SL挽歌 室蘭本線の〝スター〟たち
1975(昭和50)年は、日本の鉄道史において、一大転機となる出来事があった。戦前・戦中・戦後の長きにわたり活躍してきたSLが、ついに終焉を迎えたのだ。そのラストランの舞台は、12月14日の室蘭本線(室蘭発岩見沢行き)だった。1月19日号の「サンデー毎日」では、もうじき姿を消すSLの最後の雄姿を大特集している。いまなお多くの人に愛されているSL。見た目は武骨ながら、人間の手を借りつつ懸命に走るSLには、日本人の琴線に触れる何かがあるのだろう。
北端の雪原を行く黒い塊
政界きっての鉄道好きといえば、石破茂氏と前原誠司氏の2人が双璧といえるが、石破氏は「乗り鉄」で前原氏は「撮り鉄」。前原氏は、なかでもSLが一番のお気に入りで、何度も北海道へ撮影旅行に出向いたそうだから、SLフィーバーの群衆の中に、その姿があったかもしれない。
〈現在、国内を走っているSLは195両。うち九州(鹿児島地区と熊本地区の一部)が約20両で、残りは全部北海道。その北海道でも、ロングランの客車を引っ張っているのは室蘭本線(室蘭―岩見沢)だけだ〉
北海道は最後のSL王国だったのである。それはつまり、最も近代化が遅れた地域であることも意味していた。
降りしきる雪の中、除雪作業に追われる職員の写真から、冬の鉄路を守る厳しさが伝わってくる。
〈氷点下10度。一面の銀世界。ポイントの凍結もしばしば。七割がた座席が埋まった車内は暖房でポカポカだが、布で覆われているとはいえ、運転室は吹きさらし同然だ。北海道のSLも今秋までにすべてディーゼルカーと交代する〉
この特集は、グラビア写真がどれも芸術的で素晴らしい。夜明け前の岩見沢駅構内で除雪車を押すSL、ポイント凍結のため栗沢駅付近で列車がストップしてしまい、窓から身を乗り出して雪空を見上げる少女、岩見沢駅構内のストーブに手をかざす、ジャンバーの背中にびっしりと雪がこびりついている男性――。
〈「SLはどこにいる」とマニアはいう。あるとはいわない。モクモクとケムリをはきながら、急坂をあえぎ、あえぎ登っていくSL。女房、子どもの生活を背負い、上司に怒鳴られながら働き続ける、うだつの上がらぬサラリーマンのようでもある〉
だからこそ、多くの人がSLを人間になぞらえ、親近感を抱いたのだろう。それは国鉄職員も同じで、どんなに手がかかっても、深い愛情をもって整備に当たったのである。
〈思えば随分長い間、SL挽歌は歌われ続けてきた。挽歌というのは一回きりがふさわしいようでもあるのだが。「ファンの要望に応えて」か、国鉄にもメリットがあるのかはともかく、あちこちで「サヨナラ運転」というセレモニーが行われる。せっかくの男っぽさを、寄ってたかって甘ったるくしてしまうような。しかし、それもいましばらく。やはり寂しい〉
「サヨナラ運転」は、多くの集客が期待できる、赤字国鉄にとっては魅力的なイベントだったのだ。サン毎の記事が揶揄したその「サヨナラ運転」の話題を特集の第二部で取り上げている。
最終列車が走る九州・日南線
舞台は北海道から南の九州へ。宮崎と志布志を結ぶ日南線では、1月19日にSLの最終列車が運転されることになっていた。
〈48年4月、霧島山麓で行われた植樹祭にご出席のため天皇陛下が九州を訪問された際、日南線の旅客列車でもSLがまだ活躍しており、特別列車を牽引した。いま旅客はすべてディーゼル化され、1日2往復のSLによる貨物便が走っているだけ。それも1月19日で終わりになる〉
宮崎駅を発車すると、すぐに大淀川を渡るが、川原には立派なフェニックスの木々が。青島駅には新婚さん(当時、宮崎はハネムーンのメッカだった)が葉に落書きしたサボテンが植えられており、厳寒の岩見沢とは対照的に、南国らしいのびやかな空気が伝わってくる。温暖な気候のせいか、SLの足取りも軽そうだ。
九州の場合、除雪や寒さの苦労はないものの、機関士や助手にとって、ただでさえ暑いSL内での真夏の乗務は、想像を絶する辛さだったに違いない。
