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日本に9600頭もいる!野生グマ【1970年8月】

昨年もヒグマの目撃情報が相次いだ北海道。特に札幌市南区藤野の住宅街で約1週間にわたり徘徊した騒動は、最後にクマが銃殺されたこともあり、全国的に注目を集めた。1970(昭和45)年8月16日号の「サンデー毎日」では、日高山系で3人の学生が犠牲となった悲惨な事件を伝えている。ヒグマとの共存は北海道にとって避けては通れないテーマといえるが、人命重視と動物愛護の狭間で正解を導き出すのは難しく、いまなお当事者の悩みは尽きない。

警戒警報を知らずに……

福岡大学ワンダーフォーゲル部の5人が、夏季合宿のため、清水町御影から日高山系に入ったのは7月14日。竹末一敏さんをリーダーに、滝俊二さん、興梠盛男さん、西井義晴さん、河原吉孝さんの5人は、芽室岳からポンヤオロマップ岳を経て、26日に大樹町坂下に下山する予定だった。だが、縦走計画は大幅に遅れ、〈行動最終日の前日に当たるはずの二十五日朝に、ようやく予定の半分にも達しないエサオマントッタベツ岳にたどりついただけ〉という状況で、ここから運命が狂い始めていく。
〈予定コースは変更され、カムイエクウチカウシ山から、河西郡中札内村上札内に下山することに決めた〉〈予定を変更したころ、カムイ…付近を中心に、ヒグマが出没しているという情報があり、十勝地方山岳遭難防止対策協議会では二十三日付で、ヒグマ出没の警戒警報を出した〉
スマホもネットもない時代である。14日から山中を歩いていた5人が、そうした最新情報を知る由もなかった。
5人は春別岳から1キロ地点の九の沢カールでテントを設営。そこに突然ヒグマが現れ、テントの周囲を回り始めた。
〈驚いた五人は火をたき、ラジオのボリュームをいっぱいにあげた。食器もガンガンたたいた。クマは間もなく姿を消したが、五人は二時間ごとに交代で不寝番をして夜を明かした〉
初めてヒグマを目にした彼らの恐怖はいかばかりだったろうか。ここでの対応は冷静だったが、ヒグマが狙った獲物を簡単に諦めるはずがない。午前3時、出発の準備中に再びやって来た。
〈五人はバラバラと逃げ出し、河原、滝の両君が会った北海道学園大のパーティーに、ハンターが出勤してくれるようにたのんだ。午後七時、テントに帰ってみると、クマの姿はなく、残り三人がクマが破ったテントの修理をしていた〉
またも辛うじて難を逃れたものの、完全に恐怖心が植え付けられたに違いない。もはや退路はなく、下山するしかない5人は、見通しのいい尾根にはクマがいないだろうと考え、慎重にテントを張ったのだが、3度目の遭遇が待っていた。

