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スクープ!1分後の現場に地獄を見た―北海道庁爆破事件―

 1974年と75年に起きた複数のテロ事件に関わった「東アジア反日武装戦線」の元メンバー桐島聡が、2024年1月、長い逃亡生活のすえ神奈川県内の病院で死去したニュースは世間を驚愕させたが、半世紀前は過激な思想犯による卑劣な犯行が相次いでいた。1976(昭和51)年3月21日号の「サンデー毎日」では、3月2日に爆破された道庁の生々しい現場をスクープ報道している。犯行声明を出したのは、桐島と同じ「東アジア反日武装戦線」だった。

暗闇に訴える死者の目

▲「サンデー毎日」’76年3月21日号

 その日は、冬の北海道には珍しい爽やかな快晴の朝だった。午前9時過ぎ、毎日新聞北海道支社2階にある報道部の窓際に立ち、ぼんやりと道庁前広場の風景を眺めていた佐藤正カメラマンは、ズシーンという地底から突き上げるような大音響を耳にした。

〈大音響は道庁からだ。玄関のあたりは立木にさえぎられて半分しか見えないが、どの窓からも煙は噴き出していない。四、五階の職員たちが、けげんな顔つきで、窓から顔を出して下をのぞきこんでいる。なんだろうか?いやな予感が走った。ガス爆発か。いや爆弾…いやいや…まさか。しかし、隣の道警本部もついさきごろ爆破されたばかりなのだ〉

 前年の7月19日、道警で起きた爆破事件は、幸い数名の軽傷者で済んだものの、有力な手がかりはみつからず、のちに時効が成立している。

 佐藤氏は反射的にカメラをつかむと、100㍍ほどの距離を全力で走った。
〈玄関のほうから、よろよろと転げるように出てきた職員たちが、ただぼうせんと突っ立っているのだ。よく見ると、頭から血が流れている。このときはまだ“惨劇”がなんなのかは分からなかった〉

 しかし、玄関に足を踏み入れた途端、視界に飛び込んできたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
〈全身を刃物で切られたように、服をズタズタに切り裂かれた男性が血まみれでうめく。鼓膜が破れたのだろう。耳をおさえて、放心したように立ちすくむ女子職員たち。はいずるように、玄関の外まで出て、白雪を鮮血に染める人もある〉

 この段階で佐藤氏は、道警本部の事件とは比較にならない規模の爆弾テロであることを確信。砕け散ったガラス片や天井から落下したスチール版に注意しながら、爆心地点と思われる1号エレベーターの前へやってきた。

〈くずれたガレキに埋まるようにして、一人の女性があおむけになっていた。まだ硝煙のたちこめる暗闇の中で、目だけ見開いて。照明の消えたロビー。かすかな光に、その目がうつろに光り、天井をにらんでいる。明らかに左足のふっとんだ身体をもがくように、その目はなにかを訴えていた〉

 その女性は、犠牲になった2人(重軽傷95人)のうちのひとり五十嵐怜子さんで、ぐったりと横たわる痛々しい姿が誌面に収められている。佐藤氏がカメラを向けたときは、まだかろうじて息があったのだが、ほどなく力尽きてしまったのだという。
 救助隊が駆けつけ、彼女に毛布をかけたが、傍らにいた職員が力なく何度もつぶやいた。「その人はもうだめだ……」と。

 佐藤氏は足場が悪いなか、さらに先へ進んでいった。
〈足もとにべっとりとした感触。血のりなのだ。運び出される負傷者の血のよどみに足をとられたのだ〉
 玄関の奥は北海道拓殖銀行道庁出張所。こちらも悲惨な状況だった。

〈ロビーのイスの上には、下半身が血だらけで、見れば右の脇腹から無残にも内臓がとびだしている男子職員。「オーイ」「オーイ」と弱々しく救助隊を呼んでいる。非情とは思いながらもシャッターは切った。その声は、耳についてはなれない。いあわせた行員たちも、余りのむごさにただ立ちすくむばかりなのだ〉

 この男性は溝井是徳さん。病院に搬送される途中で息を引き取ったという。モノクロ写真とはいえ、激しく裂傷した腹部から内臓がみえた状態で救助を待つ姿は、なんとも衝撃的である。2人の犠牲者の写真は、今の時代ならば「自主規制」になっているのではなかろうか。

 佐藤氏は〈シャッターを押しつづけるうちに、やるせない怒りだけがただこみあげてきた〉と、正直な気持ちを吐露しているが、苦しむ人たちを前にして何もすることができず、報道カメラマンとしての職責を果たせねばならない自分の立場に、複雑な思いを抱いていたに違いない。社屋が近かったこともあるが、佐藤氏の迅速な判断と行動の結果、週刊各誌の中でサン毎だけがスクープをモノにすることができたのである。

