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エリート自衛官を狙い撃ちした「結婚詐欺」三十女【1970年2月】

いつの時代も稀代の悪女が存在するものだが、半世紀前の千歳市では、〈この年増女の口車に乗せられた連中が、被害者同盟をつくったら、会員数は百名をくだるまい〉といわれるほどの女詐欺師が次々と犯行を重ねていた。その主要ターゲットは自衛官。いかなる手練手管で北の地を守るエリートたちを籠絡したのか――。「週刊新潮」1970(昭和45)年2月28日号は、女が結婚詐欺で逮捕されるまでの顛末を追っている。

三十二万円が消えるまで

女の名前は水野静子。女子短大卒の美容師で28歳と自称していたが、実際は〈三十六歳。女子短大卒、美容師もデタラメで、紋別郡興部町の生れで中学をやっと出ただけ。千歳の自衛隊のPXで二年ほど働いていたことがあるほかは、バーのホステス、一杯飲屋の手伝いと転々としてきたのが、職歴のすべて〉〈犯歴のほうは赫赫たるもので、前借、空巣などで逮捕歴七回、前科一犯(懲役一年二月の実刑)、しかもその一回の逮捕に余罪が数件〉という根っからのワルであった。経歴の中で出てくるPXとは売店のことである。

〈雪の千歳市には、この女の被害者が、石を投げれば当たるんじゃないかと思われるほどウヨウヨいる〉

寸借詐欺の類は枚挙にいとまがないが、それでは飽き足らず、ついに初めての容疑である「結婚詐欺」で2月12日に逮捕されたのだった。ターゲットにされたのは、航空自衛隊第二航空団のS三尉(25)。市内の喫茶店で三尉が声をかけ、そのまま「旅館」に直行とあいなったというから、静子にすれば「飛んで火に入る夏の虫」だったのだろう。写真をみると、なるほど36歳には見えず、男好きする顔立ちをしており、独身の三尉が夢中になったのも無理はない。

その夜の寝物語のこと。やけに自衛隊の内部事情に詳しい静子が「村木」という変名を名乗ったことで、三尉がこんな質問をした。

〈「ウチの二空団のパイロット村木一尉とは関係ないんでしょうね。この人は、私の防衛大の先輩なんですが…」〉

そこで動じないのがベテラン詐欺師の貫録である。臨機応変に〈「アラ村木一尉は私の兄なんです。もともと私、東京の山野美容学校を出たんです。今度、千歳に出てきたのは、自分の店を持ちたかったからで、昼は美容院、夜は資金づくりにバー勤めしてるんです。でも、これだけは兄に黙っていてね」〉と切り返したのだから肝が据わっている。以来、三尉は静子に熱を上げ、言いなりになっていく。

〈家賃六千円の家を借りて、三尉からは七万円を出させる。三尉名義で月賦のカラーテレビ、三点セットのタンスも買い込んだ〉

三尉は営内生活とあって、気ままな一人暮らし。しかし、自動車の頭金として出させた十二万円が、2人の関係に綻びを生じさせることとなった。いっこうに車を見かけず、詰問しても「整備工場に出した」などと言い訳を繰り返すばかり。不審に思った三尉がついに村木一尉に打ち明けたところ、〈「そんな妹なんかいないね」〉と言われ、すべてを悟り警務隊に相談した結果、静子逮捕につながったのである。千歳署の担当刑事はこう振り返る。

〈「三尉にしてみれば、結婚すれば防衛大の先輩でもある一尉殿と兄妹、それに妻が美容室を経営すれば、結婚生活もエンジョイできそうだ、とそんな計算もあったようだ」〉

三尉が静子のために使った額は計32万円。その当時は同意の上の支出だったうえ、静子が〈「私はSさんから訴えられる筋合はない。結婚するつもりでした」〉と言い張ったこともあり、当初は警務隊の幹部が〈「高い月謝を払ったと考えるほかないだろう」〉と、三尉を説得していたという。警察沙汰は避けたいとの思惑もあったのだろう。ところが、〈「今年になって、三尉と並行してほかの三人が、結婚の約束で金を取られていたことがわかった」(警務隊)〉ことで風向きが変わったのである。〈その三人は、同じ航空団の整備の三曹(26)、もう一人が一士(20)、それに陸上自衛隊の三曹(28)〉

