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みなさんはご存じない和田教授心臓移植の無謀【1970年6月】

1968(昭和43)年8月8日、札幌医科大学付属病院で行われた日本初の心臓移植手術は一大センセーションを巻き起こし、執刀した和田寿郎教授は一躍、時の人となった。しかし、83日目にリューマチ性心弁膜症だった宮崎信夫君(18)が「タン詰まりによる急性呼吸不全」が原因で死亡すると風向きは一変。手術の是非など、さまざまな疑義が噴出することとなった。1970(昭和45)年6月4日号の「週刊現代」では、医事評論家の石垣純二氏が詳細な調査に基づく新事実を列挙し、「世紀の大手術」の秘められた真相に迫っている。

私の危惧はすべて的中

8月8日に心臓移植手術が行われたのち、石垣氏は同月25日の朝日新聞「声」欄に以下のような投書を寄せていた。かなりの長文なので、一部を要約して紹介しよう。
〈前略 厚生大臣または医道審議会長は、当分この手術を禁止するために必要な処置をとるべきである。その理由は、①脳波停止は“後戻りのない死”ではないから、これをもって死の判定基準とするには、あまりにも未解決の点が多すぎる。③提供者の意志に関係なく心臓をとり出すことは、本人の基本的人権の侵害である。④手術点数が健保に規定されていないから、全額自己負担となる。その能力がある者はまれだから、欲求不満が高じて社会問題となろう。⑨移植の成功が心臓外科手術のブームを呼び、不必要手術横行のおそれがある。⑩提供者と受給者のアンバランスが謝礼問題をひき起こし、事実上の売買となるおそれ。⑫いまの大学医局のような閉鎖社会で、死の客観的で公正な認定が可能かどうか〉――というもの。
この投書を記した時点では、〈新聞報道ていどの知識しか持っていなかった〉という。が、宮崎君が死亡したのち、和田教授をはじめ、最初の主治医である内科の宮原光夫教授、病理学の藤本輝夫教授ら関係者が次々と論文を発表するに至り、〈それらを通読して、この手術のおどろくべき真相がすっかりわかってきた〉〈しごく単純明快な事例で、札幌地検が何人かの学者に鑑定を依頼するような複雑な学術的な問題でもなんでもない〉と結論付けている。その論拠をみていこう。
石垣氏はまず、宮原内科から和田外科に転科した宮崎君に対する所見について疑問を呈している。転科時の病名は僧帽弁閉鎖不全兼狭窄症(心臓弁膜症の一種)。〈和田教授は、三尖弁症の症状らしきことを日本医事新報に記しているが、宮原教授は「何かのまちがいであろう」とキッパリ否定された。同じ患者の所見がこのような単純な症状について、こうも食いちがうとはまったく奇怪である〉と指摘し、藤本教授の〈「三尖弁には……器質的な閉鎖不全の所見はなかった」〉との言葉を引用したうえ、〈要するに三つの弁全部が故障という和田主張は根底から崩れ去ったのである。初歩的な診断点で、宮原教授のような心臓病の専門家が誤診するはずもない。三弁故障説は心臓移植をしたいばかりの和田教授の作りごとではなかったかと私は思う〉と厳しい見方を示している。
〈「タンが詰まったといっても、ほんの短い間だった。不運が重なったとしかいいようがない」〉
この和田教授の記述にも、石垣氏は疑惑の目を向ける。
〈死後一時間四十分して行われた病理解剖によると、遺体は全身の関節に死後強直がおきており、明らかに死後七、八時間を経過していた。さらにタンののど詰め死と発表されたけれども、窒息死の所見がまったくなかった。いや驚くべし、腹膜腔に大量の膿汁が溜まっており、化膿性胸腹膜炎の所見だったのだ〉〈宮崎君の胸腹膜炎はずっと前からわかっていたのである。札大の中央検査部が、宮崎君の腹水から緑膿菌を検出して、腹膜炎の発生を和田外科に警告したのが移植手術後十三日目である。それを世間にひた隠しにして順調な回復、手術成功と世間に演出しただけのことだ〉
和田教授は手記の中で、山口義政君(21)の回復が絶望的になった瞬間(0時30分)、宮崎君のことを思い出した、と回想している。溺死した山口君は、心臓のドナーとなった人物である。ここでも石垣氏は矛盾点を突き付ける。
〈『小説・心臓移植』の取材のために詳細の調査をされた渡辺淳一博士(当時札大形成外科講師)の話によれば、五時間半も前の午後七時に血液銀行に宮崎君の血液型AB型の血液二〇〇〇CCが申し込まれ、午後十時三十分には山口君のご両親に心臓移植の承諾を求めている。この食いちがいをどう説明したらよいのか〉
「事実は小説よりも奇なり」。結局、和田教授は「殺人罪」で告訴されることとなったが、札幌地検は証拠不十分として不起訴処分との判断を下した。今となっては真実は闇の中であるが、2人の青年の死が医療界に大きな財産を残したことだけは確かであろう。

