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「貞鳳」次官の登庁で北海道開発庁お役人のヤル気

 政務次官(現在の大臣政務官)というポストは大臣の椅子を狙う議員にとって重要な意味合いを持っていた。50年前の田中角栄政権下で、人気講談師として一世を風靡し、3年前に参議初当選を果たしたばかりの一竜斎貞鳳氏が北海道開発庁(2001年に中央省庁再編で国土交通省に統合)の政務次官に任命されたから政界はちょっとした騒ぎに。1974(昭和49)年8月15日号の「週刊新潮」が、「何もできないタレント議員」との前評判とは裏腹に、意外な高評価を得ていた「貞鳳政務次官」のハッスルぶりを伝えている。

今泉政務次官って誰だ?

▲「週刊新潮」’74年8月15日号

 講談師・一竜斎貞鳳は、江戸屋猫八、三遊亭小金馬とともに、NHKの「お笑い三人組」で大人気を博し、「全国区」で名前と顔を売った。政治の世界に転身した際、高い知名度がプラスになったことは想像に難くない。タレント出身議員がわずか3年で政務次官に就任したのは初めてのケースとあって、多方面で注目を集めていた。

〈「まじめで意欲的ですよ。昭和二十五年に北海道開発庁ができて以来、三十一代目の政務次官になるわけですが、“役所に来るほうが珍しい”といわれるポストなのに、十時頃には登庁されますね。事務次官より早いこともあり、こんな政務次官、開庁以来、初めてじゃないですか」〉

 貞鳳氏の仕事ぶりを目にしている「側近」のひとりはこう絶賛する。
 とはいえ、タレント議員を下に見る風潮は根強く、否定的な声がなかったわけではない。

〈「まあ、総理からすれば、北海道開発庁なんて、あってもなくてもいいんでしょう。利用する価値があるとすれば、長官と政務次官のポストがなんらかの取引材料になるか、政治家の出世欲と名誉欲を満足させるためのポストぐらいにしか思っていないんですよ。でも、町村金五さんという長官にはこの人以外にないという人が就任しながら、それを補佐する政務次官に芸能人をもってくるとはなんですか。こんな役所をバカにした人事はないですよ」〉

 道産子が聞いたら不愉快な発言であるが、当時の北海道開発庁の位置付けはその程度であったのだろう。
 就任から1ヵ月、貞鳳氏は2泊3日のスケジュールで、初めて北海道の地を踏んだのだった。

〈現地の北海道開発局では、新政務次官に「今泉正二」という人が決まったと聞かされて「へえ、今泉ってどんな人だっけ。聞いたこともない名前だなあ」と、職員一同、キョトンとしていたそうである。で、その人物の“正体”が分かった途端、今度は「ありゃあ」と嘆息が漏れたという〉

 嘆息には、驚き、失望、有名人を迎える重圧など、さまざまな感情が込められていたのだろう。しかし、実際に本人と接したのちは、ほとんどの職員が好印象に変わっていた。
〈「テレビとは印象が違うんですね。非常にまじめで、芸能人という軽薄な感じが全然ない」〉

 そして、幹部たちとの夕食会では、得意の話術で、苦労話や下ネタを面白おかしく披露。ある幹部は、〈「“こちらがおもてなしするところを、こっちがもてなされてしまいました”といったぐらいで、“きょうはタダで話を聞かせてもらったなあ”という者もいましたよ」〉と振り返る。

 まさに講談師の面目躍如といえる。
 手応えを感じてか、本人はヤル気満々だ。

〈「東大出の秀才官僚に、東大では教わらないことを教えてやりたい。血の通った行政は、ある程度、ざっくばらんにやらなきゃダメですよ」〉〈「堂垣内知事とも話し合いましたが、北海道というところは、何もないところにモノをつくるようなもので、その点を大蔵省に訴えたい」〉

「次の選挙で落選しても、二度と芸能界には戻らない」と退路を断ち、臨んだ2期目の参院選では無念の敗北。だが、“公約”を守り、精力的に講演活動などを行い、表舞台にカムバックすることはなかった。

 貞鳳センセイとしての実績はさておき、国のトップが国民を欺いてばかりの“ペテン師”では、“講談師”よりもよほどタチが悪い。

野球もイケるぞ日本ハムケキッチ投手

▲「週刊文春」’74年8月12日号

 苦しい1年目のシーズンを戦っていた日本ハムファイターズが、前代未聞の夫婦交換というスキャンダルを起こし「スワッピング投手」と揶揄されたマイケル・ケキッチ投手を獲得した話題を前号で取り上げた。よほど読者の関心が高かったらしく、週刊各誌はあれやこれやと続報を載せている。「性の王者たち」と題した「週刊文春」12日号の特集をみていこう。