〈「確かにSLの作業は肉体的にきつい。でもオレが動かしているんだという手ごたえがある。ディーゼルになったら、機械にこき使われるんじゃないか。それに1人乗務になるから人間的なエピソードなんか生まれないね。SLブームなんてこれまで関心がなかったが、いよいよ廃止ということになって、仲間にもSL撮影マニアが急にふえたよ」〉
こう話すのは、ベテラン機関士だ。かつてSLの機関士は、子どもたちの憧れの職業だった。キツさ以上に、やりがいを感じていたのだろう。
第三部では、京都にある梅小路蒸気機関車館の話題を取り上げている。
〈動態保存。SLを博物館のようにただ並べておくのではなく、いつでも動かせる状態で保存してあるのが国鉄梅小路機関区にある「梅小路蒸気機関車館」だ。「SLの火を消さないでほしい」というファンの声で47年10月にオープンした〉
同館は、2016(平成28)年にオープンした京都鉄道博物館の前身である。
〈しかし、動態保存のためには機関士はもちろん、検修掛など特殊技能者の養成を続けなければならず、またSL用の工場設備を残しておく必要もある。こうしたことから、17両のうち3両は早くも“静態保存”になってしまった〉
SLを残してほしいと言うのは簡単だが、現実には多くの課題をクリアしなければならないのである。北海道で唯一走っている人気の観光列車「SL冬の湿原号」。運行に携わる職員たちのルポを読んだことがあるのだが、さまざまな困難に向き合う彼らの努力は並大抵ではない。なにかと叩かれがちなJR北海道ではあるが、心からの敬意を表したいと思う。
釧路市役所の忘年会
自民党青年局のメンバーがお色気ダンスショーで浮かれていた問題が世間を呆れさせたが、セクシー衣装の元グラドルとの不倫が発覚した国民民主党の玉木雄一郎代表といい、「パパ活」で自民党を離党した宮沢博行元議員といい、政治家や役人は、この手のスキャンダルに対する警戒心が希薄なようだ。「週刊新潮」23日号では、市民感覚と乖離した釧路市役所の忘年会について報じている。
〈十二月六日の夜、釧路市内の会館で、百五十人からなる団体サンの忘年会が催されていた。アトラクションとして、市内のミュージックホールから踊り子二人が“出張”して、ストリップショーが行われた。踊りが始まると、酔っ払いの騒ぐ声で音楽がかき消されるほどで、かなりお品のよくないムードだったらしい〉〈客の注文からか、あるいは“自発的”サービスからか、“特出し”までしてみせた。ストリッパー二人の出演料は六万円だった〉
“特出し”とは、女性器をみせる行為である。そんな下劣なショーを満喫していたのは、事もあろうか釧路市役所の係長協議会のメンバーで、助役、市議会議長も“来賓”として参加していた。踊り子へのギャラを含め、忘年会の費用は1人3500円の会費で賄われていたとはいえ、公僕という立場からすれば、不謹慎との誹りは免れないだろう。
〈この事件は、市議会で自民党市議によって明るみにされ、マンガ入りの市政批判のビラまでまかれた〉
自民党市議の告発ということからわかるように、当時の釧路は社会党の革新市政だったのである。批判を受けた北海道革新市長会の会長も務める山口哲夫市長は〈「公務員が団体で、ああいうことをやるのはマズイ。ずいぶんしかりました。革新市政だけに何かあると厳しく責められますが、でも厳しいのはいい」〉と謝罪こそしたものの、当事者である係長の処分はなし。しかも、ある係長は〈「自分たちの会費でやったことであり、そう目クジラたてることじゃないと思いますよ。ストリップショーのことは、会館にまかせていて知らなかった。“特出し”も最後にチラッと見せただけですよ」〉と開き直る始末だった。
新潮の記事は〈市長は庁内放送で「今後、キャバレーなど、ストリップショーのある場所の公的な使用を禁ずる」という、あまりに当たり前な訓示だけで一巻の終わりにしてしまった〉と結んでいるが、「官」のみなさんの身内に甘い体質は昔も今も変わっていない気がする。
正月は刑務所に入ろう
地方のB級ニュースを拾い上げる「週刊新潮」の「新聞閲覧室」から、北海道ネタを2つ紹介したい。9・16日合併号では、刑務所に入りたくて仕方がないというトンデモナイ男の呆れた行動を「北海道新聞」の記事を引用して伝えている。
〈十八年間、正月は必ず刑務所で過ごしてきた男。というより、刑務所に住みながら、ときどき罪を犯しにシャバへ出てくる人間のクズ〉
