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「皇太子妃」候補令嬢たちが選んだ十年の道【1969年6月】

去る4月10日、天皇・皇后両陛下がご結婚満60年を迎えられ、盛大に祝賀式典が開かれたが、まだご成婚フィーバーが記憶に新しい50年前の「週刊新潮」1969(昭和44)年6月21日号のワイド特集「歳月が証したこの人生の損得」では、皇太子妃候補として名前が取り沙汰された令嬢たちの現状と当時の心境を紹介している。時代は平成から令和へ。新元号施行を祝し、今回は6ページのワイド版で、いっそう遠くなった「昭和」を振り返ってみたい。

“菊の香”から遠ざかった人たち

かつて最有力候補に擬せられたのが、元宮家の北白川肇子さん(29)だ。ある旧華族はこう肇子さんを評する。

〈「両陛下もたいへんお気に召していらした。聡明でいい方ですから、小さい時からお妃にするつもりで宮家ではお育てになったんじゃないでしょうか」〉

しかし、肇子さんは日赤社長の島津忠承氏の長男に嫁ぎ、いまは2児の母だ。結婚のタイミングが皇太子様のご成婚直後だったのは、単なる偶然で、意趣返しというわけではないだろう。夫の忠廣氏はこう後述する。

〈「あの頃のことはイヤな思い出ですよ。宮内庁からハッキリ候補者と発表されたわけでもないのに、外国の新聞にまで出たり、えらい迷惑でしたよ。ワイフにしても、伏見(章子さん)にしても大弱りだったそうです。そのご意向がないのなら早く、候補者ではないと宮内庁は発表すべきですよ」〉

忠廣氏の発言に出てきた元宮家の伏見章子さん(35)もサラリーマンの妻におさまった。3児の母になっている。

〈学習院の馬術部で皇太子様といっしょだったが、結婚した相手は、学習院野球部の黄金時代を築いた投手、草刈宏氏。野球が縁で入社したサッポロビールの販売部門の支配人〉

宏氏のコメントも載っているが、結婚にまつわるエピソードは皆無で、ビールと野球の話題ばかり。さすがの新潮記者も煙に巻かれた印象だ。愛妻を慮り、あえてセンシティブなこの話題を避けたのかもしれない。

〈「この人には、皇太子が熱心だったが、一方通行だったようですね。実は、お妃候補が選考の結果不適格だったり、敬遠されたりした時、最後に出てきたのが、このお嬢さんだったんです。彼は本気だった。それが突然三井さん(之乗氏=三井物産課長代理)に嫁ぐということになってショックを受けましたね。皇太子は、もう駄目だ、一生独身だ、とそういわれたことがありましてね」〉

学友ならではの少々きわどい裏話が興味深いが、会話の中に登場する女性は、元伯爵で学習院大学教授の林友春氏の長女・富美子さん(29)だ。学友の話では皇太子様がご執心だったようだが、夫の之乗氏は〈「家内が皇太子妃の候補だったなんて知りませんよ。家内もそんなことを話したことありませんし、誠に平凡な主婦なんですよ」〉と、当人にはその気がなかったことを強調する。記事では〈ご主人方は、口を揃えて“平凡な妻”とおっしゃる。上流人士特有のレトリックだろうか〉と指摘しているが、確かにそういった側面はあろう。

元伯爵の久松定武氏の次女・寿子さん(32)は自らコメントを寄せた。

〈「私なんかホンのちょっと話題になっただけですよ。でも、私は皇室というものを、いくらか存じておりましたが、ああいう生活は好きではありませんでしてね。おそれ多いことですが、お話があればもちろんお断りしたでしょうね。美智子様がお決まりになって、周囲から“あなた落っこちた”なんていわれましたが、立候補したわけでもありませんのにねえ。主人も気にしません。子供にもめぐまれ、外国にも連れて行ってもらえるし、私、今がいちばん仕合せですわ」〉

これは正直な感想に違いない。「平凡」とはいえ、これまで登場したみなさんは、ご主人が一流企業勤務で、中流階級以上に属する家庭ばかり。ある程度の経済力があれば、自由を謳歌できる「民間人」のほうが幸せと感じる気持ちは理解できる。

そうしたなか、元宮家の久邇家の三女・通子さん(35)は異色の人生を歩んだ。学習院短大家庭生活科卒で、皇太子様とはいとこ関係に当たるが、高校2年のとき候補者のひとりに名前が挙がったことがある。

