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「わが家のこの一枚」に見る日本百年

 読者が所蔵する貴重な写真をもとに歴史を振り返る「週刊朝日」の連載企画、『「わが家のこの一枚」に見る日本百年』。1974(昭和49)年12月6日号では、札幌市南区真駒内在住の渡辺淳さんの投稿が紹介されている。かつて隆盛を極めたニシン・カニ漁の風景や、沿海州の遊牧民の姿が生き生きと映し出されており、資料的な価値も非常に高い写真ばかりだ。細かい部分まで記憶している渡辺さんの回想も、当時の漁師の暮らしぶりを知ることができ、実に興味深い。

北に消えた幻夢―北海道のニシン・カニ漁―

▲「週刊朝日」’74年12月6日号

 最初の写真は、大正13年、まさに小説『蟹工船』で描かれているような作業風景だ。
〈「いよいよ企業ベースでカニ工船が西カムチャツカへ出漁しました。豊国丸はそのうちの一隻。水揚げしたタラバガニを熱湯でゆでています。そのなかには小林多喜二の小説のモデルになった船も含まれていたということです」〉

 船上での重労働の厳しさが伝わってくる一枚だ。
「蟹工船」第1号は、大正12年の「呉羽丸」だった。

〈「この年、農商務省の村上水産局長、木戸北洋課長は、日本で初めて船内でのカニ缶詰製造加工を企てました。このために農林省調査試験船として西カムチャツカに出漁したのが、この呉羽丸です」〉
 当初、カニは沿岸の缶詰工場で加工されていたが、やがて船上で缶詰にまでしてしまう蟹工船が主流となったのである。

 遊牧民の写真は、かなり貴重なものだろう。
〈「当時の沿海州にはトングスとカムチャダールと称されるふたつの遊牧民がおりました。6月から8月にかけて、彼らは冬季の食料確保のため、海岸部に住みつき、白夜のもと、夜通し踊りくるったそうです。写真は、彼らの船とシベリア犬で、冬はソリを、夏は船を引きます」〉〈「大正十二年、オホーツク沿海州からカムチャツカにかけて、農林省によって水産資源調査が行われました。沿海州の遊牧民、トングスの部落です。彼らは鮭をそのまま天日干しして、人間と犬の食料にしていました」〉〈「トングスの子どもと、調査船に同行した農林省技官。沿海州で漁に従事する人たちは鮭の肉にはすっかり飽き、特に身分の高い人は鮭の頭の軟骨、頬の肉、心臓だけを食べたそうです」〉

 渡辺さんがいう「トングス」とは、「ツングース」のことかと推察される。日本人と遊牧民の間に大きな摩擦はなく、のどかな時代だったようだ。

 上半身裸の子どもが、子熊とじゃれ合っている大正13年の写真がある。
〈「春のニシン漁が終わると、これといった仕事もなく、毎日、毎日、まことにうららかな生活が続きます。親方の住まいを兼ねている番屋の庭で、使用人のアイヌからもらった子熊が子供たちになつき、一緒に相撲をとっているところです」〉
 いかに人間に慣れている子熊とはいえ、子どもの背丈より大きく、驚きを禁じ得ない。

 舞台は変わって積丹半島。山と積まれたニシンが、ニシン景気に沸いた往時の活況を物語る。
〈「親類の家の漁場は、積丹半島の沖合、ロウソク岩付近にありました。サンパと称する漁船、一隻約四百貫のニシンを網で漁獲し、それを大勢の人たちがモッコ(背負い箱)でロウカ(貯蔵場)に運んでいるところです」〉

 400貫は約1・5㌧。当時の漁師は「獲っても、獲っても無限に押し寄せてくる」と証言している。
〈「私の親類に当たる家は、江戸時代から余市で運上屋(松前藩場所請負人)としてニシン漁を続けていました。これは、今となっては幻となってしまったニシン漁場の古き良き時代の写真です(大正10年ごろ)。前夜のシケでニシンの大群が余市の浜に打ち上げられたときのもの」〉

 夥しい量のニシンは、とても全部を食用で捌ききれるものではなく、肥料用にもなっていた。
〈「ニシンは漁期の初めの頃は生ニシンとして売られるのだが、漁獲量が増えるにつれて、身欠きニシンなど加工用に用いられ、末期にはニシン釜で炊いて魚油をしぼり、粕は肥料にされました。円筒状の一個の粕をつくるには、600~1000匹の生ニシンが必要で、これをトンガ(つるはし)で崩し、ムシロに並べて干し、そのあと釜に入れます。ムシロに干してある数の子は、特においしかった」〉

 その後、ニシンはすっかり消えてしまったが、最近、日本海沿岸では群来の現象がみられるようになってきた。かつて大衆魚だったニシンが、再び庶民の食卓に並ぶようになったのは喜ばしいことである。