 以下の会話は、ある日の2軍の練習中とのこと。
〈「オイ、こんど来る外人には何とアイサツすりゃいいんだ?」「ハローだよ」「ハローぐらいは知ってるサ。問題はそのあとだ」「カンタンじゃねえか。ハロー、ミスター・スワップ!」「バカ野郎、スワップといっただけでブッ飛ばされるゾ」〉

 なにせ騒動の内容が内容だけに、球団関係者はかなりナーバスになっていた。
〈三原脩球団社長はいっさい「ノーコメント」だし、中西太監督はうるさい記者団にむかって、「お前さんがたはグラウンドでのケキッチを見てりゃいいんだよ。夫婦交換だとかスワップだとか、私生活のことまでクビをつっこむことはねえと思うがね。人間、ナマ身だもの、ふれてもらいたくないキズの一つや二つは誰だってあるんだよ。そうじゃござんせんかい?」〉

 一方、ケキッチ本人も羽田空港へマリリン「新夫人」を出迎えた際、硬い表情で記者の質問には答えず、2人の「新しい」子どもを抱えて逃げ出す始末。プライベートばかり追いかけるマスコミの姿勢に立腹したケキッチは、後日、日本ハム担当の記者に食ってかかったのだが、記者の返しがなんとも痛快だ。

〈「もう日本じゃ“大リーガー”なんて珍しくもなんともないんですよ。スワッピングした男だからニュースになるんだ。あんたの商品価値は一にも二にも“夫婦交換した投手”にあることを肝に銘じておいてもらいたいですな」〉

 そこまで言わなくとも、という気もするが、実力未知数との評価だったケキッチとすれば、圧倒的な成績で周囲を黙らせるほかなかった。
 ケキッチの行動に問題があるとはいえ、同情すべき点もないわけではない。

〈前夫人のスーザンが大リーグきってのプレイボーイと評判のピーターソン投手とわりない仲になっていった。なんせケキッチとピーターソン、ちと役者が違いすぎた〉

 ピーターソンが名門ヤンキースのエース格であるのに対し、ケキッチのほうはギリギリ1軍というレベルであり、年俸も3倍以上の差があった。また、片田舎出身の野暮ったいケキッチとは対照的に、スーザン夫人は「ビバリーヒルズが似合う美人」といわれており、破局前からすれ違いも多かったようだ。

 前年3月、夫婦交換に関する記者会見が開かれたのだが、スーザン夫人は〈「私とピーターソンとお互い、こんなにひかれあうとは思いませんでしたわ。私自身、自分の真剣さにビックリしていますの」〉と言ってのけ、〈「私たちはワイルド・スワッピングじゃありません。真面目なライフ・スワッピングです。安っぽく見ないでください」〉と、好奇の視線を向けるマスコミに釘を刺したというから肝が据わっている。

 ケキッチ自身、心中期するものがあったのだろう。〈「心機一転するつもりで日本に来たのだから、後期シーズンには二十試合に登板して、少なくとも十五勝はしたい」〉と意気込みを示していた。練習態度も悪くなく、同僚の白仁天選手は、〈「スワップ野郎と思っていたが、実にマジメでグラウンドと私生活を切り離してスワップのスの字も見せない。さすが大リーガーだ」〉と絶賛した。

 実際、後期の開幕から3連勝。中西監督を喜ばせたのだが──。活躍後に出てきた悪評を、「週刊新潮」8日号が報じている。

〈「五試合に登板して三勝一敗、打っても十五打数六安打と、“スワップ野郎”ケキッチ投手、八面六臂の大活躍である、中西監督など、「オヤジ(三原球団社長)が見てとっただけのことはある」と手放しのテイだが、早くも外人選手のわがままが出てきた〉

 大洋ホエールズのボイヤー選手が高級マンション暮らしと知り、アパート住まいだったケキッチが「もっといい家を世話しろ」と文句をつけたのである。助っ人外国人にアパートというのは、いまの常識では考えられない扱いではあるが、峠を過ぎていたとはいえ、ボイヤーはアメリカでの実績がケキッチの比ではなかった。ボイヤーは日本で引退し、そのまま大洋のコーチを依頼されるほどの人格者でもあった。

