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北海道・酪農青年と浪花女

 昔も今も農村の嫁不足は頭の痛い問題だ。後継者不在が理由で離農を余儀なくされるケースもあるのだが、なにせ男女間のデリケートな話であり、これといった解決策が見つからないのが現実である。1976(昭和51)年7月8日号の「週刊新潮」では、町を挙げて取り組んだ「お見合い大作戦」が実を結び、めでたく結婚に至った別海町のケースを紹介している。大阪出身の新婦は、どんな思いで遠く離れた北海道に嫁いだのだろうか――。

集団見合の第一号カップル

▲「週刊新潮」’76年7月8日号

 当時の別海町は人口約1万8千人。主要産業である酪農以外にめぼしい働き口はなく、高校を卒業した若者の多くが札幌や東京を目指して町を離れてしまう状況で、特に女性はその傾向が顕著だった。

〈とにかく北海道の農家にとって、「跡取り息子の嫁探し」は深刻な問題らしい。「ツライ」畑仕事を見て育った農家の娘たちは、中・高校を卒業すると、その多くが都会に働きに出てしまう。北海道庁の調査では「道全体で八千人」からの青年が、花嫁不足で泣いているという。そればかりか、後継者に花嫁が決まらないため離農する一家も少なくない〉

 こうした現状に危機感を抱いた道庁では、「農村花嫁推進協議会」が発足。同協議会の指導のもと、各市町村に「対策本部」が置かれ、さまざまな取り組みが進められることになったのである。「対策本部」とは大仰な気もするが、別海町の場合は「農漁村後継者結婚相談所」を設け、年間約100万円を計上した予算を活用し、この年の3月に大阪で「集団見合い」を実施したのだった。道庁の担当者はこう語る。

〈「“特効薬”というのはないんですよ。集団見合などで交流の場をつくるのが一つの手。そのほか、本庁では、美しい季節をネラって女性誌などに、“北海道の広い大地で暮らしませんか”といった広告を出すんです。年間五百人ぐらいの応募者があり、それを各市町村に紹介します」〉

 ただ、集団見合や雑誌を使ったイメージ戦略は、それなりの効果はあるものの、トントン拍子に話がまとまるものではない。1年くらい交際を重ねたうえで結納を、という流れになるのだが、ゴール直前になって急に破談になるケースが少なくないのだという。都会育ちの女性が北海道の農村へ嫁ぐのは、かなりの勇気と覚悟がいることであり、その現実がちらつき始めた途端、不安になる気持ちは理解できなくもない。

 そうした過去の苦い教訓があったなか、別海町の2人は、3月の初顔合わせから、わずか3ヵ月余りのスピード婚。関係者は喜びと同時に、驚きも大きかったようだ。
〈新郎は、戦前から酪農を営む佐藤甚之助さん(61)の長男順一君(29)。新婦は、大阪生まれのOL帆苅文子さん(19)。同町が大阪で主催した“浪花女”との集団見合をキッカケに、早くも結ばれたカップルの第一号である〉

 別海町が開催した大阪でのお見合い企画は2度目だった。快活なイメージがある大阪女性と、朴訥なイメージがある農村青年は、正反対なキャラゆえ逆に好相性という気がする。

 新郎新婦のプロフィールをみていこう。
〈彼は、地元の中春別中学の出身。卒業後しばらくは家業を継ぐ気もなく、大工や看板屋の手伝いをしていたが、あるとき、一念発起して札幌の『農業開発機械隊』に入り、ここで一年、農業機械の勉強を積んで、昭和四十五年から本格的に家の仕事を手伝い始めた。大阪での集団見合に参加したのは、役場の担当者から積極的に勧められたこともあるが、「大都会へ行って自分の生活を見直したかった」から。それほど花嫁探しに真剣だったわけではないようだが、見合の席で、帆苅さんの「明るさ」に、すっかりまいってしまったらしい〉

〈一方、帆苅さんは、生粋の浪花っ子。サラリーマンの家庭に生まれ、弟が一人。大阪の中学を卒業後、一時、看護婦学校に身を置き、その後は市内の「第一印刷出版」にOLとして勤務。まったく農業には縁がない。「新聞を見て面白そうやと思って応募したんや」と、いささかヒヤカシ気分での参加だったらしいが、こちらも相手に一目ボレ〉

