
宮本顕治委員長の「無期懲役」
80年前の1945年10月9日、「無期懲役」の判決を受け、網走刑務所に収監されていた共産党の「大物」が出獄し、世間の耳目を集めていた。その人物とは、宮本顕治・共産党委員長だ。釈放決定の背景には、GHQも絡んだ戦後の複雑な事情があったとされる。1976(昭和51)年1月29日号の「週刊新潮」の特集記事では、関係者の証言や資料を集め、その真相に迫ろうとしている。
「刑の執行停止」という意味

まずは宮本氏が関与したとされる「日本共産党スパイ査問事件」について、簡単に説明しておこう。1933年、治安維持法違反の容疑で警察にマークされていた宮本氏が逮捕された際、別の党員の供述により、警察が彼らのアジトを突き止めたところ、床下から26歳の青年の遺体を発見。宮本氏らがスパイの嫌疑をかけ、青年に暴行を加えたことが死因とされ、殺人罪には問われなかったものの、東京地裁は1944年に不法監禁致死罪で無期懲役の判決を言い渡している。
翌1945年6月18日、宮本氏は巣鴨の東京拘置所から網走刑務所に移送されたが、10月9日には「健康上の理由」で釈放に。ちょうどGHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発令したタイミングであり、そのことがさまざまな憶測を呼ぶこととなった。
〈当時の司法省には、GHQの意向に迎合して、とにかく“政治犯”の釈放を急ぎたいムードがあった。そのために、宮本氏が、いかに健康を害していたかという明らかに虚偽の「診断書」がつくられた形跡がある〉
同様の見方を示していたのが、気鋭の政治評論家として人気を博していた藤原弘達氏だ。
〈「終戦後、刑が消滅したのは治安維持法でほうり込まれた連中だけで、宮本はこれに該当しない。宮本は、傷害致死とか死体遺棄だからね。だから、宮本の出獄理由は、病気による刑の執行停止なんで、病気が治ったら、また収監しなきゃいかん、というわけだ。これまで宮本に関する判決文はないとされとって、法律的には明確でなかった。ところが、この判決文が最近、公にされて、そのへんがハッキリしてきたわけだ」〉
共産党は、司法省が「復権証明書」を出しているので、これはもう終わったこと、と主張していたが、藤原氏は当時の司法省は問題だらけで、法的な根拠が十分ではない、との見解を示している。
〈所長が言った。「君について命令がきた。健康の点もあるし、執行停止にすることになった」。私は治安維持法のほか、スパイの査問事件のため、いくつかの罪名をでっちあげられていた。できるだけ非転向政治犯の出獄を好まない司法当局がそれを理由に釈放をしぶったり、おくらせたりするかもしれないと、一応考えてはいた〉
これは宮本氏の著書「網走の覚書」の一節である。「命令」がGHQからであったことは、想像に難くない。
「網走の覚書」によると、宮本氏は保護司の自転車にトランクをのせ、保護司の家に立ち寄り、「秋味」を食べ、函館に2泊したのち、東京・本郷にあった百合子夫人の家へ向かったという。
つくられた「虚偽の診断書」
刑の執行停止が「健康上の理由」であることは先述したが、疑問の声も少なくなかった。
〈「刑の執行停止」とは、わかりやすくいえば、例えば、服役者の親が死亡したときなど、ちょっと実家へ帰るとか、明日にでも死にそうな病気にかかったために、入院するときなどにとられる法律的手続のことで、回復すれば、ただちに収監となる。宮本氏は網走刑務所出獄の前後は、それこそ「死ぬほど健康を害していたのだろうか。ところが、どんな資料を検討しても、宮本氏が“重病”だったという証拠はない〉
実際、宮本氏自身も徳川夢声氏との対談で、こう網走時代を回想している。
〈監獄の窓からみても、夕やけ空なんか、たいへんきれいです。あそこは農園刑務所なんですね。戦時中、内地の刑務所は食料がなくて、巣鴨にいるときは、十二貫ぐらいにやせたんです。ところが、網走はうんとジャガイモがとれるわけですね。おみおつけのなかに、ジャガイモがいっぱい入ってるんです。網走へ行ったら、たちまち目方が十六貫ぐらいになりました〉