 その後の捜査で、使用されたのは時限式消火器爆弾と判明した。そして、大通駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」からの犯行声明が見つかり、同年8月に大森勝久が逮捕(9月に再逮捕)されている。3月2日は「北海道旧土人保護法」制定の記念日。声明文には道庁を「アイヌモシリノ センリョウシャドモノ チュウシン」とする記述がみられた。

 大森には1983年に死刑判決が下され、94年に確定したが、証拠の信憑性を巡って法廷での争いが続き、現在も札幌拘置支所で収監中だ。昨年7月、弁護団が4度目の再審請求を行ったことが明らかになっている。

〈無差別で、手段をえらばないこのテロ行為。絶対に、これを許すことはできない〉
 ルポはこう結んでいるが、それはいまなお繰り返されるテロに対し、全人類が共通する思いであろう。

戻った五年前の記憶

▲「週刊新潮」’76年3月18日号

 妻の記憶が夫を冤罪から救った――。「週刊新潮」18日号が、旭川で起きた殺人未遂事件の劇的なドラマを報じている。
〈「犯人はこの女です」――五年前、カナヅチで頭部を殴られ、瀕死の重傷を負った岩田テルさん(42)が、夫の鉄五郎さん(46)から一枚の写真を見せられ“真犯人”を指さした〉

 このときまで、“真犯人”とされていたのは鉄五郎さんだった。なぜ警察は誤認逮捕という失態を演じたのか。
〈彼の作業着に妻の血痕が付着していたこと。さらにアリバイも不明であり、夫婦仲もよくなかった〉

 状況証拠は鉄五郎さんに極めて不利であり、嫌疑をかけられたのは当然だった。地検は彼を20日間勾留したが、証拠不十分として釈放された。担当捜査官はこう振り返る。
〈「申し訳ないことをしたとは思うが、本人は調べに対して全く釈明をしないので、ますます疑惑を深めた」〉

 犯行を否認しなかった理由は謎だが、事件から2年後、ひょんなことから事態が動いた。テルさんの意識が回復しつつあった頃、見舞客が「犯人は夫の会社の人間では」と尋ねたところ、肯定する素振りをみせたのだ。鉄五郎さんは郊外の飼料工場で働いており、彼が準備した会社の記念写真の中に、“真犯人”を認めたのである。ただ、任意出頭した女性は頑なに犯行を否認。証言をした被害者が頭部を負傷しており、意識が明瞭ではなかったこともあり、証拠を固めるのに3年を要したのだった。

〈犯人の岡一子(39)は製品の包装係で、その主任が鉄五郎さんだった〉
 当時、テルさんは夜の勤めに出ており、岩田家の事情を知る岡が、不在を狙って侵入したところ、寝ていたテルさんに気付かれため、犯行に及んだのだという。このとき財布を奪っていたが、警察は当初、これを把握しておらず、怨恨の線を疑ったのだった。

〈犯行後の岡は万引きで工場をやめさせられ、飲み屋の女将におさまっていた。一方、岩田さんの娘は父親が“犯人”扱いされたことで高校を中退せざるを得なかった〉
 テルさんのケガのみならず、いろいろな“後遺症”を残した事件であったようだ。

学校が生徒に払う「陳謝料」

▲「週刊新潮」’76年3月11日号

 全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」の人気連載「新聞閲覧室」(11日号)から、北海道新聞のネタをみていこう。
〈三教諭の解雇をめぐって、労使が対立している希望学園・釧路第一高校の『父母の会』が釧路オリエンタルホテルで総会をひらいた。この総会には、生徒の父母たちばかりではなく、学校側と教職員労組側など幹部も出席していた〉

 同校では、前年に労使紛争が泥沼化し、入学式が延期され、職員が無期限ストを強行するなど、もはや教育現場の体をなしていない状況だった。こうした経緯があり、父母の会は学校側に授業料の減免を要求していたのである。
〈この要求について、学校側は「財政上の理由から、学校への納入金を減免せよという要求に応じることはできない。しかし、長い紛争によって、生徒たちや父母に迷惑をかけた責任が学校にあるので、陳謝料の名目で、生徒一人に対し、一年生六万三千円、二年生五万四千円、三年生四万九千円の額でお払いする」と答えた〉

 要求を拒否できなかったのは、さすがに学校側が負い目を感じていたからだろう。金額の算出方法はわからないが、父母の会はひとまず学校側の回答に納得したのだった。ただ、まだ懸案事項はあった。校舎の問題だ。
〈本校舎が荒れ果ててしまったので、太平洋炭礦の専門学校を借りている。ところが、本校舎の修復は、経済的にむずかしいため、借用期限が三月に切れても、本校舎へ移るアテがない。そこで、仮校舎での授業を延長するつもりらしいが、『父母の会』はあくまで本校舎での授業を望んでいる〉

