
人気声優富永美沙子が14歳年下の青年と心中する日まで
厚生労働省の発表によると、2024年の自殺件数は2万268人で、これは統計を開始した1980(昭和55)年以降、2番目に低い数字だったという。とはいえ、2万人以上が自ら命を絶っている現実は衝撃であるし、若年層は増加傾向にあるとのことで、なんとも痛ましい。今回は北海道が舞台となった「心中」の話題を2つ紹介するが、まずは1975(昭和50)年5月15日号の「週刊新潮」に掲載された、人気声優・富永美沙子さんと若き恋人の「死出の旅」をみていこう。
ボクと美沙子の心中旅行

〈声優・富永美沙子といっても、イメージのわく人は多くあるまい。テレビの洋画番組の終わりに「声の配役」として名が出るだけだから。それでも、声を聞けば、思い出すかもしれない。かつては『うちのママは世界一』のママ役を八年間続け、“アテレコの女王”といわれたし、最近でも『伯爵夫人』などで活躍してきた人。その人が、十四歳年下のアテレコ・ディレクターと心中した。ともに独身、なにゆえに――?〉
まさに彼女を知る誰もが「なにゆえ」と驚いたに違いない。
富永さんは、挿絵画家の富永謙太郎氏の一人娘。SKD(松竹歌劇団)の出身で、フランス喜劇のヒロインとして華々しくデビューした。昭和30年代には、脇役ではあったが、「時間ですよ」「銭形平次」などの人気番組に出演した実績もある。その後、テレビに出演する機会は激減したものの、声優の世界では確かな地位を築いていた。
42歳だった富永さんのお相手は、母袋博さんという28歳の青年。早稲田大学法学部を卒業後、アテレコ専門のグロービジョン社に就職し、裏方仕事に従事していた。2人はアテレコの仕事を通して知り合い、深い仲になるまで時間を要さなかったようだ。
〈苫小牧市から支笏湖まわりで札幌に抜ける国道の、通称“八マイル”と呼ばれる場所。そこから百五十㍍ばかり入った窪地が心中場所である。周囲はエゾマツの国有林で、人家はない〉
5月2日、山菜採りに訪れた男性がエンジンをかけたままの車を発見。車内を覗くと2つの遺体があり、慌てて警察に通報したのである。死因は一酸化炭素中毒で、死後2日が経過していた。免許証から自殺者の身元はすぐに判明した。
〈車内に排気ガスを引き入れていたが、その手立ては実に入念だった。まず、排気管に接続しやすい直径三㌢の半円形の金属パイプを用意する。一端は排気口に差し込み、ビニールテープで固定する。一端の接触するトランクルームに、ハンドドリルで穴をあけ、金属パイプを差し込み、ここもビニールテープで固定する。余ったテープで金属パイプを巻く。次いで罐入りのパテを溶き、接続部に厚く塗る。さらにトランクルームと後部座席を仕切っているボードを外す……〉
かなり手間がかかる作業であるが、2人はどんな気持ちで準備を進めていたのだろうか。現金28万円を含む遺留品はあったが、遺書らしきものは見つからなかった。
母袋さんが残したメモから、東京を発ってからの行程がうかがえる。
〈四月八日、日本沿海フェリーの苫小牧行に乗船。二万三千五百円の特等室だった。十日朝、苫小牧上陸。十日から十六日までは札幌のホテルに泊まり、二十二日まで旭川、二十三日は豊富温泉、二十五日まで稚内、二十八日朝までが再び札幌。“足取り”は四月二十八日朝に札幌のホテルを出たあとは記されていない〉
この間の旅に悲壮感はなく、小樽でウニやイクラを満喫し、サロベツ原野で利尻富士の絶景に感動し、ノシャップ岬でカモメと戯れ、といった具合に「心中旅行」どころか「新婚旅行」のような雰囲気だったのだが――。
富永さんの訃報を受け、所属していた赤坂プロの望月操社長はこうコメントしている。
〈「ホームドラマ全盛になり、演技派の彼女にふさわしい役柄がなくなってきたんです。彼女自身、その方面には見切りをつけていましたよ。しかし、昨年の春から一人で絵の勉強を始めていましたね。そして、十一月頃、“声優もやめたい”と言い出しました。“童画や挿絵のほうで生きていきたい。父のツテで仕事も入りそうだ”ということでした。私は、アテレコは時間を取られないし、小遣い銭稼ぎにはなるから、やめることはないんじゃないか、と引き留めたのですが……」〉