話を聞く限り、健康的な生活としか思えない。宮本氏は「赤旗」で女優の冨士真奈美と対談した際にも、同じエピソードを披露している。
函館市在住の医師からは、網走刑務所に出入りしていた医師について、こんな証言も。
〈私がその医師から聞いたところでは、宮本氏の病名は肺浸潤ということでした。そして、それが服役中、いかに悪化していったかという記録を残すために、虚偽の診断書を数枚書いていたといっていました。むろん、役所の依頼でやったような話でした〉
真実を知る由もないが、何か見えざる力が働いたことは間違いないようだ。
戦前・戦中・戦後の動乱期を生き抜いた宮本氏は、2007年、98歳で大往生を遂げた。後妻との間に誕生した太郎氏は、北大名誉教授を務めている。
ちゃんこ鍋でまず一献

最近、人気番組の影響もあって、相撲部屋の絶品グルメが話題を集めている。ただ、どの部屋も基本はちゃんこだ。そして、引退後の力士が選ぶセカンドキャリアでも、断然、ちゃんこ店が多い。両国界隈では、霧島、寺尾、安美錦、琴ヶ梅など、かつて土俵を沸かせた名力士の店舗が味を競っている。
「週刊現代」15・22日号では、「ちゃんこ鍋でまず一献」と題し、全国各地の元力士が直営する15店を紹介。このうち、北海道ゆかりの4店をみていこう。
まずは旭川市出身の元横綱・北の富士。九重部屋のイメージが強いが、当時は井筒親方を名乗っていた。
〈現役時代から札幌に開店したのを手始めに、今は旭川、東京と計7店。親方は経営にノータッチで、お父さんが社長として切り盛りしている〉
写真は六本木店。スーツ姿の親方は、なんともダンディで、まるで俳優のようだ。
〈11種類あるちゃんこは、雑煮ちゃんこの1500円から横綱ちゃんこの2500円まで。ここでは「しゃぶしゃぶ」のように胡麻だれをつけて食べさせる。千秋楽のちゃんこ鍋は、胡麻だれが出るところから、それを踏襲した〉
さすが元横綱、そして六本木とあって、このあと登場するちゃんこと比べると、見た目も豪華で値段が高い。親方といえば、料理上手として知られ、24年12月に亡くなったあとに発売された、親方考案のレシピを再現したレトルトカレーは大ヒット商品になった。
続いては、夕張市出身の若吉葉。最高位は前頭6枚目で、札幌の北42条で「若吉葉食堂」を営んでいた。中心部からかなり外れた場所だが、地元の人気店だったようだ。
〈ここの「ちり」と「鶏のソップ炊き」(各700円)は、いわば正統的なちゃんこ鍋である。魚のちり、鶏のソップは、部屋でもっともつくるものである〉
若吉葉自身が厨房に立ち、「食堂」とあって、ちゃんこ以外にもラーメンから定食まで、なんでも器用にこなしていた。奥さんは出前専門で夫を支えていたという。同じ店かはわからないが、2001年頃まで札幌市内で飲食業を続け、2017年に71歳で亡くなった。
木古内町出身の禊鳳は、最高位が前頭2枚目。横綱・栃ノ海から金星を挙げ、敢闘賞を受賞した実績がある。珍しい四股名は「みそぎどり」と読むが、故郷の佐女川神社で行われる伝統行事「寒中みそぎ」が由来だろう。函館市で「禊鳳」を開店し、海産満載の「横綱ちゃんこ」が看板メニューだったが、こちらの横綱は1200円と良心的だ。
若吉葉とは交流があったようで、〈「札幌にいる若吉葉の奴とは、1度対戦したことがあるが、あいつ二日酔いの酒くさい息をかけおって、おかげで負けたよ」〉と冗談めかして話す。慣れない客商売は苦労も多く、〈「部屋とは違って、一般の人はいろいろ具が入っていないと気に入らないし…」〉といった愚痴も。
その後、店を畳み、サラリーマンに転身したようだが、客商売以上に順応するのが大変だったのではなかろうか。
松前町出身の松前山は、最高位が前頭9枚目。店舗「松前山」は杉並区高円寺にあったが、〈高円寺の隣は阿佐ヶ谷で、二子山部屋、花籠部屋の力士たちが飲み歩いているが、この店には足を踏み入れないらしい。やはり、外へ出てまでちゃんこ鍋は食べたくないようだ〉とのこと。ソップ炊きのちゃんこ(700円)のほか、1300円の安さで提供するふぐ料理も名物だった。
