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北海道の炭鉱を襲う〝なだれ閉山〟【1969年4月】

北海道150年の歴史において、石炭産業が今日の発展をもたらす原動力となったことは言を俟たない。しかし、一方では相次ぐ事故や閉山による失業など、多くの悲劇をもたらしたことも事実だ。「週刊朝日」1969(昭和44)年4月11日号では、新石炭政策下で閉山第一号となった沼田町の明治鉱業昭和鉱業所の最後の冬を追っている。その後、斜陽産業に転じた「黒いダイヤ」が再び輝きを放つことはなく、“なだれ閉山”の流れには抗えなかったのだった。

雪どけとともに消えるヤマ

特集はグラビアとルポの二本立て。グラビアには住み慣れた炭住を離れ、家財を運び出す人たちなど哀感漂う写真が並ぶ。

〈閉山が宣告されたヤマ元は、町ぐるみの存続運動であわただしく動いているが、従業員たちは、「これでむしろすっきりした」と、あきらめの表情をみせている〉

望みのない抵抗よりも、目の前の生活を第一に考えねばならない従業員にすれば、当然の反応といえるだろう。事実、近隣の雨竜鉱は前年の11月に閉山しており、昭和鉱に隣接する九州鉱太刀別炭鉱も4月15日に閉山することが決まっていた。

〈石炭産業には砂漠に水をまくように巨額の国費がつぎこまれてきた。「石炭産業の撤退作戦」と呼ばれるこんどの政策では、閉山交付金が従来の倍以上に増額される。四苦八苦の中小鉱はこの“お葬式代”の値上げで、すっかり浮足立ち、北海道だけでも泊炭鉱や新奈井江炭鉱など七山の閉山が確定的である〉

当時の通産省の統計によると、昭和33年に703あった炭鉱数(従業員29万人)は、42年末には158(同9万1千人)にまで減っていた。今回の新政策でトン当たり3300円だった閉山交付金が約8千円に増額されたのを機に、大手各社は一斉に閉山へと舵を切ったのだった。

〈「前にいた炭鉱がつぶれた時にヤマを見限るべきだったよ。結局、オレたちの思いきりの悪さから二度同じ目にあった」〉

こう嘆く安藤由光さん(45)は、福岡県桂川町の明治鉱業天道鉱業所から沼田町の昭和鉱業所へ来て1年も経たぬうちに、路頭に迷うこととなってしまった。〈「あそこなら、まだ掘れるスミが二十年分以上ある。少なくみても、あと十年は大丈夫だ」〉という会社の言葉を信じ、北の大地に活路を求めたのは安藤さんら8世帯。

〈「九州のヤマは坑内の温度が三十度以上になる。暑さで参ったが、その点、ここは通気がいいので働きやすい。作業の段取りがわかり、人間関係にもやっとなじんだ、と思った時ですよ、ここも閉山だと知らされたのは」〉と、安藤さんは転地を勧めた会社に対し不満をぶちまける。

職員の中にも閉山経験者は少なくない。総務課補佐の稲川梅雄さんもそのひとり。前年の夏に閉山した豊里炭鉱(赤平市)では、3ヵ月を費やし残務整理を担当していた。

〈「昭和はヘンピなところだから、撤収といっても何もしない。ここはそっくりそのまま、無人のゴーストタウンになる、ということでしょうね」〉

石炭輸送のため昭和5年に建設された留萠鉄道。国鉄の恵比島と昭和を結ぶ全長17・6キロの歴史ある路線も、存続の危機に瀕していた。

〈沿線の炭鉱と共倒れの運命にある留萠鉄道もいったん休業宣言を出したが、地元の反対陳情で辛うじて動いている状態だ〉

しかし、ヤマの火が消えた町に鉄道が活躍する余地はなく、この年の5月に営業を休止し、2年後に正式に廃止された。

歌志内線、万字線、幌内線――その後、産炭地の鉄道は軒並み切り捨てられ、「夕張支線」の廃止も2019年3月末に迫る。そして恵比島駅がある留萌本線の命運も危うい。炭鉱が消え、鉄道が消えた北海道の地方には何が残るのだろうか――。

▲「週刊朝日」’69年4月11日号

変貌する千里丘陵

2025年の大阪万博が決定したが、はたして前回1970年開催時ほどの感動と興奮を呼べるだろうか――。「サンデー毎日」27日号では、万博開催を1年後に控えた千里ニュータウンの「いま」を伝えている。

〈「イノシシと竹ヤブ」――大阪の北部に横たわる千里丘陵の“過去”は、この二つの言葉で象徴される〉

そんな自然豊かな千里の地も、巨大なニュータウンの建設によって、姿を変えてしまった。

〈入居が始まって九年目になる。人口九万五〇〇〇、三〇〇〇世帯。林立する高層アパート、整然とのびる完全舗装道路、きらめく水銀灯の列。さらに盛り場をしのぐきらびやかなショッピングセンター。そこにはかつての“丘陵”をしのばせるものは、ほとんど見いだせない〉

