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帰化説をはじき返した豪打V7の「血」張本勲選手

 記念すべき球団創設50年イヤーに、見事CS出場を決めた北海道日本ハムファイターズ。この間、多くの名選手が歴史を刻んできたが、張本勲も間違いなくその一人に挙げられよう。東映、日拓を経て、日ハムでの在籍期間は2年(巨人へ移籍し、ロッテで引退)と短かったものの、1年目のチームが最下位に低迷するなかにあって、キャリア7度目の首位打者に輝くなど中心選手として奮闘した。1974(昭和49)年11月17日号の「サンデー毎日」では、韓国にルーツを持つ張本の苦難の人生を振り返っている。

民族のプライドを前面に

「週刊朝日」’74年10月18日号
▲「週刊朝日」’74年10月18日号

 本名は張勲(チャン・クン)。まだ民族的な差別や偏見が根強かった時代にあって、在日二世であることを隠さず、むしろ民族のプライドを前面に打ち出し、気迫あふれるプレーで「同胞」たちの英雄となっていた。首位打者のタイトルは7度目の1974年シーズンが最後となったが、1970(昭和45)年の3割8分3厘4毛は歴代4位(1位ランディ・バース、2・3位イチロー)であり、通算安打数3085はいまだ破られていない大記録(2位野村克也、3位王貞治)である。

〈その輝かしい球歴は、外国籍選手として、セ・リーグの王選手と双璧である。ともに三十四歳〉

 この年は、その王とともに巨人の黄金期を支えた長嶋茂雄が「わが巨人軍は永遠に不滅です」の名セリフを残して引退。各誌が長嶋関連の特集で一色になるなか、あえて日本ハムという地味なチームの張本を取り上げた「サン毎」の着眼点が面白い。

 当時、張本を巡っては帰化説が噂されていた。
〈張本の周辺はざわついた。とりわけ、彼の活躍に“誇り高き韓国人プレーヤー”の英姿をイメージしていた在日韓国人からの反響は大きかった。韓国系新聞『統一日報』の投書欄から一例を引くと、「絶対帰化してほしくないものです。日本人に帰化しているある監督さんに比べて、韓国人の気概を示してくれる数少ない男性ですから。今でも、張本選手がチマ・チョゴリ姿のオモニとテレビ出演したときの感動が忘れられません」〉

 ある監督とは、ロッテオリオンズの金田正一だ。かつて鹿児島のキャンプで金田と一緒になったとき、国鉄スワローズのエースだった金田と、こんな会話を交わしたことがあるという。

〈「ハリよ、わしゃ日本に帰化するで。この先、コーチや監督になったりするのに、韓国籍では障害になるからなあ」「そうですか。個人個人生き方が違うんですから、先輩の好きなようにしてください」〉

 この日を境に、民族の絆で結ばれていた張本と金田の関係に、隙間風が吹き始めたことは否定できない。74年、最下位に沈んだ日ハムとは対照的に、韓国人の重光武雄氏がオーナーを務めるロッテは、監督2年目の金田のもとリーグ優勝を果たしたのみならず、日本シリーズでは無敵を誇った巨人のV10を阻止した中日ドラゴンズを撃破し、番狂わせの連続で日本一に輝いている。金田の知名度は全国区となり、天性の陽気なキャラクターもあってお茶の間の人気者となったが、国籍問題については口をつぐみ、自伝でも一切触れることはなかった。

 張本の神経を逆撫でするような出来事は数々あった。
〈東映と国鉄が韓国遠征した三十七年。“韓民族の英雄”張本と金田は大変な人気で、韓国の新聞は「日本プロ野球の打撃王と投球王、母国で対決」と書き立てた。日程の一日、無名戦士の墓参があった。金田はなぜか断り、張本だけ墓に花束をささげた〉

 金田には帰化した負い目があり、あえて辞退したのかもしれないが、張本の目には愛国心の欠如と映ったに違いない。

 ロッテが優勝したこのシーズンも、5月に川崎球場で悶着があった。練習中、ロッテの城之内投手と口論になり、張本が相手の腿を蹴り上げてしまったのだ。これには伏線があり、前日の試合中、城之内が張本に「ニンニク腹」などと侮辱的なヤジを飛ばし、その件を咎めたすえの諍いだったのである。しかし、金田は張本の暴力行為を批判するばかりで、城之内には何ひとつ苦言を呈さなかった。張本は〈「戸籍の上では日本人になったといっても、韓国人の血は流れておる。そのカネさんが、どうして私の気持を分かってくれなかったのか。それが残念なのです」〉と、悔しさを滲ませた。

