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よみがえってくる関東大震災

 海外でも注目を集めていた「7月5日」の予言は何も起きずに過ぎたが、トカラ列島で頻発している地震が気がかりだ。北海道の太平洋沿岸も含め、いつ巨大地震に襲われても不思議ではない日本列島。防災意識だけは高めておかなければと思う。1975(昭和50)年9月5日号の「週刊朝日」では、読者から投稿された貴重な写真と、気象研究家・根本順吉氏の回顧録の2本立てで、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の惨禍を振り返っている。当時の教訓は、現代の地震対策に資するものも少なくない。

“揺りかえし”にとどめをさされるな

▲「週刊朝日」’75年9月5日号

 兵児帯で幼子を背負った夫婦の写真は、千葉県に住む女性が寄せたもので、こんな説明が添えられている。場所は墨田区の本所南町だ。

〈震災の直後、両親と姉2人とで、当時を忘れぬよう、避難したときのままの服装で写した記念写真です。近くの会社に勤めていた父は、地震と同時に外に飛び出して電柱にしがみつき、おさまってすぐに帰ったところ、母や近所の人たちが、泣きながら『南無阿弥陀仏』と唱えていたそうです。写真のような姿で何も持たず、市川の母の実家へ避難しました。両親は私に『災害のときは欲を出さず、身ひとつで逃げなさいよ』と教えてくれ、後年、東京大空襲にあったときも、この教えはいつも私の頭を離れませんでした〉

 続いての写真は、広島県に住む男性のもの。
〈わが家の古い写真帳にあったもので、祖父の友人で学校の先生をしていた方が撮ったそうです〉
 浅草界隈の写真が多いが、浅草寺に続く仲見世は倒壊した家屋の残骸の山で、観光客でごった返す現在の賑わいからは想像もつかない。浅草寺仁王門前に設置された「尋ネ人取次所」の看板が時代を感じさせる。個人では行方不明者に関する情報が得られず、このような場所を頼るほかなかったのだ。

 ここからは根本氏の手記をみていこう。被災時は4歳だった。
〈母からきいた話では、私は幼稚園から帰り、行水をつかい、昼食をとろうとしていたときに地震が起こった。叔母に負ぶわれて玄関を出た。玄関から通りまでの途中で叔母は私をおぶったままころんだ。地表は波のようにゆれ、歩けるものではなかった。このとき祖母は家から出なかった。平屋であったが、八畳間の真ん中、障子や襖がはずれ、棚の上の物が散乱する中に居すわり、大声で念仏をとなえていた。祖母は安政の江戸大地震の体験があり、家からすぐ飛び出すことの危険を知っていたのである〉

 しかし、その後、何度も揺りかえしがあったため、屋内にとどまるのは危ないと判断し、根本一家は東大正門前にある神社の裏山へ避難したのだが、市役所勤務で帰宅できない父にかわり、祖母がひとり自宅を守っていたという。さすが、江戸、明治、大正と生き抜いてきた女性は肝が据わっている。

〈大地震に襲われたら、まず何をやるか。家内は関東大震災後に生まれたので、この地震についての記憶はない。しかし、地震はたいへんきらいで、夜中に地震があると、小さい地震でも跳ね起き、まず戸をあける。私のほうは、さまざまな地震の心得から得た知識から、やや大きい地震のときは二階にかけのぼることにしている〉

 このように揺れを感じた直後の行動は、何が正解なのか意見が分かれるところだが、根本氏は「大震災避難の心得」という小冊子を読み、〈家内の処置が正しいと思うようになってきた〉と述べている。
 倒壊のみならず、地震に伴う火災も恐ろしいが、「手記関東大震災」に記されている生存者のアドバイスは、私たちの心構えとして大いに役に立ちそうだ。

〈「幸運にも助かった最大の要因は、火事があったときは下を向いて腹ばいになると知っていたから」〉〈「立って走るときは息をせず、地に伏したときだけ息をすることに、いち早く気づいた点と、すべって倒れないよう、倒れた人の手足を踏まず、背や胸を踏むようにしたことである」〉〈「顔面その他を露出せる箇所には泥土を塗る等の用意を忘れてはならぬ」〉

 力尽き、路上に横たわる被災者の背中や腹を踏め、という部分は、なんとも生々しい。
 天災は忘れた頃にやってくる――という格言があるが、実際は忘れていないうちにもやってくる。「幸運にも能登で地震が」と言い放ち、それを「厳重注意」で済ませてしまうような愚かな連中など頼りにならないので、自分の身を自分で守るため、しっかり準備をしておきたいと思う。

