アーカイブスヘッダー

クレムリン近衛兵を呼んだ岡田嘉子の陰のスポンサー本間誠一

 昭和の時代は、今でいう「ハラスメント」が横行していた一方で、型破りな豪傑を受け入れる寛容さもあった。旭川を拠点に数々の伝説を残した興行師・本間誠一は、なにより義理人情を重んじる親分肌であり、その波瀾万丈の人生は、まさに「事実は小説より奇なり」といえるだろう。1974(昭和49)年5月12日号の「サンデー毎日」が、岡田嘉子やソ連政府と深い信頼関係を築いていた本間の素顔に迫っている。

旭川に移って映画館を買収

▲「サンデー毎日」’74年5月12日号

 まずは本間が事業で成功を収め、自身が社長を務めていた「ホテル層雲」に昭和天皇をお迎えした後年のエピソードから。昭和天皇の「あの桜は何か」というご下問に対し、「山桜でございます」と答えたのだが、陛下はさらに「山桜には三種類あるが、あれは何の種か」と重ねて尋ねられた。

〈本間、ことここに及んで、ついに地がでた。「陛下、オレは親のいうこときかねえで若いころに家を飛び出したきり勉強しておりませんので、山に咲く桜は山桜としか知りません」〉
 なんと陛下に向って「オレ」と言ってしまったのである。すると、極度の緊張で狼狽するばかりの本間をみて、皇后が助け舟を出してくれた。

〈「そんな面倒なことをきかれてもわかりませんよね。山に咲くから山桜で結構ですよね」そして皇后はしゃがみこまんばかりに、コロコロと笑いころげた〉
 結局、3度も「オレ」と口にしたそうだが、こんな実直な一面も本間の魅力といえるだろう。

〈本間興業社長・本間誠一(65)。鰊漁でにぎわった積丹半島岩内に近い網元の長男である。子どもの頃から芝居好きの本間は、ドサまわりの一座が海辺に蓆の小屋を組むたびに入り浸っていた〉

 中1にして、信じられないエピソードを持つ。

〈彼は金庫から三百五十円を懐にすると、芝居小屋へ駈け込んで「この一座をオレに売れ」といった。五百円あれば鰊漁場に親方として一勝負できた時代の、三百五十円は大金である。それを中学生が持っていて、一ヵ月三十円、向う半年分前渡しで一座を買った。本間はともかくも“興行師”となり、故郷から逐電した〉

 盗み出した親の金で興行を買った本間も凄いが、見知らぬ中学生に一座を売った座長も只者ではない。だが、さすがに未熟な中学生には荷が重かった。1年半後、樺太で無一文に。それから、やっとの思いで小樽に流れ着き、映画館に拾われた。出奔から3年目のことである。

 苦労を重ねたせいか、今度は才覚の片鱗をみせた。アイデアと努力と節約と社交術で閉館寸前の映画館を2つ立て直し、20歳のときには伴侶も得た。そして、23歳の本間青年は7年ぶりに帰郷。父親の前で、反省の気持ちを示した坊主頭を下げていた。

 ヤン衆の親方で気の荒い父親ではあったが、息子を叱責することはなく、〈「ウワサはきいていた。男なら女房と仕事は変えるな」〉とだけつぶやいた。冷静を装ってはいたが、息子の坊主頭をみて、刑務所から出てきたのでは、と心配していたのだという。

 本間の力で繁盛させた小樽の映画館は、松竹と日活に買収されてしまった。雇われ経営者の限界で、莫大な資金力を持つ業界の巨艦に抗う術はなかった。小樽を追われた本間は、津軽を経て旭川へ。月賦で購入したのは、〈「畳は敷いてあるが、新聞紙をもう一枚敷かないと座れない」という廃屋同然の館〉だったが、ペンキを塗り、畳を入れ替え、どうにか体裁を整えると、ほどなく人気館となった。

〈“社長夫人”は“社長令息”を背中に、切符のモギリと、「エー、おせんにキャラメル」に忙しかった。彼は呼び込みが一段落すると、にわか仕立てのトランペット吹きになり、ボックスで伴奏をつとめた。もし彼のヤン衆ことばがじゃまにならなければ、“社長”は弁士までつとめていたかもしれない〉

 旭川での成功は、こうしたバイタリティーの賜物といえるだろう。やがて会社はホテル、タクシー、ショッピングセンターなどにも手を広げ、押しも押されもせぬ旭川の名士となった。この頃、すでに不漁続きで家を手放していた両親や兄弟を呼び寄せている。大金を拐帯して家を飛び出した破天荒な息子が、立派な経営者となって自分の面倒をみてくれたのだから、父親は感無量だったに違いない。

