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海洋博会場にファントムが舞う現実

 さまざまな問題を抱えながらも、開催中の大阪・関西万博はそれなりの賑わいをみせており、日本人がこの手の国家的イベント好きであることを改めて印象付けた。国家的イベントといえば、半世紀前は沖縄で開幕した海洋博が話題を集めていたが、こちらも多くの矛盾や問題が指摘されていたようだ。前回の大阪万博からわずか5年後に開かれた海洋博の実態を、「週刊文春」1975(昭和50)年7月10日号が皮肉交じりに報じている。

目と鼻の先にある伊江島射爆場

▲「週刊文春」’75年7月10日号

 沖縄国際海洋博覧会(以下、海洋博)は1975年7月20日から翌年1月18日まで開催され、延べ349万人の来場者を記録したが、目標の450万人には遠く及ばず、最後はグッズを投げ売りする様子が話題となった。1972(昭和47)年の沖縄本土復帰を記念する事業の一環であり、万博に匹敵するほどの力の入れようだったといっても過言ではない。

〈コンニチハ、コンニチハと大騒ぎだった万国博から五年。こんどは沖縄の海洋博である。高度成長とバラ色の70年代を信じて疑うことがなかったあの頃にくらべると、あらゆる意味で現実はくらい。それでもお祭りとなると、ついその気になってしまうのは国民性というものか。例によって「海洋博まであとナン日」というカケ声とともに、沖縄本部の会場では突貫工事がおこなわれている〉

 ここで指摘された「国民性」は、その後の東京五輪、そして今回の大阪・関西万博をみれば、「まさにその通り」である。
 会場から5㌔の沖合に浮かぶ伊江島。そこには海洋博の華々しいお祭りムードとは対照的に、複雑な戦後の現実が横たわっていた。

〈いまなお島の37㌫が米軍の射爆場として占有されている。ベトナム戦争が終媳したあとも、ファントム戦闘機が実弾演習をくりかえし、昼夜を問わずその轟音と炸裂音は海洋博の会場に鳴りひびいている。島では一個35円の薬莢を拾うため、住民が生命がけで基地のなかを走りまわる〉

 その伊江島には、海洋博関連事業として空港が開港した。元々は旧日本陸軍が建設した伊江島東飛行場だった場所だ。
〈会場に客を運ぶため十四億円をかけて空港をつくったが、米軍から一日二時間半しか使用を認可されていない〉
 結局、海洋博の閉幕からわずか1年、1977(昭和52)年に定期便の運航がなくなり現在に至っている。

 伊江島と本島を結ぶフェリーから美しい海を望めば、奇怪な建造物が視界に飛び込んできた。
〈高さ32㍍、100㍍四方のシンボル「アクアポリス」が浮かぶ。日本政府の出展だ〉
 海洋博のメイン会場となった「アクアポリス」は、手塚治虫がプロデュースした「半潜水型浮遊式海洋建造物」で、国が123億円を投じて完成させた。海洋博終了後は沖縄県に譲渡されたが、1993(平成5)年に閉鎖。その後、米国企業に売却され、2000(平成12)年に上海へ曳航されるという数奇な運命を辿っている。

 同じく会場から近い水納島も厳しい現実と向き合っていた。
〈島が平たいため井戸は掘れず、島民は昔から天水にたよって生きてきた。細々とスイカをつくり、一日一便あるかないかの船便で出荷する。本島から水道は引きたいし電気のケーブルもほしい。海洋博の工費は三千億円。その落差は大きい〉

 開会式には当時の皇太子昭仁親王と美智子妃をお迎えしたが、「ひめゆりの塔」を訪問された際、過激派に火炎瓶を投げられる事件が起きた。「ひめゆりの塔」を巡っては、このほど自民党の西田昌司参議の発言が大炎上したのは周知のとおり。終戦から80年、沖縄に真の「戦後」はまだ訪れていないと感じずにはいられない。

ウェスタン讃歌

▲「週刊文春」’75年7月17日号

 颯爽と馬を駆る、西部劇から飛び出てきたような男たち――。ここは駒ヶ岳の麓に広がるソダ・シャロレー牧場である。シャロレーとは、フランス産の食肉牛の名称で、1960(昭和35)年に曽田玄陽氏が不可能といわれた火山灰地の開拓に成功し、牧場を開いたのだった。

「週刊文春」17日号が、北の地に憧れてやってきた「日本版カウボーイ」たちの日常を紹介している。
〈経営者の曽田玄陽氏はシャロレー種の国際的評価を得ている技術者だ。フランスから送られてきた牛をアメリカ、東南アジアへ輸出する。ヨーロッパ圏は牛の伝染病が多く、検疫のため、このように手のこんだ方法をとっている。悪性の口蹄疫と呼ばれる伝染病は、一昼夜のうちに4㌔平方にいる十万頭もの牛に感染し死滅するという、彼らがいちばん恐れている病気だ〉