 相思相愛だったのだから、カップル成立は自然の成り行きといえた。ただ、入れ込んでいたのは彼女のほうで、いまなら「炎上」しそうなこんなエピソードも。
〈以来、それまで付き合っていたボーイフレンド(神戸大生)をソデにして佐藤君にモーレツ・アタック〉
 恋愛の自由といえばそれまでだが、ぽっと現れた農村青年に彼女を奪われた彼氏は気の毒だ。

〈五月半ばには彼の実家に入って「実習」を積み、めでたくゴールインにこぎつけた。「帆苅さんが佐藤君をリードした感じでした」とな、仲人の佐野豊助役である〉

 当初、彼女の両親は結婚に反対していた。別海という北海道の辺境の地名は、異国の響きを持っていたに違いない。
 佐藤家は約62㌶の土地に74頭の牛を飼育する、町内では裕福な部類に入る牧場だった。彼女の出身地を意識したのか、記事では牧場の広さを「甲子園球場の約12倍」と例えているのが面白い。

〈彼女は朝も暗いうちから起き出して、慣れぬ乳しぼりなどに精を出しているが、ケロッとして「こっちのほうが人間もええし、広々としてて気持ちがええわ。彼は誠実やし……」〉

 酪農を取り巻く環境も厳しさを増しているが、その後も夫婦が幸せに暮らしていることを願いたい。
 農村の嫁探しについては、マッチングアプリが主流となっている令和の世も、存外、お見合いのようなアナログな手法のほうがうまくいくように思うのだが。

国鉄ローカル大作戦

▲「サンデー毎日」’76年7月18日号

 半世紀前の夏休みは、国鉄を使って旅するのが一般的で、人気列車の指定席を確保するのが大変だった。「サンデー毎日」18日号では、鉄道ファンにはおなじみの種村直樹氏が、ちょっとマニアックな全国の鉄道旅を紹介しており、北海道に多くのスペースを割いている。

〈百円稼ぐのに三八五九円も経費がかる全国ワースト1の美幸線にヘンな人気が出た。地元の美深町が町をあげて“美幸線松山湿原めぐり”を盛り上げることになったのだ〉

「ヘンな人気」のきっかけは、不名誉ながら「日本一」の称号を手にしたからだ。この年に発表された赤字線ワースト10をみると、1位の美幸線(美深―仁宇布、21・3㌔)のほか、2位に深名線(深川―名寄、121・8㌔)、6位に白糠線(白糠―北進、7・9㌔)と、北海道から3路線がランクインしている。
「美幸線祭り」と称した「美幸線松山湿原めぐり」の期間中は、1日2往復の臨時列車が運転されることに。地元では、まちの魅力を全国に売り込むチャンスとばかりに、えらい張り切りようだった。

〈仁宇布駅前広場には町の料飲組合が青空飲食店を開き、ジンギスカン鍋と天竜沼へ持っていく山菜弁当のセットを千円でサービス。役場のマイクロバスは駅と天竜沼間の輸送を引き受け、自然保護シリーズ記念切手を持って移動郵便車も現れる予定だ〉〈美幸線開通の日に発表された「美幸線の歌」が役場企画課の引き出しから発見されて、婦人会では歌詞入りの手ぬぐいを発注。急ぎ製作中の“通行手形”や郷土民芸品とともに売り出す〉

 当時、こうしたPR作戦の先頭に立っていたのが長谷部秀見町長だ。銀座の街頭に立ち3000枚もの切符を売り捌いたり、お見合い列車を企画したりと、いろいろとアイデアを凝らし、自ら汗を流し続けた。
 そんな努力の甲斐あって、〈幸福駅のブームには及びもつかないが、宗谷岬への旅のついでに途中下車、美幸線の乗り心地をためしたり、仁宇布駅で記念撮影する若者も現れている〉と、「日本一の赤字線」の知名度は着実に高まっていた。

 とはいえ、〈終点の仁宇布で降りてみても、日ごろはジャガイモ畑が広がるだけで、なにもない〉という過疎地帯。1964年の開業からわずか20年余り、1985年に廃止されてしまった。
 美幸線という名称の通り、当初は美深と北見枝幸を結ぶ計画だったのだが、仁宇布から先の56㌔は完成することなく「未成線」のまま消えていったのである。ただ、もし全線が開通していたとしても廃止は免れなかっただろうし、中途半端な仁宇布が終着駅となったおかげで、いっときだけでも「日本一」で脚光を浴びることができたともいえよう。

