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北海道一の美人が「男」の妻を返り討ちにして

 昔も今も、ろくでなしのダメ男になぜか惹かれてしまう女性は少なくないが、その結末は、当然のことながら、たいがいハッピーエンドにはならないものだ。「週刊新潮」1975(昭和50)年11月6日号が伝えている北見市が舞台の殺人事件も、加害者、被害者ともに、信じた男に騙され虐げられた女性の哀切が読者の同情を誘う。ドロドロの愛憎劇となった不毛な三角関数の顛末をみていこう――。

ボロボロにされた恋心

▲「週刊新潮」’75年11月6日号

〈“北見市でいちばん気の強い美容師(36)” が“原節子を思い出させるメンコい看護婦(19)”のアパートに出かけた。夫(35)をめぐる三角関数のケリをつけるつもりだった〉

 本文をみていく前に、当時のマスコミのいい加減さに触れておきたい。“北見市でいちばん気の強い美容師”も、タイトルの“北海道一の美人”も、不特定多数の人間がそう認識していたわけではなく、あくまで新潮が勝手につけたキャッチフレーズである。現地ルポを少しでもセンセーショナルに、との思惑があったのだろうが、よろしくない「盛り」だと思う。

 アパートに乗り込んだのは、市内で美容室を経営する浅倉ミサ子さん。夫の功とは13年前に網走の漁港で知り合い、9歳と5歳の2児をもうけていた。結婚後、ミサ子さんは生活を切り詰めて必死に貯金をし、ようやく自分の美容室を持てたばかりだった。美容室が軌道に乗ると、トラック運転手の夫に変化が。生前、夫の不倫に気付いたミサ子さんは、愛人が勤務する病院を訪れ、早く手を切るよう、こう諭していた。

〈「生活が楽になっていくにしたがってダメな男になってね。字が読めないことや酒好きは前から知っていたけど、ばんえい競馬やパチンコ、マージャンに夢中になったばかりか、女遊びまで始めてね。相手は必ずシロウトの娘さん。甘いことを言ってはダマして金をせびるのよ。私が何か言えば、すぐに暴力を振るう。コーラのビンで殴られたことさえある。何度、別れようかと思ったことか知れないわ。でも、二人の子供のことを考えると、結局、なしくずしになっちゃってね。あなたも不幸になるだけよ。若いし、きれいなんだから、思い切って忘れなさい」〉

 こんな救いようのないクズとは別れたほうが子どものためでもあるし、殺されることもなかったのだが、当時はいまと比べて離婚のハードルが高かったのだろう。

 19歳の愛人は、常呂町(現在は北見市)の出身。ミサ子さんと同じく実家は貧農で、小学校の頃、両親が離農したのを機に北見へ移り、中学卒業後に市内の眼科で見習看護師として働き始めた。1年前の春、功が結膜炎の治療で通院した際に会話を交わす間柄になり、その1ヵ月後、たまたまダンスホールで再会したのが縁で男女の仲に発展したという。当時、彼女は北見工大の学生に片思いしていたが、彼が上京してしまい、失恋のような寂しさを抱えていたところ、甘言を弄するのに長けた功の毒牙にかかったのである。真面目に眼科の勉強をしていたようだが、「男を見る目」がなかったのが不幸の始まりだった。

 若い女性ほど「恋は盲目」になってしまうもの。ミサ子さんの忠告に耳を貸さず、ますます功にのめり込んでいった。
〈妊娠していた彼女は中絶手術を受けたものの、男と別れることはできなかった。男は、いずれ妻と別れてお前と結婚するからと涙を見せながらいう〉

 そうこうするうち、彼女は再び妊娠した。そして、一度は諦めていた工大生から結婚を前提に付き合いたいとの手紙が届いた。しかし、別れ話を切り出した彼女に功は激怒。彼女は2度目の中絶で人生をやり直そうとしたが、結局、彼からのプロポーズに応えることができなかった。
 精神的にも経済的にも追い詰められた彼女は、病院を辞めホステスに。まともな思考ができなくなり、とうとう功の恐ろしい計画に加担してしまうのだった。

〈北見警察署が殺人事件として本格的な捜査を開始したのは十月二十三日、その日の朝、常呂町の国道で排気ガスによる心中を図ったらしい車中の男女が、近所の農家の人によって見つかった。けれど、二人の車は駆け付けた救急隊員をケムに巻いて消え去ってしまった。車の番号から身元を割ると、男は前日から行方不明となっていた浅倉功であり、女は愛人の看護婦とわかった〉

