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日ソスパイ合戦の谷間にあえぐ根室漁民【1970年10月】

解決への道筋がみえない北方領土問題は、「やらずぶったくり」が常套手段のロシアが「領土割譲禁止令」を打ち出すなど、あからさまに領有権を主張し始めたことで、ますます島影が遠のいている。根室の漁民にとっては、今後も拿捕の恐怖だけが身近につきまといそうだ。1970(昭和45)年10月4日号の「サンデー毎日」では、ソ連に拘束された善良な漁民が、相手の甘言によってスパイと堕していく実態を克明なルポで追っている。

漁をさせるから情報よこせ

〈船が港を出て、右のほうにカジを向けたでしょう。三角海域に向かったんですよ。あのへんは魚もとれるが、それだけ危険なんです。夢中になって魚を追いかけてると、知らぬ間にソ連側のいう領海にはいってしまうんです。いま出かけた船も、無事帰ってこれるという保証はないですからね〉
 そう不安げに話すのは、根室漁業協同組合の窓から船団を見送った竹本勝巳指導部長だ。実際、出漁のリスクは高く、根室支庁の統計によると、前年までに1002隻が拿捕され、7634人の漁船員が抑留されていた。この年も8月末時点ですでに7隻にのぼり、33人のうち9人がいぜん抑留中であった。
〈「昔は拿捕ときくと飛上がったものですが、今ではまた行ったか、というくらい慣れっこになってしまった」(竹本部長)〉という現実が悲しい。
 拿捕自体が悲劇であるが、この問題は別の悲劇も生み出していた。それは“御朱印船”と呼ばれるスパイ漁船の存在である。いかにして善良な漁民が籠絡されてしまうのか。タラ漁船Y丸の甲板員の生々しい証言をみていこう。
〈Y丸に横付けされたソ連船からは、自動小銃を持ったソ連兵五人を従えて、大尉の階級章をつけた、ひとりの士官が乗り移ってきた〉
 この士官は「ハゲ通訳」と渾名される有名な人物であった。船員たちは色丹島の穴澗へ連行され、尋問が行われた。
〈全員共犯ということだった。だが、私はあくまで知らないことなので、否認を続けた。そのため、独居房に入れられた。取調べは二ヵ月以上も行われた。オドシたり、スカシたりされたが、私は「どうにでもするがいい」とクソ度胸を決めていました〉
 そんな日々を過ごしているうち、彼はハゲ通訳に呼び出された。そこには高官が待ち構えており緊張したが、なぜか友好的な雰囲気で、意外な言葉を耳にする。
〈「あなたは口の堅い、信念のある人です。われわれはあなたのような人と友だちになりたい」〉
 和やかな談笑が続いたあと、ソ連側は本題に切り込んできた。
〈「日本に帰ったら、日本の新聞、雑誌、それと根室にある自衛隊の人員、装置、根室署、海上保安部の主要な人の名前を調べてください。そのかわり、ソ連領海内で漁をさせてあげます」〉
 これがスパイ勧誘の手口なのである。こうした場面に遭遇したとき、ほとんどの漁民はソ連側の提案を受け入れてしまうという。それほどにソ連領海内は魚群があふれていたのだ。
〈妻の顔が、子供の顔が目に浮かんで、離れない。「やってみましょう」私は低い声で答えた〉
 好条件もさることながら、敵地で囚われの身では、相当な勇気がなければ「NO」と断ることができなかったに違いない。

