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沖縄――27年ぶりの祖国復帰【1972年5月】

半世紀前の5月は、日本全国「沖縄」の話題で一色だった。5月15日、米軍統治下にあった沖縄が、27年ぶりに祖国復帰を果たしたのである。とはいえ、激戦の傷跡がまだ癒えないなか、米軍基地との共存を余儀なくされたこともあり、必ずしも祝賀ムードばかりではなかった。1972(昭和47)年5月26日号の「週刊朝日」は、急激な変化に戸惑いもみせる沖縄の「現実」をグラビア特集で速報している。

その前夜 沖縄の表情

トップページの写真は、米軍那覇空軍基地に着陸した自衛隊機。「日の丸」の大きさが、やけに目立つ。現地の人には「日本軍」との区別がつかなかったようだ。
〈沖縄の人たちが、まず復帰を肌で感じさせられたのは、自衛隊の進駐だった〉

死屍累々の地獄絵図と化した地上戦の凄惨な記憶がまだ生々しく残っていた沖縄県民にとって、旧日本軍を想起させる自衛隊の受け入れは、到底、容認できないことだった。ひとりの主婦と若い米兵が向き合っている写真がある。

〈「自衛隊移駐反対」の県民大会に反戦GIたちのグループがビラ配りの手伝いに来た。各基地から集まった十数人の反戦GIグループで、メンバーにはMPもいる。いまや米軍は見て見ぬふりをしている〉

ベトナム戦争のさなか、米軍内にも厭戦ムードが広がりつつあったとはいえ、沖縄県民の自衛隊反対運動に米軍が協力するという状況が、複雑な沖縄の現実を物語る。

〈ドルに代わる五百四十億円の現ナマの上陸。町は復帰前の沖縄を一目見ようと押しかけた本土からの観光客で満員。復帰の準備だけでも忙しいのに、売春防止法の実施、通貨切り替えとそれに伴う大幅な値上がりの問題、さらに知事選挙、県議選挙と、何もかもいっぺんにやってきた。いったい何からどう対応していいのかわからない、といったところで、ただただ復帰の日を迎えたのである〉

そうした大混乱のなかでも、ドルから円への切り替えは一大事であった。あちこちでバーゲンセールが催され、値上がり前に「これが私の全財産」とドルで安価なスコッチを60ダースも買い込んだスナックのママも。
〈ドルのサヨナラ・セール。いまのうちにドルを使わないと何となく損をするような気持にさせられるから妙だ〉

人々は消えゆくドルに郷愁を感じていたようだ。

〈セカセカと動きまわる本土の人の行動を評して、沖縄では「やまとぢふぇえ(大和気早)」という〉

そのセカセカ動く本土からの観光客を相手に、ひと儲けを目論むしたたかな店も現れた。

〈バー「5・15」も開店した。もちろん最大の関心事である復帰の日を、名前につけたわけ。おかげで店は珍しがり屋の本土のお客さんでいっぱい。そして復帰の話題に花が咲く〉

物見遊山気分の観光客とは違い、現地の人には重い現実が待っていた。何もかも変わりゆくなか、〈あれほど撤廃を願っていた「沖縄の基地」はほとんどそのまま残る〉ことになったからだ。辺野古キャンプ付近を取材中の朝日記者は、〈赤土がベッタリついた戦闘服。バズーカ砲をかついだ兵士もいる。中部の道路を車で走っていて、いきなり完全武装の海兵隊の行進とぶつかった。一瞬「ここはベトナムだろうか」と錯覚したのである〉と記している。

復帰から50年――沖縄本島で米軍基地が占める割合は14・6%。米軍との関係でいえば、沖縄の環境は何も変わっていないといえる。

ロシア軍の圧倒的な武力に抵抗するも、多くの市民の命が奪われ、祖国を侵略されるウクライナの人々を、一度は祖国を失った経験がある沖縄の人々はどんな思いでみつめているのだろうか。

▲「週刊朝日」’72年5月26日号

これぞ絵画の流通革命

高度成長期は、絵画が飛ぶように売れる時代でもあった。そうした時代背景下、斬新な絵画販売で大成功を収めたのが、北海道出身の竹田厳道氏だった。「週刊文春」29日号が、竹田氏の見事な画商ぶりを紹介している。

〈「去年売った絵が10億5000万円、今年はおそらく15億円はいくでしょう。利益? 利益は社員みんなで分けるんです。能力によりますがね。ま、一人平均、月40万円ってとこでしょ」〉

そう羽振りの良さを隠さない竹田氏(54)。まったくの異業種から美術の世界に飛び込み立ち上げた東京美術サロン「一枚の絵」を、わずか4年でここまで成長させた手腕は注目を集めた。

