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萩原会長の全重役〝平価切下げ〟指令【1969年10月】

北海道の石炭産業が元気だった時代、我が世の春を謳歌していたのが北炭こと北海道炭礦汽船だ。その北炭のワンマン会長として全国に名を知られた萩原吉太郎氏が、突如、前代未聞の衝撃的な改革案を打ち出し、世間を騒然とさせた。業界全体が沈みゆくなか、「萩原の“文化大革命”」とも称された大ナタを断行した狙いは那辺にあったのか——。「週刊文春」1969(昭和44)年10月27日号の記事をみていこう。

社長は支社長の北炭モーレツ人事

〈北海道を中心に、札幌テレビ、北炭観光など三十あまりも関係会社をかかえて“北炭王国”といわれるほどだ。その王国で突如、みんなビックリの大改革が発表された〉

その内容は——〈①萩原会長の社長カムバックを機会に、役員は全員一階級ずつ格下げする。しかも、社長は無給、役付取締役の年収は五〇パーセント、平取締役は四五パーセントを削減する〉〈②部長、課長も一、二階級の格下げ。ボーナスは全員廃止〉〈③本社、鉱業所の機構を縮小して、一般職員千七十九人のうち三百人を整理する〉——という厳しいものだった。この人事異動はこれで終わりではなく、翌年1月15日までの成績を判断したうえで、不適格との烙印を押された役員は退任、管理職は待命ということであり、下にだけ犠牲を強いる内容ではない点は立派といえるが、役員にとっては〈肩書きとサラリーと、往復ビンタをくらったようなもの〉いうのが偽らざる心境だったろう。

ある平社員はこう複雑な胸中を吐露する。

〈「これまでよくないといっても、土曜日ともなると、夕張から二十人くらいの役付が、ススキノへ遊びにきてました。帰り、五、六台の車に分乗して、夕張まですっ飛ばす姿は、北炭はまだまだという気がしてたんだけど、いろんな経費が節約されると、ススキノもサミシクなりますなあ。北炭といえば、結婚はもちろん文句ナシ、飲み屋はツケがきくし、月賦だって無条件だったんだけどねェ」〉

みながモヤモヤとした気持ちを抱く中、「最も貧乏くじを引いたのは、北海道支社長に降格となった佐野岩雄社長」という声が少なくなかった。

〈「こんどの問題はだれよりも責任を感じております。金融関係については(佐野社長は技術畑出身で資金集めがヘタだったといわれる)会長から、オレも手伝うよ、といわれておりましたが、ごメイワクをかけるのは申しわけないと自分の力でやっていこうとして、かえってごメイワクをかけることになりました。役員給与の五〇パーセント減は痛くないことはないが、これからの一年は、ハダカになってやる。社長から支社長に名前がかわるメンツよりも、いまは会社全体のことを考えるのが先決だと思っています」〉

なんとも悲壮な決意表明だが、コメントの最後には〈「会長が社長にモドったのだからその姿勢に殉じてもらわなければコマります」〉との恨み節ともとれる本音も。評論家の草柳大蔵氏は、こう分析する。

〈「萩原がやってる会社だから、と特別な目でみられるのが北炭。それだけハロー効果が大きい会社なんです。ハロー効果で外部の目をくらましているのはいいんだが、組織内部の目までくらますようになってきた。そこで思い切って内部的に、肩書きのデノミをやって、目をさまさせた。肩書きのデノミを断行して、過剰人員を整理する、ということでしょう」〉

当時の北炭は資金繰りに四苦八苦していたが、そこに前年、2度の炭鉱事故を起こし、20億円もの損害を出していた。炭鉱出身の道議、湯田倉治氏は〈「こんどの社長交代はいまの社長じゃ、思うようにカネが借りられないということでしょうが、こんなことで安定策にはなりませんよ」〉と厳しい見方を示す一方で、〈「萩原さんの政治手腕は群を抜いている」〉と評価する。萩原氏の政治力は衆目の一致するところで、こんなエピソードもあった。