ヤジと中傷は違うんだ

 心ないヤジは日常茶飯事であり、それは観客だけではなく、相手選手の場合もあった。1964(昭和39)年5月、後楽園球場での東映対南海の一戦。南海の打者のファウルボールを、レフトの張本が南海ベンチへ思い切り投げ込み、あわや大乱闘という騒然とした空気になった。

 張本が激高したのは、相手ベンチから人種差別的なヤジを浴びせられたからだ。
〈「ヤジと中傷は違うんだ。中傷は許せない。私は中傷の言葉を浴びれば浴びるほど、ヨーシ、それならもっと打ってやると心に言い聞かせて、強くなろうと思った」〉

「ヤジと中傷は違う」との言葉は、ネット上に匿名で中傷があふれる今の時代にも通じることだろう。現在のコンプライアンスでは、人種差別的な言動に対し、非常に厳しい処分が下されるようになったが、当時はスター選手といえども「在日」という色眼鏡でみられていたのである。

 3年前にはSNSにアップされた万波中正選手への差別的発言が大炎上し、球団が謝罪する事態になった。結局、誰が言ったのかはウヤムヤにされたが、そこは当該選手がしっかり謝罪すべきだったと思う。

 相手選手に侮辱された張本は、〈「お前らみたいにベンチにおって、口だけでゴチャゴチャいうヤツとは違うんだ。グラウンドのプレーで勝負してこい!」〉と鬼神のような形相で怒鳴ったが、この反骨心があったからこそ超一流の座をつかむことができたのかもしれない。張本はこんな苦い思いを、幼年時代から体験してきた。

〈五歳のある日、バックしてくるトラックに押し倒されて、たき火に右手を突っ込み、大やけどを負った。しかし、朝鮮人ゆえに、慰謝料どころか治療費さえ払ってもらえず、一家は泣き寝入り〉

 腿の肉を移植するなどの手術を繰り返したものの、二度と指が開くことはなかった。以来、右利きだったのを左利きに変え、不自由な右手の筋力をつけるため、右手一本での素振りによって球界を代表する大打者となったのだから、その並外れた根性に敬服するほかない。

〈広島の比治山小学校時代、朝鮮人の子供が馬にさせられたり、スリッパをくわえさせられたりして、いじめられている光景を何度も見た。学校の便所掃除も、決まって朝鮮人の子だった〉

 腕っぷしが強かった張本少年は、ケンカは負け知らず。自分からケンカを売るタイプではなかったが、朝鮮人がいじめられているのを見過ごすことはできなかった。あまりに理不尽なことが多く、思い悩んだ張本は母親の純分さんにこう尋ねた。

〈「朝鮮人はそんなに下等な人種なのかい」〉

 すると、母親はこう答えた。
〈「そんなことあるものか。朝鮮人を下等とあざける人間こそ下等なんだ」〉

 子供心に勇気をもらい、その後の人生を逞しく生き抜く原動力になったという。

高校の弁論大会で優勝

 差別に加え、一家は貧しかった。父親は戦後の混乱期に病死。12歳上の長兄が父親代わりとなり、タクシー運転手の仕事で糊口をしのいだ。張本は野球に打ち込みたい一心で、地元広島の松本商業から大阪の名門・浪華商業に転校する。その頃、浪商野球部は不祥事のため高野連から1年間の出場停止処分が下されており、張本が入部してまもなく、ようやく処分が明けて国体で戦う機会を得た。

〈しかし、張本は「出場資格は日本国籍保有者」という国体規則の冷たいカベにはねかえされ出場できなかった〉

 浪商時代の張本は、こうした差別以外にもさまざまな不運に見舞われたが、思いがけずグラウンド外で注目されることとなった。校内の弁論大会で、2度も優勝したのである。

〈テーマは一年のときが「被差別部落問題」、三年のときは「広島の在日朝鮮人被爆者問題」だった。彼の姉の一人は、勤労奉仕中に原爆で死んでいる。また、未解放部落の人々の痛みには、在日朝鮮人のそれと通じる世の矛盾が感じとれた〉

 後年、テレビ番組のご意見番として発揮された弁舌の才は、高校の頃から片鱗をのぞかせていたといえよう。不条理な世の中に「喝」を入れ続けてきたわけだ。

 在日韓国高校野球チームの主力となり、初めて祖国の地を踏んだ。
〈彼のナショナリズムから、またひとつウロコがとれた。高校生バンドが演奏する歓迎の「アリラン」や「トラジ」の曲の中で、キューンと胸を締めつけられる思いがした。「ああ、これが祖国か……」〉

 この体験があったから、終生、帰化を拒み続けたのだろう。
〈三十四年、高校野球の日かげからプロ野球の日なたへ。東映入団の契約金二百万円、初任給四万五千円。同期に巨人に入団した王は、契約金一千八百万円、初任給十一万円〉