アテレコのギャラは、1時間で6~7万円。経済的にはまったく困っていなかったが、富永さんの心は満たされていなかったようだ。
彼女の人間性については、アテレコ仲間がこう証言している。
〈「富永さんはスキャンダルのまったくない人。明るくて、控えめで、慎重な人でした。恬淡として独身を楽しんでいるようでした。小さな虫を大変に可愛がる人で、ひょっとして若き男性に、“虫”に対するような優しい愛情を注ぐ気持ちになったのか……」〉
母袋さんのほうは、日頃からネガティブな感情を吐露していたようだ。古い友人がこう語る。
〈「彼は学生時代、経済的な苦労を知らずに過ごした男です。高校時代から、性格なのか、“世の中は無意味だ”とか“死にたい”などというのが口癖で、近頃は“ボクの仕事はフィルムを切ったり、つないだりしているだけだ。もっとクリエイティブな仕事がしたい。たとえばテレビのディレクターとか映画監督とか”などと話していました」〉
そして、こう続ける。
〈「彼は一方で“一流品好み”でして、洋服も一流のもの、音響も一番いいもの、ゴルフ道具も一流のもの。カッコウを気にするヤツで、じっくり努力して力をつけるというタイプじゃなかった。富永さんのことは“すばらしい人だ。上品で、垢抜けていて、教養があって”と、あこがれていました」〉
社長も友人も「自殺の理由はわからない」と首をひねる。
そうしたなか、母袋さんの兄の言葉が最も2人の心情を代弁しているような気がする。
〈「二人が出会い、互いの世界が一致した。それだけに、誰にも知られたくないし、乱されたくない。二人だけの世界、最高の世界を永遠に凍結したいと考えたんじゃないですかね。幼稚といえば幼稚だけど、それだけ純粋だったんじゃないでしょうか」〉
「死人に口なし」ではあるが、なぜ1ヵ月近い北海道周遊の果てに、苫小牧郊外のあまりに寂しい場所を死地と決めたのか、その理由を聞いてみたい。
ノサップ・ダブル心中の遺書と記念写真

続いても死ぬために北海道を目指した若者の話題を。「週刊朝日」30日号が、18歳と17歳、20歳と15歳という、死に急ぐにはあまりにも早過ぎるカップルのダブル心中の背景に迫っている。
5月13日、根室市のノサップ岬に近い海岸で、2台の車内に排ガスを引き込み、4人が死亡しているのが見つかった。
〈白色のサニーには福島県安達郡大玉村の片寄義則さん(18)と同県田村郡船引町の伊藤洋子さん(17)が、グレーのスプリンターには福島市の遠藤邦夫さん(20)と同市の大場智子さん(15)が、血に染まった布で二人の手首をしっかり結んでいた。さいはての岬の空は、抜けるように青く、根室の海は鏡のように静かだった〉
車内には12通の遺書と2枚のメモ用紙が残されており、大場さんの自宅には両親に宛てた手紙があった。その内容は、〈私は一人で旅に行ってきます。だまって行く私をお許しください。私は遠藤君を忘れるために旅に行ってきます。三日間ぐらいだから私がいない間にさわがないでください。私の最後のお願いです。どうか三日間はさわがないでください。御両親様 智子〉――というものだった。
誰が読んでも、3日で帰ってくるとは考えられぬ、ただならぬ覚悟でしたためた手紙と感じるだろう。
このほか、屑籠からは中学時代にお世話になった担任への手紙も出てきた。
〈すみません。私としては高校を卒業してから家を出ようと思いました。両親にはすまないと思っています。でも、あんなに強く反対されては彼としても待てなくなったと思います。今回家を出ることになったのは、あの人の結論です。だから私はあの人の為について行きます。彼には私が必要なのです。彼は交通事故で右足が使いものにならない人です。たとえ彼について行っても苦労することは知っています〉
ここまで読めば察しがつくと思うが、大場さんは障がいを持つ遠藤さんとの交際を反対され、悲観して駆け落ちしようと決意したのだった。ただ、家出は想像できても、まさか15歳の娘が心中するまで思い詰めているとは思ってもいなかったに違いない。
両親は遠藤さんの身体的な問題を反対理由にしていたわけではなかった。恋愛にばかり夢中になっている娘を心配し、父親の宇一さんが「勉強に打ち込めない交際は控えなさい」と注意したのだ。
大場さんは幼稚園から短大までエスカレーターというキリスト教系の私立の名門に通うお嬢様で、小学校の頃から“奉仕”に熱心だったという。
