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パンダ2世づくりに賭けた中川志郎飼育課長

 今年1月27日、日本からパンダが完全に姿を消した。1972(昭和47)年10月28日、「日中友好の使者」としてランランとカンカンが来日。日本中に熱狂的なパンダブームを巻き起こして以来、半世紀以上にわたり、多くのパンダが日本人に癒しと笑顔を与えてきたのだが、日中関係が悪化の一途を辿るなか、ついにその歴史に終止符が打たれたわけだ。1976(昭和51)年4月15日号の「週刊現代」では、パンダの繁殖という困難なミッションに挑戦する、上野動物園の中川志郎飼育課長の奮闘を紹介している。

九月上旬には二世誕生か

▲「週刊現代」’76年4月15日号

 上野動物園で飼育されていたシャオシャオとレイレイが中国に旅立ち、多くのファンが涙で見送った。これは当初の契約に基づいた返還であり、中国政府による嫌がらせの一環ではないのだが、日本初のパンダが「日中友好の使者」の役割を担っていたことを思うと、このタイミングで日本からパンダがいなくなってしまったことには複雑な感情を禁じ得ない。

 50年前、メスのランランとオスのカンカンには、2世誕生への大きな期待が寄せられ、その一挙一投足に注目が集まっていた。
〈「今年は期待できますよ。花も恥じらうランラン七歳半の処女と、たくましいカンカン五歳半の童貞青年が初夜を迎えるのは、もうすぐです」〉

 いまの時代、処女、童貞、初夜といった直截な言葉が気になるが、そう自信ありげに話すのは、飼育課長の中川志郎氏だ。それまで中国以外では前例がなかったパンダの繁殖を成功させるため、中川氏をリーダーに12人のプロジェクトチームが結成され、パンダ舎の裏手の詰め所に本部を設置。万全の監視体制で、少しの変化も見逃すまいと目を光らせていた。

〈一年目は、カンカンが幼かったことにつきるとか。三歳半のカンカンは、甘いランランのささやきや姿態には目もくれず、ひたすら好物の竹を食べるだけ。可哀想なのはランラン。火照る体をプールの水に浸して、燃えさかる恋の炎を消していたという〉
 若いカンカンは、色気より食い気だったわけだ。

〈二年目。今度はランランのほうが燃え上がらなかった。食い気ばかりだったカンカンが、たくましい青年に成長したが、何故かランランはスゲない素振り。さては去年の意趣返しか――〉
 のんびりとしたイメージとは違い、パンダは非常にデリケートな生き物であり、なかなか人間の思惑通りにコトは運ばないのである。そして迎えた3年目。パンダの発情期は5歳といわれていたから、まさに機は熟していた。

 中川氏はランランの発情の兆候について、こう説明する。
〈「昔の箱入り娘の恋煩いと同じように、部屋の中でじいっと考えこむようなしぐさをしたり、食事もノドを通らなくなってくるんですね。ランランはふだん、無口なほうなのですが、昼夜いとわず、隣のカンカンに呼びかけるんですよ。(中川氏はランランの声色を真似て)“メーエ、エエエッ、イイイイイイ”、ここで少し休みまして、それからまた“イイッ、エーッ”という澄んだか細い声で、なんとも哀れで艶っぽいんですなぁ」〉

 パンダの鳴き声など聞いたことがない人がほとんどだろう。音声データがあるならぜひ聞いてみたい。
 それでもカンカンがソノ気にならなければ、ランランはますます積極的になったという。

〈「日頃は十六、七時間は眠るランランがロクに睡眠をとらなくなるんですよ。カンカンの部屋を見ては歩き廻る。歩き廻ってはまたカンカンの近くへ行くんです」〉〈「ランランが準備OKとなると、オシリの両脇にある“ニオイ袋”が膨らんできて、香水(体液)を出すんですよ。最高潮に達すると、日に二十回も、カンカンの部屋のガラスにその香水をこすりつけてカンカンに迫るんですねえ」〉

 これらのデータは前回の発情時に学んだことで、こうした知見も踏まえ、中川氏は「今年こそ」と意気込んでいるのだ。氏の熱弁は続く。
〈「乳房が膨らんでくるんですよ。ふだんは白い胸毛に隠れているのが、ぽちっとピンク色の乳頭が現れて、“彼女自身”も膨れあがって、赤く盛り上がった彼女は、妙に感動的ですねえ……。あの大人しいランランが仰向けになり、両肢をバタつかせまして、カンカンに向けて“彼女自身”を開いて誘いをかけるんですよ」〉

