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五輪だ、大車輪だ!!【1970年12月】

コロナ禍はいまだ終息の兆しがみえず、来夏に延期された東京五輪の開催も微妙な情勢だ。景気高揚を重視する政府は、規模を縮小しての開催に傾いている印象だが、五輪に否定的な意見が多数を占める世論調査との乖離が難しい現実を物語る。1970(昭和45)年12月25日号の「週刊朝日」では、2年後に迫った冬季五輪によって、大きく変貌を遂げる札幌の街を紹介している。札幌は2030年冬季五輪の招致に意欲を示しているが、前回と比べ、盛り上がりに欠ける感は否めない。気運醸成の前に、まずはコロナの完全終息が大前提となるのだが――。

ビル林と化した薄野

 「週刊朝日」25日号は、グラビア13ページ、ルポ5ページもの大特集を組み、冬季五輪を控えた札幌の「いま」を詳細に伝えている。
かつての北海道には、大きなリュックを背負った「カニ族」と呼ばれる若者が大挙して訪れていたが、この年は敬遠されてしまったようだ。
〈彼らが“快適なねぐら”としてアテにしていた大通公園が、地下鉄と地下街工事のためにすっかり掘り起こされたうえ、工事用の覆いまでかけられて、寝泊まりどころではなくなったからだ〉
人々が大らかだった当時は、公園や駅で寝ている旅行者がいても、誰も見咎めなかった。宿代を浮かす節約術として、こうした“野宿”は当たり前だったのである。
〈すさまじいビルラッシュだ。最近の調査だと、市内には五階以上のビルが五百五十四もあるそうだ。高さのほうでは、建築中の新市庁舎が十九階でいまのところ道内最高だが、最近工事にとりかかった住友生命ビルが、高さ二十三階で次なる北海道一をねらっている〉
現在の最高峰ビルはJRタワー(高さ173メートル、38階建て)である。いまや老朽化が目立つ“新市庁舎”は高さ約80メートル。周囲は高層ビルばかりであり、半世紀前はこれより高い建物が存在していなかったことが信じられない。
開発ラッシュの波は、札幌駅から大通までのメインストリートのみならず、すすきのにまで及んでいた。
〈札幌の“夜の銀座”といわれた薄野の飲み屋街も、なつかしい屋台やノレンが姿を消し、「バービル」と呼ばれる高層ビルの中に収まっている〉〈銀座や新宿でみかける、ネオンの看板がずらっと並んだあのビルそっくり。いや、あれ以上で、一説によると、その総数五千店を超え、二万五千人のホステスが働き、一晩に一億円を超す水揚げがあるという〉
歓楽街にとって五輪が追い風になったことは間違いないようだが、一方で失われつつある風情を惜しむ声も少なくなかった。
〈「エルムの都」「アカシアの町」「森の都」そして「詩の都」などという札幌の代名詞が、観光用だけに残り、地元では「グレート・サッポロ」とか「リトル・トーキョー」と呼ぶようになった〉
北海道教育大学の十亀昭雄助教授はこう指摘する。
〈「開拓とか開発という言葉は、北海道にとっても札幌にとっても、これまで一度も疑問をもったことのない言葉でした。しかし、このオリンピック大改造のなかで、ようやく開発一本ヤリに対する疑問が出てきたのではないでしょうか」〉〈「札幌はもともと役人がつくりあげた町であり、官僚的体質が強い。町づくりも行政や開発ベースで一方的に進められ、市民の声が反映する余地がなかった。ビルは大きくなったが、なんとなくよそよそしくてさびしい町になってしまった、というのが実感です。この建設の槌音がなくなった時に、どんな札幌が形をあらわすのか。私は、ほとんど期待をかけていないのですが……」〉
近代化に沸く札幌は、都市の膨張という問題を抱えていた。この年の国勢調査では、人口がついに100万人を突破。1960(昭和35)年時点では約52万人だったから、10年の間にほぼ倍増したわけだ。
〈「政治生命を賭けてオリンピックを招致した」という原田(與作)市長でさえ、いまでは「最近の都市化のテンポには、もうついていけない」〉と嘆息するほどだった。人口問題で頭を悩ませていたのは道庁も同じで、こちらは〈五百三十万を見込んでいた道人口が、国勢調査の数字では、五百十八万という伸びなやみ。膨らんでいるのは札幌だけで、道内の市町村の多くは過疎化へ向うというアンバランスな結果が出た〉からだ。
札幌への一極集中という問題は、すでに半世紀前から始まっていたようだ。ただ、その札幌とて、〈道路の舗装率はわずか一三%〉〈水洗便所を取りつけたものの、肝心の上水道がない〉〈一日約五百トンのゴミが出るのに処理能力は三十トン分しかない〉といった有様だった。
最後にグラビアにも触れておこう。
〈地下と高架で近郊と都心を結ぶ高速鉄道が去年2月着工された。パリの地下鉄にヒントをえたこの電車は、コンクリート製のレールにゴムタイヤの車輪で“無騒音”が売りもの。「オリンピックまで」を合言葉にまず南北12キロ分(北24条―真駒内間)の完成をいそいでいる〉
このゴムタイヤ方式は非常に珍しく、国内では唯一、世界でもほとんど例をみない。鉄の車輪に比べ、騒音や振動は少ないが、ゴムは摩耗が激しいため、タイヤ交換のコストがかさむという難点があるとのこと。1971(昭和46)年12月に開業した南北線は、全国4番目の地下鉄で、市民の生活を大きく変えた。五輪招致に弾みをつけようと、地下鉄駅で流れている冬季五輪のテーマソング「雪と虹のバラード」が感慨深い。