 警察はミサ子さんの妹から、失踪した姉は2人に殺害されているかもしれないとの情報を得ていた。翌日、“心中未遂”の現場から近いカラマツ林からミサ子さんの遺体が発見された。
 10月19日、今度こそ決着を付けようと彼女のアパートを訪ねたミサ子さんを、背後から絞殺したのである。

〈殺人は看護婦の単独犯行だが、死体の遺棄については功が手伝った〉
 功は彼女を洗脳し、自分は手を汚さず、離婚に応じない妻の命を奪ったのだから卑劣極まりない。その後、26日に身柄を拘束された際、功はとんでもない行動に出る。

〈駆けつけた巡査に、開口一番、「オレは殺していない。オレは悪くない、コイツが悪いんだ」といって助手席の愛人を殴った。彼女は無言だった〉

 心中にしても、ゴムホースの位置から「偽装」であることは明らかだった。「死人に口なし」となれば自分に有利に働くので、あわよくば彼女だけ死んでくれれば、と思っていたに違いない。クズはどこまでもクズだった。

 こんな悪党が「殺人教唆」の罪にしか問われず、実行犯の彼女より量刑が軽かったとしたら、なんともやり切れない話である。

北の海では連日の “流血なき松生丸”事件

▲「週刊文春」’75年11月13日号

 ロシアのよるウクライナ侵攻以降、北方領土を間近に望む北海道の地政学的なリスクは高まるばかりだ。ただ、ロシアの暴虐ぶりは今に始まったことではなく、半世紀前も北の海では漁師たちが深刻な漁業被害に耐え、拿捕の恐怖と向き合っていた。「週刊文春」13日号が緊迫する現地の実情を伝えている。

 本題に入る前に、まずタイトルにある「松生丸事件」について説明しておこう。この年の9月、黄海を航行中だった佐賀県の漁船「松生丸」が北朝鮮の警備艇に銃撃され、乗組員2人が死亡、船は連行された。日本政府の粘り強い働きかけの結果、2ヵ月半後に帰還したのだが、北朝鮮側の主張は「日本漁船が領海を侵犯した」というものだった。当時は拉致被害者問題が明るみになっていなかったこともあり、金日成時代の北朝鮮はまだ交渉の余地はあったようだ。

〈中央ではあまり報道されていないが、北の海では連日“流血なき松生丸”事件が続いている。相手はソ連。日高、胆振地方では、1万㌧級のソ連漁船の“侵入”で、被害があいついでいる。すっかり打ちひしがれた登別港。スケソウ船の船長にソ連船のこと聞いてみた。「もう三回も網を切られているよ。一度なんか、網を仕掛け終わって港に帰ろうとした矢先にやられた。あいつらには何を言ってもダメ。網一枚ダメにされたら、50万もの損害かな。ワシらは漁が始まる前に、ひとりあたり30万円組合から借りて、漁具を仕込むんです。それが漁期のはじめに網を切られたんじゃ、漁には出られんし、借金ばかりかさんでどうにもならんわ」〉

 こうしたトラブルを避けるため、日ソ間で「漁業操業協定」を結び、10月23日から発効していたのだが、ソ連側はこれを守るつもりなどサラサラなかった。白老町虎杖浜漁協の幹部は、半ば諦めたようにこう声を絞り出した。

〈「(協定発効後も)立て続けに起こっているんですよ。被害が網だけですんだからまだよいものの、このままだと船の転覆や人身事故にもなりかねない。それが心配なんですよ。ヤツらが来てから、サカナもさっぱり獲れなくなった。ワシらは漁業資源を残すために、スケソウしか獲れんように網の目を大きくしとる。ところがヤツらは、トロールで何でもかんでも獲ってしまうんじゃ」〉 

 一応、協定に基づき、損害賠償を請求できることにはなっていたものの、そのハードルはあまりにも高かったようだ。巡視船が証拠写真を撮影する場合、相手の船名、船番がハッキリと写り、なおかつ日本側の網を引っかけている場面も写真に収めなければならない。そのうえ、現場が日本近海であることを、ソ連船をバックにして証明する必要もあり、これらがすべて揃わなければ、物的証拠にならなかったのである。従って、実際に支払いに応じるケースは極めて少なかった。

「松生丸事件」について感想を問われた別の漁師は、こう話した。
〈「松生丸? ああ、あんなのはよくあることさ。人が死んだのは気の毒だけど、根室あたりじゃ、毎日のように起こっているよ」〉