 官能小説もどきの表現も飛び出し、「かわいい」パンダのイメージとのギャップに戸惑うが、中川氏をはじめチームのメンバーは、「いつ交尾させるか」ばかりを考えているのだ。
〈「いつかなぁ、とにかくドッキングしたことがないんだから、してみないとね。パンダの“男性自身”って七㌢と小さいんです。あいつ大丈夫かなぁ」〉

 四六時中、頭の中はパンダのことばかりという中川氏は、どんな人物なのだろうか。啓子夫人はこう評する。
〈「動物園に来た当初は、週に半分くらい泊まり込み、家にいても四時間くらいしか眠れない毎日でした。文献を読んでは、パンダの発情の状態をしらべていましたからね。(パンダに似てきたといわれるらしく)“似てきたわね”っていうと、“そうかな”なんてニンマリしてますよ」〉

 残念ながら3年目も繁殖は失敗し、宿願の2世誕生(人工授精による)は、1986年(前年にも出産したが2日後に死亡)のフェイフェイ(オス)、ホアンホアン(メス)まで10年の歳月を要した。「パンダ研究の第一人者」となった中川氏はその後、上野動物園の園長ほか数々の要職を務め、2012年に81歳で亡くなった。

 先の衆院選で自民党が圧勝し、高市早苗政権が盤石となったことで、「高市発言」を憎悪する中国政府の嫌がらせはさらに強まるだろう。パンダが再び日本の地を踏む日も遠のいてしまったようだ。

わたしの早春賦

▲「週刊現代」 ’76年4月15日号

 新年度が始まる4月は、東京より西の地域では桜が咲き乱れ、人々の気持ちが浮き立つ季節といえる。「週刊現代」15日号では、「わたしの早春賦」と題し、各界の著名人が、それぞれのお気に入りの場所で「春」への思いを語っている。

 最初に登場するのは、「ドカベン」など野球マンガの巨匠・水島新司氏。桜の名所として知られる東京・小金井市の小金井公園で満開の桜に囲まれ、満面の笑顔をみせている。
〈ぼくにとっての春はすなわち“球春”だ。オープン戦が始まると「いよいよ春だな」、センバツになると「さあ春だ」。そしてプロ野球が始まって春が終わるってわけだ〉

 この年のプロ野球が開幕したのは、セ・パとも4月3日。「春が終わる」と言うには早い気がするが、水島氏の新シーズンを待ち焦がれる気持ちが伝わってくる。
〈草花はもちろんだが、子供の躍動、人の顔付きに春を感じる。春には香りがある。ぼくは故郷の新潟でも、以前住んだ大阪でも、東京でも同じ春の香りを感じている。春は、故郷を思い出す季節でもある〉

 小金井市、小平市、武蔵野市、西東京市にまたがる玉川上水沿いの桜は「名勝小金井」と名付けられ、国の名勝にもなっている。昨春には、1974年12月の名勝指定から100年を祝うイベントが開催された。

 この企画で、北海道から唯一選ばれているのが、衆議院議員時代の横路孝弘氏だ。場所は札幌市中央区の自宅。まだ雪が残っており、春爛漫の小金井とは対照的である。

〈私が春を感じるのは、雪が融けて土が表に表れて、土のにおいがする時。この時、雪国の春がやってきたと感じる。ほんとうに土のにおいがするんですよ。これこそ春のにおいなんですよ〉
 横路氏が好きな土が顔をみせるのは、あと1ヵ月くらい先といったところか。

〈うちの小さな庭にクロッカスやチューリップを植えているんですが、雪の間からやっと芽が出ましてね。子供たちも大喜びで、毎日観察しているみたいですね〉
 長男、長女、次男と庭先でくつろぐ横路氏の柔和な表情がなんとも微笑ましい。当時35歳。議員としては「社会党のプリンス」と呼ばれ、脂の乗り切った時期であった。

 2023年2月、春を待たず82歳で死去。今年は政界引退から10年目となるが、祥月命日の6日後に行われた衆院選で、自身が最後に所属した民主党の流れを汲む中道改革連合が惨敗した。リベラルという言葉が代名詞だった横路氏は、右傾化が進む日本を冥界からどんな思いで眺めているのだろうか。

名物おやじ名物おかみいまだ健在!