〈「ちょっと年下」の二度目の夫と共稼ぎ。収入は二人合わせて月十万円。子供はなく、昭島市の団地住まいだが、「そういう生活を大いに楽しんでいます」と屈託がない〉

こちらは一般的な庶民レベルの生活といえよう。

〈「皇太子妃の地位を私は女性の最高の地位だとは思わなかった。たしかに表面的には華やかでも、内面的には美智子様も相当ご苦労なさっていらっしゃるのではないかしら。とにかく私は、小さいときから窮屈なことがきらい。その点では久邇家でも異端者でした。生活に自由があり、人の目がないし、これが市民生活の最高の喜びですものね」〉

宮家という桎梏は当事者にしかわからないが、親御さんにすれば忸怩たる思いもあるのではなかろうか。

いずれにせよ、美智子様が最高の人選であったことだけは間違いないようだ。退位後、ささやかな「自由」を満喫されてほしいと思う。

▲「週刊新潮」’69年6月21日号

デビュー盤を出したトワ・エ・モア

札幌の地下鉄各駅では、冬季オリ・パラ招致の機運を盛り上げるため、今年2月からトワ・エ・モアの名曲『雪と虹のバラード』(アレンジバージョン)の“駅メロ”を流している。が、この1972(昭和47)年に開催された札幌冬季五輪のテーマソングを知っている人がどれだけいるだろうか。同曲の作詞者は、詩人であり札幌医科大の教授でもあった小樽出身の河邨文一郎氏である。

 「サンデー毎日」8日号では、この年の5月にデビューを果たしたばかりのトワ・エ・モアの素顔に迫っている。まずは2人のプロフィールをみていこう。

〈芥川澄夫クン――21歳。愛媛県の西条高校を卒業して上京。ビルの掃除夫、コックの見習いなどをしながら作曲家の安部芳明さんについて勉強。おととしの暮れに西銀座にあるミュージアム・スポット「メイツ」のオーディションに合格。専属の歌い手さんとして約一年間フォーク・ソングを歌っていた〉

〈山室英美子サン――19歳。日本音楽女子附属高校でクラシックの声楽を勉強していたが、フォーク・ソングに熱をあげ、日本テレビのオーディションに合格。やはり「メイツ」の専属になり、芥川クンと知り合った〉

デュオを結成したきっかけは偶然だった。ある日、ふたりがギターを弾きながら一緒に歌っていたところ、近くで聞いていた人が絶賛し、「ふたりでやってみたら」と勧めたのだという。こうして〈地方出のノッポの青年と、長い髪をした少女のデュエットが生まれた〉のである。

トワ・エ・モアとは、フランス語で「君と僕」という意味。物静かで上品なふたりの雰囲気にぴったりの名前という気がする。

〈「ぼくにとっては、歌というものは自己表現なんだなあ。ビートルズが素晴らしいのは、彼らは娯楽としてじゃなく、自分たちの存在みたいなものを表現しているなって気がする。最後に行きつくところは、思想の表現ってもんだろうな」〉と、やや哲学的に自身の音楽観を語る芥川は、ノートに何冊も書きためるほどの詩人でもあり、ヘッセの作品を愛好していた。

この3年後、トワ・エ・モアは『雪と虹のバラード』の大ヒットで一躍、全国区のスターとなったのだが、翌年にはデビュー曲のタイトル通り「ある日突然」デュオを解消してしまう。ともにソロ志向が強かったことが理由だろうか。

それぞれ別の音楽人生を歩むこととなった「君と僕」だが、『雪と虹のバラード』が札幌で流れていることを喜んでいるに違いない。

▲「サンデー毎日」’69年6月8日号

のんびりムード「お座敷列車」

最近、「ななつ星」「四季島」といった豪華リゾート列車が人気を集めているが、移動自体を楽しむというコンセプトで製造された車両の元祖といえば「お座敷列車」だろう。「サンデー毎日」8日号では、国鉄中部支社が名古屋―多治見間で実施した「お座敷列車」試乗会の様子を伝えている。

〈手はじめの琵琶湖と賤ヶ岳めぐりは募集開始と同時に満員。6月16日からの十和田、北海道一周も人気上々〉〈おんぼろ客車を改造したものとあって、ちょっと車体がきしむのが難。しかしゴロ寝しながら旅行ができるし、パイを持込めば、マージャンもご自由。うわさをきいただけで、“乗ってみたい”という声がかなり出た〉

試乗会の写真をみると、ビールを飲みながら雀卓を囲んだり、将棋の対局をしたり、座布団を枕にしてゴロリと横になったりと、みなリラックスした様子で「お座敷列車」の旅をエンジョイしている。女性は和服姿、男性はネクタイ姿が目立つのが、いかにも昭和らしい。

かつては全国各地で運転されていた「お座敷列車」だが、最近はオシャレなリゾート車両におされ、あまり活躍の場がないようだ。しかし、昭和世代にとっては郷愁を感じる車両であろうし、車窓は素晴らしい北海道で企画すれば、大ヒット商品となるのではなかろうか。

▲「サンデー毎日」’69年6月8日号

サケ・マス船団A区域に発進!

