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「灯油380円」で証明された通産省指導規制のむなしさ

 北海道はまもなく本格的な冬が到来するが、光熱費高騰の折、庶民にとって気になるのが灯油価格だろう。酷暑の東京では、高齢者がエアコン代を節約して熱中症になり、命を落とすという痛ましいニュースがあったが、酷寒の北海道も暖房費の節約は死に直結しかねない。1973(昭和48)年12月13日号の「週刊新潮」では、灯油の高値が続くなか、帯広市で勃発した市役所と業者の激しいバトルの内幕を伝えている。

帯広“石油戦争”の内幕

▲「週刊新潮」’73年12月13日号

 この年(1973年)、通産省は「灯油1缶あたり380円」という通達を出していた。当時の通産大臣は中曽根康弘氏。この政策について、〈「これは物価の天王山。特攻隊精神で行く」〉と、中曽根氏らしいボキャブラリーで勇ましく貫徹を訴えていた。

 背景にあったのは、10月から表面化した第1次オイルショックだ。庶民がトイレットペーパーを買い占めた大騒動はいまなお語り草だが、その後、「狂乱物価」と称される深刻なインフレが進行することになったのである。

 だが、通産省の号令虚しく、「灯油1缶380円」の上限設定は有名無実化していた。
〈三百八十円で手に入れた消費者は、全国でもきわめて少なかった。業界では、最初から守る気がなかったフシすらある。すっかりナメられていたのである〉

 完全な売り手市場であったから、業者側が強気になるのは必然だろう。こうしたお粗末な結果に、〈もっとも、声だけ大きくて実効の伴わないのは、この内閣の“お家芸”でもあるけれど……〉と皮肉っているが、半世紀を経て“お家芸”がしっかり踏襲されているのが情けない。

 特集記事では、通達が無視された東京での事例を紹介したのち、帯広市の話題を取り上げている。
〈帯広市では、この九月から、市内の業者と大口需要者である市役所の間に、激烈な戦端が開かれていた。業者側が市で使うガソリン、軽油、灯油、重油について、見積書で全面的に値上げを通告してきたからである〉

 見積書に記載された灯油の金額は、1缶換算で450円。380円の通達を大幅に上回っており、当然、市側はこの要求を突き返した。すると、業者側は11月1日から供給をストップするという強硬手段に出たのである。そのため、翌日から15日間、役所内の暖房はすべて止まってしまった。

 野崎政一総務課長は、厳しい表情で怒りをぶちまける。
〈「どの業者も、見積もりの内容は全部同じ。ここでは競争の原則はないんです。しかも官公庁関係はウチだけじゃなく、ほかもまったく同じなんですね。証拠はないが、明らかに協定していると疑わざるを得ない。こちらは、市民が納得のいく値上げの理由を示せと求めたが、向うは“この値段でなきゃ売らない”の一点張り。十一月一日から実力行使され、ホトホト弱りました。こちらは北国だから、十一月になると、暖房なしではいられないのです」〉

 結局、このバトルは札幌通産局の仲介により、11月27日に「1缶378円」で妥結したものの、業者側が簡単に白旗をあげることはなかった。12月以降分の見積もりについては「1缶450円」と、当初の価格に戻してきたのだ。

 野崎課長はこう続ける。
〈「もちろん、こちらはそう簡単に受け入れるわけにいかんが、仲介役の札幌通産局からして、実に頼りないのです。十一月のストップのとき、市長は札幌に出向き、なんとかしてもらいたいと陳情したんです。ところが、通産局の答えは、“いや、まあ自主的に何とか”といったもので、“通産局は何をするところか”と怒って帰ってきました」〉