 どんなに会社が大きくなっても、本間は札幌や東京に興味を示さず、旭川から動こうとしなかった。〈「育ててくれた町へのご恩返し」なのだが、彼をねたむ人士は「旭川の金をみんな吸い上げる」という声になる〉

 そして、嫉妬する人間は、こう付け加えた。〈「あの人、昔はかあちゃんと二人で呼び込みをやってたんだよ」〉

身銭を切って対ソ文化交流

 本間といえば、芸能人との華麗な人脈も知られていた。
〈たとえば、二度の来日で一千万円とも二千万円ともいわれる岡田嘉子の航空券(は美濃部知事が花を持った)以外のいっさいの費用を払って何食わぬ顔をしている。その岡田嘉子を帝国ホテルに訪ねると、彼女は、「本間さんは、会うと必ず『おまえ、メシ食ったか? 小遣いはあるか?』って聞くんです。この頃は少し丁寧になって『食事したかえ』っていうけど、会って最初に聞くことは同じね」と苦笑した〉

 戦時下にソ連へ逃避行した岡田は、戦後になって帰国を許されたのだが、本間がソ連で岡田と面会した際は、「20分だけ」との条件付きだったにもかかわらず、終わってみれば3時間半を過ぎていた。2人の関係は、それほど深かったのである。

「メシ食ったか」は、本間の口癖だったようだ。長谷川一夫は本間のメシを最も多く食ったひとりで、〈恩義を忘れず、いまだに本間の興行となると、東宝や松竹の三分の一のギャラで尽くしている〉

 NHKの朝ドラで注目された笠置シヅ子。〈正月を越せずにいた無名時代の笠置は、年末になると本間の世話になり、雪の北海道で『荒城の月』を朗々と歌ったりした。ブギウギで当たった笠置は、「どうしても本間さんにお礼がしたい」と、四十五日間も仕込み原価でやってきた〉

 このほか、頑として同じステージに立つことを拒んでいた美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの3人が、「本間さんのためなら」と集まってくれたこともある。

〈無名だった初代中村吉右衛門の芸を「これは伸びる」と見込んだ本間は、電車に乗ってオンボロ家に住みながら、吉右衛門には家と車を贈った。のちに吉右衛門が文化勲章をもらうと、彼はわざわざ札幌で受賞後の初舞台を踏んだ〉
 単に気前がいいタニマチというわけではなく、芸を見る目も確かだったようだ。

 また、ソ連との親密な交流も、本間の名声を高める一因となった。本間は昭和35年に訪ソ歌舞伎団を成功させているが、実はそれ以前、松竹はじめ大手6社とマスコミが同企画を企画したものの頓挫している。ギャラの面で折り合わなかったからだ。

〈本間はギャラを求めず、バーター制でコーガンの来日を提示した。さらにソ連のいう三十人では本物の歌舞伎をみせられないと、五十人分の自腹を切った〉〈この時の本間の仕事ぶりにソビエト文化大臣フルーツワ女史がほれた。コーガン、リヒテル、ボリショイサーカスにはじまって、不出のエルミタージュ美術館の絵を貸し出すと決めたのは、そのせいである〉

 こうしてソ連と太いパイプを築いた本間は、彼の興行生活50年に、そのお祝いとして「赤軍合唱団」の派遣をプレゼントされた。「赤軍合唱団」はクレムリンの近衛兵で構成されており、「兵器を持たず、喉ひとつで戦う軍人」と称されていた。格式高い彼らが民間の一興行師のために異国で出演するのは、異例のことだったのである。

 名声も財産も手に入れた本間だったが、その人間性はヤン衆の頃と変わっていなかったようだ。あるとき、会社の金を持ち逃げした男が捕まった。
〈男は、本間に「金は返します。お許しを」といったが、本間は「キサマにゼニなんか返してもらおうと思わねえ」というと、威勢よく二つぶん殴り、「トットと消え失せろ!」〉

 これを知った社員は、〈「あれだけの金をとって、一発や二発のビンタですむなら、オレも殴られてえ」〉と言ったとか。また、「500万円で売ってこい」と命じられた社員が、550万円で商談をまとめてきたときの反応も本間らしい。
〈ほめるどころか「オレの適正価格を破った」とひどくしかった〉

