
「わが学びしころ、青春の日々」
今年8月14日、北海道大学は創基150年を迎える。数多くの著名人を輩出してきた北の名門大学であり、道外出身者や外国人留学生の比率が高まったとはいえ、道産子にとって「北大」のネームバリューはいまも絶大だ。1976(昭和51)年6月17日号の「週刊現代」では、50年前の創基100年にあわせ、各界で活躍する北大出身者の思い出話を紹介している。全国屈指の開放的なキャンパスで知られる北大だが、かつては牧歌的なのどかさに包まれていたようだ。
本邦初の“トマト試食会”

「現代」の特集では、北大のほか、東京大学と一橋大学も「100年」として取り上げているが、それぞれ公式サイトで、東大は2027年、一橋は2025年を「150年」としている。
〈「札幌農学校には有名人がいたが、北大出身には実に少ない。ここにいう『有名人』とは主として政財界の著名人を指すが、北大出の代議士はほとんど見出されない。また札幌農学校出身の千石輿太郎氏―昭和二十年、東久邇宮内閣の農相を除けば、内閣がいくら変わっても北大出身の大臣は見られない。その原因は当然のことながら、過去には法文系の卒業生が少なかったからである」(畠山実氏、『クラーク精神と北大東京同窓会三十年の歩み』から)〉
さすがに東大と比べれば、大物政治家が少ないというのは理解できるが、当時の北大は、そんなイメージだったらしい。ここからはОBのメッセージをみていこう。
■木原均氏(京大名誉教授、大正7年農学部卒)
〈「私が入学したのは大正元年、いまの札幌は不夜城のようにあかあかとしていますが、当時は中心街をちょっとはずれると草茫々で、道庁の北側の道などケモノ道でした。
私たちの学生時代というのは、非常に自由で、単位など関係なく、休みたければ休んでよかった。試験でカンニングしてもよかった。しかし、それも一年の一学期までで、あとはみなよく勉強しましたね。
英語は有島武郎先生に予科一年のときから約一年半、先生が学校を去られるまで教えていただいたんですが、あの先生の授業は非常に楽しみでした。
先生はちょうど『白樺』に『或る女』を書いているところでしたが、授業のときはきびしくて、私もあてられると怖いので、よく勉強しましたよ」〉
有島が母校で教職に就いていたのは約10年間だが、「有島先生」のエピソードは興味深い。木原氏が卒業した4年後の1923(大正11)年、有島が軽井沢で恋仲にあった人妻と心中(自身は妻と死別して独身だった)した事件は衝撃だったろう。
■御手洗毅氏(キャノン会長、昭和3年医学部卒)
〈「大正十年入学です。当時、学校の行事に『文武会』というのがあって、白綿帽をかぶった予科生と角帽の連中が年に一度、ポプラ並木の先の農場に学長以下先生方を集めて、全校の団らんをやるんです。一升ビンと称する大きなビンに詰めたビールを、落花生をつまみながらガブ飲みし、飲めない奴は大福モチをたらふく食べましたよ。
松茸狩りのような感じで鈴蘭狩りもやったし、あまりみなさんは知らないと思うが、トマトは私が学生のころ、日本でできはじめたもので、北海道が発祥の地なんですよ。それで当時の新入生は、歓迎会のときこのトマトを食べさせられたものですよ。私もはじめは柿かと思ったら、あの匂いでしょう。ウヘーっとやると、それを見て先輩たちがはやすんです」〉
御手洗氏は1901(明治34)年、大分県佐伯市の出身。どういう経緯で北海道へ渡ったのか詳しいことはわからないが、実家が代々の医師だった関係から医学部へ進んだようだ。在学中は恵迪寮の委員長を務めていた。学生時代からリーダーの素質があったのだろう。
御手洗氏は「トマトは北海道が発祥」と話しているが、一般的には南米が原産で、江戸時代にオランダ人によって長崎に伝わったとされる。
■堂垣内尚弘氏(北海道知事、昭和13年工学部卒)
〈「昭和六、七年ごろ全国で共産党の手入れがあって、私が予科のときに入っていた柔道部の上級生も根こそぎやられましたよ。それで五十銭ずつ出し合ってカンパしたこともあるんですが、そういう目に遭うと、三ヵ月くらい停学処分を受けて、その間に試験があるので必ず一年落第する。
