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SL無惨!――轟音を涙に託して――

 1975年12月24日、最後のSL列車が走った地は北海道であり、ふだんは静かな室蘭線と夕張線の沿線に全国からファンが殺到し、一大フィーバーに沸き返った。しかし、スポットライトを浴びたあとの末路は哀れで、その多くが保存されることなく鉄屑となったのである。1976(昭和51)年8月12日号の「週刊現代」では、北の地で解体を待つ名機たちの現状を追っている。廃止から50年以上が経過しても、SL人気は根強く、それだけ人々の心を揺さぶる存在といえるだろう。

火災に消えた追分の名機

▲「週刊現代」’76年8月12日号

 グラビア特集のリードが、なんとも抒情的だ。

〈最後に咲いた黒い花は、北の大地の白い雪に埋もれ、再びその生きた姿をあらわすことはなかった。SLが去ってからの初めての夏。緑の大地を駆けた英雄たちはいま、新しい想い出のモニュメントとして黒い巨体を横たえ、また、機関区のはずれにつながれて解体を待つ。巨象の倒れるにも似た解体は、黒い車体にアセチレンバーナーの赤い火が入ると、本当のSLの死が始まる。――鉄(はがね)に還りてわれら消えゆく――〉

 SLラストランとなった夕張線の貨物列車を牽引したのは、昭和14年に苗穂工場で製造されたD51‐241だった。追分機関区に配属され、長きにわたって石炭輸送を担い続けたのだが、引退後に思わぬ奇禍が待っていたのである。

〈この記念すべき“カマ”はゆかりの地、追分機関区に保管された。それがまさかアダになろうとは……。今年4月13日、追分機関区は全焼、一度火をくぐった“カマ”は赤さびた鉄の塊。他の地へ出ることなくここで解体され一生を終える〉

 最後の旅客列車の先頭に立ったC57‐135が、さいたま市の鉄道博物館で大切に展示され人気を博していることを思うと、あまりにも対照的な運命に同情を禁じ得ない。
〈「10年間で100両くらいは解体してきた。解体のコツも順序も別になく、上の方から人間の手で持てる大きさにバラシていくだけ。SLは重くてイヤになるよ」〉

 そう話すのは、苗穂工場のベテラン作業員だ。1両のSLは、だいたい5日で完全なスクラップになるという。
〈北海道のほとんどのSLの修理を引き受けてきたこの名門工場の片隅の引込線で、炭水車をはずされ、ボイラーを焼き切られ、動輪だけを残して鉄の塊になる。この鉄クズの行き先は室蘭の溶鉱炉の中だ〉〈ちなみに、D51一両の重量約九十㌧、クズ鉄価格約百三十万円。解体に要するアセチレンガスボンベ約五十本〉

 いわば資源の再利用ではあるが、SLはよく「生き物」にたとえられていただけに、ファンとすれば複雑な思いであったろう。
〈北海道からSLの雄姿が消えて約半年。全道のSLのほとんどが小樽築港駅構内に集められた。最多時は45両、現在も29両が解体と保存の二つの道を待っている。くしくも、かつて石炭積み出しの引込線につながれ、北国の厳しい海風と、心ないファンの盗難で荒れた姿をさらしている〉

 保存が決まった幸運な車両は、小樽築港か苗穂で整備され、貨物列車の編成に組み込まれて運ばれる。ただ、輸送は苦労が絶えなかったようだ。
〈構造が古いため、東京へ送るだけでも、青森、長町(仙台)で給油しなければ、車軸が焼きついてしまう。この整備をできる人がすっかり減り、週1両のペースがやっとだ〉

 埼玉県の所沢をめざし、電気機関車に牽かれて仙台付近を走る列車の背景には、建設中の東北新幹線の高架がみえる。新旧の主役交代を象徴するかのような1枚だ。

 ルポの結びの一文も情感がこもっている。
〈小樽築港駅の周囲には黄色い花が咲き乱れ、その中に一叢赤いナデシコが咲いていた。D51がどこからか運んできた種が花を開かせたのだろうか〉

 かつてSLで埋め尽くされた小樽築港の広大な機関区は撤去され、いまは巨大な商業施設に生まれ変わっている。

おや、競馬場から賛美歌が聞こえてきた…

▲「週刊新潮」’76年8月12日号

 6月13日、午年に開場130年を迎えた日本最古の函館競馬場で夏の北海道シリーズが開幕したが、JRAの10場のうち、最も格式が高いのは、日本ダービーや天皇賞・秋、オークス、ジャパンカップなど8つのGⅠレースが行われる東京競馬場である。「週刊新潮」12日号では、その東京競馬場で開かれた異色のイベントを紹介している。

