
北方領土と中国報道陣
日露関係が悪化の一途を辿るなか、北方領土返還の実現はますます遠のいていると言わざるを得ない。そして、尖閣諸島についても、いずれ中国の標的にされる可能性が高まっており、日本が直面する領土問題は厳しさを増すばかりだ。しかし、半世紀前には中国共産党が北方領土問題における日本の立場を全面的に支持するという、今では考えられない状況が存在していた。中国の思惑は那辺にあったのか――。「週刊新潮」1975(昭和50)年6月5日(創刊1000号記念)号の記事をみていこう。
ノサップ岬の望遠鏡のもつ意味

〈「北海道東端の根室から北東の方に目を向けると、いまなおソ連に不法に占領されている日本固有の領土──北方四島が見える。望遠鏡を使えば、水晶島など歯舞諸島の島々の上に建てられたソ連の監視塔がはっきりみとめられる〉
文面だけをみれば、北方領土返還運動のパンフレットのようであるが、新華社記者が書いた「北京周報」(日本語版)のルポの一節と聞けば、意外と感じる人がほとんどだろう。
北京に特派員を送っているマスコミ各社と日中文化交流協会の招待で来日していた11人の中国報道界代表団(団長・朱穆之新華社社長)は、わざわざ根室を訪れ、ノサップ岬から北方領土を遠望したのである。メンバーは「人民中国」編集長、北京放送副局長、地方紙の編集責任者らマスコミ関係者のほか、農民・労働者通信員も含まれており、異色の顔ぶれであった。代表団は過密スケジュールをこなしていたが、このノサップ岬訪問は、中国側が強く希望したものだったという。
こうした動きの背景には、当時の中国にとって、ソ連の「覇権主義」が脅威に映っていたとの事情があった。敵の敵は友、という理屈である。
〈中国は、日中友好条約に“覇権”条項を盛り込むことを日本に迫っている。端的に言ってしまえば、大国ソ連の“覇権主義”を「日中共同の敵」として認め合おうという強引な誘いである。北方領土問題は、まさに“覇権”のサンプルではないか──というわけだ〉
一行は根室市役所を訪問し、市長や市議会議長らと懇談したのだが、朱団長の発言は、アジテーションに近い“独演会”であった。
〈「日本人民、とりわけ根室人民が、自分の土地を他人に奪われて分割されている。その気持ちは、同じ立場に置かれている中国人民としてたいへんによく理解できる。中国人民、中国政府は、日本人民の北方領土返還という正義と愛国の戦いを支持する」〉
朱団長はさらにヒートアップ。〈「ソ連の野望は、四つの島に限らない。なおさら、警戒心を高めた方がいい」〉〈「(領土を)恵んでくれなどという態度はダメだ。それには戦いが必要である」〉と、発言内容は過激になるばかりで、さすがに根室市側が慌てて言葉を遮る場面も。
〈「私たちは、正論を主張することによって、運動を進めておりますので……」〉と、いかにも日本人らしい穏便なトーンで軌道修正を図ったのだが、地元の運動家の間では、〈「中国の方々は、ソ連は相当手ごわいが、これからは手を握ってやっていこうといってくれた。これでさらに世論を喚起できる」〉と歓迎する声も少なくなかった。
ただ、こうした“中国流”の手法は、もちろん軋轢を生む場合もある。社会党の訪中団が北京に発つ前日、在日中国大使館で随行記者に対する説明会が実施され、そこでちょっとした悶着があった。
〈新聞担当書記官が、日中友好条約に“覇権条項”を盛り込むことに“慎重論”を唱えた二紙の社説を例に挙げ、「こういう記事は、日中友好に害のあるもの。みなさんの問題ではないが、社に帰ったら幹部にそう伝えてください」といったのだ〉
自分たちの利益に反する異論は容認できない、という本質が露呈したといえる。日本側にとっては、報道の自由に対する干渉以外の何物でもないのだが、その場にいた記者たちの反応は鈍かった。
「新潮」の記事は、〈訪中を目前にひかえた記者たち、「寂として声なし」。郷に入りて郷に従わぬのも“中国流”というのだろうか──〉と、日中双方を揶揄して結んでいる。
脆弱な“信頼関係”とはいえ、中露が手を組む今の情勢は、日本にとって半世紀前よりも厄介であることは言うまでもない。
夏のローカル競馬徹底ガイド

まもなく夏の風物詩といえるJRAの北海道シリーズが函館で開幕(6月14日)する。函館で12日間、7月26日からは札幌に舞台を移して14日間、この夏も数々のドラマが生まれそうだ。