▲「サンデー毎日」’70年10月4日号

スパイ船は仲間同士が監視

 こうしたスパイ漁船に厳しく目を光らせる根室署の角地覚警備課長は、根室の現実をこう解説する。
〈「頭が痛いことに、根室の漁民はそういわれることを期待してるんですね。全員がそうですよ。相互の利益に結びついているわけで、それだけに積極的に協力するんです。これでロスケ船頭になれるといって、よろこぶわけです」〉
 もちろん、スパイとなったのちは、旨い話ばかりではなかった。帰国後の甲板員の“諜報活動”はなかなかスリリングである。ハゲ通訳の指示通り、函館のQという人物に連絡を取った彼は、こう言われた。
〈「根室発函館行き急行〈ニセコ三号〉に乗りなさい。函館では、最後尾の後部出口から、一番最後に降りてほしい」〉
 函館駅では後ろから肩を叩いた人物に、〈「タクシーで湯の川温泉のS旅館に行ってください。私は一足遅れて行きます」〉と声をかけられ、指定のホテルへ行くと、2人の男が待っていた。
〈男は、大型の封筒を私に渡し、次の出漁で持って行くようにいった。その時、もう一つ、小型の封筒も一緒に持って行くよう、渡された〉
 その後、彼がT丸の船長として勇留島に出漁した際、ハゲ通訳と接触。依頼された封筒を渡すと、「よくやってくれました」と労われたのだが、続いてぞっとする言葉が耳に飛び込んできた。
〈「あなたは根室でお酒をよく飲んでますね。これは酒場での、あなたの写真ですよ。あなたの行動はすべてわかります。裏切らないでください」〉
 ソ連側は、スパイに相互監視させるシステムを構築していたのだ。
〈いつとられたのか全く気づかなかった自分の写真に、私は驚き、背筋に寒いものが走った〉
 後日、判明したことだが、小型の封筒には、あるロスケ船頭の経歴調査が入っていた。この船長は、封筒を渡してまもなく、穴澗の病院で首吊り自殺したという。謎だらけの自殺だったことは言うまでもない。
 こうしたリスクはあっても、ソ連の手先になることを望む漁民は後を絶たなかった。
 前出の角地警備課長は、捜査の難しさをこう説明する。
〈「だれもが御朱印船になりたいだけに、みんな口が堅い。それに、取締まる法もないし、なにしろわれわれの入れない海上のことだ。ほとほと手を焼いている」〉
 ただ、実際は、誰がロスケ船頭か、警察はすべてお見通しであったようだ。船長の多くは〈海保にしても、ソ連情報を収集するため「泳がせている」〉との見方を示していた。また、海保と警察の関係も微妙で、〈「警察はキャバレーMへよく飲みに行くが、海保は立入り禁止。情報ルートが別なんで、お互いに牽制しているんです」〉といった声も。
 複雑に人間関係が交錯するなかで、それでも漁民は危険な海へ出なければならなかった。さすがにスパイという言葉は前時代的なものになったとはいえ、いまだ拿捕の恐怖が付きまとう海であることに変わりはない。

「北海道女性との結婚は要注意」

 「コロナ離婚」という言葉が取り沙汰されているが、北海道の離婚率が長らく全国1位だったことは多くの人が知るところだ。「週刊現代」8日号では、札幌家庭裁判所次席調査官の永井輝夫氏による道産子女性の気質解説を詳しく紹介している。
 北海道が初めてトップとなった昭和43年度の離婚率(人口1千人に対する離婚件数の割合)は1・28%。前年度までトップの常連だった2位の高知県は1・27%と僅差だったが、その後は一気に差が開いていった。
〈公式発表はまだだが、道庁保健予防課のまとめた昨年(昭和44年)度の離婚率は一・三六㌫。高知県の同統計が一・二八㌫だから、段ちがいの独走といっていい〉〈「離婚実数、離婚率ともに史上最高記録を更新しました」と、道庁でも呆れ顔〉
 高知県の場合、「男女とも情が厚い半面、短気でやや忍耐力に欠ける県民性」を高い離婚率と結びつける意見もあるようだが、北海道はどんな特徴があるのだろうか。永井氏は4つの要因を挙げる。
〈第一は、明治初年に屯田兵が本州各地から入り、開拓を始めたという歴史の浅さ。したがって、道民一般が堅苦しい伝統とか家風などにしばられず、簡単に当人同士の合意で結婚に踏み切ること〉
 これは今でもよく言われることである。
〈第二は、はじめは女性が少なかったため、希少価値が生じ、その地位も本州とは比べものにならないほど高かった。その名残りが、いまなお強いという事実〉
〈三番めに、北海道には女性の働く場所が多く、収入もいい。その点からも、自分をおさえ、我慢しようというねばりがない。ちょっとしたことから「別れましょう」ということになる〉
〈四番目に、寒いから、男女を問わず酒に親しむ機会が多い。その結果、暴力ザタが起ったり、男女関係でゴタゴタがもちあがったりする〉
 いずれの見方も、さもありなんである。記事では〈北海道の離婚率の増大は、女性に負うところ大ということになりそうだ〉と論じているが、当の女性たちはこの数字を認めたくないようだ。
 札幌在住の作家・原田康子氏は〈「離婚率が日本一ですって……信じられません」〉と絶句。札幌出身の女優・姿実千子氏は、〈「とんでもない!私が男だったら、ぜったいに北海道の女性と結婚する。おおらかで、ロマンチックで、素朴で親切で、東京の女性みたいに現実的ではないからです。結局、男性の仕込み方、愛し方次第ですよ。うそかほんとか試してみればわかります」〉と憤慨する。「姿さんのような素敵な女性はそういないからでしょう」と皮肉のひとつも言いたくなるが、夫の元プロ野球選手・倉田誠氏はさぞ幸せだったに違いない。
 ちなみに、厚労省が2019年に発表した「人口動態統計の概況」によれば、離婚率1位は沖縄県で、北海道は4位に“後退”している。喜ぶべきデータではあるが、道産子女性のたくましさは、当時とそう変わっていないのではなかろうか。