 特集記事では、このほか日本最北端の稚内駅と、最東端の東根室駅も紹介しているが、後者は2025年3月に廃駅となり、前者も稚内―名寄間は「黄線区」のひとつに数えられ、存続が危ぶまれている。スカスカになった(「黄線区」と新幹線の並行在来線が廃止されれば、ほぼ真っ白に)北海道の鉄道路線図をみて、北の鉄道旅をこよなく愛していた種村氏は何を思うだろうか。

 毎日新聞から独立した種村氏は、「レイルウェイライター」の肩書を名乗り、2014年に亡くなるまで数多くの著書を残した。いま、六角精児氏の代名詞となっている「飲み鉄」のパイオニアでもある。

女幽霊が特急を止めた

▲「週刊現代」’76年7月29日号

 夏になると怪談特集が組まれるのは昔も今も変わらないが、「週刊現代」29日号で紹介されている苫小牧の話題は、かなり信憑性が高いといえる。その事件が起きたのは、5月5日の夜11時頃、室蘭線の苫小牧―糸井間にある有珠川鉄橋の近くだった。

〈上り臨時特急の「北斗51号」が鉄橋の手前百㍍地点にさしかかったとき、遠藤実運転士は上下線の間に若い女性が列車に向かって両足を広げ、すわり込んでいるのを発見した〉
 すぐに急ブレーキをかけたものの、時速80㌔の特急であるから、すぐには停まれない。遠藤運転士は轢いてしまったと思い、苫小牧駅に無線連絡した。運転士に落ち度はない不可抗力の事故とはいえ、暗澹たる気持ちになったであろう。

〈すぐあとに現場を通過する下り貨物列車にも発煙筒をたいて知らせた。そして、車掌とともに轢いたと思われる地点に急行し、轢死体を捜したが見つからない。そこで、不審に思いつつも約十五分の停車で出発した〉
 わずか15分で運転を再開しているところに「昭和」を感じる。いまなら数時間は不通になる事案であろう。ともあれ、現場の捜索は苫小牧署の係員と鉄道公安官に委ねられることとなった。

 しかし、遅い時間ということもあったが、目撃者は皆無で、まったく手がかりがつかめない。苫小牧署の刑事が〈「いくら運転士が見たといっても、血痕も目撃者も発見できないのだから、幻覚としか言いようがない。ま、相手が幽霊のようだから捜査のしようもないですわな」〉と匙を投げる始末だった。

 ただ、運転士の証言は信頼に足るとして、鉄道公安室はこの顛末を公式な記録に残したという。桜田幸一公安主任はこう話す。
〈「人一倍視力のいい特急運転士が『見た』といって列車までとめているんですから、見たのは事実でしょう。それも『靴ははいておらず、顔は丸顔で色白の美人。年齢は二十二から二十六歳ぐらい。服装はオレンジ色のチェックのツーピース』ときわめて詳細な報告をしていますからね。幻覚を見るほど疲労もしていなかったのだし……」〉

 事件は迷宮入りかと思いきや、その後、新たな展開があった。運転士と同じ場所で、若い女性を見たという人が現れたのだ。菅藤ヨシノさん(53)。ふだんは市内のビール園に勤務しているが、尼僧の資格を持つというから、見えざるをものが見えても不思議ではない。以下、彼女の証言である。

〈「線路沿いに歩いていたら、背中に冷たい水をかぶったような感じになったのです。驚いて振り返ると、線路の間の暗闇にボーっと淡い光が見えるのです。徐々に丸顔の若い女性の顔にかたどられ、そこだけが青白い薄い光にふちどられてきたんです。なにかあるなと直感したので、その顔の方に合掌してすぐ法華経の念仏を唱えました。約十分後、一心に唱えて目をあけると、その顔がほほえむのです。迷える霊だと思いましたので、『他人に迷惑をかけないようにね』というと、その女性は悲しそうな表情になり『ありがとうございました』と小さい声でつぶやいて、スーッと消えていきました……」〉

 結局、遺体は見つからずじまいだったようだが、この年の元日、現場付近で若い女性が事故死とも自殺ともわからない状態で亡くなっていたことが明らかになり、幽霊の目撃談が数件あったという。尼僧との出会いで、成仏できたに違いない。

「労組」で悟りをひらく坊主

▲「週刊新潮」’76年7月15日号

 ドロドロした金銭欲とは最も遠い存在の聖職、というイメージがある僧侶だが、必ずしもそうとは限らないようだ。全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」15日号の「新聞閲覧室」から、札幌の寺院で起きたカネを巡る騒動をみていこう。ネタ元は「北海タイムス」。