「週刊文春」25日号では、6月27日に札幌で開幕(当時は札幌開催のあとが函館開催)する北海道シリーズの見どころを、夜のガイドも含めて紹介している。
〈札幌市街地から車で十五分、北海道大学に隣接する競馬場はポプラ並木に囲まれ、北海道情緒たっぷり。今年はスタンドが増改築されて七万五千人(従来五万五千人)収容、パドックも広々となって、まさしく夏競馬のメッカにふさわしい条件が揃った〉
夏競馬が行われるのは、札幌・函館のほか、福島、新潟、小倉だが、涼しい北海道は関係者に人気だった。また、当時は芝の北限は函館とされており、札幌は芝コースがない唯一の競馬場だったのだが、1988年に寒冷地向けの洋芝を導入。これにより強い馬が集まるようになり、札幌開催は秋のG1戦線へ向けた重要な臨戦過程となったのである。
この年の札幌は、特に盛り上がりをみせていた。というのも、国民的な人気を誇り、前年暮れの有馬記念で惜しまれつつ引退したハイセイコーが、スタンド改築記念イベントに合わせ、8月3日に登場する予定だったからだ。その後の報道によると、当日はハイセイコー見たさに来場者が殺到したという。
半世紀前の北海道は今と比べようがないほど冷涼であり、特にベテラン騎手は身体的な負担の少ない北海道を好む傾向があった。
〈競馬ファンにとって楽しみなのが、東西ジョッキーの腕くらべ。東から昨年のリーディング・ジョッキー郷原洋行をはじめ、柴田政人、小島太、加賀武見、西からはこれまた昨年のリーディング・ジョッキー福永洋一など、名うてのジョッキーがくる〉
オールドファンには懐かしい名前ばかりだろう。札幌開催で最大のレース、札幌記念を制したのは、天才・福永洋一(福永祐一調教師の父親)騎乗のツキサムホマレであった。
特集記事では、馬券が的中し、懐が暖かくなったラッキーな人に向けて、競馬関係者御用達のすすきのガイドも。
〈まず飲み屋。余裕のある人は「クラブ・シスコ」(南3西4)。ここは経営者が馬主で、関係者が多くくる。美人のホステス連にも競馬痛が多い。競馬開催中は日曜日も営業。また、津田昭騎手の同級生がマスターをしている「レッドライオン」(南5西4)、「ホンキートンク」(同)には若手の騎手がよくくる〉〈大衆的なところでは「ディオニソス」(南4西5)。ここのマスターと矢野照正騎手が親友で、加賀、郷原をはじめ、関西の若手ジョッキーも顔を出す。また、競馬のために存在しているような店が「エプソム」(南4西5)。ここの女性経営者は関西の伊藤修司調教師と親しくしており、毎年競馬開催中に店の客と競馬関係者で「エプソム会・マーチス杯」なるゴルフコンペまでやるほどの熱の入れよう。ハイセイコーファンにすすめたいのがスナック「熊ん蜂」(南6西4)。店内にハイセイコーのすばらしいパネルが置いてある〉
店内で騎手や関係者と仲良くなれれば、ファンにとっては至福の時間となろう。ただし、どんなに酒が回っても馬券情報はNG。うっかり漏らそうものならクビが飛ぶ。このほか、飲食店とトルコ風呂(ご贔屓にしている関係者の名前は伏せてある)情報も載っているが、今も残る店は皆無なのが残念だ。
最後は健全?なファンのために、ハイセイコーの見学情報。
〈札幌から車で約二時間。新冠の明和牧場にハイセイコーがいる。「見物人は平日で三百人、日曜祭日は五百人以上きますね。そんなもんで駐車場、休憩所なんかも用意したんです」。ハイセイコー用の放牧地がちゃんとつくられ、見物人のためのスタンドまである〉
北海道の競馬の話題といえば、帯広のばんえい競馬で馬インフルエンザが流行し、書き入れ時のGWに開催中止を余儀なくされた。一日も早い完全収束を願うばかりである。
帰りなんいざ田園へ

半世紀前も東京暮らしはストレスが多かったようで、地方に拠点を求める人も少なくなかった。「週刊現代」5日号では、都会生活に見切りをつけた著名人12人のリラックスした様子を伝えている。このうち、北海道にゆかりがある2人をピックアップしてみよう。
まずは浜中町に移住した写真家の加納典明氏。
〈この四月から、畑正憲氏のムツゴロウ一家の居候となりました。とにかく気に入ったので、ここに住みつくことを決心し、夏には家族たち(夫人と子ども三人)を〉引っ越させ、子どもは地元の小学校に通わせるつもりです。女房も、亭主のやりだすことには逆らえないと覚悟しているでしょう〉
こうした亭主関白ぶりは、今の時代なら受け入れられないだろうが、昭和は家長の命令が絶対だったのである。
畑氏とは、雑誌の対談企画で意気投合し、その後、何度か会ううちに北海道への思いが抑えられなくなったのだという。
