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暴行サッカー部員にケッとばされた〝甲子園の夢〟【1971年4月】

オリンピック開催を揺るがせているコロナ禍は、高校球児たちが憧れの甲子園のグラウンドに立つ夢を奪った。今春のセンバツは、有観客での開催が予定されているが、感染再拡大により、再度の中止という悪夢とならないことを祈るばかりだ。1971(昭和46)年4月12日号の「週刊文春」では、在校生の不祥事のため、甲子園へ向かう途中で出場辞退処分が決まった名門・北海高校野球部の悲劇を伝えている。連帯責任の是非は現在も議論されるテーマだが、甲子園の夢が直前に潰え、涙に暮れる球児たちには同情を禁じ得ない。

行きはよいよい帰りは涙

〈「青森に青函連絡船が着いてもぼくたちはおろしてもらえなかったんです。監督さんだけが、記者会見に行って、戻ってくるころには、ほかのお客さんはみんな降りちゃって、ぼくらは船室にとり残されていました。ヘンだな、どうしたんだろうと思っていると、学校の暴力事件で、ぼくたちはこのまま札幌へ帰る、って監督さんがいうんです。最初はウソだと思った。あんまりおもしろくない冗談だな、と思って監督を見ると、泣いているでしょう。あっ、ほんとなんだな、ってわかると、急に泣きたくなっちゃったんです」〉
そう証言するのは、野球部キャプテンの森一峰君(2年)だ。最初は涙を堪えていたものの、号泣する1年生の姿を見て、もらい泣きしてしまったという。素振りをしたり、作戦会議をしたり、賑やかだった往路の船旅とは対照的に、復路はお通夜のような重苦しい空気に包まれた。
〈「帰りはみんなじっと黙ったきり寝てました。ずっとしゃくりあげている子もいて、眠れなかった。おなじ四時間でも帰りは長かった」〉
 野球部を巻き添えにした事件とは、〈卒業式帰りの卒業生、M君が五人の下級生によびとめられ、路上で袋だたきにあった〉――というもの。M君は元サッカー部員で、加害者のうち3人も元部員だった。部活動でのシゴキを恨んで、暴行に及んだという。加勢した1人が空手部だったこともあり、M君は顎の骨を折るなど全治2ヵ月の重傷。翌日、M君の親からの訴えで学校に事件が伝わり、それを北海道新聞社会部が“スクープ”したのだった。なぜ道新だけが嗅ぎつけたのかは定かでない。
道新は選手たちが出発した日の夕刊で「北海高で集団リンチ」と七段抜きで報じ、学校側は難しい対応を迫られることとなった。
伊藤正造校長がこう嘆く。
〈「五人とも無期停学にしました。選抜辞退? 私はね、子どもたちを行かせてやりたい、それだけだったのです。辞退は考えませんでしたね。あんな事件は多いんだが、みんな仲間うちでおさめてましたよ。こんどのも、黙っていればすんだことなのに……」〉
野球部員を思っての発言だろうが、内輪で揉み消すのを是とする考え方は、前時代的との印象を禁じ得ない。また、「あんな事件は多い」というのが事実ならば、暴力沙汰は日常茶飯事だったわけで、これまた対策を講じてこなかった学校側に問題があろう。
学校側は穏便に済ませたかったようだが、北海道高校野球連盟は理事会で「辞退すべき」と即決した。そうなると北海高校も従わざるを得ず、〈「上野駅では生徒たちがかわいそう」(伊藤校長)〉との判断から、青森入港直前の連絡船の藤田英雄監督に電話を入れ、帰札を指示したのである。
しかし、伊藤校長はまだ諦めてはいなかった。翌日、大阪へ飛び、道高野連の上部組織である日本高校野球連盟の佐伯達夫会長と面会し、寛大な処置を訴えたが、佐伯会長の回答は「辞退しなければ、1年間の出場停止もありうる」という厳しいものだった。佐伯氏はこう主張する。
〈「選抜大会というのは、野球の大会とちがいまっせ。エデュケーション(教育)や。そりゃ野球部はかわいそうや。しかし学校全体がよくならんのでは、なにもならしませんでっしゃろ?」〉
札幌へ引き返した部員たちは憔悴しきっていた。私財を投じて応援してきた親御さんも多く、〈「三日というもの一峰の顔を見ることもできなかった」〉と、一峰さんの父親・孝二さんは涙ながらに語った。
 悲嘆だけではなく、なかには怒りの声も。
〈「選手はまったくのトバッチリじゃないか。学校全体が自粛ムードになる。それはいい。だけど選手の心に生れた穴ボコは、いったいだれが埋め合わせしてくれるのか。ただただ甲子園に行きたいばっかりに、懸命にやったのに」(高野良君の兄・章一さん)〉
結局、北海のかわりに出場した芦別工は近大付属に初戦で敗れた。「強豪・北海が出場していれば……」との声があったことも事実で、選手たちにすれば、夢の舞台に立つ嬉しさを感じた一方で、複雑な思いもあったろう。この夏、北海は春の雪辱を胸に見事、出場権を勝ち取った。試合は1回戦敗退だったものの、選手は当たり前に野球ができる喜びを嚙みしめたに違いない。