安西愛子政務次官、日本列島縦断の旅

▲「週刊文春」’74年12月16日号

 北海道開発庁の政務次官人事で、一龍斎貞鳳の芸名で活躍した「講釈師」今泉正一氏の後任として、「歌のおばさん」と親しまれた安西愛子参議が就任した話題を前号の本欄で取り上げた。「週刊文春」16日号では、全国を飛び回る安西氏の1週間に密着している。このうち、北海道での日程をみていこう。

 静岡県三島市と千葉県館山市を訪れたのち、11月22日に空路で札幌入りした。〈政務次官として出先機関の北海道開発局職員に新任挨拶をするためだ。千歳空港に開発局次長が出迎えに来ていて、そのまま新聞社など挨拶回り〉

 艶やかな和服姿で、開発局ではビル清掃の女性たちの視線を集めた。札幌の本局にいる約800人の職員のうち、600人以上が講堂に押しかけ、そこに報道陣も加わり、廊下まで人があふれる人気ぶり。前任の貞鳳氏のときより多かったという。

〈挨拶は、きわめて簡略。昭和25年に北海道開発庁が発足したその年、警察予備隊に招かれて全島をくまなく巡ったことがあると因縁を披露して、「大臣(福田一開発庁長官)からも、女性の持ち分を生かして、キメ細かな努力をするようにと申されておるわけでございます。一番小さな役所ではございますが、それだけにチームワークが大切、なにぶん、よろしくお願い致します」〉

 聴衆の数は上回ったものの、やはり話芸に長けた貞鳳氏のほうが話の内容は面白かったようだ。
 このあと、記者会見が行われたのだが、みな質問に窮してしまった。安西氏のボスである田中角栄の退陣が決定的という間の悪いタイミングだったからだ。

〈内閣総辞職、政務次官総辞職も予想されるわけで、実はこの日の札幌挨拶回りそのものが、前日に急遽組まれたスケジュール。政局がどうなるか分からない。新任挨拶もないまま政務次官を辞職ということでは、あまりにみっともない。そこで次週に予定していた挨拶回りを急に繰り上げ、本日参上したわけ〉

 そんな事情があったから、記者の質問も着物や歌の話題でお茶を濁すことに。それでもある記者から田中総理の退陣問題について感想を求められると、〈「やはり時代の流れというものを感じさせられますね」〉と歯切れが悪いコメントしか出なかった。

 道庁幹部との昼食会、さらに挨拶回り、グランドホテルで開発局幹部との夕食会と多忙なスケジュールをこなし、最終便で帰京。批判的な声は少なかったようだが、中には〈二代続いてのタレント議員、一番腹が立つのは田中角栄に対してですよ。年末を控えて忙しいのに、いつ首になるかもしれない新政務次官が来たのでは仕事になりませんよ。道庁としては、新政務次官に要望書を出す慣例になっているのですが、バカバカしくてやってられない、職員はそう言ってますよ」〉といった憤懣も。安西氏個人うんぬんよりも、北海道は舐められているとの不満があったのだろう。

 安西氏は大分県の日田市と佐伯市、愛知県名古屋市と碧南市と回ったが、これらは党婦人部長としての仕事だった。そして、密着最終日の11月26日、ついに田中総理が辞意表明。注目されていた処遇は、三木武夫内閣でも留任となった。党本部での彼女に対する評価は、一部で“オンナ角栄”と称されるほど高かったという。

ハイセイコー引退の陰で躍った170億円

▲「週刊新潮」’74年12月26日号

 1974年は球界と競馬界のスーパースターが引退し、多くのファンが涙で別れを惜しんだ。球界は長嶋茂雄、競馬界のほうはハイセイコーだ。地方競馬出身の雑草が中央のエリートをなぎ倒す姿が老若男女に感動を与え、日本列島が空前の競馬ブームに沸いた。「週刊新潮」26日号では、有馬記念でラストランを迎えたハイセイコーを巡るフィーバーぶりを伝えている。

〈中年主婦族からもファンレターが届くという異常ブームを巻き起こしたハイセイコーが「有馬記念」を最後に引退した。そのせいか、レース当日の売上は百七十二億八千万円。「有馬記念」一レースでは百三十六億五千万円。むろん、史上最高の売上だ。中央競馬会はハイセイコー様々。ノミ屋も大もうけしたらしく、大阪では「五千万円」の現行犯が捕まる騒ぎだった〉

 誰もがハイセイコーが有終の美を飾ることを願っていたが、意外にも単勝オッズは3番人気。ファンは応援しつつも、力の衰えを冷静に受け止めていたのだろう。

 結果はタニノチカラ(静内カントリー牧場生産)に大きく離された2着。それでもスタンドからは、ライバルのタケホープ(浦河町・谷川牧場生産)に先着したハイセイコーに惜しみない拍手が送られた。ただ、ファンはともかく、テレビ中継のハイセイコー贔屓が過ぎた報道姿勢には疑問の声もあったようだ。