▲「週刊現代」’76年4月22日号

 古くからある有名大学の周辺には、安くてうまいものを提供し、学生に特別サービスしてくれる、そんなキップのいい店主が頑張る老舗店が集まっているものだ。「週刊現代」22日号では、東大、京大、早大、慶応、北大など全国の大学街をマップ付きで紹介している。

 昔も今も最高学府とされる東京大学。半世紀前の「赤門」(文京区本郷)界隈には、時代がタイムスリップしたような渋い店が残っていた。
〈真正館 大正13年から現在まで賄いつきで学生さんのめんどうをみている風格のある下宿屋。詩人の三好達治氏も下宿していたという〉〈本郷館 関東大震災にも耐えた木造三階建の名物下宿〉

 いまどきの若者は共同生活を好まないため、下宿文化は風前の灯といえる。それでもまだ、わずかながら営業しているところもあり、都内の賃貸物件が高騰する折、安価な下宿は重宝がられているようだ。1906年に旅館として開業した本郷館は、専門家が「国の重文レベルの価値がある」と認めたほどの名建築で、多方面から保存を求める声が寄せられたが、2011年に惜しまれつつ解体されてしまった。現在、同名の集合住宅が建っている。

〈大山堂 島木健作の弟からゆずりうけたという歴史のある古本屋。洋書専門店で主人の青木さんは専門店会の会長をつとめている〉〈七宝泉 入口にまねき猫が飾ってあり、風変わりな構えをしている。近くに下宿が多く、お客の八割が学生さん〉〈大西質店 明治初期の建物が趣深い。まえには学生証でお金を貸してくれたが、いまの学生は小銭には見向きもしないのでやめたという〉

 七宝泉は銭湯だが、古本屋、銭湯、質屋は、大学生活に欠かせないものだった。風呂なし下宿の若者は銭湯に通い、質屋で何かしら質草を入れては古書を買っていたのだ。そして、学生証を担保にお金とは、さすが天下の東大といえる。

〈万定 東大正門前のカレー専門店。学生のみならず、教授、歴代総長などがよくくる。学生にはご飯の量を多くしてくれる思いやりがうれしい〉〈ルオー コーヒーとセイロン風カレーが自慢の画廊喫茶。静かで落ち着いた雰囲気で、家庭教師の場にする学生もいるとか〉

 ガロの名曲「学生街の喫茶店」を思い出す。万定はフルーツパーラーの名店としても人気を集めていたが、数年前にひっそりと長い歴史に幕を下ろした。ただ、1952年オープンのルオーのほうは、いまなお健在である。名物のセイロン風カレーを味わい、まったりとした空間に身を委ねてみたい。

 続いては北大周辺を見ていこう。
〈亭北軒 通称「モツラ」。モツ入りラーメンからこの名が生まれ、応援歌にまで入ったそうだ〉〈タマキ 近くの藤女子大生とのデートの場〉〈レディ 二十九歳の主人が学生に兄貴のように慕われている〉
「モツラ」はどんな味か気になる。安くてスタミナ満点。貧乏学生の胃袋を満たしたに違いない。タマキとレディはともに喫茶店だが、短い紹介文からも「青春」の高揚感が伝わってくる。

〈沢田商店 九十年の歴史をもつ北大名物店。「北大正門前」の看板は市電があったころのもの〉〈みず木 店のまん中に大木が貫通している。場所柄、農学部の学生がよく使っているそうだ〉〈東風荘 ママが一緒に加わってくれる店〉

 みず木と東風荘は雀荘である。昔の学生は、酒を片手に紫煙をくゆらせながら雀卓を囲むのが日常だった。沢田商店で酒とタバコを仕入れ、お気に入りの雀荘に入り浸っていたに違いない。1年生と2年生には「未成年」もいたはずだが、そこは大らかな時代。周囲の大人も「まあ、いいだろう」とウルサイことは言わない寛容さがあった。

 沢田商店の店頭に掲げられた「北大正門前」の看板も懐かしい。札幌駅前から北大正門前、北24条、麻生町を経て新琴似駅前に至る市電鉄北線は、地下鉄南北線の開業に伴い、1971年に北24条までの区間が廃止に。地下鉄が麻生まで延伸されたのは1978年だが、1974年に全線が廃止されている。

〈康友館 昭和15年からやっている。現在2食付きで2万8000円。建物は当時のまま〉〈南陽堂書店 高橋ハツエさんと2代目の陽一さん。よく学生が食事をしに行った店〉
 康友館は、まさに昭和の下宿屋といった風情だが、当時としても2万8千円は安かったはずだ。現在、下宿があった場所には「グランメール康友館」というマンションが建っている(2004年竣工)。学生の生活スタイルは様変わりしたが、昨今の物価高で、マンションの一人暮らしは厳しいことだろう。

 1930(昭和5)年開業の南陽堂書店は、嬉しいことにいまも営業を続けている。このページに掲載されているなかで、残っているのはここだけ。50年という時間の重みを感じずにはいられない。それにしても、よく学生が食事をしに行った、というのはどういう意味なのだろうか。

 札幌農学校を前身とする北海道大学は、今年、創基150年を迎えた。バンカラの気風は廃れ、学生の多くが海外からの留学生になるなど、大学の風景は変化し続けているが、全国でも屈指の緑豊かな広いキャンパスを歩くと心が安らぐ。