 入団当時、スター候補の王に比肩する大選手になると想像した人は少なかったに違いない。そもそも、韓国籍であるがゆえ、入団自体、スムーズにはいかなかった。「野球協約」による外国籍選手の枠は3人。新人の張本は4人目であったため、東映の大川博社長は、「養子になって大川姓を名乗りなさい」と帰化を勧めた。

 決断しかねた張本が母親に相談すると――。
〈母親は血相を変えた。「とんでもない。祖国を売るくらいなら、他のチームへ行け」〉

 そこで大川は「野球協約」の改定に奔走する。
〈「昭和二十年以前に日本で生まれ育った者は、日本人とみなす」という趣旨の“みなし規定”である。進言は容れられ、張本のプロ野球人生は緒につく〉

 日本国籍を持たない張本のため、養子話を持ちかけ、連盟に働きかけてくれた大川は男気のある人物といえるだろう。帰化に関しては、のちに金田からも勧められたが、きっぱりと断っている。
 ただ、まったく迷いが生じなかったわけではない。〈将来、子孫ができれば、自分が罵倒されたり、虐げられてきた苦しさを体験させたくない〉と考えたからだ。

 それでも韓国籍を捨てないことを決めた理由をこう語っている。
〈「韓国に帰っている間も、朝から晩まで“帰化しないでくれ”という電話がひっきりなしにかかってきましてね。人も相次いで来るし、本当にびっくりしました。まあ、こんな一介の野球選手を、三千五百万人の国民全体が支援してくれまして、胸にこみあげてくるものがありましたよ」〉

 今年の夏の甲子園大会で、初戦で札幌日大を破った勢いそのままに優勝した京都国際。韓国語の校歌が話題となったが、とやかく言う声は少なかった。日本社会の成熟ともいえるが、張本はどんな思いで聞いていたのだろうか――。

身売り話もささやかれる 『日本ハム』の切売り

▲「週刊新潮」’74年11月28日号

 日ハムの話題をもうひとつ。「週刊新潮」28日号が、1年目のシーズンを最下位で終えた球団を巡る噂話を報じている。

〈去年は不動産屋、今年は肉屋……。「いったい来年はどこへ回されるのやら」とウンザリした様子なのが日本ハムファイターズの面々〉

 中心選手の大杉勝男がヤクルト、大下剛史が広島と、相次ぎトレードが決まったとあって、チーム内の雰囲気は悪かったようだ。破談になったものの、チームの顔である張本勲でさえ、水面下では交渉が進められていたとされる。

〈口の悪い向きは「ハムの切売り」などといっている。昨年より二割五分減った観客動員。大幅赤字は必至である〉

 同じ新規参入でも、不動産屋と揶揄された日拓ホームフライヤーズの場合は、破天荒な西村拓郎オーナーがマスコミ受けする話題を絶えず提供していたこともあり、それなりに客は集めていた。

〈大社社長という人、業界ではヤリ手といわれる。昨年の日拓・西村オーナーのように、“道楽”のために球団経営に乗り出したのではあるまい。それだけに、ダメとわかったら、引際も早そうである〉

 こうした報道に対し、球団側は「根も葉もないこと」と完全否定していたが、パイオニア、フジタ工業、丸井などが取り沙汰されていたようだ。

 野球殿堂入りもした大社義規オーナーは、チームに愛情を注いだ人徳者であり、日ハムは北海道へ移転後、屈指の人気球団となった。来年は大社氏の没後20年。ぜひ優勝を報告したい。

北海道開発庁のバカにされかた

▲「週刊新潮」’74年11月28日号

 2001(平成13)年まで存在した北海道開発庁の政務次官人事を巡り、「週刊新潮」28日号が、「講釈師」のあとは「歌のおばさん」と痛烈に皮肉っている。

「講釈師」とは一龍斎貞鳳の芸名で活躍した前任の今泉正一氏、「歌のおばさん」とは芸名の安西愛子で参議に当選した新任の志村愛子氏のこと。

〈この人、やたら北海道が好きだと連発する。「私、北海道は四季を通じてだーい好き」〉〈「講釈師」次官などは、在任中やたらに北海道へ出張したらしいから、「歌のおばさん」のほうも、たぶん「だーい好き、だーい好き」とはしゃぎながらお出かけになるでしょう〉

 このあと、何度も安西氏の「だーい好き」発言が引用されている。本当にそう言っていたのだろうが、少しばかり記者の悪意を禁じ得ない。「歌のおばさん」もややバカにした表現との印象を受けるが、これは実際にNHKラジオで同名の番組を担当していたためで、彼女の代名詞ともいえる呼称だった。

