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私の人生――決断の瞬間 日本ハム社長大社義規氏【1971年3月】

プロ野球チームが強くなり、ファンの支持を得るには、優秀な選手や監督・コーチだけではなく、情熱を持ったオーナーの存在も欠かせない。その点、北海道日本ハムファイターズは恵まれていたといえるだろう。大社義規初代オーナーは「カネは出しても口は出さない」という信念を貫き、北海道にファイターズを根付かせた功労者であった。1971(昭和46)年3月14日号の「サンデー毎日」では、当時、日本ハムの社長を務めていた大社氏の卓越した経営手腕に迫っている。

三年前に〝先見の明〟

〈“公害元年”といわれた昭和四十五年は、一方で消費者パワーの活躍が、大きくクローズアップされた年でもある〉
 その消費者パワーをいち早く経営に反映させる“先見の明”を持っていたのが、日本ハム社長の大社義規であった。この3年前から、消費者から公募した「奥さま重役会」なるシステムを導入し、生の声を集めて商品開発の参考としていたのだ。
〈「それまでモニター制度を採用していたのですが、これではなかなか意思の疎通が十分でない。重役会となれば、こちらからも役員が出席して、直接意見の交換ができる。それがたいへん役に立ちますね」〉
この「奥さま重役会」は大好評で、月間売り上げ1億3千万円という大ヒット商品「ブンタック・ソーセージ」の発売につながった。子どもが好きなチーズを入れたことがヒットの要因だが、これも奥さまのアイデアだった。
日本ハムのルーツは徳島ハムである。1963(昭和38)年に鳥清ハムとの合併により誕生した会社だ。徳島時代から大社氏は先を見据えた経営手腕で業界の話題をさらっていた。
〈すでに二十八年から、大社さんは大学卒の計画採用に踏切っていた。むろん、業界では初めてのことだった。それと同時に、生産設備の合理化にも思い切って金をかけた。三十一年には大阪に近代工場を建設している。「ハム工場で鉄筋というのは、おそらく業界でそれまでなかったでしょう」〉
世界最大の食肉企業といわれる米国のスイフト社との提携でも、日本ハムの存在感が際立った。プリマ、伊藤とのハム大手間のシェア争いが激化するなかの決断であったが、その契約内容は〈①契約中は他のメーカーに資本参加しない、②日本ハムは一定のブランド使用料(売上げの一%足らず)を払う、③つくる製品は日本側が選ぶ、④契約を破棄したあと三年間、スイフトは日本国内で製造販売をしない〉――というもので、〈「日本銀行がこれだけ有利な契約をしている日本の企業は知らないと驚いた」〉という。
海千山千のスイフト社相手にこれだけの好条件を引き出せたのは、大社氏との強固な信頼関係があればこそ、といえるだろう。スイフト社との提携もまた、〈「近い将来、輸入自由化は必至なのですが、その時、製品をアメリカから運んで来るのでは、手間もかかるし、販売網の確立も大変。第一、日本人の嗜好に合うかどうかが問題です。日本の技術とミックスし、こちらの販売ルートにのせれば、向こうとしても安心ですからね」〉という“先見の明”に基づく決断だった。
実はこの10年前にも資本提携の打診があったのだが、当時の条件は、スイフト者側が35%の株式を保有するというもの。〈三五%を握られては一大事。徳島ハムの資本金は二億五千万円。アメリカのビッグ20の中に入る巨大企業にくらべると、まさに吹けば飛ぶような存在〉であり、「ハッキリとNO」と即答したのだった。しかし、この潔い態度が逆に好結果を生むことになるのだから面白い。
〈「断りっぷりがよかったんですかね。妙に友好関係がつづきまして」〉〈「いってみれば、十年越しの見合いですかな」〉
その後、大社氏は1974(昭和49)年に日拓フライヤーズを買収し、日本ハムファイターズが誕生。2004(平成16)年にフランチャイズを北海道に移し、その翌年に90歳で亡くなった。もう1年存命ならば、44年ぶりの日本一に立ち会えたのだが、養子の啓二オーナーが遺影を胸に胴上げされるシーンは感動的であった。義規氏の「100」、啓二氏の「101」、2人の元オーナーの背番号は永久欠番となっている。また、義規氏は2009(平成21)年に野球殿堂にも選出されたが、オーナーとしては異例のことだった。
近年、成績不振が続く日ハムだが、今年こそは日本一を奪還し、北広島移転前に、冥界で応援している義規氏に嬉しい報告を届けてほしい。

