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夜のキャンプに性教室が大流行

 プロ野球は本格的なキャンプシーズンを迎えているが、3年目の新庄日ハムの飛躍が期待される。キャンプ中は、つい夜に羽を伸ばしたくなる選手もいるだろうだが、豪傑揃いだった半世紀前と比べれば、全体的に品行方正といえるだろう。1974(昭和49)年3月7日号と21日号の「週刊現代」では、1年目のシーズンに臨む日本ハムファイターズの話題を取り上げている。どちらもファンからすれば「やれやれ……」といった内容だが、娯楽記事としては、なかなか楽しい。

監督失格を囁かれる荒川、中西

▲「週刊現代」’74年3月7日号

 まずは7日号から。各球団は冬でも温暖な、鹿児島、宮崎、松山、高知、浜松などで汗を流していたのだが、〈若くて金のある連中が“心身鍛錬”というのだから、プロ野球、“夜のキャンプ”は花盛り〉というお楽しみがあったようだ。

 そのなかでも、現代の記事は〈「やはり一番スゴイのは道後温泉をひかえる松山の日本ハムでしょうね。張本、大杉、大下、白……と“夜の巨砲”そろいのところへもってきて、球場への往き帰りに女たちが選手をつかまえて、話をまとめてしまうんだから」〉という番記者のコメントを載せている。

 張本勲、大杉勝男、大下弘、白仁天といえば、球界きっての暴れん坊として知られていた。

 番記者はこう続ける。
〈「首脳陣はやっきになって、毎晩、“鉄カブト”のかぶせ方から病気の初歩的な診断法まで、そのものズバリのセックス・ミーティング。それでももう、三、四人が名誉の負傷をしたとかで、“定期検診”をやらねばという話まで持ち上がっています。三原修社長がキャンプ方針で打ち出した“徹底守備”の強化とは、ハハーンこのことかと、いまになって気付きましたよ」〉

 なんともうまい表現で、手練れのベテラン記者がまとめたような気がしないでもないが、実際、夜のお誘いが多かったことは確かだろう。
〈まして四国といえば、三原─中西親子内閣の郷里。「ワタシャ、ハッスルするぞな、もし」と、道後温泉芸者の間では、“日本ハム選手割引”という廉価出血サービスまであるのだそうな〉

 文中の三原─中西親子内閣の郷里というのは、中西太が三原修の長女と結婚し、社長に就任した三原が、その縁で中西を監督に引っ張ったのである。ともに香川出身の同郷であった。
 その親子関係の弊害を指摘しているのが21日号の記事だ。
〈「いまだに乳離れができないんだね。オープン戦の指揮まですべて三原サンが切り回している。ある試合で山根、鈴木コーチを怒鳴りつけたのは三原サン。そのとき中西は、こんどはオレの番かと思ってか、首をすくめてオドオドしているありさま。あれじゃ選手もバカにしますよ」(ある評論家)〉

 名将として輝かしい実績を残し、義父で社長でもある三原に、頭が上がらないのは当然といえる。ただ、これは縁故で監督を決めた三原の責任も大きかろう。実際、この年の日ハムは最下位に沈んだ。
 ヤクルトの新監督になった荒川のほうの悪評は、怠慢と悪口、自慢が目に余ったからだった。

 番記者は呆れた様子でこう語る。
〈「キャンプ中、荒川ほど何もやらなかった監督もちょっと珍しいだろうね、やったことといえば、評論家や担当記者を相手に終日ダべっていただけ。それも『川上さんは確かに打撃の神様だが、打つことがうまかっただけで、教える神様じゃない。王、末次、黒江などオレが育てなければ巨人はいまごろガタガタだよ』とか、『どこへ行っても三原さんは苦労するよなあ。あんな肥満児(中西のこと)を抱えているんじゃ』とか、川上、三原の悪口ばかり」〉

 肥満児とは、ひどい言われようだが、最下位の日ハムに対し、ヤクルトは3位に健闘したのだから、監督としての手腕は荒川が勝っていたのだろう。
 結局、中西は2年連続の最下位で監督を解任されたが、新庄剛志監督も3年連続最下位で……とならぬことを期待したい。

無風地帯になぐり込む青嵐会

▲「サンデー毎日」’74年3月3日号

「サンデー毎日」3日号が、参院選特集のなかで「無風地帯になぐり込む青嵐会」と題し、高橋辰夫道議の動向にスポットライトを当てている。

〈通称“辰っちゃん”を商標に売出し中の北海道議会議員。昭和三年生まれで二十八年中央大学を卒業すると同時に、同郷の先輩、篠田弘作代議士を頼り、秘書となって十一年、親分の全面的な支援を受けて三十八年、三十四歳の若さで道議会議員に初当選〉