〈東京美術サロンは「画廊」をもたない。そのかわりがデパートの広い催物場。五百点から千点を一堂に集め大展示場を作る。それを毎月全国数十ヵ所で催すわけだ〉〈600万円の絵もかけるが、むしろ“2万円からのお求めやすい絵”があるのがミソ。おまけに二十四回までの月賦とあっては、前掛け姿の団地の奥サンでもすぐ買えるわけだ。画商の商法としては大革命である〉

高価なイメージがあった絵画を、一般家庭でも飾れるようにしたアイデアは素晴らしい。だが、旧態依然で排他的な既存の画商は、竹田氏の参入を快く思っていなかったようだ。日本洋画画商協同組合長の肩書きを持つ京橋・フジカワ画商の美津島竜一郎氏は〈「美術ブームやといわれてますけど、ここ二、三年、絵の値段がヘンに暴騰してますのや。どこかで大量に買いこんでいるおヒトがいるからやとか、シロウトはんの画商が急に増えたからやとかいってはりますな。まだどうもない新人の値が上がるもんやから、その上の人の値もつられて上がる。困るのはお客ですよ」〉と、嫌味たらしく話している。「シロウトはん」が竹田氏を指しているのは明白だろう。

また、業界の重鎮として知られる銀座・日動画廊の長谷川仁社長も〈「最近、シロウトの方も手を出してね。ちかく組合で問題にしようと思ってます。大量販売とか月賦とかいって、デパートで売ってますけど、どこから出たかわからん絵じゃ、あとのことが心配でしょう」〉と、こちらも「シロウト」に敵意剥き出しである。

こうした美術界の体質を嫌悪していたのが松本清張で、「魑魅魍魎の巣窟」と断じ、しばしば作品の中でダーティーな内情を暴いている。

当の竹田氏は、批判や中傷など、どこ吹く風だ。〈「いままでの画商はあまりにも権威主義的でしたよ。画廊の絨毯をそっと踏みながら大家の絵を“拝見”する、てな雰囲気でしょ。おまけに値札もつけていないんじゃ、一部のコレクター以外近づけませんよ。ボクは人生を変えるような“一枚の絵”をたくさん売らなければいけないと思うんですよ。そのために、ボクは大衆と画家の間の流通革命をしているんです」〉と熱く語る。

前段で異業種から鞍替えと書いたが、前職は「北海タイムス」の社長だった。

〈大正6年生まれ、夕張の貧乏寺の次男坊。ちなみに長男は東本願寺の内局幹部から京都産業大学の副学長になり、三男は現在、参議院議員の竹田現照氏。戦後入社した北海タイムスでも異例の出世。三十三歳で東京支社長、札幌テレビの開設も実際は彼がやり、三十六歳で取締役編成局長、四十六歳で北海タイムス社長のイス」〉

膨大な赤字に苦しんだ北海タイムス社長時代には、こんなモーレツエピソードも。
〈「フトコロには名刺、自転車の荷台に新聞を積んで、長沼から空知にかけて、田舎道を一軒一軒回りましたよ。もちろん編集長にも記者にもやらせました」〉

こうした破天荒な行動派は、守旧派との折り合いが悪く、敵も多くなりがちなのが世の常。ドロドロとした追放劇によって、社長の座を追われてしまった。ふつう、勝手知ったるマスコミ業界で再起を図りそうなものだが、スパッと見切りをつけたのが竹田氏の慧眼といえよう。その後の北海タイムスは、スッタモンダの挙句、1998(平成10)年に廃刊となった。

〈浪人一年。その間、元社長夫人は東京大井町の阪急デパートの店員になって糊口をしのぐ。そのときひらめいたのが絵の大量販売というわけだ〉

夫人の発案は、竹田氏の顔の広さもあって、トントン拍子に軌道に乗った。

〈「ボクは絵を大衆化した先駆者ですよ。画商から表彰されてもいいくらいですな」〉

株式会社「一枚の繪」は現在も銀座を拠点に絵画雑誌を発行するなど、ファンの支持を得ている。竹田氏が描いた“未来図”は、しっかりと結実し、受け継がれているようだ。

▲「週刊文春」’72年5月29日号

“標準記録”をパスした五輪映画

札幌冬季五輪の熱狂から2ヵ月余り。篠田正浩監督が手掛けた記録映画「札幌オリンピック」が、ついに五輪組織委員会の審査をパスしたという話題を「週刊文春」15日号が伝えている。

〈点検の前「問題がおこれば、5月2日からのカンヌ映画祭行きもあきらめる」と緊張のオモモチだった篠田監督も、ホッと一息ついたところ〉

前回の東京五輪では、市川崑監督の作品が「芸術か、記録か」を巡り、かなり揉めた経緯があっただけに、組織委のお墨付きに胸を撫で下ろしたことだろう。五輪記録映画の撮影秘話については、以前にこのコーナーでも取り上げたが、84時間にも及んだ膨大なフィルムを2時間42分にまとめる作業は、並大抵の苦労ではなかったという。