〈外人選手は「横の連絡」がいい。年俸、手当などはすべて筒抜けである。だが、さすがにこの“待遇改善要求”には他の外人選手もアキレ顔〉

 というのも、年俸がケキッチ以下の選手も少なくなかったからだ。やっかみもあったのだろうが、ヤクルトスワローズのロジャー選手は、〈「いつなんどきスワッピングされるかわからないから、女房には、ケキッチだけには近づくな、といってある」〉と吐き捨てた。

 いつまでも“スワップ野郎”と呼ばれ続け、野球に専心できなかったのか、3連勝の勢いはどこへやら。最終的には5勝11敗と大失速し、高級マンションどころか、アパートからも追い出されることになってしまったのは、不道徳の報いだろうか。

白寿でなおカクシャクした渋沢元治

▲「週刊朝日」’74年8月9日号

 20年ぶりとなる新紙幣の発行が始まり、1万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一の功績に改めて注目が集まっている。「週刊朝日」9日号では、その渋沢翁の甥(妹・貞の息子)にあたる渋沢元治氏の素顔に迫っているが、取材時の年齢はなんと99歳の白寿。語り口も実に明快で、まさに「矍鑠」という言葉がふさわしい。

〈「白寿を迎えられた渋沢先生の元気な姿を見て力強い限りですが、こんどは皇寿という百十一歳のお祝いも考えているのです」〉

 白寿祝賀会の席で、こう挨拶したのは80歳の大山松次郎・東大工学部名誉教授だ。111歳を皇寿と称するのは、「皇」の字を分解すると、99歳の「白」+「一」+「十」+「一」になるから。ちなみに、その次は120歳の「大還暦」なる節目があるそうだが、まだ日本人の到達者はいない。

 この会を記念して、『思い出の随想』という自伝が配られた。一高、東大工学部長、名大総長時代や郷里(埼玉県深谷市)でのエピソードが綴られており、編集・印刷を担ったのは日立製作所だった。同社には渋沢氏のための特別室が用意されていたが、「隠れた貢献があった」というのがその理由だ。日立製作所の創設者・小平浪平氏との奇縁が、日本の電気事情を大きく変える契機となったのである。

 1906(明治39)年、海外留学から帰国した渋沢氏は、通信省電気試験所に入所し、山梨県にある発電所の検査のため、飯田橋駅から列車に乗った。そこで偶然に乗り合わせたのが、同級生で東京電灯会社に勤めていた小平氏だった。

〈小平氏は真剣な顔つきで「君に相談したいことがあるから、猿橋で下車してくれないか」と持ちかけた。そして猿橋が架かっている桂川に沿った大黒屋という小さな旅館に宿をとった〉

 相談とは、日立鉱山を経営していた久原房之助氏から鉱山の電力を手伝ってほしいと請われたので、東京電灯を退職しようかと考えている、との内容だった。これを聞いた渋沢氏は、激しく反対した。

〈「いま日本の電気普及のために、水力の開発は急務中の急務じゃないか。君は技術者として、世界でも最高電圧というべき送電機の建設を担当している大変な責任者なのに、海のものとも山のものともわからぬ一企業の電力技術者になるのか」〉

 しかし、小平氏の決意は揺るがず、「山の電気応用を受け持つだけではなく、電気の機械製作もやってみるつもりだ」という言葉を信じ、最後にはがっちりと握手を交わしたのである。この夜が日立製作所へのスタートとなったのだから、運命的な邂逅といえるだろう。電気工学に詳しい渋沢氏は、小平氏にとってかけがえのない同志となったのである。

〈「伯父の青淵(栄一)翁が私に農学をやらせ、田舎に帰らせようとしたのですが、私は電気が好きで、工学部に移るまで一年半も反対されましてね」〉
 あまりにも偉大な伯父を持つと、自身が希望する道へ進むのも困難だったのだろう。

〈「歯が最初に抜けたのは九十歳になったとき。ただの一本でしたが」〉〈「父は数えで七十歳、母は五十九歳、弟は六十五歳で亡くなりました。青淵翁が九十二歳ですから、私の家系では一番の高齢」〉と話す渋沢氏だが、若い頃はやわらかいものしか食べられないほど胃弱で病気がちだった。31歳のとき、日比谷の胃腸病院の名医・長与称吉博士に診てもらったのがきっかけで、健康について開眼し、みるみる丈夫になったのだという。