〈シーズンになれば、ギャンブルファンの熱い叫喚がこだまする東京競馬場だが、今は夏休み。ふだんは出入りする人とてまれなのに、盛夏の四日間、これは何やら場違いな感じさえ抱かせる、敬虔なキリスト教信者の群れで埋め尽くされた。おなじみの馬券売り場は、炊き出しの戦場となり、馬場からは賛美歌の合唱が流れてきて……〉

 この日、集まったのは約2万人。一見しただけで、明らかに競馬ファンとは違う雰囲気の人たちであることがわかる。
〈「ものみの塔」と称する宗教団体。第一次世界大戦中のアメリカ、ピッツバーグに発し、その刊行物は世界七十八ヵ国語に訳され、“洗礼”を受けた伝道者の数は三百五十万人に及ぶという。日本では各地に千余りの会衆所(教会)を持ち、伝道者の数は約五万人〉

 この説明ではややわかりにくいが、彼らは「エホバの証人」の信者で、「ものみの塔」とは、世界各地で翻訳されているという刊行物の名称である。このイベントは、〈会員相互の親睦を深めるとともに、エホバ神への信仰を通して、近い将来、「千年王国が地上に到来することを知る」〉ことを目的としていた。

 俗人には理解が難しい話であるが、「信仰」と「競馬場」がミスマッチであることはわかる。その点について、主催者はこう本音を打ち明ける。
〈「後楽園の競輪場でやったこともありますが、そりゃ内心は嫌です。でも、それだけの広い場所もありませんし……」〉

 一方、場所を提供した競馬場側はこう語る。
〈「たまたま競馬場も空いていることですし、営利興行団体でもありません。それに地域住民の申し出ですから……」〉
 明るく、健全な娯楽――というイメージを打ち出している今のJRAならNGだろう。ただ、利害が一致したのだろうが、両者とも歯切れの悪さは否めない。

 大会は数日にわたって行われ、朝9時から夕方6時頃まで続いた。
〈ホームストレッチ前に設けられた演壇を主舞台に、賛美歌、講義、聖劇と展開されてゆくが、中には性教育めいた話もまじる。といっても、やわらかい話を期待されても困る。この宗派、性の問題には特に厳しく、婚前交渉などしようものなら“破門”。ちなみにギャンブルはと聞けば、「そんなことは考えられもしない」そうである〉

 いろいろな事情があったにせよ、教会で競馬予想イベントを開くようなもので、違和感は禁じ得ない。やはり、競馬場には賛美歌よりファンファーレが似合う。

顔は似てても心は無邪気

▲「週刊文春」’76年8月26日号

 半世紀前の7月27日、ロッキード事件を巡る収賄容疑で田中角栄首相が逮捕されるという衝撃的なニュースが日本列島を激震させ、週刊各誌もこの話題一色だった。そうしたなか、「週刊文春」26日号では、ロッキード事件の主役2人の「そっくりさん」がパロディ企画に挑み、読者の笑いを誘っている。

〈顔は、看板である。看板が似ていれば、やっていることも似たようなものと誤解されがちだ。金権政治家業やフィクサー業が、この手の容貌にこそふさわしいからといって、ここにご登場のお二人が同じような仕事に関係あるわけではない〉

 そう紹介されたのは、田中角栄と児玉誉志夫にそっくりと話題を集めていた、豊島泰三氏(50)と清水正二郎氏(52)だ。写真を見ると、なるほど、両者とも顔だけではなく、全体的な雰囲気がかなり似ている。

 豊島氏は、葬儀屋の社長が本業だったのだが、「田中角栄のそっくりさん」としてブレイクしたのを機に、なんと俳優に転身。数々の人気ドラマやバラエティ番組で活躍したが、1992年に66歳の若さで亡くなった。

 一方の清水氏は、直木賞作家・胡桃沢耕史氏の本名。この頃はお色気ものを手掛け、超がつく売れっ子だった。「しみしょう」時代から本誌は大変にお世話になり、40年もの長きにわたってお付き合いいただいた。