▲「週刊文春」’71年4月12日号

待遇抜群!地方の無名50社

コロナ禍は人々の働き方を大きく変える契機となったが、そのなかで地方のメリットが見直されたのは歓迎すべきことだろう。もっと早くに東京一極集中の弊害が真剣に議論されていればとも思うが、新しい価値観のウイズコロナ時代が地方に活気をもたらすことを期待したい。
「週刊現代」1日号では、まだまだ大企業への憧れが強かった70年代のモーレツ時代にあって、待遇面でひけを取らない地方企業50社を紹介している。この中から、北海道関連を中心にみていこう。
最初に登場するのが、高圧ガス、バスオール製造販売を主業としていた札幌のほくさんだ。当時の「賃金総覧」(東洋経済新報社)によると、全産業平均の大卒初任給は4万1329円。同社は4万3800円で、全国平均を上回る好待遇だった。資本金は7億5千万円、従業員数987人となっている。
〈福利厚生のモットーが“定年までに持ち家を、定年後は終身年金で”。年金額は実に四万円。そのほか、青年重役になると、月五千円もらえることになっている〉
同社の歴史は古く、前身の北海酸素は1929(昭和4)年の創業。当時は医療用酸素を供給できる会社は限られており、「人の命を救うため、そして北海道の産業を発展させるために酸素を」という壮大な理念を掲げてのスタートだった。同社のHPには、1972(昭和47)年の札幌冬季五輪で聖火を灯す写真が掲載されている。その後、業容を拡大し、2000(平成12)年からはエア・ウォーターと社名を変え現在に至る。
続いては、札幌の中道機械。詳述はないが、初任給は4万2千円クラスと記されている。
中道機械の前身である中道兄弟商店は1945(昭和20)年の創業。2009(平成21)年に民事再生法を申請し倒産したが、傘下の中道リースは堅実な経営で成長を続けている。
北海道の3社目は、1932(昭和7)年、札幌の大通西2丁目で創業した建築金物製造の中博光商店。中道機械と同じく初任給は4万2千円クラスで、資本金3億円、従業員数800人となっている。
〈六月と十二月のボーナスとは別に、三月と九月に業績賞与が出て、結局四回ボーナスがもらえるという〉
給与水準もさることながら、年4回のボーナスは魅力的だ。同社は創業40年の1972(昭和47)年にナカ工業と商号を変更。全国に支店や工場を設けており、同社の製品は数多くの受賞歴を誇る。
北海道関連は以上だが、意外な社名も散見される。初任給4万5千円クラスのグループに属するカルビー製菓は、あのスナック菓子で有名なカルビーだ。当時は資本金わずか4500万円、従業員数も800人に過ぎなかった。
前身は広島で1949(昭和24)年に創業した松尾糧食工業。6年後にカルビー製菓と社名を改め、1964(昭和39)年に発売した、かっぱえびせんが爆発的ヒットを記録し、急成長を遂げた。1973(昭和48)年に社名が現在のカルビーとなり、本社を東京に移転。ポテトチップスが発売されたのは、その2年後である。同社が使用するじゃがいもは北海道産が多く、いまや北海道にとって欠かせない企業といえる。
このほか、のちにメジャーになったところでは、長野県岡谷市の養命酒がある。初任給の記述はハッキリしないが、ここも4万5千円前後のようだ。授業員数は550人と少ないものの、資本金の10億円というのは破格といえるだろう。
同社HPによると、信州伊那の当主・塩澤宗閑翁が1602(慶長7)年に養命酒を創製したとのこと。塩澤家の末裔が、この養命酒を看板商品に会社を興したのが1923(大正12)年。年季が違う。養命酒は会社を長生きさせる効果もあったようだ。昨年は台湾に支店を開設するなど、グローバル展開を進めている。
また、〈結婚手当が三万円、死亡見舞金、本人十万円、妻五万円〉といった手厚い福利厚生も同社の特徴だった。
特集記事は〈なにも、東京の大阪のと、大企業ばかりに目を向けなくとも、空気もよく、交通地獄もない地方都市でのびのびと生活したほうが、“人間幸せ”ということにもなる〉と結んでいるが、この言葉は今の時代にそっくりそのまま当てはまる気がする。