▲「週刊朝日」’70年12月25日号

その日の報道のかくされた部分

コロナ鬱のせいか、芸能人の自殺が相次いでいる。もちろん、自殺願望に駆られるのは芸能人だけではなく、今年8月の自殺者は前年比16%増の1854人にのぼったという。コロナ終息の見通しが立たぬなか、自殺の連鎖が続かなければいいのだが――。
半世紀前の11月25日、ある大物の壮絶な自死が日本中のみならず世界の耳目を集めた。その人物とは、文豪であり国粋主義者でもあった三島由紀夫である。自身が隊長を務める「楯の会」のメンバー4人と共に自衛隊本部があった市ヶ谷駐屯地を訪れた三島は、東部方面総監を監禁したうえ、隊員を前に憲法改正の決起を促すアジテーションを敢行。が、隊員から罵声を浴びせられたため、「天皇陛下万歳」と叫んだのち切腹自殺したのだった。12月の週刊各誌は、三島事件の話題で一色となったが、現場を取材した記者の緊迫感あふれる体験談を載せた「週刊文春」21日号の特集をみていこう。
三島事件を速報した夕刊は、平常時の5倍以上も売れたという。それほどにショッキングなニュースだったわけだが、なかでも特に売れたのが、〈「号外四万部、駅売りで六万部増刷」した朝日新聞とサンケイ新聞と日本経済新聞〉だった。多くの人が3紙を手に取ったのは、強烈なインパクトの生々しい写真が掲載されていたからだ。
〈朝日のは三島由紀夫・森田必勝の生首が床の片隅に、ごろんと石ころのようにころがった無残なもの。サンケイと日経は楯の会の制服がかぶせてあった三島由紀夫の首なし写真〉
森田は「楯の会」の中心メンバーである。あまりの残酷さに、朝日新聞社には抗議や苦情も寄せられたのだが、GOサインを出した理由を、編集局次長の高津幸男氏はこう説明する。
〈「(これまで)読者に残酷とか残虐な不快な念をあたえるような写真の掲載は厳格にさけてきました。しかし三島事件の場合は、三島個人、あるいは三島の美学だけに帰結させてはならない。自衛隊がどうであろうとも抜刀して入りこむというのは公然たる秩序、公共に対する破壊行為であると考えたからです。三島が自宅で介錯させたのなら、そんな写真はのせません。あくまで公共の場でのこと。三島自身のプライバシーの放棄です」〉
もっとも、生首写真は狙って撮ったスクープではなく、偶然の産物だったようだ。変事を聞きつけた取材陣が自殺現場の総監室へ向かおうとしたが、正面階段は自衛隊員が固めていたので通れない。そこで非常階段から総監室に近づき、天窓に腕をかけて内部を覗き、夢中でシャッターを切ったという。
朝日のカメラマンA氏がこう述懐する。
〈「社へ帰って現像してもらったら、左下隅に生首が二つ写っているといわれ、脚がガクガクふるえてきました。昼めしのトンカツも食べのこしましたよ。もし窓からのぞいたとき生首が見えていたら、私は撮れなかったでしょう」〉
A氏はこの2ヵ月前、とある企画で三島の写真を40枚も撮ったばかりだった。本人も不思議な縁を感じていたようだ。
天窓は左右に2つあり、右からカメラを向けたサンケイのカメラマンS氏は、前述の制服がかぶせてあった三島の首なし写真を撮ることに成功した。とはいえ、右の天窓に移動していれば、より衝撃的な生首写真も収められたのだが――。
当のS氏は〈「紙面では朝日さんに負けたが、生首が撮れなくてよかった気持ちにもなる」〉と、複雑な心境だったよう。プロのカメラマンですら目を背けたくなるほどの凄惨な場面だったということだろう。
朝日ら3紙らとは対照的に、危うく〝特オチ〟になりかけたのが共同通信社だ。〈事件発生の第一報がはいったとき、共同通信社の労組はちょうど冬期補給金闘争の「一斉休憩」を強行していた〉のである。実は、この年の4月、「よど号事件」が起きたときもストの最中だった。
〈「社内でも問題になりましてね。十年に一度の大事件を取材しないなんて、新聞記者精神を忘れているんじゃないかということで、体質改善しなくちゃならなかった。そこにまたまた、こんどの不運がかさなった。泣けてくるなあ」〉とベテラン記者は嘆く。共同は出遅れたばかりか、〈あわてて送った三島ら五人の乱入隊員の顔写真が間違っており、森田必勝と古賀浩靖の写真説明がいれかわるという失態〉も重なり、全国の地方新聞社からは「また共同さんか……」と怨嗟の声が相次いだ。このときは、〝保険〟の時事通信から記事を買って、急場をしのいだ会員社も少なくなかった。
三島の死から半世紀。作家以外での評価はさまざまだが、ステイホームの慰みに、改めて三島作品を読み直してみたい。