 北海道の自然と気候は、口蹄疫予防という点でも適していたようだ。牧場では1千頭以上を飼育しており、春から夏にかけてのこの時期が、一年で最も忙しかった。
〈牧草を刈り取り、乾燥させてサイロに積む。20人の青年が作業に取り組んでいた。これでガンベルトを吊るせば、もう本物のカウボーイである〉

 この日本離れした環境には、全国からさまざまな経歴を持つ若者が集まっていた。
〈アルバイトのつもりがそのまま居ついてしまった者。自衛隊くずれの者。日本の農業に絶望した者……。いずれにしても、タテ社会の現実からドロップアウトした青年たちに違いない〉

 6年目のベテラン、大分出身のジュリーは、京都の染物屋に弟子入りしたが嫌気がさし逃げ出したという。そんなしがらみのない環境ではあったが、仕事内容は過酷だった。
〈起伏の多いこの地形では、馬は牛追いに不可欠の乗りもので、しかも大変な危険を伴う。冬は零下15度になる厳しい自然との闘い、獣医の知識、草刈りの技術、なんでもできなくてはならない。牛の糞尿にまみれ朝六時から日没まで働きまわる肉体労働である〉

 牧場を開いた曽田玄陽氏は著名な人物で、1967年には氏をモデルとした「太陽野郎」(主演・夏木陽介)というドラマも放映された。花畑牧場のオーナー田中義剛氏は、このドラマのファンであることを公言している。
 その後、牧場は乗馬が楽しめる観光施設として人気を集めていたが、2019年に閉場となってしまった。牧場のキャッチコピーは「広い草原で“風の詩”を書こう」。殺伐とした今の時代にこそ、こんなロマンチックな言葉が似合う場所があればと思う。

二十七歳セールスマン死のドライブ出張

▲「週刊新潮」’75年7月10日号

 最近は働き方改革が進んだうえに人手不足が顕著になっていることもあり、休日返上で長時間の過酷な勤務を強いる、いわゆる「ブラック企業」は減ってきたように思う。しかし、半世紀前の日本社会は、残業も休日出勤も厭わぬモーレツ社員が模範とされていた。

「週刊新潮」10日号では、ハードスケジュールの出張中、北海道で命を落とした青年の話題を取り上げている。
〈六月十三日、札幌・中央消防署大通出張所の救急車が到着したとき、その半そでシャツに茶色のカーディガンの若者は、ホテルの駐車場寄りの歩道の端に、仰向けに横たわっていた〉

 死因は急性心不全。身元はすぐに判明した。亡くなったのは、ビジネスホテル「エルム」の宿泊客で、東京・湯島の医療機器メーカー「アタゴ光学機器」に勤務する尾関徹さん(27)で、当日の朝には、ホテルから会社に明るい声で「商談がまとまった」という旨の連絡を入れていたという。チェックアウトしたあと、駐車場に向かう途中で昏倒し、そのまま帰らぬ人となったらしかった。

 検死に当たった警察医は、こう証言している。
〈「首筋から肩にかけて左右六枚ずつ、べったりと張り薬を張っているのに驚かされました。張ったばかりのようでした。急性心不全は俗にいうポックリ病で、春から夏にかけて、病知らずの若い男性が襲われることが多い。しかし、彼の場合は、眼底などに充血が見られたし、過労状態にあったことは間違いないようです」〉

 営業の尾関さんは、東北・北海道地区のセールスを担当しており、商品をライトバンに積み込み、月に10日は大学病院や代理店を回る生活だった。北海道へ渡るまでの足取りを追っていこう。
〈六月七、八日の休日に、社内の有志十一人と長野県の鬼無里にドライブ旅行に出かけ、その足で出張先に向かうことになっていた。八日、仲間と別れた尾関さんは新潟へ。翌九日は、酒田の病院に寄ってから秋田へ向かった。十日早朝、秋田駅で会社の同僚と落ち合って、市内の病院回り。その日のうちに弘前に出て業者訪問〉

 東京を出発してから、長野、新潟、山形、秋田、青森と北上するコースで、すでにかなりの長距離移動をしたことがわかる。ゆっくり休む間もなく、青森からフェリーで函館に上陸し、北海道での営業が始まった。

〈十一日は、函館市内で業者と病院を一ヵ所ずつ。十二日は、倶知安の病院へ寄ってから、夕方、札幌の「エルムホテル」に入っている。予定だと、十三日札幌、十四日旭川、再び札幌に戻って、十六日は函館泊り。十七日に青森で仕事を済ませて、十八日には今回のセールスのポイントである盛岡での商談を終え、二十日に帰京のハズだった〉

