アーカイブスヘッダー

日本熱学・牛田副社長の 「自殺偽装説」を追って

 東証1部上場企業である日本熱学工業の「戦後最大」といわれた倒産劇が世間の関心を集めるなか、経理面の実権を握っていた牛田次郎副社長が、青函連絡船から投身自殺するというショッキングな事件が起きた。だが、遺体が発見されなかったうえ、副社長の死により、ずさんな経営の実態が闇に葬られたとあって、一部では「偽装自殺では」と疑う声も出ていた。「週刊文春」1974(昭和49)年6月24日号が、その背景に迫っている。

ハデな兄と正反対の性格

▲「週刊文春」’74年6月24日号

 1957(昭和32)年に設立された日本熱学(実兄の正郎氏が社長)は、空調設備ブームで急成長を遂げ、東証1部上場を果たすなど快進撃を続けていた。だが、会社は20年も持たず、総額623億円もの負債を抱え、この年の5月20日にあえなく倒産。その3日後、次郎氏は団交に出席するため、大阪本社から東京へ向かったのだった。

 放漫経営が明るみになっていただけに、糾弾の声は激しかった。
〈「今月の給料はどうなるのか」の問いに、「私財、株券などを処分すれば7000万円のカネができる。それで払う」と回答した〉のだが、役員のひとりは、〈「疲れている様子でした。ふだんから無口でおとなしい人だが、この日も終始うつむきかげんだった」〉と証言する。

 その日は新橋の旅館に宿泊。翌24日は東京本社に出社後、前夜の旅館へ戻ったが、女将に「プリンスホテルに部屋が見つかったから」と告げて立ち去り、それ以降、杳として行方がわからなくなったのである。

 そして、1週間後の6月1日、事態が急転する。
〈午前3時55分ごろ、青函連絡船「大雪丸」(青森発0時35分、函館着4時25分)のデッキ入口で、船客長が黒カバンを発見。ただちに船内放送したが、持ち主は現れず、下船後、函館鉄道公安室に引き渡され、牛田副社長の持物とわかった〉

 カバンの中には、妻への遺書が入っており、そこには自身の潔白と関係者への謝罪、子どもを強い男に育ててくれ、といった内容が記されていた。また、遺留品には「見野次郎」なる偽名を使った領収書があり、東京で姿をくらましたのち、5月26日に十和田湖畔の旅館に泊まったことが判明。さらに、28日の青森10時15分発「大雪丸」と30日の函館0時15分発「津軽丸」に乗船した際に記入した乗船名簿も見つかり、いずれも「見野次郎」と書かれていた。黒カバンが見つかったのが6月1日の青森発「大雪丸」だから、次郎氏は3度連絡船に乗ったことになる。

 目撃者こそいないものの、次郎氏の足取りは漠然とみえてきたわけだ。遺書も遺品も見つかったのに、「文春」が「自殺偽装」の仮説を展開したのはなぜか。第一の不審点としているのが、残されていなかった革靴だ。東京都監察医務院の越永四郎院長はこう指摘する。
〈「飛び込み自殺をする者は、たいていクツを脱ぐものだ」〉

 青函鉄道管理局の河口豊弘係長も懐疑的な見方を示す。
〈「投身自殺にしては遺留品が多すぎますね。それに、ふつうは残さない大金が置いてある。遺書にしても、たいていは走り書きのメモや、手帳になぐり書きするもの。この人の場合は、きちんと封書に入っています」〉

 青函連絡船からの投身自殺は年間20件くらいあり、多くの遺留品をみてきた人間の言葉だけに説得力はある。こうした状況証拠に加え、次郎氏の死が実兄の正郎社長に有利な状況をもたらすことも、「文春」が疑惑の目を向ける要因となっていた。次郎氏は総額100億円にのぼる粉飾決算や、時価発行に絡む株価操作のキーマンであったからだ。

〈もし彼が何らかの形で姿を消せば、はじめたばかりの大阪府警の捜査はデッド・ロックにのりあげることになる〉
 そうはいっても、他殺を裏付けるような事実は何もなく、「偽装自殺説」は週刊誌ならではの“脚色”という印象を禁じ得ない。松本清張氏はこう推理する。

〈「現段階では自殺といえますね。津軽海峡をえらんだのは死体を見られたくない、という心理だ。青函連絡船を往復したのも、死に場所を求めてのこと。第一の候補地は十和田湖だったろう。あれは火山湖で死体があがりにくいところだ」〉

 実際、清張氏は、十和田湖が殺人の舞台となる作品をいくつか書いている。
 この事件、「死人に口なし」とはならず、翌年、正郎社長が特別背任罪で逮捕され幕引きとなった。津軽海峡の藻屑と消えた次郎氏は何を思うのだろうか。