〈おかげで優勝したタニノチカラはかすみがち。中継したフジテレビは、終始ハイセイコーばかりを追い、レースが終わるや、増沢末男騎手が歌う『さらばハイセイコー』を流す〉

 スポーツ新聞の場合も、「ハイセイコーを1面トップに据えれば、2割以上部数が伸びる」といわれるほどの人気だったから、視聴率至上主義のテレビ局が勝っても負けてもハイセイコー中心で番組を作るのは当然といえるだろう。

 ちなみに、ハイセイコーが獲得したビッグタイトルは皐月賞のみ。典型的な「記録より記憶に残る」名馬であった。翌年1月6日に引退式を終えたのちは故郷の新冠町の明和牧場へ戻り、種牡馬としてカツラノハイセイコというダービー馬を輩出した。2000年に30歳で息を引き取り、翌年、「レ・コード館」の前に生前の功績を顕彰する銅像が建立され、いまなお多くのファンが訪れている。

張本、巨人入りの“攻防”

 日拓ホームフライヤーズを買収し、球界に参入した日本ハムファイターズは最下位に終わったが、低迷するチームのなかで、首位打者のタイトルを獲得するなど気を吐いたのが張本勲だった。しかし、球団(三原修社長、中西太監督)とは折り合いが悪く、中心選手でありながらトレードの噂が。「週刊新潮」26日号では、張本が仕掛けたストーブリーグの“戦い”を伝えている。

〈「オレを出したほうがチームのためになる」と、妙な居直り方をしている日本ハム張本だが、どうやら彼のネライは「巨人入り」にあるらしい。「長嶋新監督の下でプレーしたい」といい続けているのだ〉

 この年にユニフォームを脱いだ長嶋は、いきなり翌シーズンから指揮を執ることが決まっており、球界の話題は長嶋新監督で持ち切りだった。当時、巨人と日ハムでは、待遇、人気とも雲泥の差があったから、出世欲が強い張本が、「同じ後楽園球場でプレーするなら巨人で」と考えたのも無理はない。

 長嶋が抜け、戦力ダウンした巨人としても、ぜひ欲しいスラッガーではあったのだろうが、当の長嶋が張本を拒否していたともいわれていた。
〈ある情報通によれば、「長嶋は、張本の個人プレーを嫌っている。たとえ三割打者でも、肩の弱さ、チームワークを考えた場合、二割五分以下の打者と同程度としか評価していない」〉

 長嶋も派手なパフォーマンスが目立つ選手ではあったものの、根底にはフォア・ザ・チームの精神があり、張本のような「ワガママ」といったイメージはなかった。結局、張本の巨人移籍が実現しなかったのは、やはり長嶋の意向が尊重されたのだろうか。

 1975年シーズンも日ハムは最下位に甘んじた。張本はモチベーションが保てなかったのか、打率は前年の三割四分から二割七分六厘まで急落。成績不振の責任を取り、三原社長は娘婿の中西監督を解任せざるを得なかった。

 一方、長嶋新政権の巨人も、まさかの最下位という球団史上初の屈辱を味わった。この年のオフ、張本の巨人へのトレードが決まったのは、背に腹は代えられぬ、との苦渋の決断だったと思われる。

 新天地で張本は、三割五分五厘と復活した。しかし、これが張本にとって最後の輝きであり、以降は打率が下がり続け、巨人での4シーズンを経て、ロッテで2シーズンを過ごし引退した。
 晩年の4シーズンだけとはいえ、念願だった巨人の一員となることができ、悔いのない野球人生だったに違いない。

指名打者制は“好打拙守”の救済策?

▲「サンデー毎日」’74年12月1日号

 日本ハムファイターズ関連の話題をもうひとつ。「サンデー毎日」1日号が、日ハムと太平洋クラブライオンズが提案者となった「指名打者制」の是非について論じている。

〈太平洋の江藤は、打撃の迫力はいまだ衰えずだが、守備と足がからきしダメ。日本ハムも、シングルヒットを二塁打にしてしまう張本の守備に頭を抱えている〉〈「観客動員でセ・リーグに追いつけ」をモットーとするパ・リーグにしてみれば、ただでさえ「何か違うことを」という気分がある〉

 こうした背景もあって、他球団の監督も賛意を示していた。
〈「面白いことはドンドンやったらええ」(ロッテ・金田正一)、「ワシの寿命が五年ぐらい延びるわ」(南海・野村克也)、「非常にいい話で大賛成」(太平洋・江藤慎一)〉