〈ときの庶民宰相にウリふたつ。声まで似ているということで、テレビの人気者になったのは記憶に新しい。田中逮捕を聞いたとき豊島さんは「あの方には親近感を持っていただけに、顔から血が引き肌が寒くなるような気持ち」を味わった。「私も汗っかきだが、あの方も暑がり屋だから、今はさぞつらい思いをしているだろう。冷たいものでも差し入れしてやりたいのだが」と気になりながらも、氏の日常は睡眠時間四時間という多忙ぶり。「まるで吉良のクビをうちとったように世間は騒いでいるが、一度は首相をしていただいた人にこんなことをしていいものかネ」〉

 厳しい表情を崩さず、金魚すくいや花火に興じるミスマッチな写真が微笑ましい。田中失脚後も豊島氏の仕事が減らなかったのは、一時はバッシングに晒されたとはいえ、多くの国民が心底憎みきれない「人間性」を感じていたせいかもしれない。

 一方、清水氏は、ちょっと人を食ったような表情で花火を楽しみ、目隠しをしてスイカ割り。
〈五百冊の単行本を量産するかたわら、ヒマを見つけてはオートバイにまたがって世界各地を走りまわるのが趣味。そんな氏の身辺に異変が起こったのは今年二月。ロッキード事件が発覚してからだ。氏が電車に乗っていたりすると、ジロジロと見つめられることが多くなったのである。かくなる状況において、氏はあるとき知人から児玉誉志夫に似ているといわれたことをハタと思いだしたのだ〉

 豊島氏同様、清水氏にもテレビや雑誌などから取材依頼が相次ぐようになった。本業が多忙を極めるなか、こんなおふざけグラビア撮影を快諾したのは、清水氏のサービス精神だろうが、さすがに〈なかには担架にのって救急車に運ばれるところを実演してくれなどの企画もあったが、これはお断り願った〉という。

 疑惑追及を逃れるため、「全身衰弱」と診断された児玉が、担架にのせられ救急車で搬送されるシーンを揶揄したものだが、報道陣に囲まれ大混乱となり、救急車は立ち往生に。さらに、病院の診断書も捏造であったことが明るみになっている。

 政治家のスキャンダルに対し、真っ向から鋭く斬りこむ「文春砲」の存在意義は大きいが、たまにはこうしたソフトに皮肉る企画も見たいと思う。

社会党員の「汚職の構造」

▲「週刊新潮」’76年8月5日号

〈社会党員は絶対にロッキード事件に関係していません――などと威張ることはない。汚職の体質などというものは、保守と革新に関係ないことで、その違いはみみっちいかどうかという程度である〉

 これは今の時代にもいえることであり、けだし至言という気がするが、そう「新潮」に皮肉られたのは、社会党の網走市議である。全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」5日号の「新聞閲覧室」から、「みみっちい汚職疑惑」をみていこう。ネタ元は「北海タイムス」。

〈地滑り対策として、国、道、市の三者が支出しての「ガケ地近隣危険住宅移転事業」が網走市でも行われ、六戸へ移転補償をしたのだが、その中に網走電報電話局の出身で、現在市議である社会党の伊藤秀雄氏の持家もふくまれていた〉

 それだけなら問題はないのだが、この家に住んでいたとされる伊藤市議と電報電話局で同僚だったA氏は、223万円を受け取ったにもかかわらず、移転補償の対象となる期間中、居住した事実がなかったことが明らかになったのだ。市議会でこの問題を取り上げたのは、公明党の議員だった。

〈同じ日の夕刊で、この疑惑にからみ、社会党網走総支部の支部長である伊藤氏が支部長と市議を辞任、また支部執行部も総辞職し、さらに伊藤氏を除名処分にする方針であることなどが報道されていた〉
 A氏から伊藤氏に何らかの「謝礼」があったかどうかは不明だが、たかだか200万余りの補償金のために、議員バッジを失うことになったのだから、「小悪」の代償は大きかったといえるだろう。

甲子園を辞退しない東海大四高

▲「週刊文春」’76年8月5日号

「夏の甲子園」出場を目指し、各地で熱戦が繰り広げられているが、せっかく厳しい予選を勝ち抜いても、部員や関係者らの不祥事によって連帯責任を余儀なくされるケースも少なくない。昨夏の大会では、1回戦で旭川志峯を破った広陵(広島)が、同年1月に起きた部員間の暴力事件を巡り、2回戦を辞退するという異例の事態が話題となった。

「週刊文春」5日号では、南・北海道代表の切符を手にした札幌の東海大四高のトラブル対応に批判的な意見を寄せている。

〈松前重義(東海大学総長)という人、よくよく野球がお好きらしい。フランチャイズ方式で増やした付属高校は、どうでも野球で売るコンタンらしいのだ。まずは秘蔵っ子の原辰徳クンで“有名”な東海大相模。次に“有名戦線”におどり出てきたのが、札幌の東海大四高。四高が頭角をあらわしてきたのはここ二、三年だが、今年になってからは北海道春季大会に優勝。一気に“野球名門校”にのしあがってきた〉