 ちなみに、日本熱学は日拓ホームフライヤーズの売却先として名前が取り沙汰されたことがある。球団にも触手を伸ばしたのは、目立ちたがりの正郎社長らしいが、日本ハムに決まって本当に良かったと思う。

ある昭和史・激動の三代

▲「週刊朝日」’74年6月14日号

 北海道を舞台とした映画は、歴史ものから現代ものまで数多い。最近ではアイヌ埋蔵金を巡る争奪戦を描いた『ゴールデンカムイ』が話題を集めているが、「週刊朝日」14日号では、当時としては破格の2億8千万円もの制作費を投じた超大作『流れの譜』の旭川ロケの模様を伝えている。

〈旭川市に時ならず出現した出征兵士の一群と、それを見送る国防婦人会──この時代を錯覚しそうな光景は、松竹映画『流れの譜』旭川ロケの一場面〉

 同作品は「動乱」と「夜明け」の2部構成。田村高廣、笠智衆、司葉子、田宮二郎、岩下志麻、高橋洋子、松坂慶子、市川團十郎、近藤正臣、竹脇無我、森田健作と、出演者は豪華な布陣だ。

〈原作は、屯田兵の息子である剛毅な帝国軍人と、左翼運動や医学に自らの道を見いだす彼の息子たち、そして学園紛争の波にもまれる孫たちの、父子三代が生きた“ある昭和史”〉

 原作者の菅忠淳氏は屯田兵3世で、「週刊朝日」が募集した「わが家の三代」で佳作に選ばれた手記を映画化したもの。旭川ロケでは、市内の高校生200人と町内会の奥さんたち100人もエキストラで撮影に参加した。

〈司葉子は、大蔵事務次官夫人としてブラジル訪問から帰国した翌日のロケだった〉〈高橋洋子は「北の家族」以来の北海道ロケで人気抜群〉
 司の夫は自民党衆議の相澤英之。ブラジルから旭川とは、さすがの女優魂といえる。ちなみに、3男の嫁が元Winkの相田翔子だ。

 高橋がヒロインを演じた連続テレビ小説『北の家族』は函館が舞台で、最高視聴率は実に51・8%を記録した。この年の3月に放送が終わったばかりなので、道産子から大歓迎を受けたのだった。

 今年は1874(明治7)年の屯田兵制度創設から150年、1904(明治37)年の制度廃止から120年の節目に当たる。北海道の礎を築いた先人の労苦に、改めて感謝したいと思う。

北海道の無 人 駅 “幸福”さんが大人気!!

▲「週刊朝日」’74年6月21日号

 かつて北海道のあるローカル線が、全国区の注目を集め、空前のブームを巻き起こしたことがあった。舞台は帯広と広尾を結んでいた広尾線。帯広郊外にある「幸福」駅に観光客が殺到し、切符が飛ぶように売れたのだ。「週刊朝日」21日号が、その人気ぶりを紹介している。

〈北海道の国鉄無人駅が、突如、スターダムにのしあがった。帯広から襟裳岬に行く途中の、その名も「幸福駅」(広尾線)。このあたり帯広の行政区域とはいうものの、火山灰地の開拓地。四十九世帯、約二百五十人しか住んでいなくて、マイカーが普及したいまでは、一日の利用者は平均二、三人〉

 幸福の由来は、アイヌ語で「乾いた川」を意味する「幸震(さつない)」と呼ばれていた場所に、福井から多くの入植者があったことから、1文字ずつ取ったとされる。1956(昭和31)年に駅が誕生した。

〈この春休み、北海道をねり歩いていた学生カニ族の目に留まった。が、「幸福」行きのキップは、ひとつ手前の大正駅でしか売っていない。で、カニ族、わざわざ大正駅で下車して、この「幸福」行き(四十円)を手に入れて、いかにも幸福そう〉

 カニ族という言葉も懐かしい。いまでいうバックパッカーのことで、横長の大きなリュックを背負う姿がカニに似ていることからこう呼ばれた。ブンブンとバイクで走るミツバチ族ともども、彼らにとって北海道は憧れの地だったのだ。

〈これが口コミで東京、大阪、九州まで伝わったから大変。現金をそえて「百枚送って。結婚式の引出物の上にのっけたいので」てな依頼の手紙が舞い込み、六千五百枚のストックは、またたく間に底をついた〉

 口コミの影響力もあっただろうが、ブームの火付け役は、前年に放送されたNHKの『新日本紀行』である。この記事ではなぜか触れていないが、大正駅のとなりにある「愛国」駅からの「愛の国から幸福へ」の人気が社会現象にまでなったのである。

