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『受験戦争って何?』北海道浜益村立高校のさわやかな青春

 24年12月号の本欄では、受験ノイローゼからハイジャック未遂事件を起こした岩内高校2年生の話題を紹介したが、1975(昭和50)年3月9日号の「サンデー毎日」に登場する浜益高校の若者たちは、青春を謳歌しつつ、背伸びをすることなく大学受験にチャレンジしようとしていた。当時、「受験戦争」という言葉がクローズアップされるなか、現地を訪れたサン毎の記者は、東京の高校生たちとの違いに驚きを隠せなかったようだ。

“初体験”入試のための勉強

▲「サンデー毎日」’75年3月9日号

〈北海道浜益郡浜益村の雪深い辺地。そこに村立の小さな全日制高校がある。今、そのうちの7人が来年の大学受験をめざして勉強中――といっても、うれしいことに、7人は“受験戦争”がどんなものであるかさえ知らない。友達を“敵”と思い、あげくの果ては受験苦で自殺。そんな風潮の渦巻く現代、受験に“毒されていない”7人の生活と意識は奇異にさえ感じる。だが、裏を返せば、最も高校生らしい青春がそこにあった。おおらかで、そしてさわやかな……〉

 早くもリードから記者の感動が伝わってくる。
 札幌からそう遠くない場所とはいえ、浜益への道は険しかった。

〈たった一つの交通機関が札幌発午後四時半のバス。一日一本だけ出るバスだから、いつも大変な混みようなのだ。浜益まで二時間半。外は猛吹雪。バスのライトは雪のカーテンのようになった吹雪に反射して全く用を足さない。ハッと気づくと目の前は雪の壁。車掌の「左切り過ぎ!切り過ぎ」の声で運転手はダイナミックにハンドルを回すが、凍った雪壁を車体が削り、ガガーッといやな音を立てる〉

 浜益高校は、全日制普通科の2年生2クラスに在籍する72人が最上級生だった。男子31人と女子41人。このうち、来春の大学受験を目指していたのは、男子3人と女子4人の7人だ。3年生が不在なのはわけがある。

〈一昨年四月に定時制から全日制普通科高校になったばかり。だから、全日制では二年生が目下の最上級生であり、それに一年生二クラス(六十四人)と、まだ残っている定時制(普通科、商業科)の三年生(五十七人)、四年生(七十人)の計二百六十三人が全校生。村立の全日制普通科高校は、全国を見渡してもそういくつもない〉

 昭和26年に新入生28人で開校して以来、22年間も定時制でやってきた同校が、なぜ全日制になったのか。その変革の立役者である浜益村教育長の竹田秀夫氏はこう説明する。

〈「ここはな、昼間の定時制高校として存続してきた。ところがニシン漁がダメになり、子どもの働く場がなくなった。それなのに、定時制であるがゆえ、四年間かけて卒業しなければならなかった。この年齢の“一年間”のオーバーは大きいからね。定時制を続ける教育上のプラスはなにもなかった。そのうえ、企業が定時制の生徒を就職試験で受験さえさせなかったんだよ。これではいかんと思った」〉

 かつて浜益村(現・石狩市)はニシンの“百万石漁場”として栄え、子どもも貴重な戦力だったのである。親たちは学校など二の次、定時制でも高校くらい出ておけば十分、と考えていたのだ。しかし、ニシンが去ったのちは、働き手の9割が札幌などへ出稼ぎに行くなど、村から活気が失われていた。

〈強硬に主張して全日制へ切替えたが、金のかかる全日制高校の設置は、出稼ぎの村としては大変なぜいたく、大英断だった〉

 大学志望の7人は、そんな村の想いを体現してくれる存在といえた。ただ、〈大学受験を身近な例でとらえることもできず、先輩もいなければ親も知らない。受験はベールで包まれ、希望する者が独自に判断し、自分だけを指針に勉強していくのだ〉〈予備校にも行けない。参考書や問題集を買うといっても、札幌まで行けば完全な一日がかり〉という厳しい環境であり、都会の受験生とのハンデは明らかだった。

本当の友だちはいるのか

 受験戦争に対する彼らの感想はこうだ。
〈「話には聞いている。でも、めちゃくちゃ勉強やってるのがいるってことは知ってるけど、どんなもんかは全然わからん」(石岡正英君)〉〈「戦争っていうんだから、それだけ今の受験は難しいんだなぁー、とは思う。でもね、もしボクらが今のやり方で入ったら“そんなにまでしなくても大学には行ける”ということだし、万が一ダメだったら“そうか、ああまでしなきゃダメなんだな”と思えばいいんだ」(丸山年民君)〉