私たちの一年上には二十人くらい部員がいたのですが、結局そんなことで二人しか残らず、柔道部は一年ばかりということもありましたよ。校風はまさにボーイズ・ビー・アンビシャス。大らかな空気を吸っていましたね」〉
道民にはおなじみの堂垣内氏。歴代知事で北大卒は、氏のほか堀達也氏(農学部卒)のみである。
■牟田悌三氏(タレント、昭和21年農学部卒)
〈「私は演劇が好きで、予科のころから学生演劇をやっていた。で、学科は畜産を選んだ。というのも畜産は“ブラチク”の仇名があるほど、ぶらぶらする暇があるときいたんですよ。北大の恵迪寮のストームなどいまでも楽しい思い出で、鮮やかにおぼえていますよ。新入生には、何が混じっているのかまったくわからない液体を飲まされて……。あれは変な味がして呑みにくかったなあ」〉
「ケンちゃん」シリーズのお父さん役で全国区になった牟田氏は、その後も名バイプレーヤーとして息の長い役者人生を送った。札幌放送劇団への加入が俳優の道に進むきっかけになったという。
■三浦雄一郎氏(プロスキーヤー、昭和32年獣医学部卒)
〈「北大のよさは学校の周囲に大冒険をやれる場所がいっぱいあることです。山あり、海ありで私のスキーもクラブ活動のスキー部に入って本格的になった。このときクラブに私を誘ったのが本庄丕で、彼はいまマサチューセッツ工科大学のパーマネントプロフェッサー、ま、永久教授で、ウッズホール海洋研究所の世界トップ学者として大活躍していますよ。
いや、私も学者になるつもりで、実は獣医薬理学研究所の助手を一年ほどしていたのですが、気が変わって、南米でガウチョになるつもりで、大学の牧場で馬に乗ったりしていたんですよ。それで結局、卒業後三年ほど大学に残っただけで、この道に入っちゃったんです」〉
今となれば、学者にならなくて正解だったといえるだろう。80歳でエベレスト登頂を果たすなど、数々の偉業を打ち立ててきた三浦氏は、93歳にしてスキーを楽しんでいるというから、超人というほかない。
緑があふれる北大のキャンパスは、市民の憩いの場でもある。150年の歴史に思いを馳せながら、都心とは思えない広大な構内を散策してみてはいかがだろうか。
“知床の岬”に林立する「漁師御殿」

本格的な観光シーズンを迎え、世界遺産・知床も大いに賑わいをみせている。近年は観光業に注目が集まる知床エリアだが、元々はサケをはじめとする漁業で発展してきた。「週刊文春」24日号が、豊漁に恵まれ、羽振りのいい生活を送る漁師たちの実態に迫っている。
〈知床半島に押し寄せたサケの大群が小さな町に異変を起こした。四ヵ月で500万円かせいだ若者。そのカネを目当てに群がるセールスマン。まだ寒風が吹く知床に熱気がムンムン〉
文春記者がまず向かったのは、知床半島の基部に位置する標津町。豪邸の主で、町議会議員と漁業組合理事を務めるサケの定置網業者の菊池十一氏は、昔話から切り出した。
〈「終戦後、たいへんな貧乏をしました。五百尾しか獲れないときもあったんですよ。食事や風呂は雇っている漁師が先ですから、味噌汁は実無し、風呂は大勢入ったあとで湯量が少なく臭いんです。私は浅臭風呂と呼んでいましたよ」〉
しかし、状況は一変し、この前年は約6万5千尾の水揚げを記録し、組合の収入は60億円に。菊池氏は近況について、こう続ける。
〈セールスマン? 来る、来る。漁場まで来るんですから。宝石、骨董品、カメラ、衣料品、毛皮、時計、自動車、保険、不動産。私は全部断るんです。若いもんには、へんなものをつかまされるから、俺の指定する町の店で買え、と。セールスマンのやり方はひどいもんですよ。吊るしの洋服を5万円だといって、最後に1万5000円になるんですから。まあ、うちの水揚げがかなりといっても、隣の羅臼町とはケタが違いますね。1000万クラスの船頭が多く、賄い婦でも400万くらいもらったそうですよ」〉
根室・知床海域の豊漁ぶりは、漁師たちが〈「川に石を投げるとあたるんだわ」〉〈「羅臼川に黒い背ビレの波が立った」〉などと話すほど。まさに“秋味バブル”であり、〈今年に入って発表された根室税務署管内の所得番付上位者はすべて羅臼と標津の定置網業者で占められた〉のである。