〈中学生のころ身障者の青年と文通するかたわら病院や老人ホームを巡回訪問したり、ぬいぐるみを作って見舞ったりもした〉
そんな慈悲深い少女だったから、早くに父親を亡くしたうえ、不幸な事故で下半身不随となった遠藤さんに同情を寄せたのは必然といえる。大場さんは入院中の友人を見舞った際、遠藤さんと知り合ったという。
〈このころ邦夫君は事故を起こしたバス会社からもらった一時金で身障者用のスプリンターを購入、智子さんの下校時には、きまって正門まで迎えにきていた〉
不幸な境遇に陥り、将来に不安を抱いていた遠藤さんにとって、大場さんの存在が心の支えになっていたようだ。
2人は福島市内の喫茶店でデートしていたのだが、ときに4人で楽しく過ごすこともあった。同席した2人が、片寄さんと伊藤さんである。片寄さんがバイク事故で入院した際、仲良くなったのが遠藤さんだった。
〈洋子さんが義則君を、智子さんが邦夫君を見舞ううち、急速に二組のカップルは親しさを増した〉
片寄さんと伊藤さんが「絶望」した経緯はこうだ。
〈昨年の暮れ、二人は婚約し、洋子さんは義則君の家に“足入れ”した。しかし、義則君の母親と洋子さんの折り合いが悪くなり、この四月に洋子さんは家を出た〉
世間でよくある嫁姑の確執だが、自分を連れて再婚し、苦労してきた母親に感謝していた片寄さんは思い悩んだ。「母親と一緒に暮らしたい。洋子とも別れたくない」――と。
こうして4人は、前項の富永さんと母袋さんと同様に、北海道への「死出の旅」を決意したのだった。
5月6日に福島を出発。青森からフェリーで函館に上陸し、車中泊を重ねながら、札幌、帯広、摩周湖と旅を続けた。メモにはラーメン、チャーハン、おにぎりなどと、つましい食事の内容が書かれており、フェリーは特等室で高級ホテルに宿泊し、豪華グルメを満喫した富永さんの旅とは異なるところだ。
全員が無職と学生とあって、所持金は少なかったのだろうが、4人が修学旅行や新婚旅行のようにワイワイとはしゃいでいる様子が伝わってくる。この時点で、「生きていれば楽しいこともある」と気づいてくれなかったのが残念でならない。
そして、運命の5月11日。遠藤さんのメモは〈最後の日の午後。野付半島からノサップへゆき灯台のところで写真をとる。そろそろクスリを飲む時間なので終わりにする。サヨウナラー〉と、あえて弱みをみせまいとしているのかもしれないが、なんとも軽いノリだ。
一方、大場さんの両親に宛てた遺書は言葉のひとつひとつが重い。
〈私はこの六日間とても幸せでした。北海道もみんな見ました。こんな遠くでこんなことして。でも後悔しません。仕方なかった。二人の同意で決めたことです。最後のわがままです。二人を一緒に埋めてください。いつまでも一緒にいたいから〉
4人は排ガスを吸ったものの、大場さんだけが死に切れなかった。
〈私はどんなことをしても死ねないので手首を切りました。もし邦夫君が生き残ってもせめないで。彼は精いっぱい私を愛してくれました。邦夫君に私よりもっといい人を見つけて結婚してくださいっていってください。みなさんごめんなさい〉
この手紙を読んだ両親は、胸が裂かれる思いだったろう。
リードでも触れたとおり、現代社会も若者の自殺が後を絶たない。ただ、当時と比べて異なるのは、恋愛関係のもつれによる心中というケースはほとんど目にしなくなった点である。それだけ人間関係が希薄になっているせいだろうか。いずれにせよ、あの頃は多くの自殺願望者が「北海道で眠りたい」と思っていたことは確かなようだ。
ご覧のとおりの飾りつけでラーメンを食わせる店

ラーメン店といえば、老若男女が気軽に立ち寄れる場所だが、「週刊新潮」22日号が、入店するのにちょっと勇気がいる不思議な店を紹介している。
〈ドアを開けてはいってきたОLが壁の写真を見るや顔を赤らめてモジモジ。東京・銀座のど真ん中、デパート裏の横町のラーメン屋〉
なぜ、彼女たちが赤面したかというと、〈壁一面にご覧のとおりの“ファック写真”が所せましと飾ってある〉からだ。
その数45点。当時としてはかなり過激な写真もあり、子連れは絶対に無理だし、女性だけではなく男性も目のやり場に困るだろう。新宿や池袋や上野ではなく、紛れもない一等地である銀座2丁目というのも意外である。