 本間は、受刑者に対する50年来の支援が評価され、紺綬褒章を受けたのだが、支援を続けた理由を聞かれ、真顔でこう答えている。
〈「樺太ですってんてんになったとき、一歩間違えればオレも監獄に入っていた。オレの分をだれかが間違ってくれたんだよねえ……」〉

 かつて丸刈りの頭を父親に「出所」と疑われた男は、塀の中で暮らすあぶれ者たちの心情をよく理解していたのである。

 ルポを執筆した児玉隆也氏は、本間の魅力について、〈天皇に向って“オレ”といってしまう稚気、中学生の分際で親の金を持ち出しで旅まわりの一座を買った度胸、漁師にも通じる陽気な金銭感覚〉と評している。この先、陛下に「オレ」といい、それが許されるような傑物は、もう二度と現れないだろう。

私が歩む保母への道

▲「サンデー毎日」’74年5月19日号

 札幌市民にとって、トワ・エ・モアというデュオは、忘れられない名前だ。1972(昭和47)年の札幌冬季五輪でテーマソングに選ばれた『虹と雪のバラード』のやわらかなメロディーは、いまなお当時の風景を思い起こさせる。

「サンデー毎日」19日号では、そのトワ・エ・モアのメンバーだった山室英美子の近況を伝えている。
〈トワ・エ・モアはデビューから四年間しか歌わなかった。しかし、その間にいくつかのヒット曲を送り出し、十四枚のLPアルバムをつくり、紅白歌合戦にも二回出場した〉

 わずか4年で解散した理由はいくつかあろうが、デビュー前からの仲間だったパートナーの芥川澄夫の婚約が大きな転機になったとされる。恋愛感情があったかどうかはさておき、サン毎の記事は〈二人の絶妙なコンビはテクニックだけの問題とは常識的に思われない〉と指摘している。ただ、音楽性の相違とか、2人の関係がこじれての喧嘩別れではなかったようだ。

 サン毎の取材を受けた山室は、洗いざらしのジーパンとコールテンのスモックという地味な装いで、荻窪駅の雑踏の中に立っていた。
〈タレント時代も化粧しないことを逆にセールスポイントにしていたようだが、その姿にはタレントの影もない〉

 山室は、アルウィン学院玉成高等保育学校に通う「学生」であった。2年生で、保母と幼稚園教員となるための教育を受けているのだ。
〈「一年生のとき、五月まではトワ・エ・モアの仕事があったので勉強が遅れてしまって、遅れを取り戻すために徹夜も何日かしました」〉というほど授業は厳しく、退学する仲間も少なくかった。

 この年の2月、山室は同期生とともに中野の保育園で行われた実習に参加し、〈「あなたたちはよく気が付く。一年生だったらオタオタしているのがふつうですよ」〉と褒められ、とても嬉しかったという。
〈「最後の日、職員室で歌わされちゃった。家の近くの保育園だから、ギターをとりに戻ってね。サインもしたわ」〉
 引退後のスターの生歌を聞けた先生たちは幸せだが、無茶なリクエストに応えた山室の人柄がしのばれる。もしかすると、テレビカメラの前で歌うよりも楽しい時間だったのかもしれない。

 マイクを置いた経緯を振り返る。
〈「子供の頃から歌が好きだったから、歌を忘れることはできない。テレビやステージでは同じような歌ばかり歌っていて、ふとこれでいいのかと思ったとき、中学生時代に漠然と考えた保母になろうと思ったわけ。二分間テレビで歌うために、一日拘束されることもあるでしょ。好きな歌を歌うなら、もっと別な歌い方もあるんじゃないかとも思ったわ」〉

 人気番組「夜のヒットスタジオ」では意に反してコントをやらされ、ずっと仏頂面でいたところ、ディレクターに叱責されたこともあるという。彼女の場合、あくまでシンプルに歌うことを愛していたのであり、「タレント」に未練はなかったのだろう。

〈「半年前に『契約更新しません』といわなければならないんで、渡辺プロの社長に言ったのですが、初めは信じてくれず、他の芸能プロに変わるわけではないし、決心が強いのがわかって辞めさせてもらえたのですが。『歌手になる』と言ったときには猛反対した両親が、こんどは『どうして辞めるのか』と反対したんです。とくにお父さんがションボリ肩を落としてしまって、親不孝っていうか、悪いことをしてるんじゃないかと決心がグラつきかけました」〉

 順風満帆のさなかでの引退宣言であるから、渡辺プロの社長も両親も、彼女の気持ちが理解できなかったに違いない。
 その後の山室は、しばらく音楽と離れたものの、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのベーシストと結婚。表舞台に出る機会こそ少ないが、ソロでの音楽活動を再開している。

