道民雑誌「クォリティ」は、政治・経済をはじめ、北海道のすべてがわかる総合月刊誌です。

〈お知らせ〉月刊クォリティ2月号は1月15日発売ですが、雪害のため輸送態勢に影響が出ており、一部地域で発売が遅れます。ご了承ください。

 

週刊誌アーカイブス

  • HOME »
  • 週刊誌アーカイブス

週刊誌アーカイブスイメージ

プレ・オリってだれのおまつり? 【1971年2月】

半世紀前の札幌は、翌年に迫った冬季五輪に向け、街全体に熱気が渦巻いていた。本番の前哨戦として、2月にプレ・オリンピックが開催されたが、スキージャンプで笠谷幸生選手が大飛行をみせて一躍ヒーローとなった一方で、ビッグイベントに慣れていない主催者側の混乱ぶりが随所で目についたようだ。1971(昭和46)年2月19日号の「週刊朝日」がプレ・オリ大特集を組み、作家・評論家の虫明亜呂無氏が透徹した視点で観客不在のプレ・オリンピックを徹底的にこき下ろしている。

観客が消え、裏方が“表方”になって…

初日に恵庭で開催された女子滑降。日本選手はまったく歯が立たず、虫明氏は、〈来日した外国女子選手たちは、一流ではない。それでいて、大差をつけられた。完敗である〉と嘆き、日本選手の存在感が消えた一方で、印象に残ったものとして〈大会役員、大会関係者、大会開催でほくほく顔の商人、その他、つまりスポーツそのものの当事者である選手以外のものが浮びあがってきた。彼らは満面に笑みをうかべている。「イカッタ、イカッタ」と肩を叩き合って、喜びあっている。自画自賛のきわみである〉と厳しく批判した。
虫明氏は開会式から強い違和感を覚えていたという。怒りのトーンは収まらない。
〈不必要に多い役員行進に失望した。なぜあのようにさまにならない姿の多数多勢を、秩序もなく、行進させなければならなかったのか、理解に苦しむ。僕らは入場料を払って、役員の大行進をみせられる理由はない〉〈僕は役員の、さながら難民の群れを連想させるバタバタ行進をみながら(この時、観客の間にもあきらかに落胆の表情がかすめた)、プレ五輪も、実は国体の延長だと思った。プレ五輪も国体も同一視したように、しゃしゃり出てくる、昔変わらぬ役員根性を軽蔑する〉
役員優遇の場面は他にもみられた。
〈低料金の切符を買ったものは、積雪の上に追いやられる。貴賓室の床は見事に乾いていて、一部に絨毯まで敷かれているが、一般入場者は雪を踏んで入場式を見なければならない〉
この大会、マスコミでは大々的に喧伝されていたが、開会式の入場券の売れ行きは芳しくなかった。
〈当日売り(というより前売りの残り)は四千余枚あった。が、結局売れたのは二千二百枚にすぎなかった。最高の七百円券(一等)売場にはたいして人が集らず、二百円、三百円、五百円の二~四等席(何と古めかしい言葉よ!)売場に人が押しかけた。後者の窓口がひとつのため、たちまち混乱が生じた〉
プレとは予行演習的な意味合いもあるので、多少の改善点が出てくるのは当然といえるが、これはあまりにお粗末だ。
オリンピックの商業化が進み、いまは「観客不在」という馬鹿げたことはないものの、コロナ禍の収束がみえぬなか、世論に反して開催ありきの姿勢を崩さない組織委と政府には「国民不在」との不信感を禁じ得ない。