〈「北海道五百五十万道民をバカにするのはやめてほしい。行政と政治のパイプとして大事な政務次官は、北海道開発についてベテランの議員を配置すべきじゃないですか。現地の職員として公共事業の開発を担当しているわれわれは、ヤル気がなくなりますよ」(全北海道開発局労働組合書記長・相原敬用氏)〉

〈「現在の食糧問題や石炭再開発などのエネルギー問題を考えた場合、北海道の位置は決して低いものではない。見識、能力を備えた長官と次官を期待するんですが、なんで北海道開発庁にタレントが二代も続くのか」(北海道教育大助教授・十亀昭雄氏)〉
 手厳しい言葉が並ぶが、本人はまったく意に介していなかったようだ。

〈「北海道開発庁は新しいところだし、国会で大臣代理としての答弁もないようなので……。自分も北海道開発庁ならやれないことはないんじゃないか、やってみようというところですね」〉
 これでは関係者が嘆息するのも無理はない。

 ただ、道民からすれば悔しいが、北海道開発庁などその程度、という意見も少なくなかった。
〈「北海道開発庁なんてところはね、社会党が知事を取ったときに自民党が押さえつけようとしてつくった役所なんだよ。その後、知事が自民党に変ったんだからもういらんわけだよ。行政監理委員会でも多数の意見は、あんな役所はいらんということでしたよ。国土庁なんかもできたことだし、ほんとにもういらんと思うね」(元行政監理委員会委員・太田薫氏)〉

 このような“雑音”や“不協和音”ばかりでは、「北海道だーい好き」の「歌のおばさん」もさぞかし仕事がやりにくかったに違いない。

「アイヌ共和国」と爆弾闘争の奇妙な関係

▲「週刊朝日」’74年11月8日号

 1974年は、8月に三菱重工、10月に三井物産を狙った爆破テロが相次ぎ発生し、犯行声明を出した過激派・東アジア反日武装戦線の動向に注目が集まっていた。「週刊朝日」8日号では、警察が2つの事件に思想的影響を与えた人物としてマークしていた太田竜の人間像に迫っている。

 太田に対する容疑は、2年前に静内にあるシャクシャイン像の台座に刻まれていた「町村金五知事」の文字が削り取られた事件だった。

〈指名手配されてからわずか二日、世界革命浪人(ゲバリスク)を名乗り、居所不明の「幻の夢想家」といわれた太田竜(44)が小田原署に出頭、逮捕された〉〈東京・千住のアパートにひそんでいて、警視庁のアパート・ローラー作戦の網にかかり、爆弾教本の「腹腹時計」のコピーや自身の原稿を捨てて逃げた翌日だった。自慢のアイヌヒゲは、そり落としていた〉

 本名、栗原登一。1930(昭和5)年、樺太出身の太田は、元々は共産党員だったがトロツキストに転向し、組織を転々としたのち、この頃は過激派があまり目を向けなかった「アイヌの解放と独立」を叫ぶ教組的存在となっていた。

 北海道へ身柄を移送される際、羽田空港署長との間でこんなやり取りがあったという。
〈「海外へ行ったことはあるか」「何度も行った」「どこへ行ったか」「アイヌ共和国」「……?」「北海道だよ」〉

 既成の権威を殊更に敵視し、アイヌ研究者やウタリ協会までもが攻撃対象だった。「朝日」の記事は、2つの爆破テロ事件と「アイヌ志向」の関連性を指摘している。

〈まず、犯人が名乗った“狼”と“大地の牙”が、アイヌ解放と独立を目指すグループの好んで使う言葉であることだ。東京・山谷で「このアイヌ」と言われ、友人を刺殺した橋根直彦被告が獄中出版した「我れアイヌ、自然に立つ」のなかで「アイヌの一匹狼がいつか群れをなし、アイヌ・モシリを取り戻すということが私の望み……たとえ一匹のままでも、あくまで牙をとぎ、進んでいく」と書いてある〉

 また、三井物産事件で爆弾を包んだ「毎日新聞」の日付は昭和45年10月23日であり、〈十月二十三日は英雄シャクシャインの命日にあたる。わざわざ四年前の新聞を使った意図はなにか〉と疑問を呈している。

 しかし、北海道で起きた一連のアイヌ問題に絡む事件と、爆破テロには決定的な相違点があり、太田一派とは異なるグループとの見方も。

〈北海道の事件で犯人グループは、市民や無関係な人を巻き添えにしない、という配慮をしている点だ。殺傷が狙いではなく「アイヌ解放と独立」の意味を宣伝すればよいという「シンボリック闘争」といっていい〉

 過激派グループの間にも複雑な共闘や対立の構図があり、「朝日」の記事も事件の背景を解明することは難しかったようだ。