
北海道――士幌 私は東京を逃れ理想の『愛の町』をつくる
地方では過疎化が進む一方、コロナ禍以降、新たな生活環境を求めて、都会から地方へ移住する人も増えている。しかし、半世紀前にそのような考えを抱き、実行に移すケースは稀だった。1975(昭和50)年4月13日号の「サンデー毎日」では、士幌町で理想郷を作るため、東京を捨てた早稲田大学助教授の結城清吾氏の提言を紹介している。その内容は壮大かつロマンに満ちたものであり、結城氏の本気度を感じずにはいられない。
実現したい“21世紀の森”建設

元々、過疎問題に関心を持っていた結城氏は、2年前と3年前に実地調査のため十勝を訪れたことがあり、そこで深く感銘を受け、士幌町への移住を決意したという。
〈日勝峠より、みはるかす、真っ青の空と、薄緑の牧場に点在する森の十勝平野を眺望したとき、私はこれが北海道だ、日本にもこんなところがあったのだ、十勝の雄大な自然に感嘆の声をあげました〉
1963(昭和35)年に1万3千だった士幌町の人口は、1973(昭和48)年には7500人にまで減少していたが、町には国保病院、母子健康センター、特別養護老人ホームなどの立派な施設が揃っており、結城氏は病院前にあった少女像の台座に注目した。
〈台座には“愛のまち”としてつぎのような一文が刻まれていました。『母胎から楽土まで、町民の全生涯を通じて健康でしあわせに満ちた平和な愛の町建設は前町長吉山佐作氏が提唱し全町民のねがいであります。ここにみんなの願いをこめて福祉の総合病院「愛のまち」を建設します。昭和四十七年六月二十四日 士幌町長飯島房芳』〉
結城氏は、この「愛のまち」建設に共感し、自分の人生を賭けてみようと思い立ったのである。多くの過疎地域をみてきた結城氏の目に、士幌町の前向きなメッセージは新鮮に映ったようだ。「日本の過疎問題」について、このように解説している。
〈過疎地域には、あまりにもあらわに人間の悲しみが満ちています。子供から捨てられた老人の悲しみ、出稼ぎによる世帯主および主婦の、また子供の嘆き、医療から見捨てられた町村民の不安、結婚もできぬ青年達の悩みなどがあまりにも多いのです〉
こうした悲劇を生み出した要因として、結城氏は高度経済成長政策を挙げ、〈青年に“親捨て”を強行させ、出稼ぎ戦争を激化させ、わが国の農業・農村を破壊させました。弱者をきりすてる棄民の政策であったのです〉と、厳しく批判している。だからこそ、士幌町が掲げていた「愛のまち」建設計画に心惹かれたのであろう。
その計画の中には、士幌高原に“老人・子どもの国”をつくるという異色の構想もあった。結城氏は〈士幌町の過疎対策、町づくり計画の目標とその実践をみて、たまげました。実は私が考えてきた過疎対策と基本的に同一でした。私と同じようなことを考え、それを実践している士幌町を知って、私は驚喜しました〉と興奮を抑えきれぬ口調で記している。
この年の4月、晴れて「町民」となった結城氏。〈町民の一人として、町づくりを推進したく思います〉と述べ、以下のような腹案を提言した。
まず打ち出したのが、「21世紀の森」計画だ。ここで言う森とは、新しい文明社会を指す比喩的なもので、「福祉」「教育」「芸術」の3つの森を柱としている。「福祉の森」については、〈現在の老人福祉を充実すると同時に、士幌と他の過疎地域の元気なお年寄りの交流計画を実現したく思います、九州や四国の暖地の過疎自治体と手を結び、冬には士幌のお年寄りが暖地におたずねして、夏には暖地のお年寄りを士幌にお招きするのです〉と「寒暖交流」を提案し、さらには、〈大都市に住む年金受給者を対象として、士幌への移住を呼びかけたいのです。私はそれを“セコンド・ライフ・コミュニティづくり”と呼んでいます。第二の人生を士幌で、生き甲斐を求め“新しい村”をつくるのです〉と。
実現の可能性はさておき、非常に斬新であり、過疎問題解決のヒントになり得るユニークなプランといえるだろう。
“過疎”こそ文明社会創造の場
続いて「教育の森」。
〈私たちの意識の中には、中央志向型意識が根強く存在しています。この意識を地方志向型に転換することなくしては、士幌町の発展をはかることはできぬと思います〉