 荒廃した校舎は、怒った生徒が破壊行為に及んだわけではなく、労使紛争の結果である。この騒動、生徒が一番の被害者であることは言うまでもない。不毛な闘争に明け暮れる大人をみて、どんな思いを抱いたであろうか。
〈組合側も『廃校になることだけは絶対に避けたい』といっている〉

 だが、時すでに遅し。その後、新規募集停止に追い込まれ、2年後の1978(昭和53)年、寂しく廃校式を迎えたのだった。
 同じ年、廃校になった校舎を道教育委員会が買収(2000年に解体され新校舎に)し、増改築したうえ、2年後に道立釧路北高校として再出発した。2007(平成19)年、北高を含む3校が統合し、釧路明輝高校が誕生し、現在に至っている。

寒いと動かない特急 「いしかり」

▲「週刊新潮」’76年3月25日号

「週刊新潮」の「新聞閲覧室」(25日号)から、北海道新聞のネタをもうひとつ。当時、札幌―旭川間の輸送を担っていたのが特急「いしかり」だ。北海道における国鉄唯一の電車特急であり、「看板列車」といえる存在だったのだが――。

〈寒さと雪による故障続出で大幅間引き運転が続いている函館本線札幌―旭川間のL特急は三月十五日から全面運転再開を予定しているが、国鉄道総局と組合との交渉が進まないため、“正式決定”が延ばされっぱなしになっている。この結果、八日から売り出すはずの指定券が発売不能となり、同特急の正常化をめぐって繰り返される不手際に利用者もあきれ顔だ〉

 ちなみに、文中のL特急とは1972年から用いられた本数が多く自由席を備えた特急の愛称で、「リミテッド・エクスプレス(特急)」「ライナー(直通)」などを表しているとされるが、実際のところ深い意味はない。JR北海道では2017年まで使用されていた。

〈L特急『いしかり』は一日十四本運転だが、昨年暮れから故障続きで、一月二十三日から八本運休の間引きダイヤが続いている。道総局は三月一日から正常化する方針だったが、その直前、「まだ寒さが続くので全面運転再開に自信が持てない」として三月十五日まで延期した〉〈さらに各駅には「発売延期」の掲示もなく、利用者はみどりの窓口で“門前払い”されて初めて、発売していないことを知るありさまだった〉

 3月中旬に「寒さのため自信が……」という理由は、到底、利用者の理解を得られるものではなく、動労がゴネていると受け止められても仕方あるまい。

「いしかり」は前年7月に華々しくデビューしたばかり。最初の冬にケチがついたせいではあるまいが、わずか5年で「ライラック」と名称変更され、姿を消してしまった。
 エル特急のLは、「ルーズ」(締まりがない、だらしない)のLでは、と陰口を叩く人もいたのではと思う。

雄ライオンを 「撃ってサ、喰ってサ」旭川の宴

▲「週刊文春」’76年3月25日号

 最近はヒグマ駆除数の増加を受け、クマ肉が新たなジビエとして注目されているようだが、半世紀前の旭川では、なんとライオンが食されるという騒動があった。「週刊文春」25日号が、その顛末を伝えている。

 おびひろ動物園で飼育されていたオスのライオン「タケル」とメスの「タイコ」は高齢になったとの理由で動物商に払い下げられた。その行為だけでも、いまの時代ならば動物愛護の観点から非難は免れないのだが、事もあろうか帯広からの移動中、「タケル」が銃殺されてしまったのである。2頭のライオンを引き取った小中功氏はこう事情を説明する。

〈「知り合いの農家に立ち寄ったんだが、雌の方は死んでいたんだよ。農家は(知人の)藤井卯太郎の家から十分くらいのところでね。そうしたら藤井が鉄砲を持ってきたんだよ。撃ったとは知らなかった。オリは家から離れた小屋の中だし、音は全然聞こえなかったからね。血も流れていないんだ(散弾を口の中に撃ちこんだ)。藤井が殺した理由は、雌が死んで、雄もこのまま衰弱したらかわいそうだと思ったからだよ。確かに肉は食ったけど、食うために殺したんじゃない〉

 藤井氏は、野村権作道議の秘書を務めていた人物である。メスのほうは、肝硬変がひどく、寄生虫だらけだったので敬遠したという。小中氏は、ライオン肉の味について、悪びれた様子もなく、記者の質問にこう答えている。
〈「外観は固い牛肉か馬肉といったところだね。スキ焼みたいにして食べたが、肉食獣共通のクサミはあったけど、熊や狸よりはうまかったよ。肉の甘さという点では一番だね」〉