▲「週刊現代」’70年6月4日号

「わが家にマラソン爺さんあり」

東京五輪のマラソン開催地となった札幌市。だが、祝福ムードも束の間で、コロナ禍の影響により来夏への延期が決まった。ウイルスとの長い戦いは、文字通りマラソンレースとなりそうだが、一日も早くランナーが安心して走れる環境に戻ってほしい。
「週刊文春」8日号では、福島県の小さな町に忽然と現れた、ひとりの老マラソンランナーの活躍を伝えている。御年70歳の篠崎勝治さんが、5月17日にスウェーデンで開催された第3回国際壮年ロードレースのシニア部門(70歳以上、ハーフマラソン)で、見事、優勝を飾ったのだ。〈「旧渡利村の時代からいまだかつて特別な産物もエライ人も出たゴトねえす」〉と住民が口を揃える、人口1万2千人余りの静かな町は一躍脚光を浴び、官民挙げての大騒動となった。
渡利体協会長の丹治俊介氏は、興奮した様子でこう話す。
〈「歓迎会については、渡利地区のメンツにかけてやるようになるんじゃないスか。いまやあの方は単に“渡利の篠崎”ではなく“世界の篠崎”になったというわけです。いまに“元気モリモリハツラツのマラソンじいさん”ちゅうことでクスリの宣伝に使われるかも知れないんス。ワッハッハ」〉
が、町民のフィーバーぶりとは対照的に、当の篠崎さんは〈「おそらくドイツのケルン郊外の十五キロレースに出場してから各地を見物、六月三日に帰国の予定」(関係者)〉というから恬淡としたものだ。妻のしゅんさん(68)も悠揚迫らぬ態度で、取材に訪れた記者に対し、〈「本人が帰らんうちに喜んだりするのは恥ずかしいこと」〉〈「そんなにあわててメモをとる必要なし。いまゆっぐりしゃべってやっから」〉などと話し、女系家族(娘4人と孫娘10人)の長たる貫録を示したのだった。
篠崎さんがマラソンを始めたきっかけがまた面白い。
〈「六十二歳のとき自転車に乗っていて車に追突され、そのとき自分の足がいちばん信用できるというんで走りだしたんです」(四女・正子さん)
そう決心するや自転車はすぐ知人に譲り、以来、毎朝5時半に起床し、裏山を駆けのぼるのが日課となった。なかには篠崎さんに触発され、一緒に走る高校生までいたのだが、篠崎さんの“強心臓”についていけずダウンしたという。ランナーデビューは遅かったものの、当時から才能の片鱗をみせていたようだ。
元同僚だった県出納局長の青山憲一氏が、篠崎さんの素顔を明かす。
〈「戦前は市町村会の事務局長をしたエライ人だったんですが早くから隠退して悠々としていましたな。禁欲的なスポーツマンタイプじゃなくて、酒もあびるほど飲むし、タバコも指が焦げるまで吸う。オリンピックで強化合宿などといってたくさん金をかけ、バタバタ負けてくるのに、あの方は堂々と自分の金で参加して優勝してくるんですから。ナゼああいう人に金を出さないんでしょうかね」〉
多くの人が快挙を称える一方で、一部には〈「三人でハスっていちばんだったんじゃねえのか」〉と小馬鹿にする口さがない人もいた。が、あの金栗四三に才能を見出され、由緒あるボストンマラソンに優勝し、ヘルシンキ五輪代表にも選ばれた山田敬蔵氏(42)は、前年に自身も同レースに参加した経験を踏まえ、そうした声を否定する。
〈「昨年は参加者三百五十八名。うち七十歳以上は七人。ことしはハッキリしないが、ずっと多いハズですよ。参加する外人はかなりの老人でもまだキックが強く、体が浮くんですよ。そんな人と競走して優勝するんだから、やはりたいしたものですよ」〉
そして、こう続ける。
〈「福島県はマラソンに熱心なところだと感嘆して、私も現役のとき一度招待されて走ったことがある。結局、四位に負けたわけですけど、“山田に勝った”というんでタイヘンだった。そのとき私のすぐうしろを一生懸命高校生がくっついてきたが、東京オリンピックで三位になった円谷だったんですねえ」〉
悲運のランナー円谷幸吉は、福島県須賀川市の出身である。
その山田氏は今年4月、92歳で亡くなった。80歳を過ぎても、走ることがライフワークになっていたという。篠崎さんがどのような晩年を送ったのかはわからないが、最後まで全力で走り抜けた人生だったに違いない。