〈今は仕事に行っても、すぐ帰ってきたくなります。頭で考えるより身体で感じることができるものが多く、それがいいんです〉
結局、加納氏のムツゴロウ王国生活は2年で終わったものの、大自然の中で体験したことが、写真家としての成長につながったことは間違いないだろう。
続いては、日本ハムファイターズの猿渡寛茂内野手。移住先は静岡県伊東市だ。
正直、相当な野球ファンでなければ、猿渡氏の名を記憶している人は少ないと思うが、1970年の東映フライヤーズから日拓ホームフライヤーズを経て、1977年に日本ハムファイターズで引退した、主に代打で起用された名バイプレーヤーである。現役7年間での出場は164試合に過ぎず、特筆するような成績を残したわけでもないが、野球に対する真摯な姿勢が高く評価され、コーチとして手腕を発揮した。日本ハムで19年、ヤクルトで8年もコーチを務めたのだから、いかに球団から信頼されていたかが分かるだろう。田中幸雄氏を育てたことでも知られる。
〈プロ野球選手は650人ほどいますが、僕は一番の長距離通勤です。去年の12月、結婚して新居を構えるとき、女房の希望で伊東へ。年上の女房の尻に敷かれている、という奴もいるけど、夏の涼しさは抜群で、よく睡眠がとれ、1時間半の通勤時間を差し引いても、野球にはプラスです。周囲の山野は、トレーニングにもってこいだし、好物の貝類は安くて、ふんだんに食べられるし、そして、今年は一軍に登録されたことだし、夏には子どもも生まれるし──今のところいうことなしです〉
伊東では夫人の母親が釣具店を営んでおり、猿渡夫婦と同居していた。後楽園球場での試合が長引き、終電を逃した際は、北区王子に住んでいた夫人の兄の家に泊まっていたという。特集に登場した12人の中では、明らかにネームバリューは落ちるものの、「異色のプロ野球選手」という話題性で選ばれたものと思われる。
老いたる “反逆児”米田と張本

最近の球界は優等生タイプがほとんどだが、かつては監督でも手に負えない野武士のような個性派も少なくなかった。その代表格といえる、日本ハムファイターズの張本勲と阪急ブレーブスの米田哲也の不穏な動向を「週刊文春」25日号と「週刊現代」26日号が伝えている。まずは「文春」の記事をみていこう。
〈「オレを移籍させろ。それがダメなら退団して廃業する!」〉
こう吠えていたのは、パ・リーグを代表する大物である張本と米田だ。米田の言い分は〈「ルーキーの山口高志の登場、山田久志、足立光宏の活躍で、このままでは登板のチャンスがない。オレはまだまだ現役。投げ続けて記録を伸ばし、金田正一に追いつきたいんだ」〉というもの。押しも押されもせぬ大投手ではあったが、すでに37歳で、峠を過ぎていたことは明らかだった。この年、阪急は前期で優勝したが、米田はわずか8試合の登板で2勝のみ。新旧交代の波に焦りを感じていたであろうことは想像に難くない。
金田が築いた通算400勝の大記録を塗り替えることがモチベーションであり、ストイックに野球に取り組む姿勢は評価されていた。
〈ニンニクの生、酢漬け、空揚げ、バター焼きと、体調をととのえるためにあらゆる努力を払っている米田には、同情する声の方が多い〉
一方の張本については、「ワガママ」とみる向きが多かった。
〈「三原球団社長とソリがあわないから」というのが表向きの理由だが、具体的には金銭問題のようで、「三原が社長になる前は、年俸(2400万)のほかに報奨金を出していたが、三原はこれを廃止した。その上、首位打者七回を誇る張本と、往年の強打者だった中西監督との意地の張り合いもあるようだ」(野球記者)〉
張本は当時34歳。大ベテランとはいえ、年齢的な衰えはなく、1974年のシーズンで7度目の首位打者に輝いていた。
張本が移籍願望を口にするのは毎年のことで、同僚からは〈「毎度おなじみ、張本の“春闘”さ」〉という冷ややかな声も。ただ、チームが低迷するなか、抜群の実績を残していたのも事実であった。
「現代」では〈「お前はいらんとまでいわれているのに、チームにしがみついているのはワシのプライドが許さんのや。前期が終わったら、洗いざらい不満を吐き出して、きっぱり日本ハムのユニホームを脱ぎますよ」〉と、怒りの胸中を吐露している。
そうしたなか、「現代」が泥沼の最下位に喘いでいた長嶋茂雄新監督率いる巨人の黒幕説を主張しているのが興味深い。以下は在阪パ球団役員のコメントである。