▲「週刊現代」’71年4月1日号

新宿対品川、 東京のホテル合戦

深刻なコロナ禍によって、ホテル業界は甚大なダメージを負っている。あの帝国ホテルが、月額36万円のサブスクリプションを始めたのも、業界の窮状を象徴しているといえるだろう。「週刊新潮」17日号では、需要に供給が追い付かない元気な時代の東京ホテル事情を伝えている。
〈東京の西と東、新宿と品川に、巨大な白いマナ板がニョッキリ。ともにこの夏オープンする超高層ホテルだ。片や47階170メートルの京王プラザホテル、片や30階130メートルのホテルパシフィック〉
両ホテルとも客室数は約1000。前年春に新館をオープンした帝国ホテルには及ばないものの、国内最大級の規模を売り物にしていた。
〈「ホテルとしては世界一の高さ。展望室もございます」と新宿がPRすれば、品川も「こちらには大海原と大都会と二種類のパノラマが」……開業前からもう“合戦”の火花が散っている〉〈“合戦”は宴会セールスや航空会社と結んで外人団体を取るだけではない。既存のホテルから従業員を引っこ抜くのも“業界の常識”だ。新宿の京王プラザの高田副社長は前に帝国ホテルの専務だったし、そのほかにスカウト組が約六百人。たとえばレストラン支配人と料理長は東京ヒルトンから、宴会支配人はニューオータニから……〉
優秀な人材は引く手あまた。こうなると単に新宿vs品川という構図ではなく、“東京ホテル大戦争”の様相を呈していた。実際、大井町で阪急ホテル、銀座で第一ホテル、目白で椿山荘のオープンが控え、オークラは新館、ニューオータニは大増築を計画するなど、巨大ホテルの建設ラッシュが注目されていた。
〈運輸省の“ホテル白書”によれば、ホテルは絶対的に不足していて、昭和五十年までにこのくらいのホテルがあと十ほど建たないと宿泊需要がまかないきれない〉
これほど一気にホテルが増えて大丈夫なのか、というのは素人考えであり、オリンピックがピークではないことに、当時の日本の勢いを感じる。
 その後の京王プラザとホテルパシフィックは明暗が分かれた。京王プラザは現在も人気を集めているが、パシフィックのほうは老朽化に加え、近接する品川プリンスに敗れ、2010(平成22)年に閉鎖を余儀なくされた。
コロナ禍のいま、ホテル業界にとって頼みのオリンピックは開催自体が微妙なうえ、開催されたとしても無観客の可能性を否定できない。固定費がかさむ高層ホテルほどダメージが大きいだろう。インバウンドへの依存度が高い北海道は、東京以上に状況が厳しいともいえる。ひとまずはGoToが再開できるくらいに感染状況が落ち着くといいのだが――。