千里ニュータウンの開発はなおも続き、ますます自然が失われていったが、一方で「観光名所」としても人気を集めていた。というのは、ニュータウンの一角にある展望台から、万博会場のパビリオン建設の様子を見物できたからだ。茶店の女性は〈「横浜ナンバーの車なんかも見かけるようになりましたなあ。完成したらもっとふえますやろなあ」〉と、殺到する「マイカー族」の多さに驚きを隠せない。

ニュータウンの東に隣接する万博会場は喧騒の只中にあり、〈砂ボコリ、ダンプカー、ツチ音、溶接の火花、クレーン、ガードマン、パイプ、鉄塊、見物人、土の断層〉と象徴的な単語を並べ、工事の熱気を伝えているが、ここでも自然は邪魔者でしかなかった。

〈会場のなかに二、三ヵ所ほど整理された竹ヤブが目につく。これは、わざわざ他の土地から“移入”された育ちのよい竹だという。千里丘陵の荒くれた竹は、世界の祭典に集まる人たちの観賞にはたえられないらしい〉

「ナショナル館」の周辺には竹林が配されていたが、これは京都から取り寄せたもの。国威発揚にも資する高度成長期の一大イベントにあっては、原生する千里の竹を活用してこそ価値がある、との発想は生まれなかったようだ。

ちなみに、万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。あれから半世紀を経て、紛争と対立ばかりの人類は、進歩も調和も実現したとは思えないが、そうした矛盾を抱えたまま、また万博狂騒曲が繰り返されようとしている。

▲「サンデー毎日」’69年4月27日号

爆発の前兆みられる十勝岳

北海道における火山の噴火といえば、2000(平成12)年の有珠山噴火が記憶に新しいが、道内には18の活火山があり、いつ有珠山のような大規模災害に見舞われるか予断を許さない。「週刊朝日」25日号では、十勝岳の爆発の前兆と、地元の防災意識の欠如を伝えている。

〈十勝岳がいま、爆発の前兆とみられる火山性微動などの異常現象を起している。気象庁や北大の観測陣は、爆発の危険性が高まっているとみて、厳重な監視を続けている〉〈昨年五月の十勝沖地震を契機に火山性微動が現れ始め、四月上旬までに、一日に千四百二回の微小地震が発生したのをピークに、火山活動は断続的に活発化した〉〈気象庁の大野・火山調査官も「火山活動は爆発の方向に向ってエスカレートしている」と判断している〉――といった状況にもかかわらず、山麓の美瑛町では楽観的な意見が大勢を占めていた。

最も危機感を持たねばならない立場の町長が〈「天気予報も当たらないのに火山爆発を予想することなどできるわけがない」〉〈「大山鳴動ネズミ一匹ですわ」〉〈「地震が起るからといって、それが直ちに爆発に結びつくとはいえない。四月になって地震の回数も減っており、最近は、むしろ爆発の可能性は遠のいた」〉などと公言する始末。地元の白金温泉関係者も〈「三十七年の爆発では白金温泉には何の被害もなかった」〉と主張し、気象庁や観測隊の警鐘を完全黙殺していた。

昭和37年の噴火では軽微な被害で済んだとはいえ、それは〈この時の爆発はストロンボリ式といわれる爆発で、現在、現れているのはブルカノ式爆発の前兆現象〉であり、楽観論の根拠にはなり得なかった。ブルカノ式の最大の特徴は、恐ろしい泥流の発生を伴う点にあるからだ。

前回、十勝岳がブルカノ式爆発したのは大正15年5月24日。当時の被害は甚大だった。

〈泥流は火口から二十キロ離れた美瑛、上富良野などの村を襲い、三百七十二戸を全壊させ、死者百四十四人を出した〉

結局、この年は噴火に至らなかったものの、その後、大小の噴火を繰り返しているのは周知の通りである。政府地震調査委員会の報告によれば、十勝沖で30年以内にマグニチュード9規模の地震が発生する可能性は7~40%という。十勝岳が再噴火する可能性もあり、天災の恐怖と向き合う日々は終わらない。

▲「週刊新潮」’69年3月8日号

大企業に負けない『ゲリラ会社』

日本経済が活気を取り戻すには、「下町ロケット」のような元気な中小企業が欠かせないが、高度成長に沸く半世紀前は“モーレツ”なバイタリティーで大企業に伍する企業も少なくなかった。「週刊現代」13日号が、東京で大成功を収めた北海製紙の奮闘を紹介している。