今どき大金を握れるのは

▲「週刊新潮」’76年4月1日号

 全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」の「新聞閲覧室」から北海道関連のネタをふたつ。1日号では、生業を放棄する見返りとして、補償金を手にした漁業者たちのバブルな近況を伝えている。ネタ元は北海道新聞。

〈一〇、二〇八、〇〇〇、〇〇〇円――こんな巨額なカネをもらう人たちがいる。苫小牧東港建設に伴う漁業補償を受ける胆振東部の七漁協祖の漁民たちだ〉
 漢数字だとわかりにくいので算用数字で表記すると、102億800万円である。7つの漁業組合で何人が対象になるのかは記されていないが、当時としては破格の条件であったことは間違いないだろう。

〈十日、そのうちの第一次分が支払われ、総額の三分の一、三十四億九千三百万円が、彼らの貯金通帳に入ったらしい。暮らしの糧である海を売った代償であるにしても、とにかく不況下に、大金が飛びこんできたわけである〉
 彼らにすれば当然の権利であるから、好奇や羨望の視線を向けられるのは気の毒なようにも思うが、とはいえ、狭い田舎町ではどうしても目立ってしまうらしい。以下は31人が所属する厚真漁業組合での話である。

〈すでに昨年の秋ごろから、大金が入ることを見越して、浜の家々には、銀行屋、不動産屋、自動車のセールスマン、株屋、建築屋、旅行屋などが、しきりに現れていた。誰が買ったかわからないが、もう七台の自動車が届いている。中には二百万円近くもする国産最高級車もあったとか〉

 大きなトラックを買った家も3軒あった。
〈家のすぐそばに浜があるから、漁具を運ぶためのトラックは不要なはずだが。数年後には、一帯が臨海工業地帯になるので、遠くへ引っ越さなければならないし、その時は、浜まで漁具を運ぶのにトラックが要るだろうが、それはまだ先の話である〉

 宝くじもそうだが、持ち慣れぬカネを手にして、つい浮き立ってしまうのは仕方あるまい。トラックくらいの贅沢ならまだしも、中には酒色に惑溺し、身を持ち崩したケースもあったのではなかろうか。

〈同じくいつか浜沿いから立ち退くことになっている苫小牧市弁天の十五戸のうち、約半分がシャレた新居へ引っ越した〉
 苫小牧東港は、この年の8月に着工。1999年には、本州と結ぶカーフェリーが就航している。

 この冬、大雪被害によりJRの運休や飛行機の欠航が多数発生したが、フェリーは雪に強い。どんなに降っても、よほどの「暴風雪」にならない限りは動いてくれる。もっとも、フェリーターミナルまでたどり着くのが困難なのだが。

札幌動労内の“財産”騒動

▲「週刊文春」’76年3月25日号

「週刊新潮」の「新聞閲覧室」(15日号)から北海道関連のネタをもうひとつ。ネタ元は北海タイムス。
 昭和の国鉄は、労働組合が非常に大きな力を有しており、ストや内ゲバを繰り返して利用者の反感を買っていた。

〈訴えられたのは、昭和四十八年の分裂まで動労札幌地方本部委員長を務め、今は全動労委員長である遠藤泰三さんら九人。訴状によると、道動労金庫札幌支店に保管されていた動労組合費など千七百四十万円を、動労中央本部に無断で持ち出したほか、組合脱退後の四十九年にも、同様にして三千八百二十万円を持ち出し、消費したという〉

 いきなり分裂、脱退といったワードが登場したので、裁判沙汰に至った経緯を簡単に説明しておこう。遠藤氏ら9人は、昭和48年8月に動労札幌地本役員に選出されたが、中央本部との意見の対立などから、同年12月、執行権限と組合員権を停止されることに。9人はこの処分に反発し、翌年3月、動労を脱退した1700人を組合員として引き入れ、国鉄動力車札幌地方労働組合(全動労札幌)という新組織を結成したのである。

〈これらのカネは、大半が動労札幌地本所属の組合員約三千五百人から徴収した組合費、組合闘争資金、共済費用などで、中央本部に上納することになっていた〉

 遠藤氏らが立ち上げた全動労札幌の組合員が約1700人であるのに対し、動労札幌地本に残ったのは約1600人。横領疑惑をかけられた遠藤氏サイドには、多くの援軍がいたことになる。
 そうしたなか、動労本部が遠藤氏らを札幌地検に告訴するに至ったわけだが、全動労札幌地労の佐久間恵一委員長の鼻息は荒かった。

〈「まったくの事実無根だよ。あちらがやるなら、こっちも賠償請求してやる」〉
 裁判の結末はわからないが、外部の人間は、「これだから親方日の丸は……」と不毛な争いを冷ややかに眺めていたに違いない。