文春の記者は「ケタ違い」と教えられた羅臼町へ。佐藤一町長に話を聞くと、好景気は認めつつも、こんな悩みを打ち明けられた。
〈「アキアジの水揚げが86億円といっても、そのうちの三割は出稼ぎに来ている漁師に支払われる。彼らはまず地元にカネを落とさないからね。なにしろカネが入ると郷里の銀行員が駅まで迎えに来る。それに羅臼は景気がいいというけど、その景気は大衆的ではないんだ。人口八千三百のうち漁業関係者が約半分。そのうちアキアジでもうけているのは定置網業者の何人かだけ。平均してカネがまわるということはないんだ。そうかといって、いままで定置の人は他の漁師より苦労してきたんで、いまさらねたむこともねえべ、という言い分もある。むずかしいんだ」〉
小さなコミュニティでの「格差」は波風を立てるもの。実際、嫉妬の声も少なくなかったようだ。
〈雑業漁師(コンブ、スケソウダラなど)が声を潜めていう。
「正直、本当にうらやましい。われわれは海に出ているけれど、あの人たちは船頭を雇って自分たちはオカの上にいる。ヒマがあるから組合の理事や町議をやったりして、よく遊んでいるから口が立つんだ。役職つけば家空けても母チャンに言い訳できるし、たまに家に帰るだけでいいからね。みんな、カネあまって、どうしてるべ、と思うね。羅臼で遊ぶと目立ってなに言われるかわからないから、札幌や東京で羽根のばしてるんだからね」〉
話には多少の尾ひれはあるのだろうが、持ち慣れぬ大金を手にして、浮き足立ってしまう気持ちは理解できなくはない。
文春の記事はこう結んでいる。
〈水産庁の予測では、今年の秋も“アキアジ”は豊漁が期待されているという。押し寄せるサケの群れが、この知床半島の人情に篤い素朴な人たちの心を変な方向にかきたてぬことを祈ろうではないか〉
馬こそわが恋人

ひと昔前まで競馬は「男の世界」というイメージが強かったが、いまは多くのスタッフが在籍しており、ときに危険が伴う騎手も18人を数える。北海道では、ばんえい競馬の竹ケ原茉耶さんと今井千尋さんが活躍中だ。
「週刊文春」3日号では、当時、全国で唯一の女性騎手として注目を集めた20歳の吉田弥生さんにスポットライトを当てている。
〈彼女が馬に魅せられたのは尼崎の園田競馬場で初めて馬を見た高校一年の時。馬に自分の青春を賭けてみようと決心。初代女性騎手・高橋優子さんをしたって岩手県の水沢競馬場にやってきた。そして佐々木厩舎に弟子入りして、馬と寝食を共にしながら修業を続け、三回騎手試験を受けたが三回とも不合格。さすがに気が強い弥生チャンもあきらめかけたが、もう一度だけと四回目の試験を受けたところめでたく合格とあいなったのだ〉
身長157㌢、体重48㌔と小柄な体格ながら、並々ならぬ闘志を内に秘めていたようだ。吉田さんが憧れたという高橋優子さんの経歴について触れておこう。1969年に鳴り物入りでデビュー。人気だけではなく、重賞レースを勝つなど、しっかり結果も残し、紅白歌合戦の審査員も務めた。
父の武氏は騎手兼調教師で、母のクニさんも繋駕速歩競走(二輪馬車によるレース)の騎手という競馬ファミリーだった。しかし、さらなる飛躍が期待されていたなかで悲劇に見舞われる。平地レースにおける女性騎手のパイオニアは、デビュー6年目のシーズンに急性心不全で夭折したのだ。25歳の若さだった。
〈デビュー戦は5月1日、雨の中の盛岡競馬4Rでイタツハヤという馬に騎乗したが惜しくも四着。第二戦も四着だったが、三戦目の地元・水沢競馬の5Rで見事優勝。化粧気のない顔をほころばせた〉
騎手になりたいと告げた娘に、父親は大反対だったが、応援してくれるようになったという。
〈小さい時からオテンバで男の子とケンカしても負けなかった彼女の趣味はオートバイで、3万円の月給のほとんどをつぎ込む。結婚はまだまだ先のことで、当分は馬が恋人だそうだ〉
吉田さんはデビュー8年目の1983年に新田守騎手(現調教師)と結婚。その2年後に引退した。
「午年」の今年、リアル“ウマ娘”たちが、各地の競馬場を沸かせてくれるに違いない。