〈労働条件の改善などで労使が対立していた札幌市の宗教法人『浄土真宗本願寺派(西本願寺)札幌別院』の労使紛争は、道地労委のあっせんにより、「寺院側は今後、組合と誠意ある協議をする」などの内容で和解が成立した〉

 まず、お寺の世界で「労使」というワードに違和感を禁じ得ない。異例といえる労働組合が誕生したのは、この2年前、給与体系の変更に伴い、一般僧侶が20%以上の減収となったことがきっかけだった。
〈このため、昨年三月、『札幌一般労組西本願寺支部』(組合員五人)を結成、組合活動を始めた〉

 ところが、寺院側はこうした動きに反発し、圧力をかけてきた。
〈檀家役員会で「組合員の檀家回りを拒否してほしい」と申し入れ、団体交渉を拒否するなどの挙に出
た。さらに執行委員らに組合脱退を勧告するなどしたため、組合側は道地労委に対し、不当労働行為の申立てをしたのだった〉

 檀家をも巻き込んだこの“お家騒動”、和解内容をみれば、組合側の勝利といえるだろう。ただ、寺院側は「団交には応ずる」「組合活動を尊重する」と譲歩しただけで、要望をすべて受け入れると約束したわけではなかった。
 組合側は〈各僧侶が月忌参りのお布施とは別に足代として檀家から受け取る“志”をそれぞれの収入にする〉〈越冬手当や檀家回りに使うバイクの任意保険金を請求する〉といったことを求めていた。

 昨今は生活スタイルの変化と節約志向の高まりを受け、檀家や葬儀・法要などが激減しており、寺院の経営も厳しさを増しているという。「坊主丸儲け」なんて言葉は、昔の話となったようだ。僧侶とて世間なみの“賃上げ”は必要だろうから、頭の痛い問題に違いない。

 とはいえ、重税に苦吟する庶民からすれば、さまざまなトラブルが報じられている怪しげな新興宗教も含め、税制面で優遇を受けている宗教法人が羨ましい、との本音があることも事実だ。

わが恋人アンナ

▲「週刊文春」’76年7月8日号

 焼却炉への死体遺棄という凄惨な事件で全国的に注目を集めている旭山動物園だが、他のスタッフにも動物にも罪はなく、GW期間中の客入りが順調だったのはなによりだ。「週刊文春」8日号では、その旭山動物園にやってきた、かわいいエスキモー犬「アンナ」の話題を取り上げている。

 飼い主は、あの伝説の冒険家・植村直己氏。「アンナ」は北極圏(グリーンランド西海岸)で、欠かせないパートナーだった。まずは植村氏のメッセージからみていこう。

〈出発地点のヤコブスハウンで、エスキモーから買った12頭のイヌチームの中で、紅一点の存在であったアンナ。「アンナ」とは、エスキモー語の女性名詞である。彼女は、一番小柄だったが、不仲のオスイヌたちを取りまとめてもらうリーダー犬にバッテキした。他の犬をリードし、私の命綱となり、極寒の中、見事に難事を突破し、食糧が欠乏し疲労凍死していく同胞を前に、最後までリーダー犬としてソリを引いてくれた〉

 植村氏が、いかに「アンナ」を信頼していたかがわかる。本来は現地に残して帰国するところ、〈極地に住むアンナには、日本は決して安住の地ではないかもしれないと思ったけれど、わが命の恩人であるアンナを、手ばなすことができず連れ帰った〉のである。

 動物園では、同じエスキモー犬の「イヌートソワ2号」と同居することとなった。写真をみると、植村氏と2頭のまわりに子どもたちが集まっているが、いかにも素朴な印象で時代を感じさせる。まだ開園9年目で、のどかな雰囲気の動物園が、斬新な展示方法で人気を博すのは、だいぶ先の話であり、とても同じ場所とは思えない。

〈北極圏からムシムシした東京へ来たかと思うと今度は涼しい北海道へと、あまりの環境の変化にさぞかしアンナはビックリしていることだろう。近々、オメデタ予定のアンナ。さすがに植村氏との別離が悲しいのか、しきりに甘えていた。なお植村氏の手記は小社より8月末に刊行の予定〉

 書籍のPRも兼ねたグラビア記事だったわけだが、植村氏は優れた文筆家でもあった。
 この2頭のほか、もう2頭がおびひろ動物園に預けられ、後年、「アンナ」はたくさんの孫らとともに同園へ移った。1986年7月に寿命を全うするまで幸せな余生を送ったが、その2年前、植村氏がアラスカ・マッキンリーで消息を絶ってしまったのが切ない。