 一方、悪者呼ばわりされた業者側の言い分はこうだ。帯広地方石油販売業協同組合の内田芳三副理事長は、余裕綽々の様子で反論する。

〈「帯広では、一㍑あたり二十二、三円(一罐あたり三百九十六~四百十四円)が、正常な価格としてあったんです。われわれ北海道の業者は、使命として、一般家庭に低廉かつ安定した供給をやらねばならん。ですから、市役所のような大口には、高く買っていただかなければなりません。要はサウジアラビアのヤマニ石油相を見習わんといかん。限りある資源を、少しでも細く長く供給していかにゃなりません。サウジアラビアと十勝のすみっこじゃ、スケールは違うが、思いは同じですよ」〉

 サウジアラビアまで引き合いに出すあたり、なかなか手ごわい相手であることが伝わってくる。ただ、各業者の見積書が判で押したように同額だったという談合疑惑については、〈「それは、まあ、認めたら公取委にしかられるから、認めるわけにはいかんが……」〉と、言葉を濁した。

 この灯油価格を巡るバトル、どう決着がついたのかはわからないが、狭い地方都市ゆえ、しばらくは遺恨が消えなかったに違いない。

最後の東京米

▲「サンデー毎日」’73年12月2日号

 東京は「水田」のイメージから最も遠い場所といえるだろう。しかし、半世紀前は、都内で米づくりに精を出す農家が、わずかながら残っていた。

「サンデー毎日」2日号が、猫の額ほどの土地で奮闘するコメ農家の姿を追っている。
〈都の清掃工場、団地、そしてアパート群に挟まれて、水田面積は減る一方。上からみると肩身がせまそうに、ひっそり稲が波打っていた〉

 航空写真をみると、水田部分が白線で囲われているが、確かに狭く、そして環境がよろしくない。〈品種だけは「日本晴れ」だが、スモッグに汚水のダブルパンチで収穫量は田舎の半分〉との説明に納得だ。

 ここは足立区。少し前までは区内に120軒もあったものの、都市化の波に呑み込まれて離農が相次ぎ、とうとう8軒のみに。専業農家を続けてきた中田文雄さんは〈「採算が合わないことなど、とっくにわかっていたが、先祖代々の土地を維持していくにはこれしかなかった」〉と苦い表情で話す。

 ただ、土地を売れば、莫大なカネが入ってくることも事実だった。
〈おそらくは日本一ぜいたくな米づくり。なにしろこのあたりの地価は三・三平方㍍当たり三十万円という。十アールでできる米が六俵というから、一億円の土地に肥料と労力をつぎ込んで年に六万円分の米ができる勘定なのだ〉

 損得勘定抜きに、土地への思いがコメられていたのだろう。

優雅な「嵐電」の19分

▲「サンデー毎日」’73年12月16日号

 本格的にインバウンドが回復し、各地でオーバーツーリズムの問題が浮き彫りになっている。「青い池」などの人気景勝地を有する美瑛町は今年4月、道内では初となる「オーバーツーリズム防止条例」を制定した。ただ、強制力や罰則規定がないため、その実効性は微妙なようだ。

 美瑛町とは比較にならない規模で、さまざまな難題に直面しているのが京都市。あまりの混雑に日本人観光客から敬遠される、地元住民が市バスに乗れない等々、事態は外国人観光客に嫌悪感を抱くレベルにまで深刻化しており、解決への道筋はみえない。

「サンデー毎日」16日号では、心静かに冬の京都を味わえる「文化財路線」を紹介している。その路線とは、北野白梅町と嵐山を結ぶ京福電気鉄道嵐山本線、通称「嵐電」(らんでん)だ。
〈京福電車──通称「嵐電」は薄紅色の山茶花や枝に残った艶やかな柿の実を車窓に見ながら、世にも優雅な駅名を一つ一つひろっていく〉

 始発の北野白梅町と終点の嵐山からして趣があるが、代表的な駅名を挙げると、等持院(立命館大学衣笠キャンパス前)、龍安寺、妙心寺、御室仁和寺、鳴滝、帷子ノ辻、有栖川、車折神社、鹿王院など。〈なにやら室町時代に開通した電車に乗って走っているような錯覚に襲われる〉と感想を記しているが、確かに思わず途中下車したくなる駅ばかりだ。このほか、現在は撮影所前という駅が増えているが、これは有名な東映太秦映画村のことである。

