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安いチーズに政治が〝待った〟【1969年12月】

戦後の高度成長期は食生活の変化ももたらしたが、そのひとつにチーズが挙げられよう。雪印メグミルクのホームページによると、昭和26年まで日本人1人当たりのチーズ消費量はわずか10グラム以下に過ぎなかったのだが、昭和50年には国内総消費量が6万3千トンにまで急増したという。半世紀前は、まさにチーズが一般家庭の食卓に浸透していた時期であり、「週刊朝日」1969(昭和44)年12月5日号では、雪印と森永の熾烈な「チーズ戦争」の舞台裏に迫っている。

合弁は認められたが…

〈M・Kチーズは、発売前から有名になってしまった。Mとは、わが国の乳業メーカー御三家のひとつ森永乳業。Kとは、米国南部のアトランタに本社をもつクラフトコ社のこと。世界最大の乳製品メーカーである〉

前月に開かれた外資審議会において両社による合弁会社の設立が認可されたのだが、森永乳業の大野勇社長は〈「設立申請時におきましては、不幸にして、一部の方々の誤解を招きましたことは遺憾であります」〉と発言し、渋面を崩さなかった。

〈世界NO1と握手したのだから「チーズ」とでもいってニッコリしていいはずなのに、森永勢の顔はさえない〉

森永の狙いは、クラフトコ社を通じて格安な原料チーズを輸入し、当時の相場と比べ約4割も安いチーズを販売することにあった。外国産の原料価格は、35%もの高関税がかけられても、キロ当たり220円も安かったのだ。しかし、合弁こそ認められたものの、政府から厳しい条件が突き付けられた。その条件とは、〈外国原料は三分の二しか使ってはいけない。国内市場を荒らさないため、三年間はシェアが一〇%以上になってはいけない〉というもの。こうした保護主義はクラフトコ社の不信、不興を買うことになり、それが大野社長の表情から笑顔が消えた理由だった。

このMKチーズ騒動の発端は約1年前に遡る。森永が〈「わが国の酪農製品は世界一高い。日本人も安い国際価格のものが食べられるようにしたい」〉と大々的に打ち出したのだが、これは事実上、シェアで水を開けられていたライバル雪印への“宣戦布告”に等しかった。

▲「週刊朝日」’69年12月5日号

雪印に対抗する森永

〈消費者に安いチーズを、というキャッチフレーズのうらには、チーズ市場の六〇%を押える雪印に対抗する意図があった〉

大野社長が「一部の方々の誤解を~」と揶揄した「一部」が誰を指すかは明らかだった。酪農団体は〈「コメがだめになったら、酪農がわが国の農業の主流になる。安くて、うまい外国チーズがはいってきては、太刀打ちできない」〉と強く反発。雪印もまた〈その根拠地、北海道の議員や酪農団体を先頭に立て、巻返しに出た〉〈自民党農林部会で北海道選出議員がブレーキをかけた。「大資本の進出は、国内メーカーに致命的打撃を与える。森永に国産チーズの使用を義務づけろ」〉

北海道選出議員の実名は記されていないが、“消費者ファースト”などという概念が皆無の時代とはいえ、暴論との印象は拭えない。森永側は〈「米国チーズを目のカタキにするが、雪印の製品の原料の八〇%は輸入ものじゃないか」〉と嘆いた。実際のところ、雪印も安価な輸入原料に依存していたのだ。この時点では雪印の“政治力”が勝っていたのだろう。

〈森永だけ制限が加えられたのは、クラフトコ絶対反対、という“外資アレルギー”のあらわれだろうか〉

結局、翌年に森永・クラフトコの合弁(資本比率は50:50)は実現し、その後、森永の100%子会社(エムケーチーズ株式会社)となり現在に至る。外資アレルギーは時代遅れになったが、TPP(環太平洋連携協定)を巡っては、北海道の酪農業が抱く危機感は強い。そして、防波堤となるべき北海道選出議員に頼らざるを得ない現実も依然として存在する。

これが万博の呼び物だ!