〈ふぐの免許もちゃんと取っている。引退後、ちゃんこの店を持つことを決意。名古屋へ行って修業した〉
北の富士は別格としても、ほかの3人は、よほどの角界マニアでなければ、記憶している人は少ないだろう。しかし、こういう渋い店こそ、安くてうまい料理を食わせてくれるものである。
北海道は冬本番。ちゃんこが恋しい季節になった。
開拓者魂は消えず

都会の喧騒を離れ、田舎暮らしに憧れる人は昔も今も少なくない。「週刊文春」8・15日号では、連載企画「日曜大工で建てた家 マイホーム戦記」に北海道の若い夫婦が登場している。
50年も前のことだから、個人情報ウンヌンというわけではないのだろうが、このシリーズは具体的な場所をあえて明かさない趣向になっており、〈三島さんが住む道南にある人口わずか二万のこの町でも、アパートはせまくて家賃は高い。三島さんは町役場に勤める公務員。寮や借家暮らしにうんざりして、ついに自分で家を建てる決心をした〉とだけ記されている。日曜大工とは、今でいうDIYのこと。設計は役場の建設課にいる同僚に、技術は大工をしている兄に教えを乞うたという。
〈共稼ぎだった夫婦は、一日の仕事を終えてから現場に集合し、寸暇を惜しんで釘を打ち、鋸を引いた。冬の早い北海道ではたいへんな作業で、まず一部屋をとトイレをつくり、そこに籠城して残る部分を完成させた〉
国鉄の駅から5分と書かれているが、そこは宅地と呼ぶには程遠いカラマツ林。家づくりというより、開拓に近い重労働であった。
〈約100本の大木を切り倒して地面をならし、土台はトラックで河原に行き拾い集めた。冬は零下20度。雪が2㍍も積もる土地だけに、よほどしっかりした造りでないとつぶれてしまう。窓はすべて二重、屋根も雪が落ちるよう傾斜をつけた〉
約50坪の土地は父親から譲ってもらったので、費用は約48万円。これは当時としても、確かに格安ではある。
そして、最後に気になる場所のヒントとなる記述がみられる。
〈最近、三島邸の前に北海道新幹線が停まることが決まった。手づくりの門に福きたる。これから何年か先、三島さんはもう自分の手で家を建てる必要なんかないお大尽になっているはずだ〉
人口2万の道南の町、駅前がカラマツの原野、新幹線停車駅となると、可能性があるのは大野町(現北斗市)か木古内町であろうか。八雲町は、当時の人口的には最も近いが、駅前はもう少し開けていたように思う。大野か木古内であれば、「何年か先」ではなかったものの、夫の春夫さんが75歳、妻のチサ子さんが68歳のとき、待望の新幹線が通ったことになる。高騰したはずの土地を売り、豪邸に変わったかどうかは知る由もないが。
森の近くの一軒家――。いくら田舎が好きでも、いまはヒグマが怖くて、ほとんどの人が尻込みするに違いない。
町の溝でもサケがウロウロ

北海道の秋の味覚といえばサケ。ところが、25年は記録的な不漁で、前年比7割減という衝撃的なデータも。特に筋子やイクラの高騰はすさまじく、インバウンドしか口にできない高級品になってしまった。
だが、50年前は記録的な豊漁だったようだ。「サンデー毎日」25日号が、いたるところにサケがあふれ返る、オホーツク沿岸の様子を伝えている。
〈時ならぬ“サケ騒動”が続いている。例年、北海道のサケ漁は、12月初旬までに終わってしまう。ところが、今シーズンは、どういうわけかサケがドッと押しかけ、沿岸の定置網はとれ過ぎで一ヵ月も早い11月1日に漁を打ち切った〉
25年のスルメイカのような状況だが、写真をみると、とにかくサケ、サケ、サケで、その量に圧倒される。
〈その後もサケは押し寄せ、網走川、斜里川などオホーツク沿岸の河川で、採卵するために捕獲するところも。目標を10万匹も上回る100万匹もとって、収容能力の限界に達し、こちらも11月末に捕獲を打ち切った。市街地では側溝や用水路などでもウロウロ〉
ただ、あまりの豊漁ぶりに、「密漁者」が続出する事態になった。漁業権を持つ業者しか捕獲できないのだが、なんせ目の前にサケがうじゃうじゃ泳いでいるとなると……。