オホーツク、カムチャッカ水域で行われる北洋漁業を巡っては、ロシアとの交渉に大きく左右される状況はいまなお変わっていない。「サンデー毎日」1日号では、厳しい環境下、北洋漁業に繰り出す小型船の奮闘ぶりを伝えている。

〈オリンピック操業――ききなれない言葉だが、日ソ漁業交渉がまとまるや「ヨーイどん」でスタートした小型のサケ・マス漁船が北洋で行う必死の漁獲レースのことをいう。せまい漁獲ワク、重なる借金、そして遭難の危険……〉

小型船団がめざすのは、A区域といわれる北緯45度以北の海域だ。ここで約2ヵ月の操業を続ける。

〈ことしはサケ・マスの豊漁年にあたるが、日ソ漁業交渉の結果、一昨年の豊漁年より漁獲高が減らされた〉

グラビアページには紙テープが乱舞する函館港の賑やかな光景が。〈見送りにきた人は3万人。狭い岸壁は人の波で埋まった。「無理をしないでガンバッテー」「からだに気をつけテー」声をかぎりの別離のアイサツと、ボリュームを最大限にあげたレコードのソーラン節〉

豊漁とわかっていながら満足な水揚げができない悔しさはあったろうが、湿っぽさは微塵も感じさせない盛大な見送りだ。

小型船の船内は想像以上に狭い。〈屋根裏ならぬせまい縁の下を思わせるこの寝ぐら。一人分のベッドの幅はちょうど普通の寝台車と同じくらい。これで荒っぽいサケ・マス漁の疲れがとれるのだろうか、という心配もあるが、ご当人たちはあまり気にしていない。「住めば都というが寝れば天国のふとんだっぺ」〉

漁の最盛期は女性たちも忙しい。漁網の修理に追われるからだ。〈小型船の漁師にとってはありがたい“内助の功”である。「父ちゃん、無事でいい漁をしてくれ」祈るようなまなざしは、北国の漁場に生きる人間のきびしさを感じさせた〉

ピストン操業に追われる小型船の乗組員に、自宅へ帰る余裕はなかった。

〈朝早く北洋の荒海から帰ってホッと一息。何よりの楽しみはサケ・マスの水揚げを終え、家族に囲まれながら食べる船上の朝食〉

船上とはいえ、貴重な一家団欒のひととき。茶碗に注いだ酒を飲む男の笑顔がまぶしい。

日露関係は相変わらず安定をみないが、漁業者が拿捕や漁獲枠の大幅減といった苦難に見舞われないことを切に願う。

▲「サンデー毎日」’68年6月1日号

身上調査 知られざる馬主一覧

競馬の最高峰、日本ダービーが5月26日に行われる。第86回を迎える今年は、令和最初のダービーとあって、いっそう注目されそうだ。競馬ファンの間では「ダービー馬の馬主になるのは、一国の宰相になるより難しい」という名言が知られているが、「週刊文春」9日号では、馬主の魅力にハマった有名人の面々を紹介している。

のちに「一国の宰相」となる田中角栄氏は、当時は自民党の幹事長。多忙な公務の寸暇を縫ってダービー観戦に訪れた。

〈「わたしが馬を持つようになったのは、オヤジが好きだったからですよ。母親はオヤジの馬道楽でサンザン苦労したから、わたしがはじめて上京するとき、『大酒をのむな、ホラをふくな、馬を持つな』といった。だが、酒はのめばのめるし、政治家だからホラもふく。とうとう馬を持ったときには、母親も、『おまえは父さんの子だからねえ』とあきらめましたよ」〉

ダービーに持ち馬を出走させるのは、親子二代、60年にわたる悲願だった。今年はマキノホープ(娘の真紀子氏と牧場名から命名)が、28頭立ての最後の1枠に滑り込んだのである。結果は大敗だったものの、田中氏の喜びはひとしおだったという。

掲載されている馬主一覧から主な著名人をみていくと、ロイ・ジェームス氏(司会業)、横山光輝氏(漫画家)、野添ひとみ氏(女優)、三沢あけみ氏(歌手)、北島三郎氏(歌手)、津川雅彦氏(俳優)、南田洋子氏(女優)、ハナ肇氏(コメディアン)、江利チエミ氏(歌手)、春日八郎氏(歌手)といった名前が。〈いま、全国で馬主サンは約千六百人といわれる。中小企業もふくめれば、九〇パーセントまで会社の経営者。のこりが政治家、芸能人、飲食店の経営者〉という状況だった。