▲「週刊文春」’70年12月21日号

その日から滝地区は無人になった

 東京一極集中の弊害が叫ばれる一方で、地方の過疎化が止まらない。長引くコロナ禍が地方暮らしの良さを見直すきっかけとなればいいのだが。
「サンデー毎日」20日号では、「限界集落」どころか、住民がすべて移住してしまい、集落が消滅した山形県西置賜郡小国町滝地区の最後の様子を追っている。
〈36戸のワラぶき屋根が点在する滝地区には百九十六人が住んでいた。一戸当たりの耕作面積は約一ヘクタール。一戸当たりの年間所得は、軽く百万円を突破していた〉〈「滝は山菜の宝庫なんですよ。山菜だけで五十万円もかせぐ家はザラでした」〉
というわけで、村に産業がないことが集団移住の理由ではなかった。
〈「多い時には8メートルも積もるんです。冬場の収入はゼロ。それよりも一番こわいのは急病人。医者のいるところまでは27キロもあるのでね」〉
実際、搬送中に息絶えてしまう悲劇も数知れずあった。村に見切りをつけたもう一つの大きな理由が嫁不足だ。医者もいない、雪に閉ざされた僻地に嫁ぐ女性などいるはずもなかった。
〈四百年も続いた祖先伝来の土地を捨てた人たちの大半は、町が用意した公営住宅におさまり、働き手を町の中心部の化学工場へ送り出している〉〈「近代的な生活の場にいるということはいいもんです。収入ですか? サラリーだけでは足りないので、その都度、かつての自分の土地に通い百姓にいくことにしているんです」〉
村民たちにすれば、収入補填だけではなく、ふるさとの土の匂いに触れることで、安息を得ている側面もあったのだろう。
それにしても、医師不在と嫁不足という地方が直面する悩みは、半世紀前から何ら解決されていないようだ。

▲「サンデー毎日」’70年12月20日号

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