山口県出身の純朴な二十歳の一士は、上官から借金までしており、詐欺に遭ったと知って悲しみに打ちひしがれた。第二航空団司令部は〈「彼らは、純情にもとづく被害者です」〉と庇ったが、自衛官という立場からしても、あまりに無警戒でお粗末な純情との印象を禁じ得ない。

▲「週刊新潮」’70年2月28日号

空駆けたハッスル新防衛庁長官

続いても舞台は千歳市の自衛隊。「サンデー毎日」8日号では、19年11月に大往生(享年101)を遂げた中曾根康弘氏が、ジェット練習機で千歳基地に飛んだ際の張り切りぶりを伝えている。

長身の中曾根氏が練習機から姿を現すと、出迎えの人たちからは〈「いい押し出しだね」「飛行機がよく似合う。パイロットの親方みたいだ」〉といった感嘆の声が。出迎えた一行の中には、ナイキ訴訟の問題を抱えていた長沼町長もおり、〈「ごめいわくをおかけしました……」〉と申しわけなさげに挨拶すると、「いや……」と一言だけ返し、軽く受け流す大人の対応をみせた。ナイキ訴訟とは、1969(昭和44)年に町内の農民がナイキ―ハーキュリー基地建設を巡り、自衛隊の合憲性を問うた訴訟のこと。長沼町の地名が全国的に注目されていただけに、町長はほっと胸を撫で下ろしたことだろう。

〈第二航空団の千二百人が整列〉とあるから、詐欺事件の被害者も含まれていたかもしれない。訓示の第一声は〈「このたび、志願して防衛庁長官になった中曾根です」〉という「自己紹介」で、「志願」という言葉が隊員たちの心をとらえた。以下、血気盛んな「タカ派」の中曾根氏らしい檄が続く。

〈「八割の国民が自分で国を守ることを支持し、世論調査でも七割以上が自衛隊を支持しておる。前線となって、身を粉々にしながらも守りにつくのは諸君だ」〉〈「自衛官たるまえに日本民族の一員として、精神をみがいてほしい。上官、国家には忠誠をつくし、情操豊かな人間たれ」〉

訓示後は陸上自衛隊第七師団へ移動。ここでも3千人の隊員が、零下10度の凍える寒さのなか、直立不動で新長官を出迎えた。

〈閲覧行進がはじまったとき、東の空は赤かった。終わったら、そこには白い月が光っていた。それほど戦車の数は多く、列は長かった〉

長官のスケジュールはこれで終わりではない。隊員食堂で食事を共にし、夜は娯楽室で若い隊員との懇談会が催された。いきおい話題は国防、返還が迫る沖縄問題に集中した。隊員の〈「自分はこれから、国民の間に、国を守る意識が向上すると思いますが」〉との問いには、〈「おれもそう思う。安保にばかりしがみつくのではなくて、新しい関係を考えなくてはならない」〉と答え、返還後の沖縄防衛については、〈「日本で守る。独立国として当然やるべきだったことを回復していくわけだ。陸海空軍ともいくだろう。どうだ、いきたいか?」〉と反問する場面も。緊張が解け、愛国心を刺激された若い隊員は〈「いきたいです」〉と力強く即答し、さらに〈「わたしは、日本中の若者がみんな自衛隊に入ったらいいと思います」〉と極論を口にしたが、さすがにこれには〈「ある期間しばられた生活で修養するのはいいことだ。しかし徴兵と混同してはいけない」〉と一定の理解を示しつつも「軌道修正」してみせた。

この日は隊員の居室に宿泊。翌朝の朝礼での訓示では、〈「わたしは諸君の姿を見た。凛然として、まじめで、使命感にあふれる諸君を。わたしは諸君がむかしの軍隊以上に強いと信じておる」〉と絶賛した。のちに宰相となる大物長官にこうも褒められたなら、士気が上がらぬはずがない。帰京を惜しむ隊員からは〈「長官、つぎの内閣でもまた長官になってください」〉と、早くも続投待望論まで飛び出した。