▲「サンデー毎日」’70年8月16日号

一度二度は難を逃れたが

〈五人は荷物を捨ててカムイエクのほうに逃げた。二十分おきにテントを見に戻ったがクマはまだいる。五人がバラバラになって八の沢を下り始めたとき、「ギャーッ」という河原君らしい悲鳴が聞こえた。集合地点に決めたガレ場に集まってみると、河原君と興梠君がいない。竹末、滝、西井の三君は、必死にヤミに向かって二人の名を呼んだ。ほどなく興梠君から返事があり、近くにいることはわかった。だが河原君からの返事はない〉
 ガレ場で恐怖の一夜を過ごした3人は興梠君に呼びかけたが、今度はまったく返事はなかった。ついに牙を剥いたヒグマは、下山途中の3人をも襲った。
〈クマは竹末君の肩のあたりにかみついてきた。西井、滝の両君は、逃げながら振返った一瞬、竹末君がクマを突放し、沢の下にころげるように逃げていくのを見た〉
2人はどうにか逃げ切り、トラックに便乗して、27日午後5時過ぎに帯広署中札内駐在所に助けを乞うた。翌日、北海道猟友会帯広支部の山本貢さんが率いるハンター、警官など20人以上のグループが捜索を開始。しかし、待っていたのは悲しい結末であった。
〈下着もすっかりはぎとられ、顔までメチャクチャにされた河原君の遺体を見つけた。そこから百五十メートル離れたところで、これまた無残に痛めつけられた竹末君の遺体が見つかった〉
3人の命を奪ったヒグマは貪欲だった。山本さんらハンター5人が、河原君の遺体収容を始めたところ、またまた近寄ってきたのだ。しかし、血の海に倒れたのは、今度はヒグマのほうだった。そして、クマが死んでいた場所の近くで、興梠君の遺体も発見された。
〈仕留めたクマは、体重百キロ前後。ヒグマとしては小さいほうである。そのツメには、人間の脂肪が詰まり、明らかに三人を殺したクマだった〉
北海道大学の犬飼哲夫名誉教授は〈「一度、なにかの食べ物がおいしくて、味をしめると、どこまでもついてくる。よほどなにかの動機がないと、食べ物を変えない。こんどの場合にも、はじめにテントを襲われたとき、食糧を捨てて逃げていればよかったと思います」〉と話したが、人肉の味を覚えてしまったヒグマに付け狙われた学生たちは不幸だったとしか言いようがない。
〈日本にいる野生のクマは、別表のように九千六百頭という(林野庁調べ)〉とあるが、その別表をみると、北海道(3000)がダントツである。凄惨な熊害(ゆうがい)といえば、古くは1915(大正4)年に苫前村で7人が餌食となった「三毛別事件」が有名だ。この史上最悪の事件は、のちに吉村昭の小説『羆嵐』でも描かれた。
冬眠前の9・10月は人身被害が急増するといわれている。コロナ禍に苦しむ人間同様、ヒグマも「ステイホーム」してくれるといいのだが。

万国博―北海道

大阪で開催中だった万博へは、北海道からも多くの人が訪れていたが、夏の繁忙シーズンに「船旅」という選択肢も加わった。「週刊朝日」21日号が、舞鶴―小樽間に就航したばかりの「すずらん丸」を紹介している。
〈この新日本海フェリーの新造船「すずらん丸」(九三〇〇トン)、全長六十メートル余に幅二十六㍍余と、とにかく、でかい。千二百人の乗客と二百五十台の自動車を乗せて、最高二十二ノットで走る〉
週2便の運航で、所要時間は舞鶴発の北行きが30時間、小樽発の南行きが26時間。4時間の差は、北行きのみ敦賀に寄港するためである。現在、就航している「はまなす」「あかしあ」(毎日運航)は、北行きが20時間55分、南行きが21時間45分だから、この半世紀でかなりのスピードアップを実現したわけだ。
〈なんにもなく、だだっ広い上部デッキは、草野球ができるほどの広さ。ネットを張りめぐらしてゴルフの練習もできるようにするとか〉
写真をみると、確かに広く、海風を浴びてくつろぐ人たちも気持ちよさそうだ。これぞ船旅の醍醐味といえよう。
〈敦賀で満パイになった船倉には、近畿、中国はもちろん九州ナンバーの車までみかけられ、八月いっぱいは予約でほぼ満員とのこと。折返し小樽からは、万国博行きの団体バスがくりこんだ〉
同航路だけではなく、フェリーの旅はちょっとしたブームになっており、この年の6月には、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーの運航も始まっていた。 長引くコロナ禍でフェリー業界も苦境に立たされているが、海も空も陸も人々が安心して移動できる状況が一日も早く戻ることを願ってやまない。