〈市村清氏(三愛社長)が札幌のホテル三愛の経営に行き詰まり、萩原氏の手に渡った。萩原氏は銀行に十八億の借金の利子を四年間、棚上げさせて、再建にのりだした。そんなとき市村氏が「そんな好条件なら、オレだって経営は続けられる」とくやしがったのをきいて、萩原氏は「そういう条件をつくれるかどうかが経営者だ!」と、どなった〉という。

そんなカリスマが指導した“北の文化大革命”もⅤ字回復の起爆剤とはならず、残ったのは混乱と不信だけだったようだ。

▲「週刊文春」’69年10月27日号

役所が患者にガン宣告

患者に対するガン告知の是非は、いまなお意見が分かれるところだが、半世紀前には道内の福祉事務所が家族の同意なく「ガン宣告」に等しい行為を繰り返していたことが明るみになり、「週刊新潮」4日号が、「北海タイムス」の記事を引用する形でこの問題を取り上げた。

福祉事務所から届く書類によって、ガンを含む病名を一方的に知らされたのは生活保護受給者。なぜこんな事態が起きたかというと、〈生活保護を受けている人が入院する場合、あるいは通院する際、福祉事務所から“生活保護法医療券”をもらうことになっているが、それは病院から提出された意見書をもとに福祉事務所が金券代りに作成しているもので、原則として本人か家族へ渡す仕組み。この医療券には、患者の住所・氏名のほか、病名の項があるので、医師が極秘とする医療要否意見書がそのまま書き込まれる〉ためだった。

国立札幌病院第二内科の井林淳医長はこう制度上の不備を批判する。

〈「医療要否意見書は、正確に記入するカルテと同じく扱っている。意見書はあくまで極秘扱いである以上、カルテと同様、正しい病名を書く。それが本人や家族の目に触れる仕組みになるとは、ガンの問題ばかりでなく、医療法に触れると思う」〉

3年前、医療券を交付された男性が肺ガンであることを知ってしまい、道医師会に訴えたのを機に問題が発覚した。その後の医師会の調査で、同様のケースが複数例あることが判明したという。心の準備もないまま肺ガンを告げられた男性は、大きな精神的ダメージを受け、「ガンと知らなければ、残りの人生を安らかに生きられたものを」と力なく語った。

医師会が道民生部などへ制度の改善を申し入れたものの、〈「病名が知れて悪いということはない」「本人が問い合わせた」など、担当者の考えがアイマイで、問題として取り上げられなかった〉というから、開いた口がふさがらない。こうした無責任なお役所仕事が、福祉行政の“ガン”になっていたことは言うまでもないだろう。

▲「週刊新潮」’69年10月4日号

実用化近づく第三のメディア

紙媒体の凋落は時代の趨勢だが、新聞がまだ絶大な影響力を有していた半世紀前は、「第三のメディア」と称されたユニークな製品が話題を集めた。「週刊朝日」10日号が、東京・日本武道館で開催された英国フェアの模様を詳報している。

〈14型テレビに似たセットからゆっくりと印刷物がせり上がる。くっきり「朝日新聞家庭電送版」の題字。新聞そのままの体裁で最新のニュースがきれいに印刷されている。有楽町の朝日新聞社から実験用電波に乗って飛んできた“電送新聞”の誕生だ〉〈電送新聞は印刷(新聞・雑誌)、電波(テレビ・ラジオ)の長所をあわせ持った“第三のメディア” “未来のメディア”として登場が予想されているもので、こんどの公開実験は、その実用化へ確実に一歩を踏出したものといえよう〉