「鉄人二十八号」が爆発的な人気を呼んだ横山光輝氏は、〈「馬を持つ前は『競馬ウマを育てる兄弟の話』なんてマンガをかいても、ルールを知らないからテキトウにやってたんですがねえ。知れば知るほどかきづらくなってきましたよ」〉と嘆く。

野添ひとみ氏が所有しているマジョルカは、桜花賞とオークスで5着と善戦した。〈「川口浩さんが馬が好きで一時、牧場をやりたがって北海道まで土地を見にいったんですよ。でも、仕事上ムリなんでかわりに馬を買ってきました」〉と話すが、その後、川口氏以上に熱を上げるまでに。競馬記者は〈「野添さんはオークスの前の晩、徹夜で仕事をしたのに競馬場へかけつけてきた。もしマジョルカが勝ったのに、馬主がいないとかわいそうだから、というのがその弁」〉と、その“イレ込み”ように舌を巻く。

北島三郎氏に関する記述もあるが、〈長男の竜クンからとってリュウ。三百五十万円の馬だそうだ〉と、実に素っ気ない。キタサンブラックで人馬共に脚光を浴びた北島氏だが、馬主としては不遇の時代が長く、キタサンブラックは苦節ン十年、やっと巡り合った活躍馬だったのだ。

〈「朝日放送の『つくしんぼう』というドラマで、競馬気違いの役をしたのがはじまりですよ。それと去年の菊花賞で馬券を五十万円アテてヨーロッパ旅行をしてから、持ってみようかな、と思ったんです」〉と話すのは津川雅彦氏。まだ馬主歴半年ながら、〈「将来は日本一の大馬主になりたい」〉という気宇壮大な発言も津川氏らしい。

こうしたコアなファン馬主に対し、三沢あけみ氏の場合は、〈「馬なんて、ぜんぜんわかんないのよ。三沢牧場の方が、同姓でファンだからというのでくださったんですけど、たまにニンジンを持っていく程度」〉と競馬素人を自認する。

いずれにせよ、馬主は道楽。黒字になるのは全体の2割にも満たないわけで、庶民には別世界といえる。

参考までに、最近の著名人馬主を紹介すると、北島氏以外では、佐々木主浩氏、Drコパ氏、萩本欽一氏、三浦大輔氏、吉井埋人氏などが有名だ。このうち、佐々木氏は所有する馬が次々とビッグレースを勝ちまくり、競馬界でも“ハマの大魔神”ぶりを発揮している。コパ氏も、風水を取り入れ馬を購入しているそうで、馬主成績は上々だ。

こうしてみると、半世紀前の週刊誌にも名前が載っている北島氏は、馬主のキャリアでも息が長い。まさに「無事是名馬」を地で行く存在である。

▲「週刊朝日」’68年6月9日号

愛される「クラウス17号」

お役御免となった老朽機関車は鉄屑になるのが常だが、運がよければ静態保存、なかにはマニアの手に渡るケースもある。「週刊朝日」27日号では、4月に閉山となった沼田町の明治鉱業昭和鉱で活躍していた蒸気機関車「クラウス17号」が、東京池袋の西武百貨店で競売にかけられた話題を伝えている。

〈この機関車、現役では世界で最も古い、といわれる蒸気機関車。四月末、かんじんのヤマ元がつぶれて失業、一緒にスクラップ化の運命をむかえた〉〈だが、最近の蒸気機関車ブームのなかで、「解体反対」の声が上がり、そこで東京のデパートが一枚かんで、“身元引受人”を公募(?)するというはこびになった〉

明治22年にドイツのミュンヘンで製造された名機ゆえ、商品価値があったのだろうが、競売の最低価格が298万円というのは、当時としては破格の「高額商品」である。ちなみに、沼田町から東京までの移動は、〈かつては威勢よく突っ走った留萌鉄道の線路を、トレーラーにひかれて横断する。途中、フェリーに乗せられ、六日がかりで東京へ。その運賃が六十万円〉だった。

スクラップを免れたのは、地元の人々にとっても喜ばしいことだったようで、出発前には引っ越し準備に忙しい炭住の人たちも続々と駆け付け、記念撮影するなどして名残を惜しんだ。ドイツ生まれの「クラウス17号」は、九州や横浜で走ったのち北海道へ渡ってきたのだが、最後の着任地が蒸気機関車に深い愛情を注いでくれる沼田町の炭鉱だったのは幸運だったといえるだろう。

誰がいくらで落札したのかはわからないが、その後の「クラウス17号」は複数の所有者を経て、最終的に栃木県那須烏山市にある「那珂川清流鉄道保存会」で余生を送っている。余生といっても、単なる展示ではなく、動態保存されているそうだから、そのタフネスぶりには敬服するほかない。もちろん、那須烏山でも、多くのスタッフやファンに愛されている。

▲「週刊朝日」’68年6月27日号

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