▲「週刊文春」’70年6月8日号

いまが買い時!組み合わせステレオ

高度成長に沸き返っていた半世紀前の日本社会は、人々のライフスタイルも大きく変化し、組み合わせステレオが大ブームとなっていた。「週刊現代」25日号が、ブームの背景に迫り、全国のおすすめオーディオ店を掲載している。
組み合わせステレオとは聞き慣れない言葉だが、一般的にはコンポーネントとも呼ばれていた。
〈「コンポーネントというのは、違った音響メーカーの製品や部品を組み合わせて自分の好みの音をつくり再生する装置。それが人気を呼んでいるというのは、規格化された社会へ反発している大衆が、音響の分野でも個性的なものを求めているからにほかなりません」〉と話すのは、オーディオ評論家の菅野沖彦氏だ。少し前までは10~15万円もしたコンポーネントが5万円程度で買えるようになったことも、消費者の購買意欲を刺激したようだ。雑誌「ステレオ」編集長の黒沢幸男氏は、ブームの要因をこう分析する。
〈「コンポーネントというのは現在の住宅事情にマッチしているんですね。庶民はマッチ箱のようなところに住んでいるわけですから、部品別に自由に動かせるコンポーネントはうってつけなんです。今年の夏は史上最高のボーナスで、たいへんなブームになりそう」〉
マッチ箱のような住宅にマッチとはうまい例えであるが、当時は今と比べ、近隣住民の騒音にも寛容だったのだろう。
同記事には、「音響評論家推薦のオーディオ店全国一覧」が載っている。北は北海道から南は鹿児島まで26店。そのうち、東京が11を占めているのは当然として、北海道から3店も選ばれているのが特筆される。
紹介されているのは、「北洋無線電機」(旭川市)、「大阪屋」(札幌市)、「玉光堂」(小樽市)。「北洋無線電機」は長く「でんきのコーヨー」の名で親しまれたが、経営不振により1991(平成3)年に大阪市の「マツヤデンキ」に買収された。その「マツヤデンキ」も2003(平成15)年に倒産したが、産業再生機構の支援を受け、現在は2代目の「マツヤデンキ」が道内で13店舗を展開している。
「大阪屋」はいまも「CAVIN大阪屋」として営業中。2年前に90周年を迎えた。
小樽の繁華街・花園のランドマーク的存在だった「玉光堂」。1942(昭和17)年の創業以来、小樽の音楽文化を支え続けてきたが、2003(平成15)年に閉店となり、2009(平成21)年、赤とクリームの縞模様が印象的だったレトロな建物も解体されてしまった。現在は駅前の長崎屋内で営業を続けている。
コロナ禍はしばらく終息の気配がなく、この先も「ステイホーム」の時間が長くなるに違いない。自宅でお気に入りの音楽を優雅に楽しんでみてはいかがだろうか。

▲「週刊現代」’70年6月25日号

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