〈「巨人が介在していることはまず間違いない。昔、国鉄から金田を引き抜いたときの手口とそっくりや。選手の不満をあおり、裏工作で事前に話をつけ、正式ルートで球団にトレード交渉を持ちかけるというのは巨人の常套手段です」〉
張本が王と、米田が黒江と、それぞれ懇意であった点も、両者の巨人入りを疑わせる要因になっていたようだ。
結局、張本は翌シーズンに念願の巨人へ移籍。タイトルこそ獲得できなかったものの、主力の一角として最後のひと花を咲かせた。一方、米田は後期に阪神へ移り、8勝を挙げる活躍をみせたが、76・77年シーズンは近鉄で4勝にとどまり、通算350勝でユニホームを脱いだ。金田には50勝及ばなかったものの、球史に残る立派な記録といっていい。
その米田がこのほど、缶チューハイを盗んで御用となり、世間を驚かせた。家賃を滞納するほど生活に困窮していたようで、盟友・張本にも金の無心をしていたという。「金の貸し借りはやめましょう」と諭したそうだが、心の中で「喝!」と嘆いているに違いない。
いしだあゆみ アンニュイと低血圧

夜の横浜を歩いていると、自然と頭に浮かぶメロディーがある。それは、3月11日に76歳で亡くなった、いしだあゆみさんの大ヒット曲「ブルーライトヨコハマ」だ。横浜を題材とした作品は数あれど、どこか浮世離れした印象を受けるいしださんの雰囲気もあいまって、これほど横浜ならではのディープな魅力を体現している曲はないと思う。
そんないしださんの素顔に「週刊文春」18日号が迫っている。
〈女も男と同じようにある年齢になったら、自分の顔に責任を持つべきだと思うの。だから、特別な場合をのぞいて、お化粧はしない。それに、素顔というのは、体や心の状態がハッキリでて、ごまかしがきかないので好きなんです〉
これは、いしださんが「私の顔」というテーマで語った一文だ。当時まだ27歳とはいえ、すっぴんを通していたというのは驚きだ。
〈歌手としてデビューして十三年。大ヒットした「ブルーライトヨコハマ」は、御本人はあまり好きではないと言う。「よく気楽そうに歌ってるって言われるけど、そんなことはないんですよ。ガンバッテマスって顔をするのが嫌なだけ」「衣装は仕事以外、特別凝りません。ただパンタロンやジーパンは一本も持ってないの。なぜって女はスカートをはくものだと思うから…」酒たばこに興味がなく、外出も嫌い。そうなると趣味は、芸能界でつとに有名な貯蓄かな? 本名 石田良子〉
いしだあゆみ、という平仮名だけの芸名が似合っているが、名付け親は、あの永六輔とのこと。気楽そうに歌っているとの指摘は、適度に肩の力が抜けている彼女の持ち味だろう。
趣味は貯蓄とまでいわれた、お堅いイメージのいしださんだが、私生活では1980年にショーケンこと萩原健一と結婚し、4年後に離婚した。ショーケンといえば、女癖が悪かったうえ、暴力事件や薬物使用で4度も逮捕されたアウトローであり、さまざまな苦労を味わったに違いない。いしださんの思い出を振り返る「日刊ゲンダイ」の連載で、有名芸能レポーターが「あのいしださんが、なぜショーケンなんかと…」と記していたのが印象的だった。
イラストレーターの山藤章二氏は「アンニュイと低血圧」と題し、ユニークな筆致でいしださんの魅力をこう表現している。
〈健康で多忙な男には、多かれ少なかれ《入院願望》があるようだ。ただし若者には退屈であり、老人には切実すぎるので、これは中年特有の願望だろう。
場所は高原のサナトリウム、期間は三ヵ月くらいと、いろいろ贅沢である。贅沢ついでに言えば、病棟の廊下でよくすれ違う《病める美女》といった配役がほしい。当然《痩身》であり、《薄倖》でなければならない。さらに言えば《寡黙》かつ《無表情》である。ダメ押しに言えば《アンニュイ》で《低血圧》。《行きそびれ気味》まで加えてもらえばもう言うことはない。
こう煮詰めてくると、いまのタレントでは《いしだあゆみ》の右に出るものはいないというのは、たいしたことなのだ。やたら騒がしく、やたら健康すぎる歌番組に、《病院から抜け出たような》あゆみ嬢を発見したとき、中年男がなぜか心やすらぐのは、やはり《入院願望》のせいなのだろう〉
現代ならアウトの表現もあるが、言わんとしたいことは分かる。ブルーライトの光芒のなか、スーッと冥界へ旅立ってしまったかのようないしださん。「入院願望」のある男たちに支持されるという稀有な存在の女優は、後にも先にもいしださんだけだろう。