▲「サンデー毎日」’71年3月14日号

話題集中の町〝問題の焦点〟

「週刊現代」11日号が、明暗硬軟さまざまな話題で注目を集めている全国のスポットを取り上げている。そのなかから、いくつかの場所をみていこう。北海道からは2つの町が選ばれているが、まずは知床から。
〈“地の果て”で知られた日本の最東端の半島、北海道・知床半島が、歌謡曲「知床旅情」のヒットで、にわかに注目されている。以前から若人に人気があった観光地だが、抒情的な味わいのあるこの歌のヒットで、今春からの爆発的観光ブームはまちがいのないところ〉
ここでいう『知床旅情』は、森繁久彌ではなく、加藤登紀子バージョンのほう。森繁は1960(昭和35)年に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で羅臼町に滞在中この曲を作り、5年後に発売している。
〈紺ぺきのオホーツク、男性的な断崖美、海に遊ぶトド、オットセイ、はるかに望む千島列島などがみどころだ。厳冬のオホーツク海は流氷で埋まる〉
知床は2005(平成17)年にユネスコ世界遺産に登録され、世界中から観光客が押し寄せるようになった。名曲を知る世代は少なくなったが、大自然が織りなす「知床旅情」は昔も今も変わらない。
続いては池田町。
〈十勝平野の東部に位する池田町は人口約一万四千人の普通の町だが、町民の経済の豊かさは全国有数である。その秘密は、「ワイン町長」の愛称を持つ丸谷金保町長が有志とともに始めた“町営のワイン造り”にある〉〈自生する山ブドウの利用を思いたったのが十年前。以来、「町立ブドウ・ブドウ酒研究所」を作り、研究生を国内外に派遣するなど精力的にブドウ酒にとりくんでできたのが「十勝ワイン」。今では国際品評会で上位をさらう超一流品だ〉
記事は賞賛のオンパレードだが、その丸谷金保氏は5期目の途中まで町長を務めたのち、国政に転じ参議としても活躍。2014(平成26)年、94歳で逝去した。セコマの丸谷智保会長は長男である。
〈このほか、“農家にも肉を”の構想のもとに「ミート・バンク」を作るなど、「精神的豊かさのある農村を」という丸谷町長の言葉は、町の特色をいかして進む、新しい農村づくりの方向を示すものといえよう〉
池田町はワインに加え、「池田牛」も名産に育ち、敏腕町長の壮大なプランは、いずれも“ドリームズ・カム・トゥルー”となったわけだ。観光名所の「ワイン城」(町立ブドウ・ブドウ酒研究所)がみえる池田駅のホームに降り立つと、ドリカム(ボーカルの吉田美和が同町出身)の駅メロが迎えてくれる。
続いては大阪府の吹田警察署。
〈昨年9月で幕をとじた万国博での落としものの返却期間は、3月31日できれる。300円をそえて吹田署万博遺失物センターへ連絡すれば、どこへでも送り届けてくれるのだが、いまだに3分の2が落とし主不明で残されている。カメラだけでもまだ2000台も残っているという〉
写真をみると、カメラだけではなく、さまざまな落し物が山積みになっており、警官の苦労がしのばれる。それにしても、傘ならともかく、カメラがこれだけ放置されていることに驚きを禁じ得ない。時代は高度成長期。すでにカメラは、庶民にとって贅沢品ではなくなっていたのだろうか。
最後は青森県三沢市。
〈戦後、米軍の駐留で、一寒村からまたたく間に人口4万の航空基地の町になった市の経済は、米軍人と基地で働く日本人労働者の落とす金でまかなわれている。そこへ降ってわいた基地縮小、1万人の基地労働者の整理は、この町を混乱に導いた〉
アメリカナイズされた店内の写真は、当時、最も米軍に友好的と言われていた三沢にも誕生した反戦スナックである。具体的な店名は書いていないが、おそらく「OWL(アウル)」であろう。ベトナム戦争時には、べ平連の拠点にもなった有名店だ。
〈雪深い北国の街には、基地依存経済という“日米安保の落とし子”の影がくっきりと投影されている〉
こうした問題は三沢だけではない。半世紀を経た今も、沖縄では基地に苦しめられている人と基地に助けられている人が、共存のための正解を見出せないまま、戦闘機の轟音を聞き続けている。