 6月7日にスタートしているから、ちょうど2週間の長丁場である。途中に立ち寄った仕事相手は「元気だった」「疲れている様子はなかった」と証言しているが、1週間の時点でも疲労が蓄積していたことは想像に難くない。
 尾関さんは徳島市にある寺院で生まれ、福岡工大を卒業後、同社の福岡営業所に入社した。体は丈夫で、学生時代も入社後も、ほとんど休んだことがなかったという。

 息子を遺骨で迎えた母親は、無念そうに声を絞り出した。
〈「告別式にみえた社長さんに“会社のスケジュールが、きびしすぎたためではないでしょうか”と、よっぽどそう言いたかった。けれど、わざわざ徳島まで弔問にこられた社長さんに、そのことは言い出せなかった……〉

 会社の管理に問題があったのでは、との疑問に対し、同社の専務はこう弁明している。
〈「仕事がハードだったとは思いません。予定表は自分で作るわけだし、オーバーワークなら上の者が“こりゃ無理だ、次回に回せ”と削っていますしね〉

 これがOKならば、上司が無理と判断するのは、どれほどのスケジュールなのだろうか。一応、会社は労災申請の手続きを行ったようだが、新潮の記事は〈「寝ていても起こる」急性心不全の場合に、労災が適用された前例は、皆無に近い〉と結んでいる。

 昭和の時代は表面化しなかっただけで、尾関さんのような会社に忠誠を尽くしたサラリーマンの悲劇は、氷山の一角だったに違いない。

今夏のオバケ住所録

▲「週刊現代」’75年7月10日号

 夏といえば怪談。物価高の折、エアコン代節約のため、怖い話を聞いてゾワッとした感覚を――なんて人が増えるかもしれない。
 昔も今も怪談話は根強い人気があるようで、「週刊現代」10日号が全国の心霊スポット23ヵ所を紹介している。このうち、北海道の3ヵ所をみていこう。

 まずは釧路市。
〈ある町では、夜、一人で歩いていると、しばしば、後ろから高さ約一㍍、白いキノコのようなものが追いかけてくる〉

 もうこの時点で眉唾ものだが、このあとの話が失笑を誘う。
〈「この野郎、何のマネだ」とばかり、棒切れか何かで白いキノコをひっぱたいたりしようものなら、えらいことになる。自らの男性自身に激痛が走るのだ。どうやらこのキノコは道祖神、つまり男根のお化けらしい。わが男根をひっぱたいて、七転八倒の苦しみ、というわけだ〉

 キノコと男根とは何ともわかりやすいが、怪談というより地方に伝わる艶笑譚の類といえるだろう。
〈女性には滅法やさしくて、白いキノコに追いかけられた娘は、必ず近いうちに良縁を得て、お嫁に行けるという。アレのオバケに追いかけられるくらいだから、結婚後の夫婦生活も、おそらく円満そのものに違いない〉
 体験者は男女合わせて60人以上と、具体的な数字を示して結んでいるが、怪談としてはあまり出来がよろしくない話という気がする。

 続いては函館市。以下は、湯の川温泉に住む木村茂雄さんが仏文学者で「お化けを守る会」の会長を務めていた平野威馬雄氏に送ったレポートの内容である。

〈函館山の別荘地の一角に“お化け屋敷”があった。噂を聞いた木村さんが長男と一緒に“探検”することになり、一日目、家じゅうの鍵をかけて帰り、二日目、行ってみると、あれほど念入りにかけた鍵がことごとく開いている。「やっぱり出るぞ」。二人は二階の一室に閉じこもって待つこと三十分。眼前の二㍍ほどのところにあるドアのノブが、突然、カチッとまわってドアが開いた。人影はない。次は無人のはずの廊下を誰かが走る音〉

 よくあるパターンとはいえ、こちらは怪談として成立している。その後、木村さんはこの屋敷の最後の住人を探し当てた。
〈五稜郭近くで小ぎれいな喫茶を開いている五十七歳の未亡人で、彼女の話では、ドアの鍵が勝手にかかったり、しばしば気味の悪い叫び声や物音が聞こえたり、黒いピロードを着た見知らぬ女性が階段を静かに下りていったり、といった奇妙な出来事が相次いだという〉
 この話は、謎の屋敷に住む57歳の未亡人という設定がミステリアスな雰囲気でよい。

 最後は弟子屈町の屈斜路湖。
〈毎年、美しい風光に魅せられた自殺者、心中者があとを絶たないが、観光客がこの湖をバックに記念写真を撮ると、背後に見たこともない人物が立っていることがよくある〉