 丸山君の目標は教師になること。父親の恵敬さんは浜益高校の教頭を務めており、その姿に憧れていたからだ。
〈丸山君は札幌の全日制高校(普通科)に入りながら、二年になってからこの“不利な田舎”に転校してきた。「別に理由はないけど、高校時代までは親元で生活するのが一番と思っていたから」とただ一言〉

 親思いの子だから、仕送りなどの経済的負担を考えたのかもしれない。
〈「勉強する環境と条件からいったらアッチ(札幌)が絶対有利さ。それはしようがないし受験は別のこと。自分さえしっかりしていれば負けないと思ってやっていればいいんだよ」〉

 こうした精神力の強さは7人全員が持ち合わせていた。彼らが頼りにするのは、7冊の参考書のみ。放課後は部活動で汗を流し、帰宅後、深夜まで机に向かうものの、1時間おきにちゃんと休憩を取るなど、決して無理はしない。

 丸山君はこう続ける。
〈「東京のような受験勉強の仕方、ボクはああまでしたくないな。ああやって入った人は、卒業してエリートになるんだろうね。でも、世間知らずの冷たい人間だよ、きっと。うーん、やっぱし人間性の面からみれば、とにかくボクたちより乏しいと思う。あの連中に本当の友だちはいるんだろうか。こっちでは勉強だけの友だちじゃないし、いろんなつながりがあるんだ」〉

 彼らの受験結果はわからないが、その後の人生において、貴重な経験となったことは間違いないだろう。

 最後に教育長の竹田氏はこう結んでいる。
〈「これほど自分を中心としたというか、大学受験という大きな難題にさえ毒されない高校生活が送れれば、現代が抱える社会問題も随分解消されると思う。要するに都会の高校生が、本当の高校生の姿を失っているわけです」〉

 あれから半世紀――日本は深刻な人口減社会となり、「受験戦争」という言葉は死語となりつつある。浜益高校も開校60周年の2011(平成23)年に廃校となってしまったが、大学受験に果敢に挑んだ7人が切り拓いた道を、後輩たちも歩んだに違いない。

『幸福』だけが駅じゃない

▲「週刊現代」’75年3月6日号

「愛の国から幸福へ」の大ブームを受け、「週刊現代」6日号では、全国の情緒あふれる駅を紹介している。北海道の駅をみていこう。

〈「幸福」「銭函」「恋路」「夜明」「平和」…駅名ぐらいにしか夢を託せないなんて、ホントに悲しい世の中です〉

 このうち、北海道は「幸福」「銭函」と「平和」の3つ。とはいっても、平和は1986(昭和61)年に開業した千歳線の駅ではなく、この年の4月に廃線となった夕張鉄道の駅である。ロマンチックな「恋路」は、2005(平成17)年まで存在していた、のと鉄道能登線の駅だ。

 特集の見開きページを飾っているのが、湧網線の二見中央駅。
〈網走から3つ目のこの無人駅は、片側が一面、雪と氷の能取湖。もう一方の原野は、夏場は網走刑務所服役者の作業場になっている〉
 二見中央は、正式には「仮乗降場」で、駅ではないため時刻表にも載っていなかった。

 釧網線の藻琴駅。
〈流氷の海の彼方に、雪にいろどられた知床の山脈がみえる〉
 釧網線は絶景を楽しめる駅が多いが、1924(大正13)年開業の味わいある駅舎では「トロッコ」という喫茶店が営業しており、人気スポットとなっている。

 同じく釧網線の茅沼駅。
〈天然記念物の丹頂鶴が訪れる珍しい駅だ。駅長の川上さんが「ピーコ、ピーコ」と呼びながら、餌を入れたバケツを持って近寄っていくと、駅長帽の赤いリボンを仲間だと思ってか、トコトコくっついてくる〉

 釧網線では、いまも優美なタンチョウを随所で眺めることができる。この素晴らしい路線が、いつまでも残ってくれることを願ってやまない。

プロ野球キャンプの食卓拝見

▲「サンデー毎日」’75年3月2日号

 体が資本のアスリートにとって、「食」は単なる楽しみではない。力士ほどではないにせよ、プロ野球選手また「食べることも仕事のひとつ」といえるだろう。「サンデー毎日」2日号が、キャンプ中の各球団の豪華なメニューを紹介している。

〈並みの人間では食べ切れない種類と量。ロッテキャンプの食堂には「ゆっくりよくかんで…」とまるで幼稚園児向けのような垂れ幕がさがった〉

 この日の夕食は、うなぎの柳川風鍋、牛肉のしょうが焼き、餃子、イカの刺身、豚肉とじゃがいもの煮物、三平汁、サラダとフルーツ。74年シーズンで24年ぶりの日本一となっただけあって、質量ともに他球団をリードしていた。

