後に問題を起こす会社も少なくないようなので、当社としても、悲観要素はまったくありませんが、慎重を期しているわけでして……」〉と、いささか歯切れが悪い。

 その後、同社は順調に発展を遂げ、海外支店を設けるまでの一流企業となったものの、現在も未上場のままである。いま振り返ってみると、過熱する上場待望論に釘を刺すような経理部長の物言いに、深い意味を感じずにいられない。記事では、「上場するだけの実力がありながら、控え目な発言」といったニュアンスで好意的にとらえているが、「上場しない」という確固たる戦略を貫徹してきた結果であろう。

▲「週刊現代」’72年8月31日号

続いて登場するのが不動産業の内外緑地だ。
〈「現在、資本金は一億円ですが、十月には十倍増資で十億円にします。また、四年後の五十一年には、倍額増資で二十億円にします。株の上場は、株価が額面の三十倍から五十倍になると予測できる時点を考えています」〉と、景気のいい話ばかりを強調する斎藤尚也総務課長の言葉通り、名物社長の松坂有祐氏は所得番付の常連になるなど、同社はイケイケドンドンの快進撃を続けていた。

〈急伸の秘密は、創立当時(昭和三十五年)に買い入れておいた土地の急騰だそうだが、それで得た資金力をバックに、従来の一般住宅主体の営業から、大口取引を加えた多角化を図るという〉
 多角化経営は諸刃の剣という側面もある。この特集の2年後、内外緑地はユー・アンド・アイ・マツザカに商号変更し、その2年後の1976(昭和51)年、はやくも事実上の経営破綻に追い込まれた。
 急伸ぶりが群を抜いていた半面、急落ぶりも劇的だった。1960(昭和35)年の創業から、ジェットコースターのような社歴といえるが、人々の記憶に強烈な印象を残したことは確かだろう。

 3社目は建設資材のクワザワ。
〈資本金二億円、従業員四百名、四十七年売り上げ百三十八億円。クワザワも東京商工興信所の札幌支部が「七十五点という高い評点をつけられる地方企業としては珍しい存在です。将来性は抜群」と保証する優良急伸会社だ〉

 クワザワに関する記述はこれだけで、あっさりしすぎている感はあるが、ご存知のとおり、同社は押しも押されもせぬトップ企業に成長した。
 同社の歴史は、1933(昭和8)年に創業者の桑沢清氏がタイル・煉瓦問屋を開いたのが始まり。1973(昭和48)年に札証、2018(平成30)年に東証2部、翌年に東証1部に上場。そして今年、話題の東証スタンダード市場への上場も実現した。
 疲弊する日本経済が活気を取り戻すには、地方企業の奮闘が欠かせない。ニトリに続くような、世界へ雄飛する北海道発の企業が誕生してほしいと思う。

“原爆スラム”二十八年目の夏

 終戦から77年――。悲惨な太平洋戦争の記憶は風化しつつあるが、今年はウクライナの悲劇が戦争の恐怖を改めて世界中に知らしめることとなった。
「週刊新潮」19日号が、まだ原爆の傷跡が生々しく残るなか、明るい未来に向けて生まれ変わろうとしている広島の現状を伝えている。

〈ようやく焼跡のバラックの背後に、超高層のアパートが建ち始めた。ここは広島の爆心地付近。通称“原爆スラム”の衣替えが、ただ今進行中なのである〉
 アジアの貧困地区を彷彿とさせるバラックで、「はだしのゲン」の世界から飛び出てきたような裸の子どもたちが天真爛漫な笑顔をみせている写真は、まだ本当の「戦後」が訪れていない現実を物語る。
〈迷路のような細い路地をたどる。草ボウボウの空地を走り回るハダカの子どもたち……ここにはナマナマしい“戦後のニオイ”が今でも漂っている〉

▲「週刊新潮」’72年8月19日号

 原爆ドームに隣接するこの地区には、終戦まで旧陸軍の施設があった。その跡地に数キロにわたって軒を連ねるバラックが「原爆スラム」と呼ばれるエリアだ。
〈市と県とが約二百億円の事業費でこの地区の再開発に乗り出したのが四年前。すでに第一陣の高層アパートが完成し、続いて総計四千五百戸分の“大団地”が建設されることになった〉

 バラックと高層ビルのコントラストは、広島の転換期を象徴しているかのようだ。ビルの設計事務所は〈「地方自治体がここまで住宅政策をガンバった例はない、都市の総合的再開発としては最先端を行くプランと自負しています」〉と胸を張る。竣工は3年後、つまり被爆から30年もの歳月を要して、ようやくバラックは消滅するわけだが、なかには〈「今まではタダで住んどった。キレイになるのは結構だけど、これからは金を取られるんでねえ……」〉と嘆くバラックの住人も。バラックはお世辞にも快適とはいえないが、苦楽を共にしてきたご近所さんとの濃密な人間関係など、少なからず未練もあったに違いない。
 この夏は否応なしに平和の尊さを考える終戦記念日となりそうだが、狂気の独裁者が核のボタンを押し、ウクライナが「第二の広島」とならないよう祈るばかりである。