 記述はこれだけで、面白みがない。
 この夏、庶民にとってオバケより怖いのは物価高とコメ不足であり、猛暑が予想されるが懐だけはお寒くなりそうだ。

「北海道独立国」の国鉄

▲「週刊新潮」’75年7月17日号

 全国のB級ニュースを拾い集めた「週刊新潮」の「新聞閲覧室」。17日号から「北海道新聞」のネタを紹介したい。

〈今、北海道はシーズンたけなわ。だが、その足の動脈は以下のとおり。まるで動労を主権とする独立国のよう。スト、そして「ダイヤ改正」見送りという事態になったのだが、現地の新聞でそのむ
なしさを見てみよう〉

 動労とは、1951(昭和26)年に結成された国鉄動力車労働組合のこと。当時、非常に強い力を持ち、「泣く子も黙る鬼の動労」とも呼ばれていた。
〈“迷惑ダイヤ”が走り出した。前代未聞のダイヤ改正見送りが現実となり、道内国鉄の列車は七月に入っても、六月の時刻表のまま動いた。一日朝十時十五分きっかりに、下り急行大雪2号が釧路に向けて札幌駅を出た。この列車、新ダイヤに移っていれば、十五分繰り下がって十時三十分に発車するはずだった。七月号時刻表にもちゃんと載っている〉

 まだネットなどなかった時代であり、列車に関する情報を得るには、駅へ行くか、時刻表を頼りにするほかなかった。当然、7月以降に利用する人は、7月のダイヤ改正号を参考にしたのだが――。

〈“繰り上げ発車”となり、乗りそこねる客が出るのではと、と心配されていたが、案の定、十時半少し前に、青年二人と中年男性四人が改札前に。岡山、東京、秋田からの旅行者だ。切符を差し出すと、駅員から「もう発車しました」とつれない返事。「そんなバカな。指定券には十時半発車と書いてあるじゃないか」とかみついた〉

 指定席の発券システムは、ダイヤ改正延期に対応していなかったのである。時刻表にもチケットにも10時30分と記載されているのだから、乗り遅れた乗客が怒るのも無理はない。
 結局、彼らは後続の列車に振り替えられることになったのだが、5時間以上も待つことに。せっかくの道東旅行のスケジュールが台無しになり、落胆していたという。ダイヤ混乱の影響は多方面に及んでいた。

〈観光団体は足をもがれて右往左往。道内観光を続けていた広島市の農協百五十人は、登別温泉から函館まで列車にかわってバスに。どの顔にも疲労の色がにじんでいた。函館では“幻の急行”となった、すずらん1号に乗車予定だった婦人団体や、改正ダイヤで道内旅行の日程を組んだ大阪の修学旅行生たちから、“利用者不在”の国鉄労使に激しい不満の声があがっていた〉

 あれから半世紀――。もはやストや動労といった言葉は死語になり、民営化されてサービスは格段に向上したが、ローカル線では過疎化や減便によって、違った意味の「利用者不在」が深刻化している。こうした身勝手な状況は批判されてしかるべきではあるが、鉄道が主役を担っていた時代が懐かしい。

シーズンを迎えた北海道の玄関

▲「サンデー毎日」’75年7月20日号

 半世紀前と比べ、札幌の街並みは大きく姿を変えたが、「サンデー毎日」20日号では「わが町 この30年」と題し、30年間の激変ぶりを写真で振り返っている。今から80年前の札幌へタイムスリップしてみよう。

〈北大の前身、札幌農学校の演武場だったこの建物の時計台は、市のシンボルと思われるほど有名。大通りの東端という目抜きの場所にあるので、現在はビルの谷間。その底にひっそりと明治を伝えて健在〉
 80年前の時計台は、周囲に高い建物がなく、非常に風情が感じられる。一方、50年前の写真は、オリンピックで一気にビルが増えており、今とほとんど変わっていない印象だ。

〈北海道に観光客が押し寄せる季節になった。その玄関口・札幌駅は、また“かに族”といわれる若者たちの行動拠点になる。駅前大通りの並木は中央に移され、電車は地下を走っている。「五番舘」は古い店。いまも盛業中だが「GOBANKAN」と文字も変わってビルの中〉

 80年前の駅前は、路面電車が走っており、見晴らしのいい大通りの沿道には街路樹が続いている。五番舘百貨店以外に建物は少なく、この緑豊かな街が1972(昭和47)年に人口100万を擁する政令指定都市になろうとは、誰が想像し得たであろうか。

 1906(明治39)年創業の老舗・五番舘は1990(平成2)年に閉店となり、建物を引き継いだ西武百貨店も2009(平成21)年に消えてしまった。現在、駅前地区では新幹線延伸に向けた再開発が進んでいる。時代に合わせ、街が変容するのは仕方がないこととはいえ、どんどん趣が失われていく状況が寂しくもある。