そのため手段として開設を目指すのが「士幌自由大学」だ。大学といっても学生を集めるのではなく、年齢、性別、職業、学歴などの制限なく、学びたい者が集う、いわゆる町民大学である。結城氏の構想はまだまだ尽きない。
〈夏季には、過密地域のお年寄り、子どもたちが士幌を訪ね、大自然にふれることができる士幌老稚園・子ども教室を開設したいのです。あるいはまた、教師と学生が安い費用でともに生活し、学ぶことができる、士幌セミナーハウスをつくりたいのです。士幌高原に“老人・子どもの国”建設計画があります。私は、その中に北方の動植物を集めた、北方動物園、植物園などの建設も、重要な課題だと思っています。また、北海道の福祉事業に従事する人材を養成するための“士幌福祉女子短大”を創設することも意義があるでしょう〉
まさに気宇壮大だ。士幌町は北緯43度15分に位置しているが、ほぼ同じ緯度の都市にはルネッサンスの都・イタリアのフィレンツェがあるとし、「士幌を日本のフィレンツェに」とも訴えている。
「芸術の森」では、こう呼びかけた。
〈保育園、幼稚園から小学校、中学生を通じて、音楽、絵画などの情操教育を大いにやろうではありませんか。町がピアノを、バイオリンを買い入れ、安い費用で学ぶことができる音楽教室を、絵画教室を開設しようではありませんか。そのようなことが実現したら、必ず二十年後には町民による管弦楽団ができます。士幌高原で“音楽の夕べ”も開催できます〉
そうなれば、まさに「日本のフィレンツェ」である。こうした魅力ある故郷になれば、地元の若者が都会に出ていくはずがなく、よって過疎問題の解決にもつながる、というのが結城氏の考えであった。
結城氏は最後にこう総括している。
〈「新しい、バランスの取れた日本列島」の実現をはかろうとするなら、過疎地域の再生なくして創造することはできぬと考えています。「反エコノミック・アニマル運動」を展開しようとするなら、「望ましき人間環境」の実現をはかりたいと願うなら、現在の過疎地域こそ、その舞台であると確信するようになりました。その実験を求めて、士幌の町のみなさんと一緒になって、現実と理想の橋をかけることに努力したいと念願して、士幌へ参ります〉
結果的に実現しなかったことのほうが多く、結城氏を理想主義者と嗤う向きもあったかもしれないが、これが「地方創生」の真理という気がする。1978(昭和53)年に竣工した交流施設「チセ・フレップ」(アイヌ語で赤い小屋という意味)は、結城氏の想いが結実した象徴といえよう。現在、北大恵迪寮自治会と士幌町が管理・運営を担っている。
鳩山ファミリー御曹司の結婚

かつて北海道選挙区を地盤とし、宰相の座をつかむまで出世した鳩山由紀夫氏。最近は動静をあまり耳にしないが、その独特な言動が「宇宙人」と揶揄されていたことを覚えている人も多いだろう。「週刊新潮」10日号が、留学先のアメリカで「年上」「バツ1」「元女優」という少々訳アリの女性と結ばれた経緯を報じている。
当時、28歳だった鳩山氏は、東京大学工学部を経て、カリフォルニア州のスタンフォード大学の博士課程に在籍していた。専攻はコンピューター・エンジニアリング。政治家とは無縁と思える難しそうな学問を選んだ理由について、
〈「小さい頃から数学が好きで、政治の方面に向いていないことがよくわかっていたからです」〉と、屈託なく答えている。
一方、弟の邦夫氏(26)は、兄とは対照的に「祖父(一郎氏)の血筋を受け継いだ、政治家向きの性格」と周囲の期待を集め、衆議員議員を目指して修行中であった。
お相手は、橋本幸(みゆき)さん。3つ年上で、離婚歴があり、「元宝塚・星組」という華々しい経歴を有していた。兄とは何もかも正反対といわれていた邦夫氏も、ハーフタレントの高見エミリー(20)と熱愛のすえに結ばれており、「新潮」の記事は〈鳩山ファミリーの御曹司は「芸能人」がお好きな点だけは共通しているようだ〉と皮肉っている。
〈式に参加したのは、牧師のほかは三人だけ。鳩山家から多忙な父親・威一郎参議院議員に代わって、母親の安子さん(ブリヂストンタイヤ創業者・石橋正二郎氏の長女)、花嫁の母親、それに由紀夫青年の高校時代(小石川高)の同級生。式のあと、スタンフォードの学友たち約五十人を招いて、簡単な披露宴を催した〉
