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「自民党のガン」ぶりを証明した北海道『青嵐会』の乱

 1974(昭和49)年7月7日に行われた参議院議員選挙の北海道選挙区で、自民党は全敗という屈辱を味わった。波乱の要因となったのは、当時、旋風を巻き起こしていた「青嵐会」だった。自民公認の2候補に対抗し、全国で唯一の「青嵐会公認」となった高橋辰夫氏が、党の反対を押し切って出馬。保守3候補が共倒れになったのだ。7月18日号の「週刊新潮」が、失敗に終わった「青嵐会の乱」の背景に迫っている。

敗戦の夜に行われた祝勝会

▲「週刊新潮」’74年7月18日号

 参院選北海道選挙区(定数4)の結果は、トップ当選が小笠原貞子氏(共産党)。全国区からの鞍替えながら、札幌高女(現在の札幌北高)卒という地縁もあり、高い知名度を生かし、婦人票の取り込みにも成功しての快勝だった。

 以下、吉田忠三郎氏(社会)、対馬孝且氏(社会)、相沢武彦氏(公明)と野党が議席を独占し、当初、2候補とも安泰とみられていた自民は、党非公認の高橋氏の参戦によって票が割れ、河口陽一氏と西田信一氏が枕を並べて討ち死にする最悪の結果となった。

〈その夜の札幌。公認の一人は寝込み、一人はヤケ酒をあおっているとき、『青嵐会』では祝勝会が開かれていた。現大蔵政務次官の中川一郎代議士、『青嵐会』の領袖として、選挙中は割込み無所属高橋辰夫候補にピッタリとくっつき、北海道全域を踏破した。公認二人は死に物狂いとなり、自民党本部にも頼み、あの手この手で高橋候補の動きを封じようとしたが、中川さんの力には抗しきれなかった〉

「青嵐会」が推した高橋氏が落選したにもかかわらず、嬉々として祝杯をあげたのは、党本部への怨嗟があったからで、河口・西田両候補の足を引っ張るという目的を果たしたからだ。江崎幹事長代理が〈「北海道には党の統制を乱すのがいてケシカラン」〉と苦言を呈したが、中川氏は逆に〈「自民党なんかクソ食らえだ。処分できるなら、やってみたらいい」〉と息巻いた。

「戦犯」扱いされた中川氏は、こう反論する。
〈「もっと新陳代謝して新しい政治をやらなくてはダメだ。七十歳を過ぎた人ばかりがやっていれば、国民はみな怒りますよ。北海道で三人とも落ちたのは、なにも『青嵐会』のせいではないですよ。高橋候補を公認しないのが間違っているんだ。三人とも公認していれば、ぼくらも自民党の悪口を言わないし、うまくいけば三人とも入ったかもしれないのに」〉

 党本部は高橋氏の出馬を阻止すべく、さまざまな妨害工作を仕掛け、それが『青嵐会』の結束をいっそう強固にしてしまったようだ。石原慎太郎氏、浜田幸一氏といった「攻撃型」の同志が続々と応援に入り、痛烈な自民党批判を繰り返したのだから、野党陣営は思わぬ天祐に笑いが止まらなかったに違いない。石原氏は〈「今の自民党はダメだ。自分も参議院にいたけれど、今の参議院のセンセイたちは、控室でリューマチの新薬の話ばかりしている有様で、国会に出るセンセイは少ない」〉と、老害議員のグウタラぶりを暴露していた。

 党から睨まれてしまった高橋氏もまた、中川氏と同様に強気一辺倒だった。
〈「これは私の持論なんだが、処分されるべきは田中総理だと思っています。田中総理は私を公認もするし、金銭的にも面倒を見ると約束したんですからね。すべての責任は田中総理にあり、です」〉

 バックに中川氏がついているとはいえ、道議12年の実績しかない立場で一国の総理を批判するとは大胆不敵である。
〈中川さんの処分を党紀委員会へ提訴した道連も、役員会を開き、会長以下の執行部全員が辞職することになるという〉

 いかなる理由があろうとも、敗戦の責任を取らねばならなかった道連としては、「青嵐会」に対して恨み骨髄に入る、といった心境だったろう。

 現状、岸田内閣と自民党への嫌悪感はピークに達した感がある。もし、年内に解散総選挙ということになれば、自民惨敗の悪夢が再現される可能性が高いように思う。

三原算術にしてやられたスワッピング投手

▲「週刊現代」’74年7月18日号

 日拓ホームフライヤーズから球団を買収し、1年目のシーズンを戦っていた日本ハムファイターズ。破天荒オーナーがスキャンダラスな話題をふりまいた日拓時代とは対照的に、地味な印象は否めず、週刊誌に取り上げられる機会は少なかった。