 その篠田氏との師弟関係に歪みが生じているとして、道議仲間がこのように背景を説明する。
〈「“辰っちゃん”が国会への道を求めるのは、親分の篠田代議士がなかなか跡目を譲ってくれそうもないから。それどころか、意中の人はどうも別。それをいち早く感じ取ったんじゃないかな」〉

 高橋氏が参院選出馬を相談しても、篠田氏は頑として首を縦に振らなかった。それでも強気な態度を崩さなかったのは、当時、勢いを増していた青嵐会がバックについていたからだ。
〈青嵐会の代表格である中川一郎大蔵政務次官は、北海道五区出身。青嵐会が大平外相を目のカタキにするのも、かつて中川氏の選挙地盤に、大平派が元道副知事を無理やり押しつけ、当選させたといういきさつも噂される。現職の参院議員で、高橋道議が当面の敵とする西田信一氏は、れっきとした大平派。それだけに中川─高橋ラインの結びつきは強固そのもの〉

 つまり、高橋氏と西田氏の争いは、大平vs中川の代理戦争でもあったわけだ。
 前年8月の自民党公認発表で現職2人が選ばれ高橋氏が漏れると、中川氏以下6人の青嵐会メンバーが「高橋辰夫を励ます一万人集会」を開催し、「青嵐会が公認する」と激励した。これに気をよくした高橋氏は、前代未聞の“1万円パーティー”を開き、周囲を驚かせたのだった。

〈田中首相が幹事長時代に、札幌でこの種のパーティーを開いても、最高五百万円ぐらいだったといわれるのに、「私は千七百五十万円集めた」と誇る高橋道議は、この資金をもとに、いまや札幌のど真ん中、七階建てビルの五階に引っ越し、手足となって動き回る事務員の数も、二十数人と大所帯〉
 当時から、パーティーが重要な資金源となっていたことがうかがえる。

 参院選北海道地方区は定数4で、これまでは自民と社会が2ずつ分け合う完全な無風地帯だった。ところが、この年は、自民現職の西田氏と河口陽一氏、社会党の吉田忠三郎氏と対馬孝且氏、共産党の小笠原貞子氏、公明党の相沢武彦氏、これに青嵐会が推す高橋氏が加わり、7候補が火花を散らす大激戦区となったのである。

 こうした状況に、高橋氏は〈「私はね、共産党とトップ争いをするんだ。党の公認があれば、こんなことはラクもラク。だいたい、年寄りは若いものにバトンタッチするのが義務というものですよ」〉と、44歳の“若手”は意気軒高であった。「年寄り」というのは、篠田氏に対する精一杯の皮肉だろう。

 記事は〈「九〇㌔を超す巨体。童顔。現職公認組をカリカリさせながらのフン戦である〉と結んでいるが、選挙は威勢のよさだけでは如何ともしがたく、最下位に終わった。結果は全国区の知名度を誇っていた小笠原氏がトップ当選。以下、対馬氏、吉田氏、相沢氏と続き、自民は全滅という最悪の結果に。高橋氏の参戦で自民票が割れたことが敗因か。

 その後の高橋氏は、次回の参院選で雪辱し、1996(平成8)年に鳩山由紀夫氏に惨敗して引退するまでに当選5回を重ねた。2001(平成13)年、72歳で死去。橋本聖子氏は義妹に当たる。
 一方、政界に新風を吹き込んだ青嵐会は、紆余曲折を経て1979(昭和54)年に消滅した。その評価はさておき、現在の自民党にはこうした血気あふれるグループがおらず、それが今般の根深い腐敗の一因になっている気がしてならない。

泣けるじゃありませんか この店あの店

▲「サンデー毎日」’74年3月17日号

 原材料費や人件費の高騰で、外食もすっかり高くなってしまった。ワンコインランチで節約に努めてきたサラリーマンは、さらにお小遣いを減らされたのではなかろうか。

 オイルショックによる物価高騰が庶民の台所を直撃していた半世紀前も、外食の値上がりが顕著であったが、そうしたなかビックリ激安価格で頑張る全国の店舗を「サンデー毎日」17日号が特集している。
 なぜか北海道は、東京、大阪よりも多い6店舗。すべて札幌のお店で、まずはコーヒーショップ2軒を取り上げている。

〈2杯分のジャンボコーヒーがなんと100円。札幌市中央区狸小路7丁目「舶来屋」店主の清水庫太郎さんが直接コーヒーをいれてくれる〉
 写真をみると、カウンターだけの渋い雰囲気で、ついつい長尻になりそうだ。狸小路は特に変遷が激しく、こうした昔ながらの店舗が次々と消えてしまったのが残念である。