 白寿にして意気軒昂であったが、この翌年、大往生を遂げた。揮毫でよく書いていた「日々是好日」、その言葉通りの人生だったに違いない。

娘さん、タダほど高いものはないぜ

▲「週刊新潮」’74年8月29日号

「週刊新潮」29日号の「新聞閲覧室」から、北海道のB級ニュースを紹介しよう。ネタ元は8月6日付の「北海道新聞」と8月8日付の「北海タイムス」。

 北海道をヒッチハイクで旅していたアメリカ人の女子大生(19)が、トラック運転手に襲われる事件があった。

〈この女子大生は九州から北海道までヒッチハイク中で、函館市五稜郭公園付近で長距離トラックを停め、札幌に向かった。ところが、渡島管内森町付近で二人の男に乱暴され、車から降ろされたという。近くの駐在所で事情を聴かれたが言葉が通じず、やむなく札幌のアメリカ領事館を通じて道警に届け出た〉(道新)

 トラック運転手の愚劣な行為は許されるものではないが、彼女も女性ひとりのヒッチハイクには大きなリスクがあることを自覚すべきだったろう。日本=安全、日本人=善良という油断があったのかもしれない。

「北海タイムス」が続報を載せている。
〈森署は一人を婦女暴行容疑で緊急逮捕。一人を同容疑で指名手配し、行方を追っている。調べによると、二人は函館市内で遊んだ帰り、ヒッチハイクの女子大生を発見。「札幌まで行く」とだまして車に乗せ、ドアをロックして車内で乱暴。さらに勤め先の水産加工場事務所に連れ込んで乱暴を重ねた〉

 たまたま悪党に目を付けられ気の毒としか言いようがないが、当時は日本人女性が海外でのヒッチハイクで同様の事件に巻き込まれ、殺害されるケースもあった。インバウンドブームで多くの外国人女性が訪れているが、日本に対する過度な信頼は捨てて、慎重な行動を心がけてほしいと思う。

「余市果樹園」 農村青年の求婚騒動

▲「週刊新潮」’74年8月1日号

 農村での嫁不足は、50年前も深刻な問題だったようだ。「週刊新潮」1日号では、余市町で騒動にまでなった、農村青年の予期せぬ人気ぶりを伝えている。

〈「農家の後継者の嫁サン求む」の呼びかけをやった。ところが、七人のムコさん候補に対し、来るわ、来るわ、なんと三百人もの女性から手紙が殺到したのである〉

 仕掛け人の教育委員会主事・水門博美氏はこう話す。
〈「町でも結婚相談所を作っており、登録者が約六十人。そこでまず、果樹園の若者を女性誌に売り込んだわけですよ」〉

 まずH誌でPRしたのだが、30通ほど手紙が来たものの、ひやかしも多く反応はイマイチ。だが、次にN誌が〈「愛する人と大地に夢を賭けたい!」の大特集。「花嫁募集」を写真入りで訴えた〉ところ、300通もの大反響があったのである。

 水門氏が続ける。
〈「女の子の大半は、九州、四国から東京や大阪に働きに出ているケースですね。職業はOL、店員から幼稚園の保母、看護婦まで種々雑多。学歴は意外に高く、男はみんな余市高校園芸科卒だから、そのへんのバランスも考えなきゃいけない……」〉

 また、特定の男性に人気が偏り、7人の中には1通も手紙が来ないという気の毒な男性も。女性の「本気度」を見定める必要もあり、こうした調整作業に時間を要し、厳選した手紙が本人たちに渡ったのは2ヵ月近くも過ぎてからだった。

〈「水門先生、ヒドイよ。向こうも返事を待たされて不満に思ってるだろうな。みんなに近況と返事が遅れた理由を書いて出したけど……」〉
 6人を紹介された、一番人気の下館孝三さん(25)は、こうぼやく。

 新潮の記事は〈「幸福」という名の駅に若者たちが殺到する昨今──。北海道には幸福がいっぱい転がっているとでも思っているのだろうか〉と、少々皮肉まじりに結んでいるが、求婚大作戦の結末がどうなったのか気になるところだ。

愛国から幸福へ

▲「週刊新潮」’74年8月15日号

「週刊新潮」15日号に、秀逸な広告をみつけた。

〈愛の国から幸福へ──ささやかな夢を1枚の小さなキップに託して、いま国鉄広尾線(帯広─広尾)の愛国駅から幸福駅ゆきの切符が、ヤングの間でひっぱりだこ。でもご存じでしょうか。愛国から幸福へはどうしても《大正》を通らずには行けません。《大正》は幸福への扉です〉

 広告主は大正海上火災。契約者に限らず、3000人に切符をプレゼントする企画で、これはその告知である。当選者はつかの間の幸福を感じたに違いない。