フィルムの試写をみた札幌オリンピック選手団長の柴田勝治氏は〈「いや、ケッコーでした。滑降の迫力、女子フィギュアの芸術性。シュランツ選手の騒ぎも深追いせずサラリとしていてよい」〉と賞賛した。シュランツ選手の騒動とは、アマチュア資格の是非を問われ、参加が認められなかった一件である。組織委にとって「不都合な真実」に触れなかった“忖度”が、一発パスにつながったともいえよう。

なにせ制作費は3億500万円。〈昨今の日本の映画監督ならヨダレの出そうな巨額のカネをかけた映画〉と揶揄されるほどの“超大作”だったから、さまざまな思惑が働くのも無理はない。五輪のためなら予算は青天井という悪しき体質は、当時から何も変わっていないようだ。

河瀬直美監督の東京五輪記録映画は6月に公開予定だが、ゴタゴタ続きだった東京五輪を象徴するかのように、開催是非や福島原発を巡る部分の不適切字幕問題が物議を醸した。それにしても、五輪記録映画というのは、誰が、どれくらいの人が、いつ、どんなタイミングで観るのか、さっぱり実態がみえてこない摩訶不思議な作品だと思う。

▲「週刊文春」’72年5月15日号

ことし話題の“新名所”全国9選

半世紀前の日本列島はレジャーブームに沸き返り、多くの人が有名観光地ではないスポットを求めていた。「週刊現代」4日号では、にわかに注目を集めることとなった「新」と「珍」名所を紹介している。
「あさま山荘」(長野県)は、言わずと知れた凄惨な事件の舞台だ。

〈2月28日、大げさにいえば全国民の眼がテレビに注がれた。警官隊の一挙手一投足にため息がわき、どよめきがおこった。いま現場は白いテントにおおわれ、ガードマンが厳戒態勢をしいている。それでも見学者は押しよせている〉

こんな辺鄙な場所に出向く観光客の気がしれないが、映画のロケ地巡りのような感覚なのだろうか。河合楽器の保養所だった山荘は、事件後、香港の社団法人が運営する麻薬中毒青年の更生施設に生まれ変わった。
「走るカーフェリー」は、東京―釧路間に登場した話題の船旅だった。

〈「大いなるロマンの国へ一直線……」そんなキャッチフレーズを乗せて、四月六日カーフェリー「まりも」(九千二百トン、近海郵船)が就航した。国鉄より丸一日早い輸送力を誇る。料金は六千円から〉

飛行機の旅が一般的ではなかった当時、東京―釧路間を31時間で結ぶ豪華フェリーは“海の新幹線”と称された。豪華さが売りではあったが、安い大部屋にはカニ族やミツバチ族が乗り込み、憧れの北の大地を目指したのである。

フェリーの旅については、「週刊現代」8日増刊号も、おすすめドライブコースを特集している。そのコースは、釧路―厚床―標津―釧路―帯広―えりも―静内―札幌―中山峠―洞爺―苫小牧という壮大なもの。苫小牧―東京間は日本沿海フェリー(三井商船フェリーの前身)を利用できた。

デビュー当初は人気を博した豪華フェリーも、利用者が伸び悩み、1999(平成11)年に廃止になってしまった。そして「まりも」は、北九州航路で活躍後、売却先のフィリピンで焼失という数奇な運命を辿った。
「横井家」(愛知県)は、名古屋市内にある横井庄一さんの生家である。横井さんは28年ぶりに祖国の土を踏んだのち、新宿の病院で静養していたのだが、〈横井さんの実家や、そのすぐ近くの寺にまだ残る「故・横井軍曹之墓」へ全国各地から見物に押しかけている〉という有様だった。

その後、静養を終えた横井さんが晴れて故郷に凱旋すると、盆と正月が一緒に来たような大騒ぎとなった。現在、生家は「横井庄一記念館」として開放されている。戦争に人生を翻弄された横井さんの生還から50年――いまだ不毛な侵略戦争を仕掛ける愚劣な独裁者が存在することが腹立たしい。

▲「週刊現代」’72年5月4日号

「美しい日本の私」の死

有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫――文豪はなぜに自死の衝動に駆られるのか――。「サンデー毎日」7日号が、72歳で自ら人生の幕引きを選んだ川端康成の葬儀の模様を伝えている。この4年前に日本人初のノーベル文学賞を受賞したばかりとあって、川端の突然の死は、海外にも衝撃を与えた。