 このうち、野村はすでに選手兼監督として活躍しており、江藤も翌シーズンから監督を兼務することが決まっていたので、打撃だけに専念したい2人にとっては“渡りに船”だったのだろう。トントン拍子に話がまとまり、導入が決まったのだった。ちなみに、指名打者第1号となったのは、日ハムの阪本敏三である。

 この指名打者制、1973(昭和48)年にアメリカン・リーグで「3年間のテスト期間」としてスタートしており、実績十分のベテランスター選手が息を吹き返すなど、それなりの効果を挙げていた。サン毎の記事は、〈「いつも三割打者が少ないセ・リーグのほうがやるべきだよ。そうすれば長嶋だってまだ引退することはなかったんだ」〉というスポーツ紙記者の声で結んでいるが、いまだセ・リーグで実現しないのは、巨人以外の5球団が「選手層が厚い巨人が圧倒的有利になる」との理由で反対しているためとされる。

 賛否はあろうが、打線に強打者が1人増えたことで、投手のレベルが格段に向上し、野茂英雄、松坂大輔、菊池雄星、ダルビッシュ有、千賀滉大、山本由伸らメジャーで通用する好投手を生み出したことは事実である。そして、指名打者制がなければ、大谷翔平の“二刀流”は成就しなかったはずだ。その大谷を育てたのが、制度の導入を訴えた日ハムというところに、野球のロマンを感じずにはいられない。

ハイジャック未遂の高校生

▲「週刊新潮」’74年12月5日号

 1970年代は、赤軍派によるハイジャックが相次いでいた。1970(昭和45)年3月、日本航空の「よど号」が北朝鮮に着陸し、犯人グループはそのまま亡命。1973(昭和48)年7月には、人質は解放されたものの、リビアで日本航空機が爆破された。さらに1977(昭和52)年9月にもダッカ日航機ハイジャック事件が起こり、日本政府は超法規措置として収監中だった犯人グループの仲間の解放に応じている。

 そうしたなか、「週刊新潮」5日号では、11月23日に岩内町の高校生が企図した、あまりにも稚拙なハイジャック未遂事件の顛末を報じている。

〈道立岩内高校二年生の少年A(16)は、日頃、クラスで一、二番を争う秀才で、北海道大学の文科系を目指して受験勉強中の身だった。その彼が、天体望遠鏡の筒をダイナマイトに見せかけて、全日空機の操縦席に押し入り、乗っ取ろうとしたのである。とても秀才少年とは思えぬ大胆な犯行だが、「巨人軍のキャンプで有名な宮崎を見て、北朝鮮へ行きたかった」と自供するなど、ひどく幼稚でアンバランスな面もみせた〉

 宮崎はともかく、北朝鮮を目的地に挙げたのは、冒頭で触れたハイジャック事件が関係しており、「社会主義国で日本より住みやすく、赤軍派の人たちもいるから、なんとかなるんじゃないか」と考えていたという。当時は情報が少なかったとはいえ、北朝鮮に憧れを抱くとは、かなり追い詰められた精神状態だったのだろう。

 異変の予兆はあった。
〈彼は犯行数週間前から家族と口をきかなくなった。学校から帰ると、自宅二階の六畳の勉強部屋に閉じこもったきり〉

 ふだんは8時間も勉強し、寝るのは夜中の2時、3時になることも。いわゆるガリ勉タイプであったが、母親はむしろそんな生活を心配しており、決して「教育ママ」ではない。父親は漁師で、年に数度しか帰宅せず、当然、勉強に関してあれこれ言うこともなかった。しかし、本人は「成績を落とせない」というプレッシャーに苦しみ、とうとう正常な思考ができなくなってしまったようだ。

〈自宅には校長あての「勉学に対する意欲を失いました。退学させてもらいます」と書かれた退学届があった〉
 2学期になって成績が伸び悩み、物理ではトップの座から陥落し、ショックを受けていたという。

〈加えて、彼は内向的な性格。友達もなく、趣味といえば文学全集を揃えては読書すること〉
 何でも話せる仲間がいれば、こんな愚行を思いとどまったに違いない。身柄を保護した東京空港署の係官はこう話す。

〈「原因は勉強のしすぎですね。自分一人で悩んで、それが高じて精神状態がおかしくなったのではないか。“捕まったら大学を受けるより刑務所暮らしのほうがラクだ”と話しているぐらいだから、よほど勉強から逃げたかったんだな」〉

 おそらく、北大受験は叶わなかったはずだが、その後、彼は学歴以外に人間としての価値を見出し、人生をやり直すことができたのだろうか――。深刻な少子化で“受験戦争”という言葉は死語となりつつあるが、それでも精神を病む若者が増えているのだから、よほど日本はストレスフルな国であるようだ。