〈うれしいことにテープに録音された女性のネコなで声を聞かせたりはしない。中年を過ぎた車掌が「クルマザキ、クルマザキ」と駅名を朗唱する〉

 クルマザキは車折と書く。その後、車折神社に改められたのだが、地名の由来もまた由緒がある。後嵯峨天皇が嵐山遊行の際、神社の前で牛車の轅(ながえ)が折れ立ち往生してしまった。そこで神威を畏れた神社が、門前の石を「車折石」と称し、神号を授けたことに因む。

 ところで、この車折神社、このところ一連のジャニーズ騒動によって注目を集めている。元々、芸能の神様として信仰されており、境内には多くの芸能人が奉納した赤い玉垣がズラリと並んでいるのだが、そのなかに“ジャニーズ〇〇〇〇”と書かれたものも含まれているからだ。ジャニーズの社名が消滅する前にと、連日、多くのファンが撮影に訪れているという。

 帷子ノ辻(かたびらのつじ)も難読中の難読だが、風趣ある地名とは裏腹に、その由来にはこんな悲話が。嵯峨天皇の檀林皇后は、次々と男が言い寄るほどの美貌を誇っていたが、清廉な皇后はそれを疎ましく思っていた。自ら諸行無常の真理を示そうと、遺体を野に投げ捨てるよう遺言する。その言葉通り、遺体は野犬やカラスに食い荒らされ無残な姿に。遺体が捨てられた場所を、皇后の死装束である経帷子に因み、帷子ノ辻と呼ぶようになったという。

〈観光の季節をはずした京都。これから先、年の瀬の京は、一年のうちでもっとも静かな京である。国宝級の駅名を縫って走る嵐電には、ほとんど師走のあわただしさがない〉

 記事はこう結んでいるが、こんな魅力的な路線を外国人観光客が放っておいてくれるはずがない。現在の嵐電は、嵐のように乗客が殺到している。

珍商売「牡馬のタネ斡旋します」

▲「週刊現代」’73年12月20日号

 ハイセイコー旋風が全国を席捲していた半世紀前は、空前の競馬ブームとなっていた。「週刊現代」20日号では、このブームに乗じて誕生した「珍(チン?)商売」を紹介している。

〈人気のある種馬のタネを欲しがる馬主に、タネつけの権利を斡旋しようというもので、いってみれば“交配会社”。ところは馬産王国。北海道の日高。会社名は「ジャパン・スタリオン・ノミネーション・カンパニー」で、直訳すると「日本種馬指名会社」〉

 当時、日高地方には320頭ほどの種牡馬がいた。が、需要に供給が追い付かない状況で、人気種牡馬となれば年間270頭もの牝馬に種付けした猛者もいたとか。

〈ハイセイコーの父馬・チャイナロックなど、一回のタネつけ料がなんと二百万円だった〉
 そうなると、なんとか権利を得ようと、裏金が動くのが世の常。そこで〈「種牡馬のオーナーと牝馬主との間を明瞭に取り持ち、取引額の二%をマージンとしていただく会社を作った」〉と服部和則社長は話す。年商1億円を公言するなど、社長の鼻息は馬なみに荒かった。

 実際、この商売は成功し、1993年に同社は株式会社ジェイエスと社名を変更し、業容を拡大しつつ現在に至っている。いまや種牡馬斡旋は立派なビジネスとなっているから、先見の明があったわけだ。

 ちなみに、種付け権利の相場は上がり続け、史上最強馬ディープインパクトは、4千万円台に達したことも。北島三郎が所有していたキタサンブラックも産駒が絶好調で、さすがにディープには及ばないものの、約1千万の高値をつけている。

 記事は〈馬なればこそ、性行為あっせん業なるものも成り立つというワケ〉と結んでいるが、人気種牡馬も、そのオーナーも羨ましい限りである。