残暑厳しい下界を尻目に優雅な風船野郎

▲「週刊文春」’75年9月4日号

 澄み切った夏空に浮かぶ熱気球。暑い地上とは別世界で、なんとも気持ちがよさそうだ。
「週刊文春」4日号が、上士幌町を舞台に開催された「熱気球フェスティバル」の模様を伝えている。

〈残暑厳しい下界を尻目に、ふんわりふわりと大空を漂う優雅な仲間たち――。一度に五つの気球が高度千五百㍍を飛ぶ有様はなかなか壮観で、参加の皆サンが異口同音に「この壮快さが忘れられなくて」とおっしゃるのもわかろうというもの〉

 上士幌で日本初の熱気球大会としてフェスティバルが始まったのは1974(昭和49)年だから、これは第2回ということになる。上空から手を振る人たちはみな笑顔で、ワクワク感が伝わってくるようだ。楽しいだけではなく、下界の人間に対する若干の優越感もあろう。

〈直径13㍍のナイロンまたはテトロン製の風船に、ガスバーナーで温めた空気を送り込めば、10分後には大空へ舞い上がる〉〈この空中散歩、風船の下につけたゴンドラに乗って、あとは風まかせと単純そのものなのだが、近ごろ、ちょっとしたブームで、現在愛好者は日本全国で三百人もいるそうな〉

 その後、フェスティバルは年々規模を拡大し、いまや熱気球は上士幌を代表する観光資源となっている。8月1~3日に航空公園で開催された、52回目を数える今年のバルーンフェスティバルには、全国から34チームが参加し、大いに盛り上がったという。上士幌以外では、佐賀のバルーンフェスタが有名だ。

 熱気球に揺られるなら、北海道に勝るロケーションはないだろう。高所が苦手な筆者だが、快感が恐怖を上回るはずなので、熱気球はぜひ体験してみたいと思っている。

長島二世クン背番号「90」“襲名披露”

▲「週刊朝日」’75年9月26日号

 昭和のスーパースター長嶋茂雄が亡くなり、多くの著名人がコメントを寄せていたが、その中でも息子・一茂の真摯な言葉は、ふだんテレビのバラエティ番組で見せる軽いキャラとは対照的なもので、特に印象深かった。「週刊朝日」26日号では、その一茂の「デビュー戦」にスポットライトを当てている。

〈ショート寄りに飛んだゴロをシングルハンドですくいあげる。一塁へいい送球。ホー、さすがという声が上がる。次は真正面の平凡なゴロ、これを腰高のまま、みごとにトンネル。しかし、悪びれず全力疾走でボールを追う。ユニホームの背中で背番号90が躍っている〉

 ファインプレーのあとに凡ミスというところが、なんとなく父親譲りといった感じがするが、とにもかくにも彼の一挙手一投足に、詰めかけたファンや報道陣の熱視線が注がれていた。当時、小学4年生。141㌢、37㌔の恵まれた体格で、1週間前の入団テストではシャープな動きを披露して難なくパスし、リトルリーグ「目黒クリッパーズ」で野球人生を歩み始めたのである。もちろん、リトルリーグの練習に人だかりができたのは前代未聞のことで、これには「鬼」と畏怖される大山忍監督も苦笑いするほかなかった。

〈目黒クリッパーズは総勢百三十人の大チームである。レギュラークラスの大リーグと2A、3Aの三段階に分かれている。ふつう入団したての選手は3Aからスタートするのだが、一茂クンは2Aのグループに編入された〉

 忖度があったわけではなく、さすが「蛙の子は蛙」であるが、ただ背番号ばかりは思うようにならなかったようだ。
〈これまで友だちと野球をやるときに着ていたユニホーム、もちろん、ジャイアンツの3番である。ところがクリッパーズの3番はレギュラーのTクンがつけている。“栄光の3番”本家の御曹司といえども、そう簡単に略奪できない〉

 そこで大山監督が提案したのが、長嶋監督がつけている90番だった。この90という数字には、こんなエピソードがある。
〈これは一茂クンが「背番号3、3塁で3番打者」だったパパが監督に就任するとき、全部足してゼロをつけたらと進言して実現したものだ〉

 そんな経緯があったから、3番を熱望する一茂少年も納得したのである。これまで90番だった選手を24に変え、〈「パパは3から90になったけど、ボクは90から3になることを目指したらどうだ」〉と諭した大山監督は、なかなかの「名将」といえる。