2人のなれそめは、なかなかドラマチックだ。5年ほどで宝塚を退団したのち、幸さんは姉を頼って渡米。そこで、サンフランシスコにある日本料理店の経営者の義弟と結婚した。6年前の話である。
新婚の幸さんが日本へ里帰りした際、留学直前の由紀夫氏と知り合った。彼の高校の友人が紹介してくれたのである。
〈由紀夫青年、第一段階からグッと彼女に傾いていたらしい。彼、アメリカ人のガールフレンドをつくるヒマもなし。最初は「淡い恋情」が、やがて「抑えきれぬ熱情」に……。幸さんの店に現れた由紀夫君、一時は勉強もそっちのけのノボセようだったという〉
とはいえ、彼女は人妻。ふつうは片恋慕のまま終わるところだが、鳩山氏は諦めなかった。
〈幸さんと結婚したい、の一念に燃えた彼、まず彼女を口説いたあと、旦那さんに別れてもらうよう、懸命に働きかけた。これはスキャンダルになりかねないところで、その頃、在留邦人の間で「駆け落ち説」も流れた〉
新潮記者の質問に対し、鳩山氏はこう説明している。
〈それは間違いです。僕も彼女も、なるべく円満に事を運ぶために、忍耐強く、時間をかけました。幸い、ご主人が話のよくわかった方で、三年前、協議離婚が成立したのです〉
このときの鳩山氏は「私人」であるし、法律的にも問題はないのだが、いまの時代であれば倫理的に“略奪婚”との誹りは免れないだろう。幸さんは〈「彼、うちに秘めた情熱が素晴らしいわ」〉と夫の魅力をアピールしたが、政治家としても恋愛くらいの情熱を傾けてくれていれば……というのが偽らざる感想である。
流氷下の恐怖に挑む

北海道の冬の風物詩である流氷。観光客が目にするのは、海上を巨大な氷塊が覆う光景だが、氷の下にはどんな世界が広がっているのか――。「サンデー毎日」6日号が、厳寒の海で苛酷な撮影にチャレンジした、2人のダイバーの苦難の記録を紹介している。
舞台は網走の鱒浦沖。すでに3月(9日)になっていたものの、海岸にはまだ分厚い流氷が居座っていた。
〈今年は寒気がきびしかったので、氷も厚く、海岸から10㌔くらいまで。びっしり流氷群がつづいている〉
チャレンジャーは、小樽市で食品製造業を営む大畠譲さん(36)と、スキンダイバー仲間で毎日新聞北海道写真課勤務の佐藤正さん(28)。ダイバー仲間の6人が潜水道具を運び、2人は沖合1・5㌔まで氷上を歩いたのち、大きな割れ目から海中に飛び込んだ。
〈流氷の底は13㍍のところまで達していた。その底をぬって泳ぐのだが、大きな氷の下は、光がとどかないため真っ暗闇〉〈氷の下に住んでいるのは、3㌢くらいの小エビとプランクトン。氷壁をたたくと、穴の中からたくさん飛び出してくる。薄いブルーの氷の壁が美しい〉
神秘的な世界であることは十分に伝わってくるものの、カラー写真ではないのが残念だ。
〈2日間45分ずつの潜水は、無防備で落ちたら三分間で凍死という酷寒の海中でつづけられた〉〈海からあがってウェットスーツをぬぐと、もう海水は氷になってバリバリとはがれる。くちびるは皮膚が薄いためか凍傷になりやすい〉
当時は今と比べ、ウェットスーツの性能も劣っていただろうから、その寒さ、冷たさは想像を絶するものだったに違いない。実際、大畠さんは顔面に凍傷を負い、その後、治療のため通院することになったという。“名誉の負傷”といえるが、危険な挑戦の代償は大きかったようだ。
網走沖の流氷といえば、今年は「初日」が過去最も遅かった1993(平成5)年の記録(2月10日)を更新した。忍び寄る気候変動の影響に対し、手をこまねいているほかない状況がもどかしい。
「ハスの葉氷」の漁場

流氷の海の話題をもうひとつ。「サンデー毎日」13日号が、西カムチャッカで魚群を追う漁船の奮闘を伝えている。
〈春近い西カムチャッカ沖には、あの白いハスの葉に似た丸い流氷が、あたり一面に浮かんでいた。北洋漁業の基地・釧路港から北上すること三日、すでに日本とソ連の漁船が入り乱れて操業中だった〉
厳寒の中の作業とあって、船員の苦労は多かった。
〈着氷が原因で転覆する船はあとをたたない。北洋の海では、着氷を落とすのは、たいへん重要な仕事だ〉
スケトウダラの最盛期。レーダーが真っ黒になるほどの好漁場であり。写真をみると、船内には足の踏み場もないほど魚が積み重なっている。ただ、不安材料もあった。