 ただ、騒動はこれで終わらなかった。小中氏が余った肉を旭川の名士たちに配ったことが明るみになったのだ。その相手とは、医師たちが中心となって結成した旭川スキー・ツアー・クラブ。約40人のメンバーの中には、いわゆるゲテモノ愛好家も少なくなかった。

 メンバーのひとりA氏は、バツが悪そうに告白する。
〈「小中から“タイガー”の肉があるとすすめられて食べたんですが、ライオンだと知って迷惑しているんです」〉

 なぜ、トラの肉なら問題がないのか、理解に苦しむ弁明であるが、ライオン肉の話がマスコミで報じられたことで、クラブのメンバーは白い目でみられ、肩身の狭い思いをしていたという。しかも、騒動はさらに大きくなっていった。スキーの名手として知られる三笠宮寛仁殿下をお迎えしての総会で、ライオン肉(クラブ関係者は口を揃えてトラ肉と主張)の料理が供されていたのである。ホテルの料理人はこう証言する。

〈「会の方から珍しい肉があるので料理してくれませんかといわれました。お客様がハンティングした鳥獣を料理することもあるので、このときも快くお受けしました」〉

 宴席に出席した関係者は、「宮様には断じてトラ肉の入った料理はおすすめしていない」と言い張るのだが――。真偽を確かめるべく、なんと文春の記者は三笠宮殿下に直撃している。
〈「ライオンも召し上がったはずだ? ライオンじゃないだろう。珍品好きの人たちで、毎回、変わった食い物を食べる趣味とは聞いたけどね。オレ、そういうの全然ダメなんだ。確か、手を出さなかったはずだけど、少し酔っていたからなぁ」〉

 食べていたところで法的に問題はないのだが、「食べました」と言いにくいお立場であったことも事実だろう。ともあれ、ちゃんと応対してくださったところに宮様のお人柄が滲み出ている。

 その後、藤井氏は銃刀法違反(猟銃の目的外使用)で罪に問われたが、小中氏は〈「ライオンをもう一度食わないかといわれれば食いたいけど、こう報道されちゃあね。アフリカにでも行ったら、どんどん食うことにするよ」〉と、最後まで軽口を叩いていた。

ストーブ列車夫妻繁盛記

▲「サンデー毎日」’76年3月14日号

 北国の冬は、風雪による列車の遅延や運休が頻発するため、日常生活にも大きな影響を及ぼしているが、一方で、冬でなければ楽しめない鉄道旅もある。今冬は1月31日から運行が始まった「流氷物語号」(網走―知床斜里間)もそのひとつだが、最も有名なのは、吉幾三の名曲にも登場する津軽鉄道のストーブ列車だろう。「サンデー毎日」14日号が、津軽の冬の風物詩、ストーブ列車を縁の下で支える仲睦まじい夫婦の奮闘を紹介している。

〈津軽平野のド真ん中、五所川原―津軽中里間(20㌔)を走っているのが津軽鉄道である。ほとんどがディーゼル化されている中で、3両だけ「ストーブ列車」がある。農業が本業の吉川市太郎夫妻はこのストーブ列車が運行される11月中旬から3月末まで、臨時に中里駅員兼車両係になる〉

 夫婦の朝は早い。震えるほどの寒さのなか、市太郎さん(46)は薄暗いうちから雪道を歩き駅へ。暖かい状態で7時3分発のストーブ列車の乗客を迎えられるよう、大変な火入れの仕事を黙々とこなす。その間、妻の初枝さん(42)は自宅で朝食の準備だ。

〈7時47分発の列車では奥さんの初枝さんとともに五所川原に向かう。ここでは新聞、郵便物の運搬、車内の清掃をする。午後は14時2分の列車から火入れの作業がはじまり5時の郵便列車到着まで寸暇もない〉

 ただ、11年も続いた2人の苦労もこの冬で最後だった。新車両に置き換えられることが決まっていたからだ。
 雪の中、嬉々として働く吉川夫妻を取材した記者は、〈幸福とは、自分たちでつくるものである〉との賛辞を送っているが、まさにその通りだと思う。

 ストーブ列車の歴史は、実に1930(昭和5)年からと古い。客車は4代目の新しいものに変わったが、いまもストーブを積んで走り続けている。沿線の金木は太宰治の出身地で、生家の「斜陽館」を訪れる人も少なくない。津軽鉄道もご多分に漏れず経営は厳しいようだが、貴重な鉄道文化の「火」が絶えることがないよう願うばかりである。