▲「週刊現代」’71年3月11日号

凍死する白鳥を追って

大寒波に見舞われている今冬は、水道管の凍結トラブルが相次いでいる。改めて北国の冬の厳しさを思い知らされるが、「週刊新潮」6日号の凍結ネタはショッキングだ。飢えたまま凍りつき、ただ死を待つほかない白鳥たちの悲惨な姿を追っている。
舞台は別海町(当時は別海村)の尾岱沼。この地に白鳥が集まる理由を話すのは、カメラマンの嵯峨悌二さん(51)だ。
〈「本州では密猟が少なくないんです。それに本州では白鳥の近くに必ず鴨が。これはハンター格好の獲物でしょう。銃声におどろかされるばかりか、間違って犠牲になる場合だって。エサはなくとも寒くとも、北海道でとどまっているのはそのためですよ」〉
白鳥の魅力に取りつかれて8年。すでに1万7千枚もの写真を撮影したという筋金入りの白鳥マニアで、〈「東京・東村山で喫茶店を経営(店の名も「白鳥」という)しているが、シベリアから白鳥が飛んでくる冬になると、東京にはいなくなる。猪苗代(福島)、瓢湖(新潟)と北上、そして北海道へ渡って濤沸湖、風蓮子、屈斜路湖など白鳥を追って移動する〉という渡り鳥ならぬ“渡り撮り”のような生活を送っていた。その嵯峨さんが続ける。
〈「ところがひとたび湖が氷結しはじめると、エサの水草も藻も食べられない。近くの村でエサを与えても、数が多すぎて(七~八千羽)とても行き渡らない……」〉
写真をみると、嘴が完全に凍りつきエサを食べようにも食べられない白鳥や、氷像のごとく全身が氷に覆われた白鳥など、なんとも痛ましい。こうなる前に、どこかへ避難できないものか、と思うが、凍るのはあっという間なのだろう。
別海村役場の担当者が無念そうに話す。
〈「去年は40羽が飢えて衰弱し、凍死した。凍結のひどかった年、39年には100羽を超えた。この年がいちばんひどかった。パンくずや茶ガラなどをエサとしてやるのだが、数が多いことと、河口の一ヵ所でしか与えられないので全部にはとても。まさかヘリコプターを使うわけにもいかないし。村民をはじめ、道内各地からエサを送ってもらっているが、まだまだ足りない」〉
死んだ白鳥は役場で1羽ずつ確認し、その一部は剥製にしていたという。
〈「飢えて死んだ鳥を持ち上げるとぜんぜん重さというものが感じられない。体の中がガラガラなんだ。その時の気持ち」〉という嵯峨さん。本当は元気で優雅な白鳥をレンズに収めたかったに違いない。
現在、尾岱沼の春別川河口の高台は「白鳥台」という観光スポットになっている。12月から3月にかけて、数百羽が飛来しているが、温暖化の影響か、幸い白鳥が凍死した事例はないようだ。

▲「週刊新潮」’71年3月6日号

無人島へ移住する畑正憲

故・志村けんさんの冠番組をはじめ、最近は動物番組が幅広い層の人気を集めているが、その先鞭をつけたのは、まちがいなく「ムツゴロウ先生」こと畑正憲氏だろう。東大出身のエリートで、本業は小説家・エッセイストなのだが、動物と触れ合う姿しかイメージできない人も多いに違いない。「週刊文春」1日号が、長年の夢が叶い、北海道の無人島への移住を決めた畑氏の近況を伝えている。ちなみに、記事で具体的な地名には触れていないが、移住先は浜中町の嶮暮帰(ケンボッキ)島である。
〈反対した夫人も、ムツゴロウ氏の深謀遠慮「行くぞやるぞ」のアドバルーンが成功して免疫体となっていたか、いまや一緒に暮らすことになる馬、アイヌ犬、子熊のドンベエたちとの生活を楽しみに大ハリキリである〉
島はポンと現金で一括購入したようだが、価格は如何ほどだったのか気になる。
〈世の中には、やって良いことと悪いこととある。親子三人、無人島へ移り住む、などはやって悪いの筆頭だ。人間社会は住みにくいイヤーナ渡世だ。税金が高い、空が汚い、車が多すぎる、物価が高い、住居が足りない。人間、不自由が運命だものな。畑さん、人間のくせに自由はマズイよ〉〈大体奥さんも奥さんだ。なぜ世の女房族みたいに、夫の自由を奪うことを生業と心得ていないんだろ。なんで畑さんには、そんな物判りの良い家族がくっついているんだろ。不公平じゃないか〉〈その上最も気に食わないことには、趣味と実益がぴったり合わさっている。大好きな動物と自由を満喫して、好きな文章書けば、そのままそれが商売。畑さん、せめて帰ってくるときは、苦闘の跡額に刻んで、親子三人やせおとろえて頼みます。でなきゃ、こちとら救われないや〉
タイトルは「愚痴」だが、本音の「羨望」が滲むメッセージを寄せているのは、作家・タレントとしてマルチな才能を発揮した中山千夏氏だ。多くの都会人にとって、無人島生活は憧れであっても、実際に踏み出せないのが現実だろう。
無人島移住の翌年、畑氏は浜中町に広大な「動物王国」を開設。その後の活躍は周知のとおりである。一般公開はされていないものの、いまも「動物王国」は存在しており、時折、門の外から眺めていくファンもいるという。
86歳となった現在の畑氏は、東京でマンション暮らし。意外にも「ペット不可」の物件らしい。

