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北海道別荘地三百坪24万円の条件【1969年8月】

8月の週刊各誌は、軒並みアポロ11号の月面着陸という世紀のビッグニュースで占められているが、それは遠いアメリカの偉業であり、当時の日本人にとって宇宙はまだまだ遠い存在であった。とはいえ、人々は新たな時代の到来を実感したに違いない。1969(昭和44)年8月16日号の「週刊新潮」では、北海道の別荘地ブームの話題を伝えている。宇宙は遠くても、東京の富裕層にとって北海道は身近な場所となっていたようだ。

別荘地を求める8割が東京の人

別荘地の話題に触れているのは「週間日記」というコーナーで、この号の担当は北海道観光連盟専務理事の春日井仁氏(50)。まずは月曜日の行動からみていこう。丘珠空港から中標津へ飛んだ。

〈中標津の町役場に寄って、ただちに観光課長の案内で別荘分譲地を実地調査する。北海道は今、いわゆる“別荘ブーム”で、大小さまざまの不動産業者が乗り込んできて分譲をおこなっているが、町営分譲地というのはここだけである〉

中標津では個人の別荘地だけではなく、「文化人村」を建設する計画が進められていた。そこに名を連ねるメンバーは、村長候補の渡辺喜恵子、井伏鱒二、檀一雄、安岡章太郎、開高健ら錚々たる顔ぶれだ。

〈土地は無償、ただし水道・道路等の土地造成費として一坪当り実費八百円ナリを負担してもらうシステムである。もう一つの条件は来年末までに必ず別荘を建てること、つまり町の発展のために、単なる不在地主は願い下げというわけだ〉

たとえば三百坪なら、たった24万円である。いかに地価が安い中標津とはいえ、これは破格の条件といっていい。当然、役場には問い合わせが殺到した。

〈契約を済ませたのは大半が会社重役や弁護士、団体の役員ばかり。契約者の八割までが東京、あとは大阪、神戸の関西人で、道内は一人もいない。大自然にあこがれる都会人の切実な気持が端的にあらわれている〉

ちなみに、「文化人村」計画は、諸般の事情により立ち消えとなってしまった。続いては金曜日。今度は苫小牧周辺の別荘分譲地の視察に訪れた。

〈すでにジェット機時代となって、本州との距離は短縮されたし、将来新幹線が旭川まで延びてくれば、まさに足の便は革命的に解決する。東京—北海道間は軽井沢より近くなったといえる。最近、軽井沢を逃げ出す外人も多いというが、札幌近郊でもまだまだ地価は安く、坪一万円ほどで住宅地が手に入る。軽井沢に取って代わる日も遠くないだろう〉と指摘。実際、最近のニセコなどは「北海道の軽井沢」といった印象である。

春日井氏は同時に〈困ったことは、一部悪徳不動産屋の出没である。水もなく、とても人類が住めそうにない土地を二千円から三千円で売り出して問題になった例もある〉との問題提起も。当時は北海道の土地に関する情報が少なく、美辞麗句に騙される都会人が多かったのだろう。

土曜日は行きつけのラーメン店で昼食。〈最近の東京には数え切れないほどのサッポロラーメンが誕生し、私も上京の際、好奇心にかられてよく試食するが、なんとかサッポロという字を消してもらいたい店がかなりある。これが北海道の味だと思われては一大事である〉

同感である。最近も外国人観光客相手の店には、こうしたケースが散見される。ブームに便乗する輩には要注意だ。

▲「週刊新潮」’69年8月16日号

女房強くして亭主機関車を買い損ね

閉山になった沼田町の明治鉱業昭和鉱業所で活躍していた蒸気機関車「クラウス17号」が競売にかけられ、埼玉県在住の工場経営者の手に渡った話題を前号で紹介したが、その続報が「週刊文春」4日号に載っていた。870万円で落札したものの、資金のめどが立っていなかったこともあり、家族の猛反対に遭っている、というところで前号は終わっていたのだが、結局は白旗を上げざるを得なかった。以下は村上晋三(49)さんの「敗戦の弁」だ。