「週刊朝日」の系列紙の話題とあって、パブリシティ的な要素も多分にあるのだろうが、当時としては画期的な発明であったことは間違いないようだ。この“電送新聞”のメカニズムを簡単に説明すると、いわゆるファクシミリの進化形といえる。一般用ファクシミリはすでに広く普及していたが、もっと精度が高い“電送新聞”の原型となるものは、10年前から実用化されていたという。〈朝日新聞社が札幌の北海道支社と東京本社間約千キロを専用線で結び、紙面をそっくり送信している。これは日刊紙で世界最初の実用化成功例として大きな反響を呼んだものだった〉〈列車や飛行機で刷上った新聞を運ぶ手間がかからないし、なにしろ電波に乗っていくのだからアッという間に届く〉

最新技術が用いられたのが北海道支社だったのは、遠隔地で輸送コストがかかるためだろう。今回の実験は、これを家庭用に応用しようという発想であり、〈寝る前にスイッチを合わせておくと、朝その時間に新聞が受信機から“配達”されている。「政治」「娯楽」などのダイヤルを選んで好きな記事を取出す。大事件が起きると報知音が鳴り、すぐ速報が送られてくる……。いささかSF的だが、これが夢物語でなくなるのは案外、近いかもしれない〉と、バラ色の未来を謳ってはいるものの、実際のところ問題は山積していた。公開実験でお披露目された受信機はAT2型といって、東芝と朝日新聞社が家庭用として共同開発したものだが、〈使用されている機械は、大型だし値段が高い。特別な操作もいる。電話やテレビのように手軽にお茶の間に置くには小型で値段が安く、操作も簡単、記録用紙も印刷がきれいで安いものでなければ受入れられまい〉との現実的な見方も。

その後、この“電送新聞”が普及したとの話は聞かないから、やはりコスト面などの課題をクリアできなかったものと思われる。記事は〈今回の公開は、報道の未来を浮彫りにしてみせた。情報化社会の到来は、もう身近に迫っているのである〉と結んでいるが、わずか半世紀後にスマホでリアルタイムにニュースが読めるほどの情報化社会になっていようとは、誰も想像していなかったに違いない。

▲「週刊朝日」’69年10月10日号

はじめて浮んだ熱気球

8月10〜12日に上士幌町を舞台に開催された「北海道バルーンフェスティバル」。爽やかな十勝の夏空にカラフルな気球が浮かぶさまは圧巻で、今年で第46回を数える伝統のイベントとして人気を集めている。

気球が最も似合うロケーションは北海道という気がするが、気球文化の嚆矢もまた北海道であったことを知る人は少ないのではなかろうか。「週刊朝日」10日号では、国内初となる熱気球の飛行テストの模様をグラビア特集で伝えている。

〈わが国ではじめてといわれる熱気球が、このほど札幌の北大農場で地上五十メートルの高さまで上昇するのに成功した〉〈大きさは直径十六メートルのイチジク型で、二人乗り。ゴンドラもふくめて二百六十キロの重さを運べるように設計されている〉

気球の材料は、アクリルコーティングしたテトロン。具体的な金額は示されていないが、制作費用は「格安」だったという。

〈北大探検部のグループと京大生など京都市の学生有志の「イカロス昇天グループ」が、去年の十一月から手を組んでまとめたプランで、近いうちに本格的な飛行に取りかかる予定。ゆくゆくは、これで大空漫歩を楽しむほか、北海道の原野などの調査も行いたい、と張切っている〉

いかに頭脳明晰な北大生と京大生が計画したこととはいえ、まだ初期段階の実験であり、搭乗者は勇気が要ったことだろう。太陽に接近しすぎたゆえ、翼が溶けて墜死した「イカロス」のような悲劇に見舞われなかったのはなによりだ。

文中にあるように、本格的な飛行実験は同年、洞爺湖周辺で行われた。その後、1973(昭和48)年に北大探検部や「イカロス昇天グループ」など8団体により日本熱気球連盟が発足。2年後に日本気球連盟と改称され現在に至る。

いまだ記憶に新しい2013(平成25)年2月にエジプトで起きた気球事故では、日本人4人を含む19人が犠牲となった。このように海外での気球体験にはリスクも付きまとうが、日本では73年の連盟発足以来、死亡事故は1件も起きていない。

▲「週刊朝日」’68年10月10日号

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