▲「週刊朝日」’71年2月19日号

ノーマークだった 「正田美智子さん」

「週刊新潮」13日号は、創刊15年の記念号。15年前の出来事を振り返るワイド特集を組んでおり、興味深い記事が並んでいるが、現上皇后である正田美智子さんの婚約秘話をみていこう。
〈今から十五年前、平民出身の妃殿下誕生を予想する人はほとんどなく、ひそかに取材を開始していた報道陣のメモにも「正田美智子」の名はなかった……〉
マスコミがノーマークだったのは当然だ。〈「具体的に皇太子妃候補のリストづくりをはじめたのは、昭和二十九年ごろからだったと思うが、最初は元皇族、次に元華族という具合で、さらに対象を広げたのはそのあと」(東宮御所・黒木従達侍従)〉という状況だったからだ。
記事には「平民出身」とあるが、美智子さんの祖父に当たる正田貞一郎氏は日清製粉の創業家であり、群馬県館林市にルーツを持つ正田家は、皇太子妃の有力候補に浮上するほどではなかったとはいえ、紛れもない地方の名家であった。当時、美智子さんは聖心女子大英文科の3年生。大学の成績はすこぶる優秀で、同級生のひとりは〈「それはそれは目立った存在。まさに知力と美貌と健康が完全に備わっていらっしゃる方でございました」〉と絶賛する。
そんな家柄もよく才色兼備のマドンナを世の男性が放っておくはずはなく、在学中からかなりの縁談が持ち込まれていた。
〈「気品がおありになったし、おきれいですし、わたしが存じ上げているだけでも、プロポーズしようとされた方は一人ならず、二人ならず……。でも、先方がおっしゃられる前に、いつもスマートにさらりと避けていらっしゃいましたね」〉と友人は話しているが、恋愛に熱心ではなかったようだ。
美智子さんは大学生活をエンジョイする傍ら、竹山謙三郎博士(鹿島建設顧問)が主宰する「竹山パーティー」のメンバーに加わっていた。これは上流階級の子弟たちを月1回集め、小旅行やダンスパーティー、立ち食い寿司、屋台のおでん体験など「社会見学」を実施していたもので、美智子さんは結婚話よりもこうした活動に興味を示されていたという。
その「竹山パーティー」のなかには、美智子さんの将来を予見する人物がいた。
〈「グループの一人に、トランプ占いの名手がいましてね。ある年の正月に、会員の一人一人を占った。美智子さんを占うと、その結果は、“これはなんといったらいいのか、容易ならざる運命が待ち構えている”ということになったのですよ……」〉
また、正田家と親交があった某夫人が「もう時効でしょう」と前置きしたうえ、こんな仰天エピソードを明かしている。
〈「実は、三島由紀夫さんとのお話もあったのですよ。両方のお母さまとお親しいあるご婦人が“三島さんに美智子さんはどうかしら”と申しましてね。三島さんに結婚のご意思があったかどうかはわかりませんが、“なかなか結構なお嬢さんじゃないか”とおっしゃられたということです」〉
三島由紀夫と結ばれていたなら、これもまた「容易ならざる運命」であるが、日本の運命も大きく変わっていたに違いない。

▲「週刊新潮」’71年2月13日号

東大教授若き日の思い出

 美智子さんが皇太子殿下と初めて会ったのは1957(昭和32)年8月19日。その場所は、のちにあまりにも有名になった軽井沢のテニスコートだ。しかし、このときは単なる偶然で、〈皇室関係者が“故意”に仕組んだものではない。したがって、すでに動き出していた各社報道陣も、この出会いには目もくれずにいた〉という。
当時、有力なお妃候補に挙がっていたのは、旧皇族の北白川肇子さん、伏見章子さん、旧華族の島津純子さんの3人だった。各社とも他社を出し抜くべく躍起になり、なかには〈「北白川肇子さんに決定」という“号外”のゲラ刷りを作り、宮内庁長官に示してイエスかノーかを迫った〉大新聞社もあったほど。美智子さんが報道陣のアンテナにようやく引っかかったのは、その年の暮れも押し迫った頃だった。
〈「東宮職写真展に、皇太子さま撮影の美智子さんのポートレートが出品されたからであるが、このときも記者団は、黒木侍従に「テニスのお友達です」といわれて見事にはぐらかされている〉
しかし、年が明けると、美智子さんは不動の本命となっていた。以後、11月27日の正式発表まで、美智子さんはマスコミのターゲットとなり、あまりの執拗さに、〈美智子さんが母校聖心女子大に逃げ込まれるという事件まで惹起した〉のだった。
この間、順調に縁談が進んでいたわけではない。最後の最後まで宮内庁の申し入れを断っていたというのだが、それは皇族内で根強かった「平民出身者」に対する反発を案じていたからであろう。皇太子殿下の学友は〈「十月ごろには、すっかりあきらめられ、まるで失恋した男のような表情をされていた」〉と話している。
こうした形勢不利な状況を大逆転したのは、〈皇太子ご自身による連日の“電話攻勢”〉であった。美智子さんが皇室へ入られる決意を固めたのが、発表のわずか20日前の11月8日夜。この瞬間、世の男性たちにとって美智子さんは、永遠に、絶対に手が届かない存在となったのである。
「竹山パーティー」で美智子さんに「お熱だった」と噂された、3児の父である東大教授のG氏は、いささか恐縮しながらこう述懐する。
〈「ウーン、具合悪いですよ。当時はいい人だな、と思っていましたから。ただ、大変ご立派な家庭だから、はたして学者の貧乏所帯にはどうかと思っていましたが……。人間の運命なんてわかりませんね。現在の姿からは、普通の奥さんというのは想像もできませんが」〉
その後、国民の熱烈な祝福を受け、皇太子妃になられた美智子さんは、長きにわたり完璧に重責を全うされた。結婚問題が大炎上している、あのお騒がせプリンセスとは、覚悟も気品も教養も何もかもが違い過ぎる。心穏やかに上皇后としての日々を過ごされることを願ってやまない。