〈札幌市中央区南2条西2丁目のパーラー「トッカリ」では、女性客に限りコーヒー1杯10円のサービス〉
 トッカリとはアイヌ語でアザラシのこと。たった10円でコーヒーが楽しめるとあっては、おしゃべりが止まらなかったに違いない。「パーラー」という言葉も、最近はすっかり目にしなくなったが、駅前通りにある1961(昭和36)年に開店した「雪印パーラー」札幌本店は、いまも健在である。

〈札幌市中央区北1条西3丁目の北屋商店では、1個20円のパンと5食分の食パンを100円で売っている〉
 50年前とはいえ、5食分のビッグなパンが100円というのは安い。だが、安さでいえば、もっと驚きの店が。

〈「これからも10円ずしを続ける」と語る八千代寿しの高橋正さん。この店は札幌市中央区南3条西5丁目にある〉
 20貫の握りがなんと200円。画質の悪いモノクロ写真でネタの詳細はわからないが、ちゃんと魚の切り身が確認できる。何でも相場が高めのすすきのに、こんな格安店があったとは。サン毎の記者は「うそみたい」と結んでいるが、まったくもって同感である。

〈札幌市北区北23条西5丁目のパーラー「鳥政」では日本酒1杯50円。安いヤキトリをサカナに飲めるので、いつもサラリーマンでいっぱい〉
 北24条エリアは、かねてから安くてうまい店が多い穴場として知られていた。「赤ちょうちん」との形容が似合う、昭和レトロな焼き鳥屋が懐かしい。

〈札幌市中央区北1条西3丁目の「かど屋」では、うな丼1杯300円。もちろん肝吸つき。ひる時になると逢沢支配人がみずからプラカードをもって呼びこみに懸命〉
 1957(昭和32)年、すすきので創業した「かど屋」。支配人がプラカードを掲げている場所は時計台の前だが、これは創業の翌年にオープンした2号店だ。その後、多店舗を展開した「かど屋」の旗艦店として人気を集めていたが、2004(平成16)年に閉店となり、現在はすすきの店だけが営業を続けている。ちなみに、300円のうな丼は1980円となった。

 東京の店もひとつだけ紹介しよう。
〈東京・西浅草の「染太郎」に行けば、50円でお好み焼きがたべられる。おかみさんは開店以来39年のキャリア〉
 1937(昭和12)年創業の「染太郎」は、多くの文人に愛されてきた名店だ。坂口安吾は常連客のひとりで、高見順は代表作『如何なる星の下に』の中でこの店のことを詳しく描いている。現在も西浅草の中通りで異彩を放っており、古風な店内に足を踏み入れれば、時代がタイムスリップしたような感覚に襲われる。

土佐の高知の新線さわぎ

▲「サンデー毎日」’74年3月24日号

 いまや地方のローカル線は、北海道以外でも多くが廃止の危機に瀕している。半世紀前はすでに国鉄の斜陽期であり、巨額な赤字が問題視されていたが、そうしたなか非常に珍しい新線開業の話題があった。「サンデー毎日」24日号が、高知県の予土線開業の様子を伝えている。

〈国鉄宇和島線の終点だった高知県の江川崎と、中村線の若井を結ぶ予土線が3月1日開通した。当日、“感激”の発車式が行われたことはもちろんだが、処女列車は途中の駅でも住民の熱狂的な歓迎を受けた。四万十川沿いの山間を縫う車窓に目を向けた乗客は、さすがに感無量といった面持ちであった〉

 写真をみると、大きく「祝」と書かれた旗を振る人たちが沿線を埋め、過疎地帯に思いがけず通った鉄道に対する喜びが伝わってくる。新線区間の駅は6つ。このうち、「半家」(はげ)というユニークな名前の駅は、よく留萌線の「増毛」(ましけ)とセットで注目されたのを思い出す。

〈予土線は国鉄が愛媛県南部と高知県西部の観光促進、沿線の森林資源開発という一石二鳥をねらって建設した鉄道だ。この開通でこれまで交通不便だった沿線住民は大きな恩恵を受けるわけだが、なにしろ過疎地帯の真っただ中を通る路線だけに、赤字になることは必定〉
 建設費用は約97億円であり、当然、批判的な声も少なくなかった。「親方日の丸」のコストカットにシビアではなかった時代とはいえ、よく開業できたものだと思う。

 現在の予土線は、慢性的な赤字に苦しみながらも、爽快なトロッコ列車や、マスコミでしばしば紹介されている「ミニ新幹線」(初代新幹線車両を模した遊び心あふれる珍車両)を走らせるなど、当初の目的である「観光促進」の面では大いに奮闘している。四国一の絶景を有する強みを発揮しており、こうした前向きな取り組みは、予土線に負けない絶景路線が目白押しだったJR北海道もできたはずだ。