新潮の記者にクズ呼ばわりされたのは、大分県生まれの門地久(46)だ。住所不定とあるが、ほぼムショ暮らしなので当然だろう。
〈無銭飲食を重ねて二十回も刑務所入りし、ほんの一週間前に札幌刑務所を出たばかりの中年男が、“居心地のいい刑務所”で正月を過ごしたい“一心”から、再び札幌北署に逮捕された〉〈札幌市東区の飲食店『福よし』に入り、ビール、酒、親子どんぶりなど千百円相当を飲み食いした。門地は四十八年末、無銭飲食で札幌東署に捕まり、札幌地裁で一年の実刑を言い渡され、十二月十二日に刑務所を出たばかり〉
まさに確信犯であり、悪質極まりない。自供によれば、刑務所内の作業で得た4千円をすすきののキャバレーで散財(会計は1万5千円だったが、所持金が足りず、激怒する支配人に追い出された)し、その後も“目的”を果たすべく次々と無銭飲食を繰り返したものの、金額が500円以下と少なかったため、警察沙汰にするのを面倒がった店主が泣き寝入りしていたという。
〈“念願かなって”警察に捕まり、翌朝、留置所内で出された朝食をペロリと平らげて、いわく「これでホッとした。この先、一年以上、メシの確保はできた。刑務所では正月になると、服役者にもご馳走が出て、ヨウカンなども食べられる」〉
たとえ微罪であっても、あまりに累犯がひどい場合は、厳罰を科すべきであろう。万引きの常習犯なども、すぐに放免されるから、いつまでたっても反省しないのである。
〈門地は、この十八年間というもの、刑務所に入っていなかった日数を全部足しても一年に満たず、正月は必ず刑務所で過ごしている〉
まともな人間なら絶対に経験したくない塀の中の生活も、この不逞の輩にとっては“住めば都”ということか。
新潮の記事は〈“人権と福祉の時代”にふさわしい“無料ホテル”〉と揶揄しているが、厳しい物価高が続くなか、「あくせく働くより、三食、冷暖房完備の刑務所のほうがマシ」などと考える馬鹿者が現れても不思議ではない。
無期懲役囚が損害賠償を請求
同じく「週刊新潮」の「新聞閲覧室」から、刑務所関連の話題をもうひとつ。30日号では、収監中の凶悪犯が、国に対して損害賠償を求める訴えを起こしたという前代未聞の騒動を報じている。ネタ元はこちらも「北海道新聞」。
〈旭川刑務所で服役中の藤村幸作(47)は、去る四十一年八月十二日、上川管内東鷹栖村にあった工事飯場で、同僚をナイフで刺し殺したばかりか、旭川市内永山町の立ち回り先で警官を刺殺して捕えられ、旭川地裁で無期懲役の判決を言い渡された男である〉
藤村は刑務所内で、昭和49年6月3日から24日までの間、薬袋張りの作業を行っていたという。その後、藤村は荒唐無稽なことを言い出した。
〈服役するころ〇・二~〇・三だった視力が、両眼とも〇・〇八まで落ちたという。それというのも、薬袋張りで使った化学ノリの臭気が目にしみたためだ、といっているそうだ〉
藤村は衛生作業について定めた監獄法24条の規定まで持ち出し、国は国家賠償法に基づき、眼鏡代5100円と苦痛への慰謝料150万円の支払い義務があると主張した。残忍な殺人鬼に法律の知識などあろうはずがないから、悪徳な「人権派」弁護士でも付いていたのだろうか。
新潮の記事は〈ひょっとすると、いまの判事さん、これを認めるんじゃなかろうか〉と、前の記事同様、加害者に甘い日本の司法の姿勢を、皮肉交じりに結んでいる。視力が落ちたせいか、この殺人鬼には現実がまったく見えていないようだ。
日本を代表する建築家の“実験”
なにかと物議を醸した大阪・関西万博の「リング」が話題を集めているが、ユニークなデザインの作品は、建築家にとって腕の見せどころなのだろう。「週刊新潮」9・16日合併号が、全国に点在する、丹下健三氏、菊竹清訓氏ら一流建築家の実験的な建築物をピックアップしている。
“北海道苫小牧のセックス・シンボル”と紹介されているのは、竹山実氏が手掛けた「ホテルビバリートム」だ。施工した岩倉組の札幌事務所も竹山氏が担っている。半円状の頂上部が斬新で、遠くからみると、男性器を連想させなくもない。