〈「いやあ、負けましたよ。ムコウは、どうしても買うなら、ここで一家別れちゃおう、っていうんです」〉〈「あの件が表沙汰になってから、家族は家ン中へ閉じこもっちゃって、私は三日間メシも食えずですよ。しようがない、工場の部屋で独身生活です」〉

一方、兵糧攻めまで仕掛けた妻のりつさん(43)は、〈「私たちに知らせないでデタラメなことをして……。八百万円の機関車でしょ。莫大なカネを出してナガメて何になるんですか。やめてホッとしてますよ」〉と話すが、いまだ憤懣やるかたないといった様子。同居する実母のコンさん(79)も、当然、嫁の味方だ。〈「いまの仕事は金のいる仕事でしょう。貧乏人がそんなことをしてどうします?」〉と呆れ顔で吐き捨てる。

孤立無援の村上さんだが、金策に関しては問題がなかったと豪語する。〈「横浜の知人に相談したら、金はないけど土地を貸してやる、って即座にいってくれました」〉〈「それに、見ず知らずの関西の人から電話がかかってきましてね……」〉

その人物は、金がないと公言する村上さんを「正直な男だ」と気に入り、700万もの現金を持ってきてくれたという。

村上さんが機関車購入をキャンセル(正式な売買契約を交わす前だったのでペナルティはなし)したことで、615万円で二番入札だった菊池忠さん(30)に権利が移った。が、菊池さんもまた一癖ある人物で、前年に自身が経営する「菊池産業」を倒産させていたことが明らかに。そんなわけで、資金源を案じる声が少なくなかったのだが、本人は〈「職業は、まあ、無職でしょうな。遊び人ですよ」〉と話すのみ。615万円が支払われたのか、またまた後日譚が気になるところである。

記事は〈老齢機関車の晩年は、なかなか安らかに過ぎそうもない」〉と結んでいるが、大金をはたいて機関車を買おうという奇特な人間は、やはり常人には理解できぬ感覚を持ち合わせているのだろう。

▲「週刊文春」’69年8月4日号

にっぽん“月世界”

タイトルの「にっぽん“月世界”」とは、アポロ11号ブームを意識してのものだろう。「サンデー毎日」10日号では、“月世界”と表現したくなるような異界の雰囲気を漂わせていた下北半島恐山紀行を特集している。

記者は恐山へ向かうバスの車中で、ある老女からこんな話を聞かされた。

〈「魂はどこへも飛ばねで、みなこの恐山に戻るそうだわ。ほどけ(仏)もいろいろござってな。小屋のそばを泣き泣きこぼして登る人、クヨクヨくどいてあがる人、アハハアハハと笑うて行く人。そんな声に窓をあけるとカラスがおってな。ああまたどなたか山へ戻りんさると思うて寝だら、やっぱ朝になっと、村のだれかが死んどるど」〉

記者は半信半疑で聞いていたが、やがて不気味な光景を目の当たりにし、老女の言葉を思い返さずにはいられなかった。

〈「三途の川」と書かれた橋を渡る。すると、両側の窓から緑の色がたちまち消え去った。バスがとまる。と、そこに灰色一色のすさまじい光景が開けていた〉〈霊場恐山本坊 円通寺 恐る恐る門をくぐり、足を踏み入れる。アポロ11号の船長も、月面でこうだったろうか。いや科学の第一歩には、こんな気分的な違和感はなかったろう〉〈ビューッと突風が舞い、髪の毛が逆立った。思わず踏みしめた小石がチャラチャラと鳴る。みんな軽石で風化した人骨のようだ〉

読者の心胆をも寒からしめる、記者の感情がリアルに伝わる文章である。夭逝した児童の霊を慰めようというのか、1年3組と記されたチューリップ帽が捧げられており哀感を誘う。

〈霊の移ったイタコたちが、白髪を乱して死者の激しいつぶやきを告げている。その前に背を丸め、悲願の声を聞く縁者たち。吹きつける一陣の風に、私は思わず身ぶるいをした〉