1970(昭和44)年に開催された大阪万博は、1964(昭和39)年の東京五輪に続く国家的イベント。人々が並々ならぬ期待感をもって開幕を心待ちにするなか、「週刊現代」18日号では、ひと足早く話題のパビリオンを紹介している。

〈日本万国博には二十五の企業展示館が建つが、これに参加している企業は、九百七十九社にのぼる。万博史上最高といわれる会社数だが、この参加は思いがけない副産物も生んでいる。そのおもなものは、今まで孤立していたアイデア――研究――技術――生産が、それぞれ強力に結びついたことだ〉

その技術の粋をみていこう。まずは松下館のタイムカプセル。

〈特殊ステンレス鋼の球型で、重量一・六トン。内部に、七〇年現在の人類文化を象徴する品物を収め、万博終了後、五千年後に掘り出せるよう、地中に埋めることになっている〉

カプセルの内部はわかりにくいが、電気炊飯器やドライヤーらしきものがみえる。5千年後には「化石」のような扱いになるのだろうか。

ひときわユニークなのが、フジパンロボット館の記念写真を撮るカメラマンロボットとモデルロボットだ。現代のロボット像とはかけ離れており、ロボット三等兵のような愛くるしい表情が昭和を感じさせる。

〈モデルロボットの横へ、子どもたちがならぶと、カメラマンロボットの腕が上がり、記念撮影をするという趣向〉

開発者は現代児童文化研究所所長の肩書を持つ相沢次郎氏。多くの子どもたちを笑顔にしたに違いない。

三菱館は、空中に映像を映し出すスモーク・スクリーン。

〈空中にできるかぎり薄くした煙を流し、それに映像をうつす原理で、将来は舞台装置、店内装飾など、あらゆる分野での利用が期待されている〉

写真には、空中を遊泳する魚の姿が映し出されており、映像に強い三菱らしいテクノロジーといえる。

電力館は、1台で調整室の機能ももつ特殊エレクトーン。制作したのは日本楽器で、〈テープレコーダー二台、リズムマシンなどを内蔵し、効果音、オーケストラの音も随意に出せる新兵器。鍵盤の上のパネルは、記憶装置で、この装置にまかせておけば、演奏者がいなくても自動的に演奏する〉というもの。今となっては珍しくもない自動演奏だが、当時としてはクルマの自動運転ぐらいのインパクトがあったのだろう。

〈過去の万国博で、民間企業館はラジオ、ミシン、電話、自動車、プレハブ住宅など、枚挙にいとまがないくらい産業技術を世界に普及する役割を果たしてきた〉〈世界中から集まる四千万人の人が、これらにどんな評価をするかは、幕をあけてからのお楽しみだ〉

もはや人間の知能をAIが凌駕する時代となった。2025年の大阪万博ではどんな驚きの最先端技術が登場するのか楽しみだ。

▲「週刊現代」’69年12月18日号

終りなき“ネズミ算” への挑戦

来年の干支は子。ネズミの話題といえば、築地市場には約1万匹が生息していたといわれ、閉鎖に伴う解体工事の際、大捕獲作戦が展開されたのが記憶に新しい。とはいえ、ネズミの繁殖力、環境適応力は並外れたものがあり、その効果はいかほどだったのか。都内各所に散らばったネズミが、東京五輪開催中に神出鬼没とならないことを願うばかりだが……。

 「週刊朝日」12日号では、大阪駅を舞台にした人間対ネズミの壮絶なバトルを報じている。

〈退治したネズミが九千五百匹――。取りも取ったりこの数字は、国鉄・大阪駅が十一月五日から二十日までの間におこなったネズミ掃蕩作戦の戦果である〉〈乗客の足もとをチョロチョロして「アッ」と驚かせたり、預かった荷物をかじられたり。こんな被害の続出に、ゴウを煮やした大阪駅では、バネ式や金網のネズミ捕り四百個と薬品三十九キログラムの物量で、ネズミに挑戦した〉