〈食費を惜しげもなく使うことで有名なのはロッテのカネやん。これが、あのエネルギッシュなグラウンド内外の活躍を支えているのはいうまでもなかろう〉
 食費をケチろうものなら、金田正一監督の怒号が飛んだに違いない。

 静岡県の伊東市でキャンプを張っていた日本ハムファイターズも、親会社が肉屋であるから、肉には不自由していなかった。夕食はすき焼きで、ズラリと並んだ牛肉の写真が圧巻だ。
〈四日に一度は本社から肉、ハムの大量差し入れ。「ゴチソウ食べて首位打者またいただきましょう」と張本選手〉

 ちなみに、日ハムは朝食が牛乳、ハム、生野菜、納豆、パンなどのバイキング、昼食がおにぎり、丼もの、サンドイッチから選択であった。
 時代は変わり、当時と比べ栄養バランスを重視するようになったのだろうが、特に若手選手はしっかり食べて丈夫な体をつくり、エスコンフィールドで躍動してほしいと思う。

沖縄に寝台列車

▲「週刊新潮」’75年3月27日号

 半世紀前、全国で唯一、鉄道がなかった沖縄県に寝台列車が出現という話題を「週刊新潮」27日号が伝えている。
 寝台列車といっても、残念ながら動くわけではない。

〈これは七月二十日から開催される沖縄国際海洋博覧会の宿泊施設として、国鉄の寝台車が使用されることになり、国鉄が無償で譲渡するもの。沖縄へ渡ることになった車両はC57型蒸気機関車と、A寝台車十両、グリーン車二両、お座敷車二両、食堂車一両の計十六両。このSLは昭和十四年製、今年二月まで北海道の宗谷本線で活躍していた〉

 寝台車などの来歴は記されていないが、SLは北の果てから沖縄まで大移動だ。本土復帰から間もなかった沖縄とはいえ、ホテル不足が理由ではない。〈「鉄道のない沖縄県で汽車旅のムードを味わってもらえたら」(国鉄)〉という、ちょっと心温まるエピソードがあったのだ。

〈海洋博会場近くの今帰仁村の宿泊村にレールを敷き、SLを先頭に列車の形で据え付けられる。冷暖房完備で定員二百四十人。海洋博後も小中学生のための宿泊施設として利用される〉
 初めてみるSLと寝台車の迫力に、子どもたちは大喜びしたに違いない。

 沖縄県に元々鉄道がなかったわけではなく、1914(大正13)年に沖縄軽便鉄道が開業。3路線を有し、活況を呈していたのだが、戦局の悪化により1945(昭和20)年に廃止されてしまい、戦後は完全な自動車社会となったため「鉄道空白地帯」の状態が続いていた。しかし、渋滞が深刻化するなかで、2003(平成15)年に沖縄都市モノレール(通称ゆいレール)が那覇空港―首里間で開業し、沖縄に鉄道がよみがえったのである。その後、2019(令和元)年には、てだこ浦西まで延伸し、いまや県民にとって欠かせない足となっている。

 また、現在、那覇と名護を約1時間で結ぶ「沖縄鉄軌道」が計画されているという。美しい沖縄に大渋滞と排気ガスは似合わないので、ぜひ実現を期待したい。

30時間4510円のヘソ曲がり旅行

▲「週刊朝日」’75年3月14日号

 半世紀前の春は、新大阪と博多を結ぶ山陽新幹線の開業(3月10日)が話題となっていた。ただ、スピード至上主義に疑問を持つ人も多かったようで、「週刊朝日」14日号では、そんな“アンチ新幹線派”の気持ちを代弁し、記者が東京発博多行きの鈍行旅行にチャレンジしている。

〈東京―博多間は六時間五十六分になる。九州が近くなり、九州からは東京が近くなる。だが、いつの時代もヘソ曲がりはいて、新幹線で行くのはつまらないとのたまう。それじゃ、鈍行で行きますかと半畳を入れると、それは優雅だ、やってみるべしということになった〉

 当時、さすがに東京から博多へ直通する鈍行列車はなく、乗り継ぎを繰り返さねばならなかった。記者が選んだのは、東京発8時57分発の沼津行き。出発前に長距離列車の歴史に触れている。

〈古い時刻表を調べてみると、直行で一番遠くまで行っていたのは、東京から門司(一一〇二・八㌔)まで。昭和二十五年十月のダイヤ改正で登場した〉〈昭和三十六年九月の時刻表によると、東京発14時40分、門司着20時15分で、二十九時間三十五分。しかし、この長距離鈍行は、翌月のダイヤ大改正で姿を消した〉

 ちなみに、現在の最長距離鈍行は、旭川発6時03分発の稚内行き(12時07分着)で259・4㌔。快速も含めれば、1位は敦賀発播州赤穂行き(275・5㌔)ということになる。