記者は恐山を後に仏ヶ浦へ向かった。

〈むかし、みちのくを北へ追われたアイヌが、本州最後の生活をここで営んだ。それが仏ヶ浦で、いまもアイヌの魂のふるさとといわれている。アイヌはここも追われて、海を渡らねばならなかった〉

アイヌといえば蝦夷のイメージしかなく、仏ヶ浦が彼らの聖地とは知らなかった。地名はアイヌ語の「ホトケウタ」(仏がいる浜)が転訛したものという。

現在の恐山は、かなりメジャーな観光地になってはいるものの、実際に訪れると、いまも霊界との境界が近いとの印象を受ける。

▲「サンデー毎日」’69年8月10日号

まぼろしの大本営

時代は令和に変わり、「戦争」の二文字はますます風化が進んでいるが、高度成長の只中にあったとはいえ、半世紀前はまだ戦時中の暗い影が日常生活のなかに色濃くまとわりついていた。「サンデー毎日」24日号では、八王子市の郊外で建設が進められた大本営移転予定地の巨大な地下壕を、早大の学生チームが潜入調査した様子をレポートしている。

地下壕の総面積は43万3千平方メートル。〈わき水、落盤の箇所がいたるところにあって通行はこの上なくキケンだった〉とあるが、写真をみると、確かに本格的な探検隊という雰囲気が伝わってくる。

地下大本営の建設が計画されたのは、ガダルカナル島を奪回されるなど戦況が悪化した昭和18年末だった。計画を進言した元陸軍関係者は〈「当時の戦局からみて、いずれ東京は空襲される。そのため大本営の移転は絶対に必要だったのです。その移転場所を八王子に選んだのは、東京に近いし、また地下施設を造るのにふさわしい場所と考えたから」〉と振り返る。

「ア号作戦」と名付けられた地下工事が着工されたのは昭和19年9月。工事を請け負った当時の運輸通信省鉄道局熱海中央施設部の責任者だった稲葉通彦氏は〈「とにかく一日も早く掘らなきゃいかんという軍命令なので、昼夜兼行で掘りました」〉と話す。

戦時中の大工事とあって、ご多分に漏れず、動員されたのは朝鮮半島出身の労働者だった。そのあたりの事情を、八王子市文化財専門委員の鈴木龍二氏は『武州八王子史の道草』のなかで、こう記している。

〈地下壕掘削の作業は、韓国人五千人を投入して日夜突貫工事で進められた。この五千人は一説によると七千人ともいわれ、浅川町の住民の四千人を上回る大世帯であった。しかし、韓国人の大集落がコツ然と山の中に出来て、飯場とはいえ人の往来も繁くなったから、空の上からでも、その変化の様相は注目されたと思う。敵側に通報するスパイがあったかどうかわからないが、昭和二十年八月二日未明の八王子空襲の夜、この浅川町も焼夷弾の大量投下に見舞われて、おおかたの市街を焼失した。その空襲のときは、照明弾で昼のように明るかった。おそらくこの地下壕工事がある基地周辺市街として目標とされ、集中爆撃にさらされたものと思う〉

また、当時、町役場職員として建設隊との連絡役に従事していた設楽政治氏は〈「地下大本営の工事と知ったのは終戦後でした。あそこは漏水や落盤が多かったようで、かなりの犠牲者が出たようです」〉と証言する。

これほどの代償を払ったにもかかわらず、昭和20年の春、工事はわずか3割ほどが完成した時点で突然、頓挫した。「漏水と落盤が多く、大本営には適さない」というのが理由だったようだが、詳しい事情はわからない。その後、中島飛行機製作所が一部を地下軍需工場に転用したが、まもなく終戦を迎え、歴史に埋もれることとなった。

現在、幻の地下壕は「浅川地下壕の保存をすすめる会」によって管理され、時折、一般開放されているようだ。

▲「サンデー毎日」’68年8月24日号

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