ソ連へ密出国したい男

ロシアによるウクライナ侵攻以来、日露間の交流は途絶しているが、こんな状況でも、渡航したいと願っている人は少なからず存在しているに違いない。
全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」3日号の「新聞閲覧室」では、なんとソ連に密出国を企てた奇特な男の話題を取り上げている。ネタ元は「北海タイムス」。
〈ゴムボートでソ連に密出国を企てた男が五月十六日、釧路署に逮捕された。この男は後志管内岩内町出身、住所不定、無職・中川清こと田畑誠(47)。十六日午前十時五十分頃、神奈川方面から無賃乗車で釧路駅に降りたところを鉄道公安官に捕まり、釧路署に引き渡された。同署で調べたところ、ゴムボートやオール、空気ポンプなどを所持しており、「ノサップ岬からゴムボートでソ連の水晶島に渡るつもりだった」と自供したため、出入国管理令違反(密出国企図罪)で逮捕した〉
なぜ警察にマークされていたのかは不明だが、所持品からして尋常ではなく、明らかに不審な人物であったことは確かだろう。
実際、田畑には「前科」があった。前年の6月にも、同様にノサップ岬からゴムボートでの密出国を企てて身柄を確保され、懲役六月の判決を受け、同年11月に網走刑務所を出所したばかりだった。にもかかわらず、性懲りもなく再犯に及んだのだから、よほどソ連が恋しかったらしい。しかも、前年だけではなく、過去4度も失敗していたというのだから呆れる。
動機については、〈「日本にいてもいい働き口がないので、ソ連か北朝鮮でいい暮らしをしたかった」〉とのこと。当時はまだ日本が世界有数の経済大国だった時代であり、おそらく言葉もわからないであろう中年男がソ連や北朝鮮に渡ったところでロクな目に遭わないことは自明だが、社会主義的な思想背景はなかったという。
密入国といえば、かつては「蛇頭」と呼ばれるブローカーの手引きにより、続々と出稼ぎ目当ての中国人が上陸したものだが、「安い円の貧しいニッポン」は、中国はおろか東南アジアの国々からも相手にされなくなってしまった。「ニッポンでひと稼ぎを」と憧れを持たれていた時代が懐かしい。
札幌オープン「誤球」誤認事件の怪

北海道も本格的なゴルフシーズンを迎えたが、今年もクマの出没に注意しながらのプレーとなりそうだ。
50年前の6月10~13日に札幌国際GCで開催された「札幌とうきゅうオープン・ゴルフトーナメント」では、ちょっとした珍事がテレビ中継でも流れ、全国のゴルフファンをざわつかせた。「週刊新潮」24日号では、その騒動の顛末を伝えている。
〈テレビ・レポーターの一言から、なんとも後味の悪い幕切れとなってしまった〉
問題のシーンは、最終日の18番ホール。首位を走る豪州のビル・ダンク選手が第3打に入ろうとしたとき、TBSのレポーターが、確信に満ちた口調でこうアピールしたのだ。
〈「誤球です。あれは金井(パートナー)のボールです」〉
しかし、プレーはそのまま続行され、金井も第3打を打ち、グリーン上でボールをマークして拾い上げた。
〈「誤球」であるなら、当然、この時点で気づくはずだ。だが、件のレポーター氏はガンとして主張を曲げず、「ダンクは2ペナルティー、元の位置に戻って打ち直しだ……」〉
この発言にギャラリーが騒ぎ始めたため、大会役員がホールドアウト後、両者のボールを確認。結局、「誤球ではなかった」と裁定して一件落着となったのだが――。
解説者の岩田禎夫氏も〈「金井君がボールを拾い上げて気づかないのだから、問題はないのでしょう」〉との見解を示したが、TBSは訂正も謝罪も一切なし。レポーターがなぜ勘違いしたのかはわからないが、いまなら炎上必至の“放送事故”といえるだろう。「新潮」の記事は〈TBS側はガンコなレポーター氏に、一言謝らせるくらいの配慮はあってしかるべき〉と結んでいる。「誤球」と「誤解」したレポーターの態度は、些か潔さに欠けていたようだ。
1973年にスタートした同大会は1998年に幕を閉じたが、歴代優勝者には、青木功、杉原輝雄、尾崎直道らビッグネームが並んでいる。