 文春の記者は根室へ。そこで耳にした漁師の怒りの声は、胆振の比ではなかった。
〈「日本の領土だと政府が認めている、国後、択捉、歯舞、色丹の周辺で、われわれは拿捕されたり脅されたりしてるんですよ。死人こそ出てないが、こちらのほうがずっと深刻だ。松生丸をあれだけデカデカと載せた新聞が、どうしてこちらを載せないのかフシギですわ」〉

 危険なのはわかっていても、ソ連が主張する“領海”に入らなければ生活が成り立たなかったのだ。
〈根室海上保安部の調べでは、戦後、ソ連に拿捕されたのは約千七百隻、八千人。うち二十三人が死亡している。今年だけで二十三隻、百五十一人〉

 この数字が根室の現実であった。
 現在の日露関係は戦後最悪といわれており、漁業に与える影響も深刻だ。領土問題に関しては、戦後80年、わずかな前進どころか、いっそう島影が遠のいている状況が残念でならない。

性教育時代の母ごころ

▲「週刊新潮」’75年11月6日号

 全国のB級ニュースを拾い集めた「週刊新潮」6日号の「新聞閲覧室」では、「親バカ」転じて「バカ親」となった母親の呆れた行動を取り上げている。ネタ元は「北海道新聞」。

 札幌市東区の主婦A子(42)は、中学卒業後、ぶらぶらして働かない次男のB(16)に手を焼いていた。そこで、所帯を持たせれば、少しは真面目になるのではと考え、とんでもない企みを実行に移したのである。
〈次男の中学時代の同級生で、無職のC子さん(16)に、「家にいてもつまらないだろう」とそそのかして家出させ、豊平区内のアパートに息子と同棲させた〉

 そんな申し入れを簡単に受けてしまう彼女もどうかと思うが、Bに好意を抱いていたのかもしれないし、A子は親子関係がうまくいっていない同級生に狙いを定めていたのだろう。ところが、Bは彼女を養おうなどという責任感は一切なく、以前にも増してグウタラに。結局、〈C子さんは生活に困り、薄野のキャバレーでホステスとして働くようになった〉のである。

 それだけなら、「本人たちの勝手」で済む話だが、C子さんの両親は娘の行先を知らず、C子さんと接触していたA子が何か隠しているのではと疑いの目を向ける。しかし、A子は白を切り続け、驚くことに〈その後もなにくわぬ顔で七月初め、札幌北署にBの捜索願を出した〉のだ。これは「若い2人の所在を自分も把握していない。駆け落ちでもしたのでは」という、C子さんの両親に対するアピールだったのか。

 しかし、同棲開始から約3ヵ月が経った8月末、市内でBが保護され、彼の供述によって、A子の悪事が露見し、A子は児童福祉法違反の容疑で札幌地検に書類送検されることとなった。
 母親の情けない姿をみて、今度こそ次男が改心した可能性もあるが、そうだとすればなんとも皮肉な話としか言いようがない。

新雪に舞う

▲「週刊新潮」’75年11月6日号

 温暖化などという言葉が存在しなかった半世紀前の北海道は、今よりも本格的な冬の訪れが早かった。「週刊新潮」6日号では、すでに一面の銀世界となっていた旭岳のゲレンデを紹介している。

 誰もいない雪原を滑走しているのは、“シャモニーの妖精”と呼ばれていた、世界で活躍する22歳のスキーインストラクターのエリアンヌ・クエノさんだ。スキーイベントに招かれ来道し、ハードスケジュールをこなしたのち、リフレッシュとグラビア撮影を兼ねて上質のパウダースノーを満喫したようだ。シャモニーとは、フランスの著名なスキーリゾートで、1924年に冬季五輪の開催地となっている。

〈処女雪の大斜面。音もなくあがる雪煙を背にきらめきながら落ちてゆくシルエット。スキーの本場シャモニーからやってきた美しいインストラクターは「シャモニーもここも雪はいっしょよ」と最初はお世辞をいっていたが……〉

 雪質は一緒でも、シャモニーに「噴煙」はなかった。
〈「噴煙のわきを滑ったのは初めて。こわかったわ」〉
 うっかり落ちれば一大事である。
〈夏ならば緑と黄と白が織りなすお花畑も今は雪の下。荒々しい噴出口かをのぞかせて噴煙はムクムクとそのまま雲につながる〉

 1972年の札幌冬季五輪を機に、国内のスキー人口は増加していったが、近年は日本人のスキー離れが顕著で、ゲレンデの主役は完全にインバウンドとなった。旭岳のほか、ニセコや富良野などのスキー場には外国人スキーヤーが殺到し、地元に大きな経済効果をもたらしている一方で、バックカントリーに立ち入っての事故も後を絶たない。