全日空をおどした少年

 今年4月に少年法が改正され議論を呼んでいる。少年犯罪の減少につながることが期待されるが、早晩、新たな問題も顕在化するに違いない。
「週刊新潮」5日号では、岩見沢の中学2年生が起こした仰天事件を伝えている。

 事件の発端は、7月16日の午後1時、全日空千歳空港支所にかかってきた1本の脅迫電話だった。その内容は〈「午後零時四十五分羽田発千歳行全日空六十一便に爆弾を仕掛けた」〉というもので、当初はイタズラ電話と思っていたのだが、その後、9回にわたって執拗に電話が。しかも、〈電話のたびに声が変わり、逆探知を恐れて、十五秒から二十秒で切るという悪質さ〉だったことから、警察に通報する事態になったのだが、犯行は悪質ではあっても稚拙に過ぎた。
〈妙なことに、最初は「一千万円出せ」という型どおりのものだったが、そのうち「精巧なプラモデルが欲しい」と言い出した〉

 こうなると、警察にとってもはや手強い相手ではなく、引き延ばし作戦により逆探知に成功。最後のやり取りとなった9回目の電話では、〈プラモデルの届け先として「正直に」自分の住所氏名を名乗った〉というお粗末さで、あっけなく御用となったのである。案の定、犯人は中学2年、14歳の2人組であった。

▲「週刊新潮」’72年8月5日号

 いかに未成年者であろうと、問題の全日空機には大幅な遅延が生じており、イタズラで済まされる話ではない。2人はハイジャック防止法違反、恐喝未遂で書類送検されることとなった。
 動機が「プラモデル」ということから、中学生の出来心とも受け取られそうだが、2人とも地元では有名な札付きのワルだった。6月に事務所荒らしをやらかし、5日前に補導されたばかり。この事件を担当した岩見沢署の係官はショックを隠せず、〈「少年の性格もさることながら、家庭も欠損家庭でねえ」〉と嘆息した。
 A少年は、母ひとり子ひとりの母子家庭。母親は電話交換手の仕事をしており、経済的には安定していたものの、一緒に過ごせる時間が少なかったことへの負い目からか、過保護ぶりが目に余っていたという。

 B少年もまた母子家庭だったが、母親は失業中で生活保護に頼っていた。
〈二十八歳の母親が、九歳の女の子を頭に、この七月に生れたばかりの乳飲み子まで五人の実子を抱え、逃げた夫と先妻の間にできたBが同居している〉
 かように複雑な家庭環境であり、唯一実子ではないBがグレても不思議ではないが、新聞配達で家計を助けるという感心な一面もあり、親子関係も決して不仲ではなかったという。
〈全日空は今回の事件で“見せしめ”として約百五十万円の損害賠償を請求する意向と報じられたが、この母子家庭の状況に二の足を踏んでいるらしい〉
 事件の顛末はわからないが、国民の多くが豊かさを享受する時代にあって、母子家庭の厳しい実情に目が向けられる契機となったようだ。

一円電車の里―明神電車

 今年は鉄道開業150年という節目の年で、各地でさまざまなイベントが開催されているが、兵庫県養父市大屋町の明延鉱山跡にある観光鉄道もファンや家族連れなどで賑わいをみせている。1985(昭和60)年まで健在だったこの鉄道、運賃が正真正銘の「1円」という変わり種電車として全国に知られる存在だった。「週刊現代」17日号が、当時はまだそれほどファンが訪れていなかった「一円電車」の魅力を紹介している。

〈D51が消えていく。チンチン電車も消えていく。みんな赤字のためという。懐かしい旅情が消えていくこんなせちがらい世の中に、なんと“一円電車”が走っていると聞けば驚かないのが不思議というもの〉
 明延と神子畑を結ぶ明神電車は、1929(昭和4)年に運行を開始。本来は鉱石運搬のための鉄道だったが、やがて鉱山労働者と家族の生活路線の役割も担うこととなり、人間も乗せるようになったのである。一応、「関係者以外乗車禁止」と表示していたものの、厳密に部外者を拒否していたわけではないようだ。

▲「週刊現代」’72年8月17日号

 全長14㌔に30分以上も要した。スピードが遅いうえ、〈年中途中下車の連続。従業員が作業場で点々と乗り降りする〉からだった。
〈一円切符を作るのに四円かかり、乗車料金の合計が月五〇〇円で経費が月五〇万円。おかげでこの電車も何度か廃線のうきめにあいかけたが、「なんとかなくさないで」という土地の声に救われてきた。元禄時代の農村歌舞伎の舞台をいまなお残す土地柄に救われたのだろう〉
 時代の流れには抗えず、惜しまれて廃線となったが、観光鉄道として復活したのは喜ばしい。現在、乗車料金は大人300円だが、子どもは「1円」の伝統を守っている。