〈東京駅の国電はひどい混みようだったが、この8時57分発はうそのようにすいていた〉
 国電という言葉が懐かしい。乗車時は定期券を使ったのか、記者は車内で博多行きの乗車券を購入する。お値段は4510円。車掌に「博多ですね」と3度も念を押されたという。

〈前の座席が空いているので、靴を脱いで、足を伸ばした。新幹線はこれができないから疲れるのだなと思う。大磯を過ぎるあたりから、車窓の景色がのどかになる。東京ではまだだった梅が満開だ。車内には何となくゆとりが出てきた。心の解放度は東京からの距離に正比例するのだろうか〉

 同じ東海道でも、新幹線と在来線では、こうも雰囲気が違うのである。沼津11時27分着。このあと記者はおしゃべりな老婦人につかまり、沼津で11時32分発の浜松行きに乗り換えたあとも話し相手をさせられるのだが、「やれやれ」と嘆きながらも、新幹線では体験できない昔ながらの乗客同士のコミュニケーションを楽しんでいる様子だった。

〈「新幹線はまだ乗ったことがないのよ」「速いだけで、いいもんじゃありませんよ」「そうでしょう」と、お婆ちゃん、我が意を得たりの喜びようだ〉

 浜松13時44分着。14時23分発の米原行きに乗り換える。
 乗り継ぎ旅の食事は駅弁となるのだが、記者は静岡駅で買った400円の幕の内弁当。
〈向かいのお兄さん、六百円のうなぎ飯を食っている。小さいけれど、二切れのっている。ウマソー〉

 最近は新幹線の車中で駅弁を食べることが「スメルハラスメント」などと非難されているそうだが、まったく味気ない時代になったものだ。ますます新幹線など乗りたくなくなる。

 豊橋からは快速となって先を急ぐ。そんな折、名古屋の手前で車内アナウンスが。
〈新幹線は三十分から四十分遅れていると伝えた。ザマーミロ。思わずニヤリとした〉

 米原17時18分着。次は17時48分発の姫路行きだが、そろそろ記者に疲労の色が滲んでくる。
〈京都に近づいて、車内は関西弁が主流になる。「ヒロシ、ここ空いたよ、座り」五段活用の動詞の命令形なら「座れ」だろうに、関西弁では連用形を命令形にも使うのか。そういえば、北海道の人間は「起きろ」「逃げろ」というべきところで、「起きれ」「逃げれ」といったりする。ところ変われば、ことばも変わる、などと考えているうちに、大阪も過ぎた〉

 車内は混雑し、東京と同じような風景に。すると記者は〈電車に乗っているのが、急にいやになってきた。神戸の元町のアナウンスを聞いたとき、ほとんど反射的に席を立ち、気が付いたら降りてしまっていた〉のである。

 途中下車した理由は、元町駅のガード下になじみの台湾料理店があり、ビールと絶品の腸詰が恋しくなったからだ。
〈気の向いたところで、いつでも降りられるのが、鈍行列車の優雅なところじゃないか〉
 ご説ごもっとも。片道100㌔以上の切符は、何回でも途中下車がOKなのである。

 旅は岡山発5時54分発の広島行きで仕切り直し。居眠りする乗客が多いなか、元気なのは健康談議に花を咲かせているグループだ。これを耳にした記者は〈新聞記者の平均寿命は五十八歳とか。せめて平均ぐらいは生きたいと、このごろ思うわが身なりけり〉と嘆いているが、いくら激務とはいえ、58歳というのは眉唾だろう。

 広島9時02分着。3分の接続で、徳山行きに乗り継ぐ。
〈兵庫から岡山、広島、山口と西に行くに従って、瀬戸内海はだんだんきれいになっていく。山陽新幹線はやたらトンネルが多いから、海の変化は観察できまい〉

 岩田という小さな駅で、特急に追い抜かれ、貨物列車にも道を譲る。
〈急ぐヤツは行ってくれ。この気持ち、特急に乗ってるヤツに伝わるかなあ〉

 記者の体は、すっかり鈍行モードになったようだ。徳山着11時14分。11時48分発の博多行きが最終走者である。
〈終点の博多が近づくと、窓外をピンクのかたまりが飛んでいった。桃の花だろうか。やはり早いな〉
 博多15時48分着。1176・5㌔の優雅な旅は終わった。

 山陽路の場合は、今でも新幹線と在来線を選べるのが羨ましい。北海道新幹線の札幌延伸後、札幌から函館まで乗るべき在来線がなくなってしまうのである。現代こそ鈍行列車の旅がいっそう優雅で贅沢に感じられるだろう。