〈大正駅長の藤原長寿さんは、釧路鉄道管理局に七千枚を特注したほか、「幸福名物のメークイン(ジャガイモの一種)の花を刷り込んだ記念切符の印刷を」と、名企画を上申中〉〈なにせ北海道の国鉄三十七路線はすべて赤字。「全線に一つか二つイキな名前をつけておけばよかった」と国鉄はくやしがっている〉

 その後、広尾線は1987(昭和62)年に廃止されてしまったが、愛国、幸福の両駅は残され、多くの人に愛される「聖地」となっている。維持管理費の問題もあり、ほとんどの廃駅は解体されるのが運命だけに、「幸福」な余生といえるだろう。

たたきつけられた痴漢

▲「週刊新潮」’74年6月27日号

 警察といえば非常にお堅いイメージがあるが、地方紙のB級ニュースを集めた「週刊新潮」の人気コーナー「新聞閲覧室」(27日号)では、札幌西署の警官によるコントのような珍事件を報じている。

 ネタ元は、もちろん「北海道新聞」。〈札幌市西区で今月初めから一人歩きの女性をねらって痴漢行為を繰り返していた男が六月八日夜、女装して張り込んでいた札幌西署のお巡りさんに乱暴しようとして、暴行の現行犯、婦女暴行未遂の疑いで逮捕された〉

 御用となったのは、西区に住む19歳の私大生の少年で、手稲山口や稲穂地区で犯行を繰り返していたという。相次ぐ痴漢報告を受けて、札幌西署と道警機動隊は警戒を強化していた。

 そうしたなか、囮となったのが矢後洋次郎巡査(23)だった。
〈カツラにミニのワンピース、白いカーディガン、ハイヒールという女装の上に化粧をして、“美女”に早変わり。ハンドバッグに無線機をしのばせ出勤していた〉

 上司の命令か本人の立候補かはわからないが、〈少年Aは女装とはつゆ知らずに矢後巡査の後ろから襲って、首を絞め、乱暴しようとした〉と、見事に騙されたのだから、矢後巡査の起用はズバリ的中したわけだ。結局、少年は逆に投げ飛ばされ、あっけなく組み伏せられたのだった。少年は内向的な性格で、ガールフレンドができず、寂しさのあまり犯行に及んだと供述した。

〈お手柄の矢後巡査は、この四月、警察学校を出たばかりの新任お巡りさん〉
 活躍が実名で報じられ、誇らしい気分だったろうが、同時に多少の恥ずかしさもあったに違いない。

へ理屈のための闘争

▲「週刊新潮」’74年6月6日号

「週刊新潮」6日号から「新聞閲覧室」の北海道の話題をもうひとつ。これも「北海道新聞」が元ネタだが、こちらは「こんな馬鹿げたことが……」呆れてしまう話だ。

〈この滑稽な労使紛争はどうだろう。何でもない日常の行違いが、ついに二年越しの法廷闘争にまで狂っていく過程。労使ともども、よほど暇か、よほど低級か〉と「新潮」の記者に酷評されたのは函館郵便局だ。

〈就業時間に入ってから作業服の着替えをしたのは就業規則違反──という理由で、賃金カットと訓告の処分を受けた全逓函館支部の組合員が、処分の無効確認を求めて国を相手取り、函館地裁に訴えを起こしていた裁判の審理が、二年越しで行われている〉

 郵便局の就業規則には「作業服は就業時間外に着てはならない」と記されていた一方で、「更衣時間は就業時間に食い込んではならい」との矛盾した規定もあった。つまり、これでは更衣時間がゼロになるため守りようがない、というのが原告側の主張だった。

 原告は加賀屋孝さんら全逓組合員の20人。訴状ではこのように騒動の経緯を説明している。
〈局から支給された作業衣への着替えを就業時間が始まってから、数分食い込んで行っていたところ、当局側は就業規則違反との見解からストップウオッチで時間を計り、二十人に対し最高三百十六円から最低二百二十円の賃金をカットし、あわせて訓告処分を行った〉

 就業規則に不備があったにせよ、就業開始前に着替えをすませておくのが常識だし、ストップウオッチまで用意して、着替え時間を計るほうも計るほうだ。「新潮」の記事は、〈数分間の更衣時間をめぐって話し合いによる解決もできず、法廷にまで持ち込まれる泥沼の労使紛争は、まったく珍妙というほかない〉と結んでいる。

 デメリットの部分もあるとはいえ、郵政民営化によって不毛な労使紛争が一掃されたことは歓迎すべきことという気がする。

ピロビタン社長芳陵平八郎のやり方

▲「週刊新潮」’74年6月27日号

 昔、ピロビタンという瓶入りの乳酸飲料があったことを覚えているだろうか。フランチャイズ制の先駆けとなった芳陵平八郎社長(28)の経営方法を巡っては、加盟店からクレームや怨嗟の声が続出し、ついには社長夫人の誘拐事件まで起きる事態に。「週刊新潮」27日号が、この「ピロビタン商法」の本質に切り込んでいる。