 目黒クリッパーズは創設5年目で、地元では敵なしの強豪チームではあったが、関東大会ではⅤ9時代の巨人なみの強さを誇る調布のチームに歯が立たなかった。〈クリッパーズはこれまで巨人軍の多摩川グラウンドを借りて練習したこともあるが、練習場不足が悩みのタネ。しかし、一茂クンの加入によって、その悩みも解消されるかもしれない〉とあるのは、「長嶋ジュニア」のネームバリューをもって、多摩川はじめ設備が整ったグラウンドを借りやすくなる、とのニュアンスだろう。

 大山監督の指導は厳しく、怠慢プレーがあればグラウンド一周を命じられ、ときには手も出る。
〈げんこつもとぶし、バットで尻をたたかれることもある。一茂クンもお尻に一発、洗礼を受けた〉
 他の子と分け隔てなく、一茂を打擲した監督はすごいが、昭和ならではの光景といえる。今の時代なら完全な体罰であり、監督はすぐさまクビだ。

 練習後は記者の質問に対応した。
〈「いちばん好きなのはスキー。野球は二番目」「水泳はもうちょいで一級」とスラスラ答えるが、「好きな学科は」「ジャイアンツ不調だね」といった質問になると、まったく聞こえないように、ママ、亜希子夫人手づくりのおにぎりをひたすらパクつく〉

 小学生にして「大物ぶり」を発揮していたのが一茂らしい。プロ野球選手としては大成できなかったものの、タレントに転身して超売れっ子になったのだから、これもまた非凡な才能であると思う。ファンサービスに徹したミスター自身、数々の「迷言」や「珍行動」で話題をさらった稀代のエンターテイナーでもあったが、その素質を強く受け継いだのだろう。

余市町 怪鳥の里のゆたかさ

▲「週刊朝日」’75年9月26日号

 全国の風光明媚な地を紹介する「週刊朝日」の人気連載「旅支度」で、26日号では余市町が取り上げられている。タイトルの「怪鳥」という言葉が目を引くが、これはムクドリのこと。

〈怪鳥の群れが余市のまちに現れたのは十年前の秋のことだ。たわわに実ったブドウ園の空をまっくろにした鳥に、まちは驚天動地の大騒ぎをした。ハンターが集められ、バキューンと空砲を鳴らす新兵器も導入され、録音したカラスの声を拡声器で流した〉

 余市町史によると、1967(昭和42)年頃からムクドリによる農作物被害が顕著になり、余市町、仁木町、小樽市による対策協議会を設立。記事にあるとおり、ハンターが駆除に追われた。町史には同年9月の新聞紙面が掲載されている。そこには「“黒いつむじ風”に暁の奇襲」との見出しが躍り、大規模な掃討作戦によって、750羽の戦果があったことが記されている。

 そのムクドリについて、「朝日」のルポは、〈むりもない。春のイチゴから始まって、サクランボ、早生のリンゴ、ブドウ、ナシ……。人間ならば、それにアユと日本海のサカナ、ウイスキーがつく。ムクドリならずとも、長逗留を決め込みたくなるではないか〉という表現で、余市の魅力を絶賛している。

 ムクドリに続いて、話題は町の特産のリンゴに。
〈「よいち風土記」によれば、余市のリンゴ栽培は明治八年、開拓使がアメリカから移入した苗木を一戸当たり七本ずつ配布したことに始まった。その後、大半は枯れてしまったが、明治十二年、「十九号緋の衣」と「十九号国光」が実り、その年に開催された札幌共進会に出品されて道民を驚嘆させた〉

 これが日本におけるリンゴ結実の第一号だと力説するのは、地元のリンゴ農家のAさんだ。
〈「まず客人がはじめに箸をつけにゃあ」「酒の口開けは客がするもんだ」〉〈Aさん宅で、すすめ上手のご主人にあって、すっかり酩酊した〉

 リンゴの話になると、Aさんの口調は熱を帯びる。
〈九月十七日に「リンゴ栽培百年」の記念切手が発売される。明治五年、北海道開拓使ケプロンが東京の開拓使試験場に持ち込んだ苗木を、明治政府の勧業令によって、明治七年秋田、八年に青森、岩手、山形が栽培に取り組むことになった。記念切手は本格的な栽培を始めた明治八年から数えて百年目ということになっているが、その裏には全国生産量の五割を占める青森県への配慮があるともみられる〉

 Aさんは、これが気に食わないのだ。
〈「リンゴ元年というなら、明治五年か七年でしょう。それを青森に持っていくのは納得できん」〉
 歴史あるリンゴ産地として、青森に対するライバル心が垣間見える。