 成績も振るわず、前期は最下位に。そうしたなか、後期の巻き返しの切り札として獲得した助っ人外国人選手のマイケル・ケキッチ投手が、野球以外のメディアでも大注目されることとなった。というのも、ヤンキース在籍時に、同僚選手との間で、妻と子ども、さらにはペットまで丸ごと交換するという前代未聞のスキャンダルを起こした、いわくつきの選手だったからだ。週刊各誌が報じているが、まずは「週刊現代」18日号からみていこう。

〈さすが話題作りのうまい三原さん、なかなかやるものである。後期シーズン用に、自分で渡米して“現地調達”してきたのが、あのスワッピング投手マイケル・ケキッチ君(29)。去年三月、ヤンキースの同僚ピーターソン投手と奥さんぐるみ子供二人も一緒に“交換トレード”をやり、野球よりもこちらで有名な御仁。三原さん、その大物に対して、これまた前代未聞の“管理法”を打ち出した〉

 野球よりもスワッピングで有名になったのは間違いないが、ドジャース、ヤンキース、インディアンスを渡り歩いた通算33勝を誇るバリバリのメジャーリーガーであり、三原脩球団社長はエース級の活躍を期待していたはずだ。その“管理法”とは、〈野球業に専念し、後期二十四試合に登板すべし。これに満たない場合、一試合につき日本円四十万円ナリを賃金カットする」〉というもの。契約金は1200万円(約4万㌦)といわれていたから、まったく働かなければ報酬がゼロになる。さらに、先発投手のケキッチにとって、後期65試合で24試合も投げるのは現実的に無理な話でもあった。

〈「私は外人サンには泣かされましたからなぁ。大洋でマクナマス、スチュワート、ヤクルトに移って怪人ペピトーン、もういいだろうと思ったら、日本ハムで蒸発投手バールですわ。まあ、懲りた末の生活のチエというものです」〉

 三原氏の発言に出てきた蒸発投手とは、日ハム初の外国人選手となったバール・スノーのこと。エースナンバーの18を与えられ、颯爽と初登板のマウンドに立つはずが、なんと試合当日に失踪し、いつのまにか帰国していたという食わせ者だった。

 ケキッチ投手とのシビアな契約内容について、大リーグ通の記者はこう語る。
〈「どうやら策士の三原サンにダマされたらしいですね。ケキッチという男は女好きだけど、根はお人好し。なにしろ、同僚にせがまれて、美人で評判だったスーザン夫人をポイと手放しちゃうくらいですからね」〉

 で、ケキッチ投手の成績はどうだったかというと、登板数は18にとどまり、5勝11敗と期待を大きく裏切る結果となった。球威はあったものの、最後まで制球難を修正できなかったようだ。

 昔も今も、外国人選手の場合、高額な年俸に見合う活躍ができるかどうかは運次第という側面もある。今季の日ハムは好調だが、大砲レイエスが覚醒してくれれば優勝も狙えるだろう。

最下位「日本ハム」の収支決算

▲「週刊新潮」’74年7月11日号

「週刊新潮」11日号から、日本ハムファイターズの話題をもうひとつ。前期を最下位で終えた日ハムの内情を伝えている。

〈「プロ野球は宣伝媒体としてきわめて有効」――三原脩サンの“甘言”に乗せられてチームを引き受けた日本ハム・大社オーナーだが、前期戦が終わってみれば最下位。しかも大赤字。観客動員数は昨年同期と比べて十万人減の三十六万人。選手の年俸は一律アップ。そのうえユニホーム制作費(約三千万円)等諸雑費を考えれば、日拓時代と比べて前期だけで一億円を超す支出増〉

 新米球団の船出は厳しいのが相場とはいえ、金銭にシビアといわれていた日本ハムにとって、「こんなはずでは……」との思いもあったに違いない。支出のなかで、大きな比重を占めていたのが、三原球団社長と中西太監督の「親子」(三原の長女と中西が結婚)に払った契約金と年俸であった。

〈一説によると、二人に払ったカネで張本級の選手が三、四人は雇えるとか。これには三原球団社長もいささか気がとがめたか、自ら交渉に出かけ、元大リーガーのケキッチと、3Aのレイ両投手を獲得した〉

 そのケキッチが、前項で紹介したとおり、スワッピング騒動でバッシングされた、いわくつきの選手だったのである。また、もうひとりのテリー・レイ投手も、3勝2敗と振るわなかったから、補強は失敗に終わったといっていい。

 記事は〈まさか日本で再びスワッピングをすることはあるまいが、そんなことをしでかしたら、主婦層から肝心の商品をボイコットされませんよ〉と皮肉まじりに結んでいる。球団としては成績については不満だったろうが、スキャンダルを起こさなかった点だけは、よかったと安堵したのではなかろうか。