〈ここ、二、三年前からスケトウダラの体長が以前の半分くらいに小型化してきた。しかも魚の成熟が早まっているという調べも出ている〉
かつて肥料にするほど豊漁を誇ったニシンも、末期には同じように小ぶりになり、成熟が早まっていたのだ。
〈日本は魚の全水揚高の三割を、この北洋に依存している。スケトウダラもいまにニシンのような“高級魚”になってしまうのでは――〉
幸い、いまのところスケトウダラが高嶺の花にはなっていないが、北洋漁業に関わる漁業者の心労は確実に増している。当時も拿捕のリスクがあったとはいえ、ロシアによるウクライナ侵攻以降、日露関係が悪化の一途を辿る現在の状況は、まったく先が見通せない。
「安全な海」がなければ「豊漁の海」にはなり得ないのである。
萩原吉太郎氏三度目の返り咲き

北海道の近代史を語るうえで、萩原吉太郎氏は絶対に欠かすことができない一人といえるだろう。ただ、多大な功績があった半面、権力も大きくなり過ぎたようだ。「週刊現代」3日号が、その萩原氏の「復権」の話題を伝えている。
〈「石炭業界は長い間不況だったせいか、人材不足の感が強いのですが、それにしてもねェ」〉
そう話すのは、地元紙の経済担当記者だ。当時73歳だった萩原氏が、北海道炭礦汽船(以下、北炭)会長へ返り咲いたことを受けての発言である。過去に萩原氏は社長と会長をそれぞれ2度辞任していた経緯があり、「ポストを私物化している」との批判があったことも事実だった。
経済担当記者はこう続ける。
〈「三年前、古稀になったのを機に第一線を引退するといって相談役になり、関連会社の三井観光開発に専念していた人です。夕張新鉱の出水事故などで急速に業績が悪化し、累計赤字も三百億円近い北炭のピンチを見捨てておけない、という気持ちはわかるのですが……」〉
一方、萩原氏を擁護する経済界の声もあった。
〈「北炭を救える人は萩原さんしかいませんよ。北炭はあの人にとっては自分の分身みたいなもの。今度だってドロをかぶるつもりで出てきたのです」〉
お家騒動が注目を集めているフジサンケイグループの“天皇”日枝久氏の87歳をはじめ、政財界を見渡せば高齢のトップが君臨している例は少なくないので、萩原氏の73歳には、正直、「まだ」という気もする。新陳代謝が進まない土壌が、日本社会の課題といえるだろう。
「現代」の記事は〈後継者が力量不足というのなら、ご本人の人選が間違っていたということになるのではないか〉と、皮肉交じりに結んでいる。
上野駅――そこに人生の縮図があった

今年は昭和100年の節目の年であるが、最も「昭和」という言葉が似合う駅といえば、上野駅を思い浮かべる人が多いだろう。「サンデー毎日」13日号が、さまざまな人間模様が交錯する上野駅をルポしている。
〈都に憧れて上るもあり 都を捨てて下るもある 田舎をなつかしみ訪れるもあり 田舎を嫌って足早に立ち去るもある 稼ぎに来るもあり 稼いで帰るもある 人々はそこに日本と日本人をみる〉
出稼ぎ労働者、家出人、集団就職、お上りの観光客――当時の上野駅は、実にさまざまな人が集まる場所だった。
〈三十年前、東京が焼け野原になったとき、浮浪児はここに群がった。家を失った人々は、ここから田舎への汽車に乗った。食いっぱぐれた人々は、ここで何かにありついた。だから人々は、上野を戦後とイメージした〉
終戦直後とは違う事情で食いっぱぐれた人々、7人のホームレスの男たちが笑顔を浮かべている写真がある。
〈この中の一人(58)は、この地下道に住みついて22年になる。公務員だったが、いまのメトロ暮らしのほうが気が楽だ、と語った。ここの住人は不況のあおりで昨秋あたりからふえてきた。真夜中はシャッターがおりて追い出されるが、これからは暖かいし、仲間と一緒だからなんとかなるさと明るく笑った。笑顔になんのかげりも感じられないのを不思議に思うのは、実は逆にさびしい人間なのかもしれない〉
サン毎の記者はなかなか哲学的な言葉で結んでいるが、あの頃の上野には、ホームレスをも受け入れる寛容さがあったことも事実だろう。すっかりインバウンドの街に生まれ変わった今の上野に、昔日の郷愁は感じられない。昭和は遠くになりにけり、である。