▲「週刊現代」’70年10月8日号

三度目の「あと500日」

  コロナ禍はいまだ終息の兆しがみえない一方で、1年延期となった東京五輪のほうは「中止」の二文字がみえてきた。まだ先の話とはいえ、札幌市が招致を目指している2030年冬季五輪にも暗い影を落とすに違いない。「週刊文春」5日号では、やや皮肉っぽいトーンで、2年後に迫った札幌冬季五輪の準備状況を伝えている。
〈東京オリンピックだ、万国博だ、と、のべつ“あと何日”に追いかけられ、ナントカカントカ“大成功”にたどりつき、やれやれこれでやっとひと休みかと思いきや、またまた今度は一九七二年札幌冬季オリンピックだとおっしゃる〉〈開催地にとっては都市改造計画実現のまたとないチャンス。そこは札幌市とて抜かりなく、オリンピックの錦の御旗をおしたて、冬の札幌名物バイ煙一掃の集中暖房化と、東京大阪名古屋につぐ地下鉄設置をものにした〉
 記事では「やれやれ」と評しているが、道民の間ではオリンピック熱は高かったように思う。特に地下鉄の開業は、札幌市民の生活を大きく変えた。
〈最後の仕上げに忙しい札幌郊外・真駒内のスピードスケート競技場と屋内スケート競技場〉〈各種競技施設の進行ぶりも、来年二月のプレオリンピックの前に完成という。かつてない記録的なスピードだそうである〉
 真駒内の航空写真が載っている。周囲は豊かな自然が広がるばかりで、高い建物は見当たらない。ただ、50年後のいまも、ここはそう風景が変わっていない印象だ。
 屋内競技場は「セキスイハイムアイスアリーナ」、屋外競技場は「セキスイハイムスタジアム」となり、現在もその姿をとどめているが、2007年のネーミングライツ取得時に、規定により、残念ながら五輪マークは消えてしまった。
 夏場の強化トレーニングの写真も時代を感じさせて面白い。リュージュの練習シーンでは、選手が思いきり転倒し、関係者が苦笑するワンショットも。転倒の原因を〈間に合わせの“クマザサのコース”によるためか〉と解説しているが、当時はこんな原始的なことをやっていたのかと思う。スキー選手は、〈塩化ビニールを敷いてのトレーニング。雪の感触を忘れないために欠かせないもののひとつだ〉とあるが、塩化ビニールはどれほど効果があったのか――。
 地下鉄駅では冬季五輪テーマソングであるトワ・エ・モワの「虹と雪のバラード」を流して気運を盛り上げているが、招致決定の前にまずはコロナ終息の喜びを味わいたい。

▲「週刊文春」’70年10月5日号

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