「契約」の通じない人間

▲「週刊新潮」74年7月18日号

「週刊新潮」18日号の「新聞閲覧室」から、北海道のB級ニュースを紹介しよう。ネタ元は「北海道新聞」。

〈うっかり人を雇えない時代になってきた。一年で契約した女教師を採用し、期限切れでお引き取り願おうとしたら、さあ大変、学校は訴えられるわ、「守る会」が結成されるわ……〉

 新潮の記事がこう指摘しているのは、旭川実業高校で起きた騒動だ。1年契約だった古川とし子さん(25)が学校側から退職を言い渡されたところ、同校の職組が古川さんの復職と1年契約制度の撤廃を求め、運動を開始したのである。

〈今までに古川さんをふくめ、あわせて十七人が採用されたが、実際に一年で解雇された例はなかった〉

 職組が問題視したのは、この点にあった。〈(解雇理由は)「古川さんが組合活動をしたため」〉と主張。職組に後押しされた古川さんは、〈「解雇に合理的理由がなく、不当労働行為で労働協約違反だ」として、学校を相手取り、「職場復帰を求める地位保全仮処分申請」の訴えを旭川地裁に起こした〉のである。

 訴状では、〈①組合に加入し、一年契約制度廃止運動をしたことに対する報復、②組合との事前協議なしに突然解雇したのは労働協約違反〉とし、あわせて判決が確定するまでの間の賃金を支払うことも求めていた。

 契約に基づいて解雇した学校側に落ち度はないと思われるが、前例のない1年での解雇には、やはり組合活動が関係していたと推定される。いずれにせよ、組合の圧力が弱まり、教員不足に悩む現代の教育現場においては、起こり得ない事件といえるだろう。

泥棒もいる日本共産党

▲「週刊新潮」’74年7月25日号

「週刊新潮」25日号からも「新聞閲覧室」の話題を。池田町で発覚した選挙関連の呆れた事件を伝えている。ネタ元はこちらも「北海道新聞」だ。

〈日本共産党池田支部員が盗みをし、その盗品の携帯無線機を同支部員らが、盗んだものと知らずに選挙開票速報の連絡用に使うという事件があり、池田署は盗みをした党員を検挙する一方、盗品を使った党関係者が本当に事件を知らなかったどうか調べている〉

 検挙されたのは、自動車整備工の井尾博俊(30)。井尾は町内の建設会社、遊佐組の事務所車庫に侵入し、社長の車に積んであった携帯無線機2台を盗んだという。無線機は1台約22万円という高価なものだった。

 井尾が御用となったのは、遊佐直博社長の「執念」の賜物だった。
〈遊佐社長が「盗まれた無線機はいつか犯人によって使われる」と信じ、事務所にある親無線機に注意していたところ、聞きなれない応答を傍受。この声をテープに録音し、池田署に通報した〉

 その後、池田署員が参院選の会場となっていた福祉センターで盗品の無線機を使って開票速報を送っていた男女2人を発見し、任意同行を求めたもの。

〈二人が黙秘しているうち、日本共産党池田支部長らが「無線を受けていたのは私たちでした」と、もう一台の無線機を持って同署に現れた〉

 当初、2人が黙秘を続けたのは警察に非協力的でよろしくないし、井尾が持ち込んだ高価な無線機の出所を確認しなかった点も手落ちとの誹りは免れまい。ともあれ、支部長に付き添われ出頭した井尾は、こう自供した。

〈「無線機を盗んだのは私で、ほかにも遊佐組から四回にわたって盗みをした。支部長はじめ、党関係者は盗品であることを知らなかった」〉

 前述のとおり、参院選では共産党の小笠原貞子氏がトップ当選を果たしたが、清廉潔白を是とする共産党だけに、地方党員の不祥事が小さな汚点となったことは間違いないだろう。

大阪万博跡『中国展』の“雑音”

▲「週刊新潮」’74年7月4日号

 開幕まで1年を切った大阪・関西万博への逆風は止む気配がない。あえなく頓挫した札幌冬季五輪再招致にもいえることだが、過去の成功体験が忘れられず、民意を無視してまで強行する金権プロジェクトが支持を得られないのは当然の話である。

「週刊新潮」4日号では、空前の盛り上がりをみせた大阪万博の跡地で計画されているイベントの残念な顛末を伝えている。

〈「名だたる大阪商人も、“大国”中国相手では、やりづらかったようだね」と皮肉られているのが、七月十三日から万博会場跡地で行われる『中華人民共和国博覧会』。大阪商工会議所の佐伯勇会頭の提唱によるこの博覧会、日本側は「万博の中国版を」とハッスルしていたのだが、中国側の「要望」で、かなりの変更となったのである〉