▲「週刊新潮」’71年4月17日号

オホーツク さいはての遅い春

例年は外国人観光客で賑わう流氷シーズンのオホーツク沿岸だが、コロナ禍の今年は、活気が氷海に吸い取られたかのように静かな風景が広がっている。ただ、インバウンドブーム以前の昔のオホーツクは、人を寄せ付けない自然の厳しさ、そして静けさも魅力のひとつであった。「週刊朝日」23日号では、そんなのどかな時代の、春を待つオホーツクの町を特集している。
〈例年1月から4月初めまで、流氷がオホーツク海を埋め尽くす。中でも知床付近は、氷がひしめきあいぶつかりあって、起伏の激しい大氷原になる。海岸線は激浪と海霧の浸食で作られた絶壁と奇岩の連続。歌で有名になるまでの知床は、さいはての秘境だった〉
写真をみると、一面の氷は圧巻の一言だ。ただ、地球温暖化の影響により、年々、流氷の規模は縮小している。筆者はピークとされる2月中旬に網走と紋別を訪れたことがあるのだが、いずれも流氷は影も形もみえなかった。
〈閉ざされた海面がゆるみ出し、流氷が岸を離れはじめると同時に、オホーツク沿岸に遅い春がやってくる。紋別港や網走港内では、恒例の氷切りが始まる。漁師たちが船の通れる幅だけ、のこぎりで水路をつける。氷がとけるまで待っていられない、じっとしていられないのだ〉
流氷が大幅に減った今は、そんな光景も珍しくなったに違いない。
〈冬の間、小樽港へ行っている網走海上保安部の巡視船「てんりゅう」も網走港へ帰ってきた。このところ、流氷もばい煙と近くにあるパルプ工場の廃液で黒く汚れている。公害はこんなところまで……〉
当時は「黒い流氷」が問題になっていたようだ。その後、この手の話は聞かないから、公害問題は改善されたのだろう。
オホーツクの春は恵みの春でもある。
〈4月に入るとオホーツク沿岸はウニの漁期を迎える。不振の沿岸漁業のなかでウニ漁は調子がいい。たくさんとれるし、収入もよい。まだ薄暗い早朝、小舟で氷を割りながら漁を始める。北海道のウニ漁は2月太平洋側の日高沖に始まり、3月に入るとノサップ岬、そして最後に知床、網走が漁期に入る〉
日本海の夏ウニもうまいが、太平洋・オホーツクの春ウニの風味も格別である。そして、オホーツクには伝統の文化であるクジラ漁があった。
〈オホーツク沖ではコイワシクジラがとれる漁期は5月から始まり、7月に最盛期を迎えるが、ミンク船と呼ばれる小型捕鯨船は、はやばやと漁の準備に取りかかった。紋別沖から知床の沖にかけて年に約八十頭のクジラがとれ、1頭約三十万円になる〉
網走港からコイワシクジラの試射に向かう、捕鯨船の船上からとらえたアングルが載っているが、その漁法は豪快だ。沖合へ出て、ターゲットを発見すると銃を撃ち込む。
網走のクジラ文化は歴史が長く、モヨロ貝塚ではクジラの骨で作られた多数の銛が発掘されている。近代捕鯨は1915(大正4)年に東洋捕鯨が工場を建設したのを機に盛んになった。最盛期の1950年代には、実に7社が操業していたという。
その後、資源保護を主張するIWC(国際捕鯨委員会)によって世界的に捕鯨禁止の流れが広まり、一時は捕鯨文化が衰退したが、2019(令和元)年に日本がIWCから脱退したことで、ミンククジラの捕獲が再開した。市では鯨肉文化の普及に力を入れている。
〈流氷が岸を去るころ、原生花園で知られる涛沸湖に白鳥がやってくる。シベリアから渡ってきて年越しした白鳥が、また翼をつらねて北へ帰る。その白鳥たちが日本で最後に羽を休めるのが涛沸湖。北の果てに遠い春を知らせにきてくれた白鳥を見送るために、地元の人たちはエサをもって集ってくる〉
前号では、体が凍りつき死んでいく尾岱沼(別海町)の白鳥を紹介したが、ここの白鳥は地元の人に愛され幸せそうだ。

▲「週刊朝日」’71年4月23日号

住めば都というけれど

高度成長期は、都心近郊に巨大集合住宅が相次ぎ誕生した時期でもあった。「週刊朝日」16日号が、全国最大規模といわれた多摩ニュータウンに初めて入居した人たちの本音を伝えている。
〈電柱ごとにサラリーマン金融の広告がベタッとはられ、あちこちにほじくり返された赤土や水たまり。ダンボールの空箱が強風にとばされ転がっている。そんな丘の上に立ち並ぶ白やベージュのアパート群――これが多摩ニュータウンただいま現在の姿だ〉
写真をみると、とても都内とは思えぬ田舎然とした風景が広がっており、現在の多摩ニュータウンからは想像もつかない。入居したばかりの若い主婦は〈「駅まで十分のはずのバスが、ラッシュ時には四十分もかかるのね。都心に通う主人は二時間みてるのよ。入れたのは嬉しいけど、なんだか複雑な気持ちね」〉と嘆く。
実際、最寄り駅の京王線聖蹟桜ヶ丘駅までは遠く、バス乗り場には長蛇の列ができていた。
〈遅くとも7時2分のバスに乗らないと、都心の会社へは間に合わない。しかし、まだ半分ちょっとの入居者を迎えただけで行列はこのとおり〉
ニュータウンに近い京王多摩センター駅が開業したのは3年後のこと。その間、サラリーマンは苦しい通勤地獄に耐え続けたわけだ。ちょっと経済的余裕があるマイカー族も大変だった。
〈道路が整っていなくとも渋滞は目に見えていても、クルマは欲しい。駐車場からはみだしたクルマで、道端はこの有様〉
路肩は隙間なくびっしり。そこからあぶれたクルマは、開発予定地の斜面に乗り上げている。
また、古くからの住人との断絶も浮き彫りになった。
〈かつて緑の丘が、いま赤土の丘に変じて、春の気配さえみせない。コンクリートのかたまりが立ち並ぶ、その丘を眺めていたお百姓さんがボソッと言った〉〈「あそこに住む人たちと、わしらが話せることは何もないね」〉
とはいえ、新旧の住民にとって「住めば都」だったのだろうか――。
駅へのアクセスが悪く、地元住民との接点が少なそうという部分では、五輪村となる晴海フラッグの状況がだぶる。こちらはまだ分譲の見通しも立たず、住む前から不満がくすぶっているのだが。

▲「週刊朝日」’71年4月16日号

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