 リフト券やレストランの高騰は仕方がないこととはいえ、スキーが道産子の身近な娯楽であった時代が懐かしく感じられる。

カープ広島の最も痛快な日

▲「サンデー毎日」’75年11月2日号

 今季のプロ野球セ・リーグは阪神タイガースが圧倒的な強さを見せつけて優勝し、大阪・道頓堀はお祭り騒ぎになっていたが、50年前の広島では、もっともっと凄まじい歓喜の渦が街を支配していた。10月15日、後楽園球場で長嶋ジャイアンツを下した広島カープが悲願の初優勝を果たしたのだ。「サンデー毎日」2日号が、グラビアと現地ルポの二本立てで、市民の熱狂ぶりを伝えている。

 両国のホテルで開かれた、優勝祝賀会のビールかけの写真。山本浩二、衣笠祥雄、古葉竹識監督らの弾けた笑顔が、いかに嬉しい優勝だったかを物語る。選手、スタッフとともに祝い酒をかけられているのは、「カープを優勝させる会」の会長だったジャーナリスト梶山季之氏の遺影だ。生まれは当時の朝鮮・京城だが、戦後、両親の郷里である広島に引き揚げ、広島の街とカープを愛し続けた。この年の5月、取材先の香港で客死し、夢にまで見たカープの晴れ舞台に立ち会えなかったのである。享年45の若さであった。

 一方、広島の中心部は、人、人、人で埋め尽くされていた。
〈道路わきに積み上げられたこもかぶりが、つぎつぎにあけられファンは美酒に酔う。道行く人、だれかれとなく酒がふるまわれる。女性もつい手が……酒どころ広島ならではの風景〉

 広島市民が狂喜乱舞するのも無理はない。〈原爆でたたきのめされた広島市に昭和二十五年一月十五日、日本で唯一の市民球団として誕生して以来、二十六年目での初優勝〉だったのだから。当時はまだ被爆から30年。原爆の生々しい記憶が残るなか、特定の親会社を持たず、市民の熱意で生まれたカープは、復興のシンボルでもあった。

 ちなみに、広島東洋カープとなったのは1968(昭和43)年からである。筆頭株主だった東洋工業(マツダの前身)が由来で、チーム名に企業名を入れたほうが税制上、都合がよかったためとされる。
 現地ルポでは、サンデー毎日の記者が、優勝の瞬間から始まったフィーバーぶりをリアルに「実況」(テレビの収録も兼ねていた模様)している。

〈あ、押さないでください。いま、デパートの店員が「祝・優勝」と書かれた、宮島のシャモジを配っているところです。「相手をメシとれ」という意味がこめられている、といわれています。もうたいへんな騒ぎです。みなさんシャモジを打ち鳴らし、私の鼓膜が破れそうです〉

 その後、記者は人波に揉まれ転倒。さらに「飲め、飲め」とすすめられたタダ酒で酩酊してしまったため、同僚の記者と「選手交代」となった。
〈カウンター飲み屋「石松」主人の吉田孝義さんは熱心なカープファンだ。全試合、試合途中経過が壁のスコアボードに書き込まれる。優勝が決まると、樽酒を吉田さんが叩き割った。「さあ飲んでください」。もちろんタダだ。沸き起こるバンザイ、バンザイ〉

 カープが誕生したのは、開店の翌年。勝った日は1割引というサービスを続けてきた。吉田さんは感無量の面持ちでこうつぶやいた。
〈「(胃潰瘍と肝臓で入院したばかりで)酒飲んだらいけんと医者からいわれてますが、きょうはもう飲みますわ」〉

 市内には「カープ」の商号を掲げる店が多かった。「カープ果物店」「カープ質店」「カープ理容店」「カープ模型店」「カープタクシー」等々。そのひとつ「カープ洋服店」の社長のコメントが、広島県人の気質を表しており面白い。
〈「カープとウチの成績といっしょなんです。カープが勝つと服の注文が来る。負けるとその客が、服はやめだと電話で怒鳴ってくるんですわ」〉

 狂乱の一夜の顛末は――救急車の出動が80件、喧嘩、泥酔などで警察の厄介になった者は77人。「まあ、今夜ぐらいは大目に…」と許される大らかな時代でもあった。
 広島からの入植者が開拓した北広島を本拠地とする北海道日本ハムファイターズ。来年はファイターズとカープの頂上決戦をぜひみたい。