 札幌冬季五輪再招致の機運を盛り上げるため、地下鉄ホームで流れていた『虹と雪のバラード』の駅メロが、招致断念を受け終了になった。すると、不人気の五輪とは対照的に、継続を望む市民の声が相次ぎ寄せられているという。

 活動期間は短かったものの、50年以上経っても色褪せない名曲を生んだのだから、トワ・エ・モアの活動に悔いなし、といった心境だろう。

北海道の田舎町の円盤誘致運動

▲「週刊文春」’74年5月20日号

 UFOや宇宙人の話題は、昔も今も多くの人の関心を集めているが、「週刊文春」20日号では、北見市郊外の仁頃という町で大騒動に発展したオカルト事件について報じている。

〈この町で農業を営む藤原由浩さん(28)が、「宇宙人に会って三回も円盤に乗せられ、宇宙を旅してきた」と言いだしたのだ。さっそくマスコミがワンサと押しかけ、町民もそのあおりをくって、顔を合わせれば円盤やら宇宙人の話でもちきり。いまや喧騒の町と化してしまった〉

 なにせ保守的な田舎町、当初は藤原さんを狂人扱いする声がほとんどだった。「村八分」になりかねない状況を心配し、親友で郵便局員の田中伸一さんが擁護すると、「藤原の味方だ」と陰口を叩かれ、田中さんまでもが白眼視される始末。田中さんは〈「ウチの女房、買い物に出るのもイヤだ、と言いだしてね。ノイローゼ気味だわ」〉と嘆息する。

 嘘つき呼ばわりされる藤原さんに、田中さんが「何か物的証拠があれば反対派を説得できる」とアドバイスすると、藤原さんは早速、行動に移した。
〈「証拠になるようなものをくれ」と宇宙人に懇願。宇宙人はやさしかった。藤原さんを円盤にのせ、「木星といわれているけど本当はもっと遠くの星」から一個の岩石をとってきて藤原さんに渡したのだ〉

 これが3回目の円盤体験という。貴重なお宝を手にした藤原さんが〈「これで勝負がつく」と欣喜雀躍したのもつかの間、その岩石、北見工大で鑑定した結果、「そこらへんにゴロゴロしている石灰石」〉と報告されたのだ。

 しかし、当時は超能力者を自称するユリ・ゲラーが話題を集めるなど、世はオカルトブームとあって、マスコミや著名な円盤研究家などが続々と訪れる事態に。これを見た町民は、〈「立派な先生やら、マスコミが来たんだから、まるっきりウソともいえないんじゃないか」〉と思い始め、さらに、〈「もし、この土地が円盤基地ということにでもなれば、道内だけではなく内地からも客が来る。自然とわれわれのフトコロにも……」〉との思惑も加わり、藤原さんへの態度も軟化したのだった。役場の所長までが、〈「人口がわずか千八百十五人だから、過疎が最大の問題。円盤基地ともなれば、なんらかの効果があるかもしれませんな、ハハハハハ」〉と呑気なコメントを出している。

 藤原さんは、宇宙人から授けられたという交信方法をこう説明する。
〈「宇宙人からの電波は左手の指先で受信するんだ。だから自然と左手をあげて電波のくる方向を探すことになるわけだ」〉〈「交信の前には必ず耳たぶが焼けるほど熱くなり、左手の人差指、中指、薬指の第一関節から先がふるえだす」〉

 宇宙人からの交信は毎日のようにあり、午後7時から7時半ごろが多いとのこと。以下は文春記者が同席しての交信記録である。その一部をピックアップしてみよう。

〈──日本はこれからどうなる?「地震もあるが、もっとたいへんなことが起こる。その内容はいえない」〉〈──いまの政府はかわりますか?「政府とは、たぶん偉い人が集まっているところだ。それはかわる」〉〈──次はいつ、どこに降りてくる?「ことしの秋、12月、場所はいえない」〉〈──12月は冬でしょ。「それは、あなたたちの言い方です」〉〈──藤原さんといつまで交信を?「一生です。ただ、ひとつでも悪いことをしたら交信を止める」〉

 宇宙人のメッセージを、藤原さんがイタコの口寄せのように伝えるのだが、虚言と断定はできないものの、支離滅裂なやり取りとの印象は禁じ得ない。そのうち、ご近所さんまで現れて、藤原さんは「(自分の力で)病気も治せる」などと口走り、記者を呆れさせたのだった。

 文春記者には、藤原さんこそが“宇宙人”にみえていたのかもしれない。