 いつか楽しい観光列車に揺られ、四万十の清風を感じてみたい。

煙も見えず音もせずSLホテルの高イビキ

▲「サンデー毎日」’74年3月10日号

 高知県の鉄道の話題をもうひとつ。「サンデー毎日」10日号が、中村駅でオープンした国内初のSLホテルを紹介している。
 中村は、予土線が分岐する若井から50分ほど。「土佐の小京都」と称される古い街並みが残り、足摺岬の拠点となる観光地である。

〈このSLホテルは、国鉄四国総局が地元中村市と相談して、足摺宇和海国立公園への観光客誘致を目的に考えついたという〉
 2両の客車を従えた姿は威風堂々。ちびっ子たちが嬉しそうに群がっている光景が微笑ましい。

〈「SLはC11型機関車で昭和13年から石巻線などを走り、昨年11月に廃車になった。走行距離は165万㌔になるという“老雄”である〉
 客車のオハ61型もまた前年の6月まで四国内を走っていたものだが、座席は撤去され、すっかりホテル仕様に様変わりしている。

〈中は2段ベッドの個室4、8畳敷きの客室兼娯楽室と、それに個室が5、ほかに会議室、事務室があり、40人が宿泊できる。運営は中村市観光協会が当たるが、宿泊料は1人1000円〉
 騒音も振動もなく快適そうだが、ファンは逆に「物足りない」と感じたかもしれない。このSLホテル、人気は長続きせず、6年後の1980(昭和55)年に解体されてしまった。

 中村ののち、各地でSLホテルがブームとなり、北海道では深川、日高、狩勝高原(旧新内駅)にお目見えしたが、やはり短命に終わっている。最後まで頑張っていた小岩井農場(岩手県)のホテルも2008(平成20)年に閉鎖となり、国内からSLホテルが完全に消滅した。古い車両の保守管理が大変なうえ、あまり高額な料金は設定できないため、収益を維持するのが困難なのだろう。

 もうSLホテルは体験できないが、2022(令和4)年春、北斗市にオープンした寝台特急「北斗星」の機関車と客車を利用したホテルは、いつまでも健在であってほしいと思う。

なぜか似ている主役たち

▲「週刊朝日」’74年3月22日号

 実在する人物を映像化する場合は、本人のイメージを損なわぬよう腐心するものだが、「週刊朝日」22日号では、話題作の見事なキャスティングを紹介している。

〈政財界“奥の院”の汚辱にまみれた人間ドラマを描いた「華麗なる一族」と、“冬の時代”に虐殺されたプロレタリア作家の生を描いた「小林多喜二」が街で人気を呼んでいる。この対照的な作品に共通するのは、そのモデルたちの“そっくりショー”。スチールにしてしまえば、たいして似ていないという声もあるが、映画の中での立ち居振る舞いは“そっくり”〉

 ただ、多喜二を演じた主演の山本圭は、あまり似ていなかったのか、このグラビア特集には載っていない。しかし、芥川龍之介(日恵野晃)、多喜二に励ましを与えた蔵原惟人(原田一雄)は、なかなかいい雰囲気を醸し出している。
『小林多喜二』のキャストは脇役陣も豪華で、中野良子、北林谷栄、鈴木瑞穂、長山藍子、下條正巳、地井武男、ナレーターを務めた横内正など、その後、映画・ドラマで活躍した名優が少なくない。

 作品の完成にあたり、劇中にも登場する共産党の重鎮・蔵原と宮本顕治は、それぞれ〈「多喜二は殺されたが、彼は私たちの心の中に今も生きつづけている」〉〈「地下活動の日々は、明日の我が身がわからない緊張の連続だった。私たちは二十代の青年だったが、『どんな拷問にも白紙』と誓い合った」〉と、感慨深げにコメントを寄せている。

 この作品はなんと2018(平成30)年にDVD化されており、当時は「奇跡の復刻」と話題になった。その10年前には、代表作『蟹工船』が一大ブームとなり、現代リメイク版の映画も制作されている。『蟹工船』は1929(昭和4)年に『戦旗』で発表された作品だが、平成の世に注目された背景には、派遣切りやワーキングプアといった社会の閉塞感があった。当時、ブームの影響で、共産党の機関紙『赤旗』の部数も急伸したという。

『華麗なる一族』のほうも簡単に触れておこう。佐藤(栄作)が佐橋、福田(赳夫)が永田など、微妙に名前が変えられているのだが、「最も似ている」と評判だったのが「佐橋総理夫人」を演じた、『蟹工船』にも出演している北林谷栄だ。写真をみると、確かに瓜二つである。

 佐藤栄作といい、田中角栄といい、良くも悪くも、あの頃の政治家には映画化したくなるような個性と存在感があった。翻って、最近の自民党の面々では、出来の悪いコントにもならないだろう。