竹山氏は当時40歳。脂の乗り切った時期であり、〈「今までのホテルはホテルらしく建てるものと思われていたけど、その“らしさ”をぶちこわす必要があると思うんです。苫小牧はこれからたいへんな工業地帯になるわけで、工場とか倉庫ばかりの町になる。そこで人間の“生身”を感じさせるものはやはりセックス。これを見てニヤリとお互い笑える建物が一つくらいあってもいいんじゃないかと……」〉と意欲満々に話している。
竹山氏は札幌市出身。イリノイ州大学や武蔵野美大の名誉教授を務めた重鎮で、代表作品は「SHIBUYA109」「晴海客船ターミナル」、札幌の「中村記念病院」「札幌ファクトリー」(デザイン監修)など挙げればキリがない。2020(令和2)年、86歳で他界した。
この「ホテルビバリートム」、ラブホテルだったのかどうかは定かでないが、ホテル側は〈「変わった形で宣伝になるのはありがたいのですが、どうも年配のお客さんが少ないようで……」〉と苦笑する。
この言葉通り、客足は伸びず、結局、1981(昭和56)年に「ホテルイーストジャパン」と名称を変更。北海道初とされる本格的な結婚式用のチャペルを備えた施設として再生を図ったものの、2003(平成15)年に閉店した。
「性交」(セックス)をテーマとした画期的なホテルであったが、経営的には「成功」とはならなかったようだ。
冬の味覚の旅
寒い冬は鍋や炉端焼きが恋しくなる。「週刊現代」30日号では、冬にこそ味わいたい全国の旬の味覚を紹介しているが、13の料理のうち北海道が3つも占めているのは道産子として誇らしい。
まずは小樽のウニ鍋。〈最近、北海道の文明開化の情緒を、函館より小樽に求める人がふえている。札幌と隣り合わせでありながら、古い商都・小樽には、文学のふるさとがある。“海陽亭”は、その昔、小樽が北海道の経済的中心地だった頃に、内地の人の舌を満足させ得る北海道料理の料亭として発足した〉
1881(明治14)年創業の「海陽亭」は、道内最古の料亭として、石原裕次郎をはじめ、三船敏郎、榎本武揚、伊藤博文ら、数多の著名人に愛された名店だ。だが、時代の流れには抗えず、2015(平成27)年、惜しまれつつ暖簾を下ろすこととなった。
重厚な建物は往年の栄華を偲ばせるが、主を失って以来、いっそう老朽化が目立っており、倒壊など不測の事態が懸念される。関係者の情報によると、札幌の不動産業者が再生に向けて動く可能性があるようなので、貴重な歴史的建造物が末永く守られることを期待したい。
たっぷりウニが入った豪華な鍋の値段は800円。当時としても格安といえるだろう。小樽運河の雪景色が街のイメージ写真として使われているが、埋め立て前のもので、ずらりと並ぶ石造り倉庫と船が旅情を誘う。まだ庶民にも手が届いたウニの値段といい、「あの頃の小樽はよかった」と感じずにはいられない。
続いては釧路。
〈釧路は海産物の水揚げでは日本一、ないものはない。ほたて、いか、さんま、きんきん、ほっけ、かれい、かき、ほっき等、炭火の炉ばた焼きで食べさせるのが、市内の“炉ばた”だ。いま流行りの炉ばた焼きを、最も古くに始めた店の一つである〉
嬉しいことに、この店はいまも健在だ。ただ、2年前には思わぬ災難によって廃業の危機に見舞われている。2022年8月、となりの店からの貰い火が原因で全焼したのだ。関係者や常連が失意に沈むなか、店主の孫娘が立ち上がった。クラウドファンディングを通して支援を募り、翌年9月、店は奇跡の復活を遂げたのである。しばれる夜に元祖炉ばたで暖を取り、極上の魚を存分に味わいたい。
最後は網走のオホーツク鍋。
〈一月中旬から下旬にかけて、オホーツクの海にはキラキラした流氷が押し寄せる。その豪快な流氷を眺めたあとは、この「オホーツク鍋」が似つかわしい。オホーツクの海の幸を手あたりしだいに味噌で煮込む鍋料理だ〉
いまはなき「柳屋」という店で、鍋のほか、珍しいさんまのルイベもおすすめしている。こちらも値段は800円。小樽も網走も“地元価格”ということか。東京在住の現代の記者は〈あきれるほど安い〉と絶賛している。
物価高の折、鍋は家計に優しい一品といえるだろう。ただし、庶民の鍋はこんな豪華な食材とは無縁で、野菜、豆腐、鶏肉が主役なのだが。