 記事では、誘拐事件についてはほとんど触れていない。計画性も何もない場当たり的な犯行で、発生から8時間でスピード解決したからだ。事件そのものよりも、犯人が現役の営業所長と元営業所長であった点に注目している。

 犯人は2人とも北海道の人間で、帯広営業所長の加藤樫蔵(48)と元手稲営業所長の安井宏(29)。〈ともに四十七年から、それぞれ営業所長に就任。就任にあたっては、この会社特有のフランチャイズ・システムという販売権を得るために安井は四百三十万円、加藤は三百三十万円を投じている。ところが、二人は売上不振に陥った。が、芳陵社長率いるピロビタン総本社はちっとも面倒をみてくれない。で、社長に直談判して権利金を戻してもらおうと札幌を出発〉したのである。しかし、大阪にいる社長には会えずじまいで、焦った2人は恵美子夫人(22)を誘拐し、3000万円の身代金を奪おうとしたもの。

 フランチャイズである以上、自己責任という気もするが、〈“被害者同盟”ができたり、訴訟が起こされたり、“あこぎな”商法が国会で取り上げられたり〉と、誘拐事件では“被害者”である芳陵社長が“加害者”のように報じられることも珍しくなかった。

 被害者によれば、甘言を弄して高額な権利金を徴収するが、地区ごとに厳しいノルマがあり、未達の者は営業権を剥奪されるうえ、テレビ宣伝料、サンプル代、拡販用のチラシ代、景品代など「なんやかんや金を取られる」のだという。また、営業所に対しては、傘下に専売所を12作れば360万円が入るといった、ネズミ講まがいの手法で尻を叩いていた。

〈安井や加藤と同じ北海道で営業所長をしていた人の中には、自殺した人もおり、本社への納入金が払えないために、家財を差し押さえられた人もいる〉〈差し押さえに現れた執行吏は「こんなきびしい執行はみたことがない」と漏らしながら赤紙を張っていた〉

 健康増進を謳うピロビタンの舞台裏では、フランチャイズ加盟者の心の健康を損ねるような経営陣との対立があったのだ。その後、ピロビタン商法が破綻したことは言うまでもない。

北海道の大久保事件

▲「週刊新潮」’74年6月13日号

 のどかな奈井江町で“第二の大久保清”と称される事件が起き、「週刊新潮」13日号が犯人・晴山広元(40)の素顔に迫っている。大久保清とは、8人の女性を暴行・殺害し、前年に死刑判決を下された昭和史に悪名を残す鬼畜だ。

〈大久保の事件の記憶がまだ生々しい四十七年の五月と八月、いずれも土曜の晩に二つの事件は起きている〉

 その事件とは、札幌の料理学校に通う19歳とデパート店員19歳の全裸死体が笹藪に捨てられていたというもの。ただ、この札幌で起きた未解決事件の犯人が晴山とわかったのは、本人の自供があったからだった。

〈五月十一日、奈井江町で買い物帰りの主婦(40)が乗用車で近づいてきた男に首を絞められ、失神したところを乱暴される事件が発生した〉

 気丈な被害者が、犯人の特徴を詳細に伝えたことで、奈井江署は2週間後、重機運転手の晴山を逮捕したのである。だが、これで婦女暴行事件が一件落着と思いきや、晴山が「実はほかにも2件やっている」と切り出し、にわかに緊張が走ったのだった。

〈晴山広元は昨年五月、妻と離婚し、十月からは奈井江町に移り、子供二人を引き取って住んでいた〉
 出身は八雲町で、昭和37年に空知管内のでんぷん工場に勤務し、そこで宮城県出身の女性と知り合い結婚した。だが、奈井江町へ移った頃には結婚生活は完全に破綻。動機について、〈「妻が外出先から帰らずムシャクシャして酒を飲み、女でもいたずらしてやろうと……」〉と供述している。

 重機運転手という仕事柄、晴山の体には油の臭いが染み付いていたが、〈妻は「油くさいから近寄らないで」と嫌がり、公然と浮気する。春山が自宅にいても、夜中に男が堂々と妻を迎えに来る〉というから、良妻でなかったことは確かだったようだ。もちろん、だからといって愚劣な犯行が情状酌量されるものではない。

 それにしても、自供をもとに逮捕されたのは幸いだった。野放しにしていたら、大久保事件と同じく、さらに犠牲者が増えていたに違いない。