東京の防衛長官室で、2日間の千歳訪問をこう総括した。

〈「自衛隊も二十周年、成人だ。そして強い。理解し、納得したうえで使命感を持っているから強いのだ。しかし、防衛は外交のウラについていくもの。前面に出てはいけない。ぎりぎりの線を守っていくものだ。だから本質はあくまで、サイレント・オーソリティー。“だまっている権威”なのだ」〉

▲「サンデー毎日」’70年2月8日号

ある交換留学生

グローバル化が進んだ今の時代とは違い、半世紀前の交換留学は、ゲストとホストの双方にとって特別なことであった。「週刊朝日」20日号では、旭川東高校にやって来たデニス・エルダー君(18)の日常を紹介している。

彼の出身地は、旭川市と姉妹都市の米国イリノイ州ブルーミントン市。〈「できるだけ日本について学んで帰り、日米友好に役立ちたい」〉と意気込みを示したが、〈日本の習慣に同化しようとはしない。ハシを使わず、弁当もサンドイッチだ。寄宿先の本郷さん宅の八畳間に大きなベッドを置いて生活している〉とあるように、文化の違いに慣れるのに苦労したよう。

〈言葉が不自由なせいもあって、英語担当の先生と話すことが多かった〉

当時はシャイな人が多く、お互い話しかけにくい雰囲気もあったに違いない。慣れぬ手つきで、本郷さん一家と雪かきに精を出す場面も。ただ、これも〈「どうもわれわれは、デニスをお客さん扱いにして大事にしすぎて、くたびれてしまう」〉との反省から、本郷さんが声をかけたのだった。

残念ながら、グラビアをみる限り、心からエンジョイしている様子は感じられなかったが、北海道を好きになって帰ってくれただろうか。

両市が姉妹都市関係を締結したのは1962(昭和37)年と歴史は古い。広大なトウキビ畑など穀倉地帯となっている共通点があり、1987(昭和62)年には隣接するノーマル市も姉妹都市に加わった。交換留学による交流は現在も続いている。

▲「週刊朝日」’70年2月20日号

深い粉雪をけって行こう

思いがけず、札幌が「東京五輪」の話題を独占している印象だが、道産子にとっての五輪とは、やはり1972(昭和47)年の札幌冬季五輪だろう。「週刊文春」23日号では、「この冬のおすすめスポット」として、スキーの大回転、ボブスレーなど4種目の会場となった手稲山を紹介している。

〈第十一回冬季オリンピックが札幌で開かれる。その会場の一つが市の西郊にそびえる手稲山の北斜面。目下、大国ニッポンの面目にかけ競技施設の建設に大わらわというところ〉〈その会場の下に着々整備が進んでいるのがテイネオリンピアスキー場で、オリンピック競技とは関係のない株式会社の経営するスキー場。雪のない季節にはゴルフ場、プールと多角経営で札幌市民のレジャーランドになっている〉

経営していたのは、HBCと三菱マテリアルの合弁による株式会社テイネオリンピア。五輪後の、1974(昭和49)年にはテイネハイランドスキー場もオープンし、市内から手軽に訪れることができる人気コースとして賑わった。

2002(平成14)年に加森観光の傘下となり、その後、サッポロテイネと改称され現在に至る。

〈雪の質のいいこと、蒼い日本海や白一色の石狩平野をみおろす展望が楽しめることで、初心者や中級スキーヤーにはおあつらえ向き〉と魅力的な文言が並ぶ。実際、人気はニセコと双璧だったようで、交通公社と全日空による手稲への「スカイ・アンド・スキー」なるツアー商品の案内も。料金は2泊3日で2万5500円だった。

当時のスキーブームは今いずこ。ゲレンデでシュプールを描くのは外国人観光客ばかりで、冬季五輪招致の機運も高まっておらず、時代の変化を感じずにはいられない。

▲「週刊文春」’70年2月23日号

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