〈はじめはおそるおそるとっていた町民も、だんだん大っぴらにちょうだいするようになった。ある町では町議会の副議長が20数匹も手づかみしているのがみつかり検挙されるというオマケもついた〉
結局、11月末でいったん終了した捕獲場も、採卵を延長することになったという。
町民と違い、副議長の場合は立場的にアウトだが、大規模な組織的密漁以外は、警察も「見て見ぬふり」だったようだ。
庶民はもう物価高に慣れっこになってしまったが、26年はサケ豊漁の話題が届き、財布を気にせず存分に味わいたいものである。
あなたわかる?1500万円と14万円の違い

「週刊新潮」29日号から「午年」にちなんだ話題を。日曜劇場「ザ・ロイヤルファミリー」でも描かれているとおり、競馬は優勝劣敗のシビアの世界であるが、「血統」がサラブレッドの能力(価格)に与える影響は非常に大きく、それは昔も今も変わらない。
〈「彼のお値段は1500万円。北海道・日高のセリの最高で、こちらは恥ずかしながら14万円。彼はエリート中央競馬、私はさびしく公営行きよ」〉〈これは「サラブレッドがたったの14万円」と新聞ネタにまでなったヤマトチカラ嬢の嘆き節。さて、どっちが1500万円、第百参富士号の顔か、あなたわかる?〉
いまや数億の高額馬も珍しくないが、50年前の1千万円超えは破格だったのだ。一方、いくら物価水準が違うとはいえ、14万円のほうも破格の安さといえるのだが。
クイズの正解は右の馬。〈「鼻面にかけられた革と縄の違いをくらべてみてちょうだい。(次ページの写真の)青森の大牧場で騎手を背中にバッチリ仕込まれているのがエリート君。私は千葉の猫の額ほどの小牧場。まだ鞍もつけてもらえない」〉と、ぼやいている。
レースに出走するサラブレッドはカタカナ9文字以内とのルールがあるので、第百参富士もデビュー時には異なる馬名になっていたのだろう。
〈「“馬は走ってみなけりゃわからない”といわれているから、夢を見る権利は私にもあるのよ」〉
もしかしてシンデレラストーリーがあったかも……と、その後の両馬の戦績を調べてみたのだが、データはまったく見つからなかった。
ただ、地味な血統の安馬が活躍し、億超えの超良血馬が未勝利に終わる、というケースも少なからずある。その代表例が、北島三郎がオーナー(名義は会社名)の名馬キタサンブラックだ。購入価格はわずか350万円ながら、通算18億円以上の賞金を稼ぎ、種牡馬としても素晴らしい実績を残している。
人を見る目より、馬を見る目のほうが難しいことは確かだろう。
さよならSL最終列車

1975年12月は、日本の鉄道史における重要な転換点といえる。全国で無煙化が進み、SLが完全に役目を終えたのだ。当時の「さよならSLフィーバー」は凄まじかったが、「サンデー毎日」4日号が、ラストランの舞台となった室蘭本線の熱狂ぶりを伝えている。
〈新年を待たず、日本からSL列車が消えていった。北海道室蘭本線。14日には最後の旅客列車が走り、そして25日には最後の貨物列車。これで国鉄のダイヤから、すべてのSLが消えたことになる。明治以来百三年、名残はつきない。12月に入ってから、室蘭―岩見沢間には全国のSLファンがつめかけ、シャッターを切り、録音テープを回しつづけた〉
沿線で一番の撮影ポイントは栗山町にあった。写真をみると、線路沿いに人、人、人――。週末ともなれば、全国各地から300人以上が押し寄せたという。こうした「撮り鉄」が群がる光景は、いまも同じようにみられるが、SLほどフォトジェニックな車両はないだろう。「音」も味わいがあるから、録音機を抱えてきたファンの気持ちはわかる。最終日には、沿線各署から300人以上の警官が動員され、安全確保に努める騒ぎとなった。
〈これで日本に残るSLはD51型22両。九六〇〇型14両だけ。機関区構内の入れ替え作業用として残影をとどめる――ああ〉
列車、車両、駅、路線など、鉄道に関する「さよなら」は、なぜこうも哀愁を感じさせるのだろうか。3月には留萌線の深川―石狩沼田間が廃線となる。多くのファンが殺到するものと予想されるが、路線の廃止は車両と違い、風景すべてが消えてしまうので、いっそう切ない。