▲「週刊文春」’71年3月1日号

津軽 海と人と

今年は青函トンネルの本工事開始から50年である。まもなく北海道新幹線は開業5周年を迎えるが、当時は世界最長の海底トンネルが本当に実現し、しかも新幹線が疾駆する日が来ようとは、誰も想像していなかったに違いない。「週刊文春」15日号では、青森側の工区で黙々と働く男たちの姿を追っている。
〈かつて兄・源頼朝の追手をのがれ、この津軽の海沿いの道をたどった義経主従は、三厩からエゾ地へと渡ったという。そしていま、その海上の道にかわって、北海道と津軽半島を結ぶ青函トンネルが地底にのびはじめ、義経のたどった街道にも自動車の往来が目立ちはじめた〉
義経伝説の真偽はさておき、トンネル工事が地元に活気をもたらしたことは事実であった。
〈昭和38年、石田礼助前国鉄総裁の「技術屋はアドベンチャーが好きだね」のひと声ではじまった青函トンネルもいまは海底下。いよいよ今年本工事にはいる〉〈全長五十四・二キロ、資金二千億、八年がかりというこの計画が完成すると、本州北海道は十五分で結ばれ、貨物輸送能力も三倍になる〉
8年という工期は無理だったものの、大きな事故もなく難工事を成し遂げ、1988(昭和63)年の開通を実現した関係者の偉業は、後世に語り継ぐべきものといえるだろう。
〈竜飛側から掘り進んでいる海面下二四〇メートルの最先端である。「北海道側からのトンネルとうまくぶつかるのかしらン」というごく初歩的な疑問には「高低ではミリ単位、左右でもせいぜいセンチ単位の狂いしかありません」とのことである〉
誤差の少なさは日本の技術力の高さを物語るが、新幹線もJR北海道も赤字続きで、せっかくの高い技術の結晶が経営面に生かされていないのが残念だ。

▲「週刊文春」’71年3月15日号

東京駅頭二十年の風雪の末

靴磨きが並ぶ風景は過去のものとなりつつあるが、「週刊新潮」27日号では、東京駅前で靴墨を塗る副業に勤しみつつ、本業では絵の具を塗る異色の「新人画家」の素顔を紹介している。
彼の名は赤平浩一君(28)。〈浩一クンと膝をならべて、お父さんの誠一サン、お母さんのつや子サンが仕事をしている。この赤平さん一家は戦後の東京駅で草分けともいうべきクツみがき一家なのである〉
そんな環境で育った、浩一君がこの仕事を選んだのは必然であった。ただ、仕事は厳しく、誠一さんは〈「寒風吹きさらしの路上。両手はもちろんのこと、アゴまでシモヤケができて……」〉と嘆く。
丸の内署によれば、当時、年々減ってはいたものの、管内の靴磨きの数はまだ111人もおり、東京駅周辺では43人が営業していたという。それだけ需要もあったのだろう。そのなかで赤平さんは〈あの人は古い。終戦後からずっとだからねえ。気さくでいい人だともっぱら評判だよ」〉と、警官からも一目置かれる存在だった。
毎日、駅頭に座り続ける両親とは違い、浩一君は〈生活費が何とかかせげれば、すぐスケッチ旅行へ(モーレツに描きたくなれば一文なしでも無銭旅行へ)出かけてしまう〉のだった。とはいえ、〈「クツみがきのほうも手は抜きませんよ。プロですからね」〉とは本人の弁。生半可な気持ちで仕事に向き合っていたなら、誠一さんが許さなかったはずだ。
浩一君の作品に関しては、〈「まだ若いからどうとも言えませんが、色の感覚はいいんじゃないかな。素直に物を見ている作品がいい。いずれにしても、まだまだこれからですね」(此花画廊主人の池田晴子さん)〉と、本業と呼ぶには実力が不足していたようだが、後年、浩一君は画家として大成した。
昨年5月、東京の丸善で開催された個展には「赤平健次」の名前が。健次氏は浩一君の実弟であり、兄の作品も同時展示されていた。
画才に加え、靴磨きで鍛えられた根性も成功を後押ししたのかもしれない。

▲「週刊新潮」’71年3月27日号

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