二枚目スターの旅公演

 前号で函館と石狩の旅をそれぞれ楽しんだ、天地真理と十朱幸代を紹介した「週刊文春」の連載企画「風の吹くまま」。8月も北海道人気は根強く、14日号では、帯広と釧路で公演(記事で確認できるのは2都市のみ)を行った宝田明の舞台裏に密着している。
〈いささかトウが立ったが、いぜんとして“天下の二枚目”と思われている宝田明が、登場人物わずかに八人、舞台装置あってなきがごとしという小ミュージカルの連続公演をスタートして一年三カ月たった。大劇場のミュージカルでも主役になれる男がなぜ? と思ったら「純手づくりのものはなにせ実にやりがいがあって」とのことであった〉

 当時37歳。役者として脂の乗り切った時期であり、「いささかトウが立った」「天下の二枚目と思われている」といった表現は失礼との印象を禁じ得ないが、小舞台への傾倒は何か心境の変化があったのかもしれない。長期にわたる地方巡業のひとつが釧路で、同伴した元ミスユニバースの夫人と2人の子どもと一緒に、特急「おおぞら」の食堂車でリラックスした表情をみせる写真がトップページを飾っている。別のページには、自ら舞台衣装にアイロンをかける様子も。心から手弁当の小舞台にやりがいを感じていることが伝わってくる。

▲「週刊文春」’72年8月14日号

「手づくりの味」と題した手記でも、〈東京の渋谷で幕をあけて以来、この手づくりの小品をぜひ地方にも持って行きたいと思っていた。舞台組みと言っても、小さな古ぼけた幕一枚と鉄のポール四本だけ。アイロン掛けから小道具づくりまで全部自分たちの手でやる。北海道の自然と澄んだ空気のなかで、このちっちゃなミュージカルが可愛らしく根を下ろし、そして育っていくのを、私はどこまでも見守ってやりたいと思っている〉と、思いの丈を吐露している。

 ミュージカルを愛し続けた名優は、今年3月、来年のデビュー70周年を前に87歳で急逝した。12歳まで満州で育ち、終戦直後、侵攻してきたソ連軍の銃弾を受け、生死の境をさまよった経験を持つ。生前、「残忍なソ連軍の恐怖は忘れられない」と話していた。冥界でウクライナの平和を願っているに違いない。

過疎地北から南から全国14選

 地方の疲弊は、高度成長に沸く半世紀前の時点ですでに顕在化していたようだ。「週刊現代」3日号では、夏のレジャーにおすすめの「過疎地」を全国から14ヵ所ピックアップしている。
〈若い労働力の都会への流出、産業の貧困、その結果としての過疎地の発生――現在の日本がかかえる深刻な課題を、自治省はこの六月に「過疎白書」という形でまとめた。そこには過疎地のよみがえる道として、観光開発があげられている〉

 国は観光開発を勧めているものの、資金援助を確約したわけではなく、過疎地の立場からすれば、まさに「言うは易く行うは難し」との思いだろう。中途半端に開発を進めるくらいなら、逆に「何もない」ことがセールスポイントとなるケースも少なくない。ここで取り上げている14の場所も、なにより素朴さが魅力といえる。

 まずは東京の秘境「檜原村」からみていこう。
〈いまは使われることがなくなった消防小屋。わきを流れる小川は“ふるさとの旅情”を感じさせてくれる〉と短い説明があるが、現在の檜原村は、払沢の滝や数馬の湯など見どころも多く、自然豊かな都民の憩いの地として人気を集めている。JR武蔵五日市駅からバス便があり、人口わずか2057人(22年6月1日現在)の寒村とはいえ、都心からのアクセスは悪くない。身の丈に合った観光政策が、それなりに成功した事例といえよう。

▲「週刊現代」’72年8月3日号

 通称「廃村八丁」というちょっと不気味な地名の舞台は、意外にも、雅やかな古都のイメージが強い京都府右京区だ。昭和初期、あまりに辺陬な山間の地に見切りをつけ、全戸が離村したことで廃村と化したとされる。
〈数年前までは五万分の一の地図にも地名が残っていたが、いまはその地名すら消滅してしまった。現在はこの廃村の奇妙な風景を求めた、ハイカーの野営地になっている〉
 現在の正式な住所は右京区京北上弓削町八丁で、アクセスは「菅原」停留所から徒歩2時間半。こちらは正真正銘の秘境だが、地元では有名な散策コースになっているようだ。

 過疎地には事欠かないと思われる北海道からは、丸瀬布町(現・遠軽町)が選ばれている。
〈蒸気機関車マニアにはおなじみの石北本線沿線にある丸瀬布町は、北見鉱山の閉鎖とともに急速に過疎化が進んできた。それとともに町では直ちに過疎対策に取り組み、その名も“緑の工場”と銘打って、植林から牧場、育苗園、ヤマベの養殖など大々的な地域開発に乗り出した。この開発計画は、まだ完成途上ではあるが、周囲の北海道独特の原野や赤字覚悟で走らせているD51は、暗い過疎のイメージをふきとばすほど新鮮な旅情を感じさせてくれる〉

 常紋峠はSLの撮影名所で、全国からファンが集まっていた。石北線のSLは1975(昭和50)年に姿を消したが、丸瀬布森林公園いこいの森では、かつて森林鉄道で活躍したミニSL「雨宮21号」が動態保存され、北海道遺産にもなり人気を集めている。