〈川端康成氏はうららかな春、湘南海岸のマンションの一室で自らの意志により命を断った。「年々わが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」――岡本かの子が“老妓抄”の末尾にしるした歌が、絶筆の原稿用紙にも残されていた〉

3歳のときに両親を失った川端は、死に対して一種の冷徹な視点を持っていたとされる。

〈芥川龍之介や太宰治の死にふれて「自殺を讃美するでも、共感するものでもありません」といっている〉

そんな川端が、なぜ死に急いだのか。『伊豆の踊子』『雪国』などの名著で文学界の頂点に立ち、ノーベル賞まで受賞し、世界的名声を得ていたなか、誰もが「なぜ」という疑問を禁じ得なかった。

〈「願はくは花の下にて春死なむ」とよんだ西行にならったのか、それともくずれていく“美しい日本”に愛想をつかしたのか。残された者にとって、すべては謎でしかない〉

タイトルにもある「美しい日本の私」とは、ノルウェーのストックホルムで行われたノーベル賞授賞記念講演で、川端がスピーチした芸術・文化論の表題である。そこでは西欧とは異なる日本独自の死生観も語られた。この講演内容は翌年に書籍化され、大きな反響を呼んだ。

川端の死が本当に消えゆく「美しい日本」への絶望だとしたら、これもまたひとつの「憂国」であり、その思想と手法こそ違えど、三島の死と通ずる部分があったのかもしれない。

▲「サンデー毎日」’72年5月7日号

定時制女高生のモテル殺人

日本列島がレジャーブームに沸くゴールデンウイークのさなか、函館市で定時制に通う女子高生が同じ学校の男子高生を絞殺するという陰惨な事件が起きた。事件の背景を追った「週刊新潮」20日号の記事をみていこう。

殺人現場となったのは、函館空港に近いホテルで、その名も「空港」だった。記事で用いている「モテル」という表現が時代を感じさせる。

〈八時ごろモテル帳場の防犯ブザーが鳴った。これは宿代を払わず逃げる客を防ぐためのもので、裏窓をあけるとブザーが鳴る。経営者の菅藤宗一さんが裏庭へ回ってみると、「色白の若い女」が窓からハダシで出ようとしている〉

明らかに尋常ではない状況だが、菅藤さんが呼び止めると、〈「彼は朝まで眠っていくが、私は帰る」といって、モテル代四千円を払い、タクシーを呼んで帰って行った〉という。その後、不審に思った菅藤さんが部屋へ入ってみると、息絶えてベッドに仰臥している青年を発見したのだった。所持していた免許証から被害者は市内の定時制高校に在籍する若山天竜君(20)、そして、若山君の家族の証言から一緒にいた女性は同じ学校の阿部貞子(20)であることが判明。その夜、繁華街でフラフラしていた貞子はあっけなく逮捕され、素直に犯行を認めた。

〈二人が知り合ったのは去年八月ごろ、学校の演劇部で顔を合わせたのがキッカケである。若山君は美人の貞子を好きになったが、彼女には“婚約者”がいた〉

つまり、若山君の横恋慕だったわけだ。彼女のお相手は同じ学校の自衛隊員K君(23)で、初めのうち3人は仲良く友達付き合いをしていたのだが、やがて若山君が貞子にしつこく求愛するようになった。嫉妬が徐々に憎悪に変わったのか、〈「Kのヤツ、ぶっ殺してやる」などと口走るようになり、貞子の母、姉などが若山君に会って、「これ以上近づかないでほしい」と説得したりしている〉と、貞子の家族も危険を感じていたようだ。

若山君は、勤めていた会社を辞め上京を決意。事件当日の飛行機に搭乗する予定だった。地元を離れるのは、2人の幸せな姿を目にするのが辛かったからかもしれない。

この日、貞子は若山君を空港で見送るため会ったのだが、そこで「一緒に東京へ行こう」と迫られ、断ると「ちょっと出かけよう」ということになった。乗り込んだタクシーの行先が「空港」だったのだが、付いて行った優柔不断な貞子も悪い。室内でも「行こう」「行かない」の繰り返しに。

〈彼がベッドの上に押し倒した。貞子は男の体の下でネクタイをつかみ、強く絞めると急に彼がグッタリとなった……〉

これが貞子の供述であるが、いかに不意を突かれたとはいえ、若山君が本気で抵抗すれば助かったのではなかろうか。貞子は「殺人罪」で送検されたが、記事は〈検察段階で「過剰防衛」と認められる可能性もある〉としている。

若山君がすんなり飛行機に乗っていたら、貞子がタクシーに乗らなければ――タラ、レバの話をしても詮無いが、「空港」が“死出の旅”の舞台となってしまったのは皮肉としか言いようがない。

▲「週刊新潮」’72年5月20日号