〈Aさんはあくまでも最初(はじめ)にこだわる。だが、ひとまわり違う奥さんはAさんの二番目の妻だ〉
 ついつい深酒になり、リンゴのように顔が赤くなった記者と夫をみて、優しい奥さんは2人の体調を気遣うのだった。記者は、ムクドリならずとも余市に長逗留したいと思ったことだろう。

福祉センターという名の葬儀場

▲「週刊新潮」’75年9月11日号

 全国のB級ニュースを集めた「週刊新潮」の「新聞閲覧室」。11日号では「北海道新聞」が報じた住民トラブルの話題を紹介している。

〈街中の墓地が遠くへ引っ越し、その近くに福祉センターが建つことになった。むろん住民は歓迎。ところが「福祉」とは葬儀場だったのである。建主は全逓労組の共済組合、経費四億円。むろん、住民は一転して大反対……〉

 その建物とは「北海道全逓共済総合福祉センター」との名称で、場所は豊平区の豊平墓地の入口あたり。センターの真向かいで医院を開いている石田文司さんはこう語る。
〈「今年の三月、全逓の小納谷委員長たちが、付近住民を集めて説明したときは、貸集会場や老人の寄合いなどに使うという話なので納得したが、最近になって、葬儀場専門に使われることがわかった。話が初めとまるで違う」〉

 豊平墓地は里塚霊園に移転することが決まっていたが、そこへ思いがけず葬儀場が現れたので、〈「もう線香のにおいはごめんだ」と反対運動がおこった〉のである。全逓共済側は、葬儀場計画についてこう正当性を主張する。

〈「建物の目的は葬儀場。そのほかに目的はない。組合員から、近ごろは葬式代が高くなったという声が上がったので、これを建てることになった。最初は、文化的な催しのための会場を併設する考えもあったが、費用の関係でやれなかった。しかし、空いているときは、地元の人の葬式にも使ってもらい、月に一度くらい、地元の集まりや老人の寄合いにも使ってもらう考えは持っている」〉

 と、こんな調子だったから、住民側との話し合いは、どこまでも平行線を辿るばかりであった。葬儀場を集いの場に、と言われても、高齢者にすれば気持ちのいいものではないだろう。

 現在、この施設があった場所には、真に「文化的」な道立総合体育センター(北海きたえーる)が建っている。周辺は自然豊かな公園になっており、かつてここに広大な墓地があったことを知る人は少なくなったに違いない。
 ちなみに、筆者の実家のお墓は移転前の豊平墓地にあり、子どもの頃、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てきそうな少々不気味な雰囲気を感じたのを覚えている。

なんと“幻の二塁守備”

▲「サンデー毎日」’75年9月7日号

 北海道日本ハムファイターズの快進撃を支えているフランミス・レイエス選手は、ホームラン・打点の2冠で独走するなど成績面だけではなく、その人間性の素晴らしさも絶賛されている。しかし、長い球団史を振り返れば、以前に取り上げた「スワッピング投手」など、今では考えられないような外国人選手も少なくない。「サンデー毎日」7日号では、なんと試合中に監督の指示に従わなかったワガママ助っ人の話題を紹介している。

〈プレーヤーを自分の意のままに動かせるはずの監督が、選手の守備交代拒否にあって立ち往生。スタンドの失笑を買った〉
 赤っ恥をかかされたのは、太平洋クラブライオンズ戦での中西太監督だ。

〈七回の守備変更で、三塁のジェスターに二塁を守るように命じた。ところがジェスターは「二塁はイヤ」と拒否。中西監督が大声で指示しても「イヤ、イヤ」の繰り返し。仕方なく三塁のまま試合は続けられた〉

 シカゴ・カブス出身のゲーリー・ジェスタッド(ジェスターは日本での登録名)は、この年、球団初の外国人野手として、大きな期待をもって迎えられた選手だった。「1塁以外の内野はどこでも守れる」という触れ込みだったから、中西監督に非があるわけではない。

〈「二塁の守備に自信がない」が拒否の理由。しかし中西監督が球審に一度交代を告げているため、ジェスターの“幻の二塁守備”は記録に残された〉
 梃子でも動かぬジェスターにしびれを切らし、再度交代を告げ、記録上は5→4→5となったのだろうか。

 結局、ジェスターは打率242、9本塁打という平凡な成績に終わり、翌シーズンは大洋ホエールズに移籍。打率は236ながら、18本塁打と長打力を発揮し、しっかり「2塁」もこなしている。ファイターズをクビになり、危機感から態度を改めたのかもしれない。だが、大洋でも1年でお払い箱となった。

 内野のポジションではファーストのみ初めからNGだったわけだが、日本球界で活躍できなかったのは、自分“ファースト”の結果という気がする。