〈店の名は「キッチンラーメン」。昼時は付近のサラリーマンで大入り満員の店。近くのデパートガールもよく来る。「ここ、おそばのボリュームがあるから」「でもちょっとハズかしいわね」「そんなガラかしら」と女の子。「いやべつにこれを見に来たワケじゃないけどケッコウですな」と中年氏〉
これらの写真は「個展」なのだとか。「エダの部分」というタイトルがつけられており、「れっきとしたエロリアリズムの芸術」と店主は胸を張る。
〈撮影したのはプロカメラマン・荒木経惟。中身は二十歳の恋人との“ファックシーン”を撮ったもの。自分の新婚旅行を赤裸々に撮って写真集にしたり、ピンク女優のオナニーを撮ったりした“型破り”なカメラマンである〉
なんと、写真はのちに世界的な巨匠となる“アラーキー”だったのだ。
荒木氏はこの3年前に電通カメラマンを辞し、フリーとして活動を始めたばかり。
〈「既成の展覧会場や画廊とかは装った感じ。日常の生活の中でもっと身近に見てもらいたいと思って。生理的に性欲と食欲はつながっているものですよ」〉
尖った企画で名を売り出していた若き日の荒木氏らしい言葉といえる。「会場」を提供した店主は、荒木氏の知り合いだったのだろうか。
〈「1ヵ月ごとに違ったハダカを見せていきます。とにかく活気があっていいね。ハダカに味が負けないようにしなくちゃ」〉
多様性が認められているとはいえ、今の時代ならセクハラとの批判は免れないだろう。「ふてほど」な店ではあるが、どんな“裸ーメン”だったのか、味わってみたかった気がする。
非番の日の“弱い”警官

地方のB級ニュースを集めた「週刊新潮」の連載企画「新聞閲覧室」(15日号)から、「制服の力」がいかに強大であるかを物語る話題を紹介したい。ネタ元は「北海道新聞」だ。
〈非番の日に一杯機嫌の警官二人がスナックで無法者の一群に出会った。乱暴者は警官にも立ち向かってくる。さあ、どうしたらいい?〉という口上から始まる騒動の舞台は砂川市。道警交通機動隊砂川分駐所のA巡査(30)とB巡査(25)が連れ立って午前0時頃に市内のスナックに入ったところ、40歳前後の先客3人が店のマスターに絡み、1人の若い客を取り囲み因縁をつけていた。あまりの狼藉ぶりに、非番とはいえ、2人の巡査が制止しようとしたのだが、そこから事態が一変する。
〈マスターが「この人たちはお巡りさんだから、やめなさい」と声をかけたが、三人組は「こっちは刑務所帰りだ」と逆に殴りかかる始末〉
相手が警官と知ったうえで暴力をふるう神経は理解できないが、警官の対応も理解できないものだった。なんと抵抗するどころか、店外に逃げ出したのである。
ところが、三人組は、なおも追跡、近くの小学校のグラウンドでまたも乱暴。両巡査はほうほうの体で逃避、帰宅した〉
公務中ではなく、拳銃や手錠を所持していなかったとはいえ、凶暴な3人組を放置すれば市民に危害が及んだかもしれず、2人の行動には疑問を持たざるを得ない。徒手空拳では形勢不利と判断したのだろうが、どうにかねじ伏せ、同僚に通報してほしかったというのが市民の偽らざる心境だろう。マスターが通報すればよかったのかもしれないが、おそらく3人組は常連であり、報復をおそれて何も言えない立場はわかる。
だが、事件はこれで終わらなかった。
〈三人組は夜が明けると、今度は同分駐所官舎に上司のC警部補(43)を訪ね、「昨夜、A巡査らに乱暴され、背広、ワイシャツを破られ、腕時計もなくなった。弁償すればそれでいい」と要求した〉のである。暴行を働いておきながら、さらに虚言を弄して警察相手にカネをせびるとは、悪党中の悪党の所業であるが、呆れたのは警部補の対応だった。
〈警部補は背広、ワイシャツ、腕時計代など合計八万二千円を渡した〉
酔った部下が酒席でトラブルを起こしたと思い込み、不祥事が明るみにならないよう、口止め料の意味で要求を容れたのだろうか。事実関係の精査もせず、ならず者の言い分を鵜呑みにした責任は重い。
どういう経緯かは不明だが、市民から「警察が脅されたとの噂がある」との情報提供があり、砂川署の調べによって一連の出来事が発覚したという。
このあと、非番の警官たちは「どうか面倒なことに遭遇しないように……」と思っていたに違いない。