9500匹という数は尋常ではなく、今のおしゃれな大阪駅からはとても想像できない。〈「大きいやつは四十センチぐらいもあり、後足で立上がってこちらを見よったときには、ネズミやない、化物みたいな気がした」〉との証言もあり、本業以外に駆り出された駅員の苦労がしのばれる。

大阪駅にこれほどネズミが大量発生したのは、駅前に「キタ」と呼ばれる一大歓楽街が広がっているからだ。この梅田界隈では「梅田奇病」が人々を恐怖に陥れていた。「梅田奇病」とは、〈九年前から出現し始めた病気で、突然、四十度の高熱が出て白血球は減少する原因不明の病気。今までに約七十人の患者があり、そのうち三人が死亡している〉というもので、ネズミに寄生するダニによって媒介されるウイルスが原因ではという説が有力視されていた。

〈キタの場合、万国博を目ざして地下街や高速道路の工事が盛んに行われているし、大阪駅も大改装の真最中。つまり市街地がビル化しているわけだが、それとともにネズミがふえる――この一見不思議な関係の原因はなにか〉

この問題について、解説するのは大阪市環境衛生監視員の岡田敏男氏だ。

〈建設工事で住家を追われたネズミは繁華街やビルに移ってくる。また、ビルがどんどん高層化するとはき出される下水の量はふえる一方なのに、下水施設のほうは昔のまま。いきおい下水はつまりやすくなって、そこがネズミにとっていい住家になってしまう〉

スクラップ・アンド・ビルドがネズミの大移動を引き起こすのは昔も今も変わっていないようだ。そして、人間の怠慢がネズミを増長させている側面もあった。食品衛生監視員はこう嘆息する。

〈「キタには店だけあって、自宅は郊外にあるという人が多く、自分の住んでいない地域のことなど知らん顔の人がいましてね。ひどいのになるとゴミ箱もなくて、夜になってから道に捨てるんですからなあ」〉

当時、人口に対してネズミは3倍というのが定説だった。現地ルポは〈キタのネズミはざっと数えて二十万匹。ネズミとの対決はなかなかきびしそうである〉と結んでいるが、その言葉はそっくりそのまま現代にも当てはまるだろう。

▲「週刊朝日」’69年12月12日号

弾薬列車、日本を貫通す

1939(昭和14)年に「弾丸列車計画」が検討されたことがあった。これは東京―下関間を結ぶ高速鉄道計画で、戦局の悪化によって頓挫したものの、のちの新幹線の実現に少なからず影響を与えた。

「週刊朝日」12日号で取り上げているのは弾丸ならぬ「弾薬列車」。文字通り危険な弾薬を運搬する列車である。

〈米空軍の山田弾薬庫の縮小にともない、そこに貯蔵されていた約千二百トンの弾薬を東京都下の横田基地と青森県の三沢基地へ貨車輸送する作業が始まった〉〈大量の弾薬とあって、一日十両の危険物満載の貨車が十二月八日までの十三日間、山陽、東海道、常磐、東北本線などの国鉄の幹線を使って動いている〉

山田弾薬庫がある北九州市では労働者や学生らが南小倉駅から山田弾薬庫までデモ行進し、横田基地に近い拝島駅では列車の到着を阻止せんとする学生ら約300人が集結するなど、沿線では抗議活動が展開された。が、いずれも暴徒化するには至らなかった。

また、国労と動力車労組も〈「危険がいっぱいだ」と輸送に反対声明を出し、順法闘争にとりくんだ〉とあるが、猛者ぞろいの国鉄労組も結局は腰砕けに。米軍関係の「ミッション」の前には無力だったということか。

▲「週刊朝日」’69年12月12日号

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