北海製紙の主力商品はティッシュペーパー。資本金では20倍以上の大手、十條キンバリーと山陽スコットを退けて業界トップシェアを奪ったのだから凄い。

1918(大正7)年創業の同社は、北海道では知られた存在であったが、〈「このまま北海道でお山の大将になっていたのでは、ジリ貧だ。それを打破するには、本州上陸以外にない」〉と工場の草加(埼玉県)進出を決断。昭和36年の春、同社販売課長だったホクシー販売(株)の松本義雄・常務取締役が単身上京し、わずか4坪半の事務所で孤独な戦いを挑んだのだった。敵はライバル企業だけではなく、まずは〈チリ紙業界の“古いしきたり”〉に苦しめられた。

〈生産者は大束のまま問屋に売り、あとは問屋まかせ、問屋がいくつかに分けて売る〉方式だったところに、〈パッケージに入れて、問屋には七十二円で売る。問屋は小売店に八十円で卸し、小売店は消費者に百円で売る〉という斬新な提案をしたことで、〈「たかがチリ紙屋のクセに、売り値まで指定するとは生意気だ」〉との反発も。こうした紆余曲折を経て、辿り着いたのが「アメヤ作戦」だ。

〈自転車にサンプル商品を積んだ二人組を六組つくり、東京、神奈川を六区に分けて、小売店まわりをやり、店頭にサンプルを置いてもらう〉地道な活動で、作戦名は〈綿アメ屋のようにペダルを踏むからついた名〉という。〈「さすがにみんなヘトヘトに疲れて帰った。しかし、これをやり抜かなきゃ、北海道の熊は、東京で生きていけない……だれもそう考えて頑張りました」〉と、松本氏は述懐する。

その後、北海製紙(のちにホクシーと改称)は2003(平成15)年に王子ネピアに吸収合併されてしまったが、こうした気骨ある道産子企業が次々と現れてほしい。

▲「週刊朝日」’69年4月25日号

雪の王子さま さっそうとすべる

天皇陛下の退位が迫り、世間の関心は新元号に集まっているが、「サンデー毎日」13日号のグラビア特集では、新天皇に即位される浩宮さま(当時9歳)がバカンスを楽しまれる様子を追っている。

場所は山形県の蔵王スキー場。〈パパといっしょにスキーを楽しまれた三月二十五日朝、中央ゲレンデにお出になったときは、前日来の猛吹雪はピタリおさまって快晴〉

パパとはもちろん今上天皇(当時の皇太子殿下)のことだが、貴重な親子水いらずのプライベートな時間まで、週刊誌のカメラに追い回されるのは気の毒ではある。

〈「まずボーゲンを完全にマスターしましょう」と猪谷六合雄氏がご指導申上げる。本格的なスキーはこれがはじめての浩宮さまは、見事なボーゲンで、スキーさばきもあざやか〉とあるが、指導を担当した猪谷六合雄氏は、近代スキーの草分けとして知られる。群馬県赤城山の出身。3回の結婚で9児をもうけ、国後島での生活を体験するなど、1986(昭和61)年に95歳で大往生を遂げるまで波瀾万丈の人生を送った。

浩宮さまはサングラスを着用されていたので、50年前の御尊顔を拝することはできないが、柔和な印象に面影を感じないでもない。女性スキーヤーからは〈「まあかわいい。雪の王子さまみたい」〉との声も。「雪の王子」はリフトで移動中もぴんと姿勢を正したままで、比較すること自体ナンセンスではあるが、あの「海の王子」とは品格がまるで違う。

浩宮さまは、英国オックスフォード大学留学中もリヒテンシュタイン皇太子とスキーを楽しまれるなど、なかなかの腕前とのことだが、スキー趣味の原点はこの日の体験だったのかもしれない。

▲「サンデー毎日」’68年4月13日号

オホーツクの氷上旅行

いまや人気観光地となっている知床だが、半世紀前は「秘境」の名がふさわしい最果ての地だった。「週刊朝日」11日号では、人跡未踏の真冬の知床を初踏破した、2人のアマチュアカメラマンを紹介している。

〈羅臼町役場職員の川端隆さん(29)と、羅臼郵便局員の中町保正さん(31)の二人が三年がかりでこの計画を立てた〉〈コースは根室海峡の羅臼側からオホーツク海側の斜里町ウトロまで〉

2人は2月23日に羅臼を出発し、零下20度のなか、18日間をかけて流氷づたいに海上を97キロも歩いた。当時としては大冒険といえよう。

2人の感想は〈「楽しい旅ではなかったが、とにかく素晴らしかった」〉

グラビアの写真は旅の過酷さと知床の美しさを見事に表現している。

▲「週刊朝日」’68年4月11日号

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