 その東海大四で不祥事が起きたのは、室蘭大谷に13‐1で圧勝した南北海道大会決勝の前日だった。
〈札幌市立旭丘高校の校門わきで、帰宅途中の同校三年生二人が、五人の高校生に襲われた。五人組は三人に対し、殴る、蹴るの乱暴を働いたうえ、1315円入りのサイフを奪って逃走。五人はたちまち急行したパトカーの警官に補導されたのだが、この中に東海大四高の生徒(一年)が一名入っていたところから事はややこしくなる。というよりも、そのことが毎日新聞に知られたところからややこしくなったというべきか〉

 この事件について、東海大四の竹口稔校長は困惑しながらこう話す。
〈「毎日新聞から自宅に電話があったんです。『今度の件で野球部はどうするんですか』と聞かれても、なんのことか分からない。説明されてはじめて、ウチの生徒が事件を起こしたことを知ったんです。そのとき『野球憲章に触れるんじゃないか』といわれたもので、返事を保留して一応会議を開くことにしたわけです」〉

 事件に関与した生徒は、ふだんから素行の悪さが目立っており、生活指導をする予定だったという。会議の結果、大会出場は問題なし、との結論に至った。その生徒が野球部員ではなく、野球憲章の出場辞退要件には抵触していなかったからだ。ただ、〈「辞退ということにでもなったら、事態の重大さに事件を起こした子までショックを受けてしまう恐れも……」〉という校長の発言は、甘いと言わざるを得ない。

 決勝当日、朝刊各紙は「事件」を報じたものの、「東海大四」という学校名まで記したのは毎日新聞だけだった。5段抜きの見出しは、〈高校生が路上で暴行、金奪う 五人組中に東海生も 高校野球学校側は“出場”方針〉というもの。具体的な学校名は伏せるなど、全体的に控えめだった他紙とは明らかに温度差があるセンセーショナルな扱いだった。

〈さては夏の選手権大会(朝日新聞が音頭をとる)をやっかむ毎日新聞(春の選抜大会の音頭とり。夏の大会にくらべて歴史も規模も落ちる)の挑戦か、と勘繰るムキもあった〉
 毎日側はこうした憶測を完全否定したが、とはいえ、ライバル紙への対抗意識がまったくなかったといえばウソになるだろう。

 野球部の三好泰宏監督は、何も知らず試合に臨んでいた。
〈「試合後に我が校の生徒と知ったわけですが、憲章を見てもひっかかるのは、『部長、監督、コーチ、選手または部員の非行』の場合だけで、それ以外は関係ないということで胸をなでおろしたんです」〉

 北海道高野連の見解も同じだった。
〈「憲章にあるのは野球部の直接関係者が起こした場合だけで、他の一般生徒は関係ない。だってそうでしょ。野球に関しての定めが野球憲章なんだから」〉

 このあたりの線引きは難しく、現在も禍根を残すテーマといえるだろう。
 文春の記事は、昭和46年に選抜代表となった北海高校が、サッカー部員の暴行沙汰によって出場断念に追い込まれた前例を紹介している。しかし、春と夏では少々事情が異なると内情を打ち明けるのは、北海道高野連の長浜英作会長だ。

〈「選抜規定は夏の場合よりも厳しくて、チームの成績のみならず校風、品位まで見る」〉
 そうした土壌があったゆえ、毎日だけが殊更、何のお咎めもなし、という状況が許せなかったのかもしれない。

 このあと、甲子園に進んだ東海大四は、春の選抜で優勝した崇徳(広島)と初戦で対戦し、惜しくも8対10で敗れた。春夏連覇を狙う強豪相手に大善戦したのだから、騒動の影響はなかったと思われる。

 その後、東海大付属札幌高校(2016年に校名変更)は、春夏合わせ12回出場の甲子園常連校に。北海道日本ハムファイターズの今川優馬選手と、元日ハム(現阪神タイガース)の伏見寅威選手は同校の出身だ。野球の実力は申し分ないものの、残念なことに、2022年に部長によるバット殴打事件、2025年に部員の飲酒・喫煙が発覚している。同校に限らず、強ければいいという、アマチュアスポーツにおける成績至上主義を考え直す必要があるだろう。