 まず、クレームが付いたのが大会の名称だった。
〈「博覧会とは世界的規模の場合に使うもの」という理由で『中国展』に〉

 中国はとことんメンツにこだわる国であり、これしきの大会に……と主張する立場は理解できる。また、展示内容についても双方の思惑が一致していなかった。主催者側が北京原人や歴史的遺産などに関する展示を期待したのに対し、中国側は革命後の「新中国」を披露したかったのだ。

〈出品物は、だから毛沢東の肖像をはじめ、鉄鋼コンビナートのパネル、機関車の模型、コンピューターなど。会場には、曲技団が出演、三カ所の即売場で「家具、日用品、漢方薬など」を売るのだそうな〉

 中国がこうしたイベントを国威発揚と金儲けの場にしようとするのは必然であり、〈「これじゃあ、中国の商業見本市にすぎない。客もそう集まらないんじゃないか」〉と嘆く主催者の読みが甘かったのである。

 中国側は、万博のシンボルである岡本太郎作の「太陽の塔」が気に入らないとの難癖も。記事では、(毛沢東以外の)偶像崇拝を否定する立場か、と推察しているが、真相はわからない。

〈客とはいえ、中国の意見を逐一ごもっとも、という主催者側のお人よしぶり、何とも頼りない……〉

 今秋、関西財界7団体の幹部が訪中し、まったく盛り上がらない万博への協力を求めることが明らかになった。50年前と今では、両国の国力が逆転してしまった事実は認めざるを得ないものの、何かと問題がある隣国に媚びへつらい、チャイナマネーに縋る経済人の姿に、頼りなさ、情けなさを感じている国民は少なくないはずだ。

海底の下100メートル

▲「サンデー毎日」’74年7月28日号

 まもなく夏休み。物価高の折、世のお父さんたちは、家族サービスにいくらかかるのだろうと頭が痛いところだろう。50年前も事情は同じだったようで、「サンデー毎日」28日号が「父と子の夏休み対策」と題し、無料で見学でき、なおかつ社会勉強にもなる全国の施設を紹介している。

 このなかで、特におすすめしているのが、福島町の青函トンネル工事現場だ。道民ならまだしも、首都圏から福島町まで行く時点で相当な費用がかかってしまうのだが、「世紀のプロジェクト」に接した子どもたちは、胸躍らせ目を輝かせたことだろう。

〈いま工事中の青函トンネルは全長なんと五三㌔と八〇〇㍍。海底部分は二三・三㌔、最大水深は一四〇㍍。完成すれば、世界最長の海底トンネルとなる。ひと口に五三㌔といっても東海道線でいえば、東京と辻堂の距離。電車なら、約一時間はかかろうという長さ〉

 ちなみに、全長では現在も青函トンネルが世界一だが、海底部分の距離ではドーバー海峡を渡る英仏ユーロトンネルが上回っている。

〈青森県側の入口は、津軽半島の三厩。北海道側は、上磯郡知内湯の里。この湯の里から、青函トンネルの工事風景が見学できる。とはいっても、坑内は工事中で危険なので、入口のそばまで。世界最大のトンネルを、その入口からのぞいてみるだけでも、十分価値はあるというもの〉

 サン毎の記事には、見学希望者の連絡先として、日本鉄道建設公団吉岡事務所の住所と電話番号が記されている。週刊誌で大きく紹介されたことで、多くの見学者が訪れたに違いない。このほか、施設一覧の表には、北海道では雪印乳業(札幌市)、サッポロビール(同)、アジアスキー(小樽市)、ニッカウヰスキー(余市町)、山陽国策パルプ(旭川市)が載っている。

 その後、ニッカ余市工場が道内を代表する人気スポットになったのは周知のとおりだ。また、山陽国策パルプ旭川工場の所在地である「パルプ町」という地名が、いまも残っているのが面白い。

〈なお、この青函トンネル、着工が昭和四十七年、完成は昭和五十四年とか。総工費は、約二〇〇〇億円〉

 記事にはこう記されているが、実際の開通日は1988(昭和63)年3月13日であり、陸上部のアプローチも含めた総工費は約6890億円にまで膨らんだ。工期が延び、予算が増大するのは、大阪万博といい北海道新幹線といい、この手の大型プロジェクトでは当たり前の話である。それはともかく、かつてトンネル内の雰囲気を楽しむことができた竜飛海底駅が、2014(平成26)年3月の新幹線開業に伴い、廃止されてしまったのは残念だ。現在は緊急時の退避用施設として使用されている。