▲「週刊朝日」’70年8月21日号

万博展示館の人気順位

3月15日から9月13日まで開催された大阪万博は、連日、大行列ができるほどの人気ぶりで、入場者数は当初予想の5千万人を大きく上回る延べ6421万8770人を記録した。「週刊現代」20日号では、閉幕まで残り1ヵ月の時点で、どのパビリオンが最も多くの人を集めたのかランキングを発表している。
〈①ソ連館、②アメリカ館、③日本館、④カナダ館、⑤三菱未来館、⑥オーストラリア館、⑦ブリティッシュ・コロンビア州館、⑧富士グループ・パビリオン、⑨ニュージーランド館、⑩スイス館、オランダ館〉
これは、外国人入場者にアンケート調査を行った結果から割り出したベストテンである。ホスト国でありながら、「日本館」が米ソ二大国の後塵を拝したのは残念だ。このほか、各館の入場者数を元にしたベストテンもあり、こちらは日本人も含まれる。
〈①ソ連館、②アメリカ館、③三菱未来館、④日本館、⑤カナダ館、⑥みどり館、⑦松下館、⑧フランス館、⑨スイス館、⑩古河パビリオン〉
順位に変動がみられるが、ここでも「ソ連館」の強さが目立つ。しかも、2位の「アメリカ館」を寄せ付けないダントツの1位だから、万博を舞台にした米ソ対決はソ連の圧勝といえるだろう。千葉大学の清水馨三郎教授がこう分析する。
〈「ソ連館は建物が上にのび、そびえているという印象で、新幹線で大阪に近づいても、まずソ連館が目に入ります。ソ連が国をあげて万国博にのぞんだのに対し、アメリカ館の月の石やアポロ関係もしょせんは二番せんじ。力の入れかたの差が、人気度の差にあらわれるのでしょうね」〉
国内のパビリオンでは、「三菱未来館」の健闘が光った。平均2時間待ちで、1日の最高記録は7万9千人。開幕前の評判はそれほど高くなく、万国博協会関係者も「予想外の大混雑」と驚きを隠さなかった。
〈太陽の光と陰を象徴する曲線と直線で構成され、内部は「日本の自然」「日本の空」「日本の海」「日本の陸」「あなたも参加する」の五つの展示室を動く歩道で案内するしくみ〉〈「未来といっても、五十年後までに実現可能なものに限りました。展示は字句による説明は付けず、説明がなくてもわかる模型、それも動くものが中心です。だから疲れず楽しく見られるわけで、人気を高めた原因になったと思います(三菱未来館広報担当・中西正一氏)〉
わけのわからない音楽や映像など、派手な演出に頼るパビリオンが多いなか、シンプルさを追求した点が広く支持されたようだ。
2025年の大阪万博では、どんなパビリオンが登場するのだろうか。コロナに打ち勝った人類の叡智の結晶をみたい。

▲「週刊現代」’70年8月20日号

元・選手村異変

本誌特集で、当時の週刊誌から56年前の東京五輪を振り返る記事を掲載しているが、「週刊新潮」1日号では、選手村のその後を取り上げている。
〈寝袋をかついだ女の子の横を、ショートパンツにハダシの男の子が駆け抜けて行く……。東京・代々木の元オリンピック選手村。いま名前を変えてオリンピック記念青少年総合センターに。ふたたび世界の若者たちの笑い声が響き合っている〉
12ある宿泊棟のうち、1棟が3年前からユースホステルとして使われていた。宿泊者のほとんどは、〈1泊300円(プラス夏季料金100円)。シーツ使用料が100円〉という安さに魅かれ、いわゆる“貧乏旅行”で万博見物に来た外国人の若者である。
〈「昨年の八月には個人の宿泊が約千人。ことしはその三割はふえそう」〉と話すのは、ユースホステルのフロントスタッフだ。
彼らは万博だけではなく、箱根、日光などの観光地にも繰り出す。さらには生け花や茶道体験も。〈ハダシで買物に出たり、横断禁止の道路を駆けて渡ったり、夜おそくまで花火を鳴らしたり……。あまりのウルサさに、地元民が一一〇番を呼ぶ一幕もあった〉が、お茶目な行動に寛容な時代でもあり、その若いパワーは好意的に受け止められていたようだ。
2020年東京五輪の選手村として使用予定の「晴海フラッグ」。こちらは一般向けに販売されることが決まっているが、はたして「元・選手村」というプレミアがつくかどうか――。

▲「週刊新潮」’70年8月1日号

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