成田空港 押しつぶされる北総台地

 長引くコロナ禍の影響で、東京の玄関口・成田空港は閑古鳥が鳴いている。おそらく1978年5月20日の開港以来、これほど静かな空港は初めてだろう。「週刊朝日」12日号では、急ピッチで進む成田空港建設工事の様子を伝えている。
〈農民の根強い反対を押しつぶしつつ成田空港はその姿をあらわした。空港公団の目標は「年内開港」。国鉄成田駅からのびる専用線を通って資材置場へ貨車が関東各地の砕石を運びこんでいる〉
公団の「年内開港」という目標はあまりに現実と乖離していたものの、急増する航空輸送への対応は焦眉の急であり、公団はその任務の重さを〈オリンピック、万博と同等、いや、それ以上〉と位置付けていた。地元農民の激しい抵抗が、当初は前年の10月開港を目指していた計画を大幅に遅らせることになったわけだが、話し合いによる解決には限界が見え始めていたことも事実だった。残る課題は、未買収部分の7・6㌶の土地を手に入れること。
〈買収に反対派の農民が応じるはずもなく、そこで「土地収用の事業認定」と「特定公共事業認定」なる二本の法律を使って、強制収容するハラ〉
草の根の「一坪運動」も、所詮、巨大な国家権力の前では無力だったようだ。また、現実的な話をすれば、巨額な補償金が農民の心を動かした側面もあろう。実際、代替地では移転に応じた農家の新築工事が目立っていた。
〈落花生、スイカなどが実っていた北総台地のかつての姿は、もう見るかげもありません。そして、農民を追いはらった後に、超近代的な「夢のエアポート」ができます〉
北総台地の農家は、耕地面積も広く、全体的に裕福だったという。それだけに「土」への愛着は深かった。これが東北あたりの貧農であれば、トントン拍子に土地収用が進んだに違いない。
ひっきりなしにダンプカーが行き交う物資輸送専用道路の写真がある。道路脇に空港建設とはミスマッチな馬の姿がみえるが、かつてここ三里塚には昭和天皇が乗馬を楽しまれたこともある旧宮内庁下総御料牧場があり、馬と桜が町のシンボルだった。牧場は1969(昭和44)年に栃木県への移転を余儀なくされ、跡地の一部は移転農家のための代替地に充てられた。現在、「三里塚下総御料牧場記念館」が、皇室との縁も深かった華々しい歴史と、畜産振興における多大な功績を伝えている。
このほか、滑走路のなか、孤島のように取り残された家の写真も印象的だ。
〈反対派の抵抗の根強さを象徴した団結小屋も、すぐ手前まで土地整備がすみ、あとは……〉
あとは……に続くのが、強制収容であることは説明するまでもないだろう。こうした紆余曲折を経て誕生した成田空港。一日も早くコロナ禍が収束し、賑やかで国際色豊かな「NARITA」が戻るといいのだが――。

▲「週刊朝日」’71年2月12日号

PAGETOP
Copyright © 月刊クォリティ All Rights Reserved.
このページに掲載された内容の著作権は、株式会社太陽に帰属します。 無断での複製・掲載・転載・放送等を禁じます。

※コンピューターの漢字表示制限により、一部の漢字をひらがな等で表記している場合があります。