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青函トンネルの大出水

 今年3月26日、北海道新幹線は開業10周年を迎えた。本州と北海道を結ぶ青函トンネルは、将来の新幹線計画をも見越して建設されたものだが、完成までには数々の想像を絶する困難があったことは改めて説明するまでもない。1976(昭和51)年5月20日号の「週刊新潮」では、5月に発生した大規模な出水事故の話題を伝えている。こうした難工事以外にも、さまざまな問題を抱えたまま進められた世紀のプロジェクトには、現状の新幹線延伸の大幅遅延につながる伏線があったようだ。

その“後遺症”と“有効性”

▲「週刊新潮」’76年5月20日号

 5月6日未明、函館側の吉岡工区作業坑切羽で起きた出水事故。同日の夕方には出水量が毎分40㌧にも達し、その現場を目にした関係者は〈「津軽海峡の底が抜けたのではないか」〉と震え上がるほどだったという。
 事故発生の4日後から排水作業が始まり、どうにか最悪の事態は免れたものの、すでに大幅な遅れが生じていた工期は、さらに停滞を余儀なくされた。

〈青函トンネルは、津軽半島先端の竜飛岬と松前半島の白神岬を結び、海底部が二十三・三㌔、陸上部が三〇・五五㌔、全長五十三・八五㌔と、世界最長のトンネルになる。最も深いところは水深百四十㍍の海底から、さらに百㍍の地下を通る〉〈新幹線を通すため幅十一・四㍍のカマボコ形断面の本坑と、これの工事支援と完成後のサービス・トンネルとしての作業坑(幅五㍍、高さ四㍍)、地質調査用の先進導坑(パイロット・トンネル)の三本が、両側から掘り進められている〉
 こうして具体的な数字を並べたうえ、工事の概要を説明されると、素人にもいかに難しいプロジェクトであったかが理解できる。

 工事を担当したのは、日本鉄道建設公団(現・独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構)。昭和39年の発足と同時に、その前年に国鉄が開始した試掘を引き継ぎ、昭和46年末から本格的な工事に着手していた。
〈工事区間は複雑な地形で、断層が多いため、セメントミルク、水ガラスなどの特殊凝固剤を岩盤に注入掘削する工法を採用しているが、それでも出水、崩落に悩まされてきた〉

 大規模な出水事故は前年の1月8日にも起きている。
〈吉岡工区作業坑の大出水(毎分十二㌧)で土砂が崩落。一年間にわたって北海道側の工事がストップした〉
 昭和46年の着工時、竣工予定は54年とされていたのだが、その目標は絶望的となり、鉄道公団はこの年の1月、57年春と見直しを発表したばかりだった。

 青函連絡船「洞爺丸」の悲惨な沈没事故が、安心安全な海底トンネル構想を後押ししたのは周知の通りだが、トンネルを通過するのは在来線の列車だけではなく、新幹線も視野に入れたものだった。昭和47年、北海道新幹線の基本計画が閣議決定している。
〈完成後には、特急で十七時間二十分かかる東京―札幌間が、天候に左右されることなく、五時間四十分で走れる。さらに貨物輸送量も考えれば、その経済的有用性は大きい〉

 これは50年前に書かれた記事だが、札幌延伸を待つ現在の状況にも通じる文言といえるだろう。
〈また、青函トンネルの工事費は、当初二千十四億円と試算されていたが、工期の遅れ、資材、人件費の高騰などから、やはり今年一月に、三千五百十四億円に手直しされている〉

 これもまた、トンネルを新幹線延伸区間と置き換えれば、工期遅れやコスト増の膨張は、そっくりそのまま当てはまる。
 出水対策も重要だが、「湯水の如く」費消される莫大な予算の是非についても、改めて検証する機会を設けてほしいと思う。

ジャイアンツ“張本暴行事件”

▲「週刊朝日」’76年5月7日号

 1976年のプロ野球セ・リーグは、日本ハムファイターズから長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツへ移籍した張本勲のハッスルぶりが話題を集めていた。そうしたなか、広島市民球場で起きたジャイアンツの選手とカープファンによる乱闘事件の舞台裏を、「週刊朝日」7日号が被害者の証言もまじえて報じている。

 騒動の発端は、9回表、本塁でのクロスプレーを巡る判定だった。山本浩二の送球で土井正三がアウトに。これに抗議する長嶋と選手が球審に詰め寄ると、カープファンがスタンドからなだれ込み、数人が選手と揉み合いになったのである。

〈「巨人ナインに襲いかかるファン。長嶋監督がこづかれたため、張本、原田、黒江コーチらが一団となってファンを殴った」(スポーツニッポン)〉〈「こぶしを振り上げるファンに張本らが身を挺して防いだが、もみあっているうちに、持っていたバットがファンを突くかっこうになった」(報知新聞)〉

 球界きっての暴れん坊といわれた張本の面目躍如といえるが、この乱闘はひとまず収まった。ただ、試合終了後、バス乗車口付近で第2ラウンドが待っていた。

〈「谷村仁臣さんと巨人軍選手のだれかとが激しく接触し、谷村さんは頭と腹に手傷を負った〉
 この場外戦で、谷村さんを負傷させたのが張本と疑われたのである。
〈「(グラウンドの一件の謝罪を求め)木の柵を越えて十数㍍駈け寄ったら、出合い頭にけられた。そして、頭をバットでゴツンとやられた」〉

 地元紙・中国新聞から「捜査が手ぬるい」と批判された広島県警の関係者は、こう反論する。
〈「広島では張本が悪いとなっているが、よそではファンの態度が問題だとの声も強い。また、加害者側に攻撃の意識があったのかも調べなあかん。被害者だって、わざわざ柵を越えて近づいとるんだから」〉

 実際、ファンの側にも大いに問題があった。張本は広島出身で被爆者でもあるのだが、「巨人」の一員となると容赦はなかった。76歳の母親・順南さんを初めて球場に連れてきたという兄の世烈さんは憤りを隠さない。
〈「目の前で男たちが弟をやじり始めました。『チョーセン!かえれー!』『強制送還させるぞ!』――。罵声のかぎりを尽くしていました。母は顔が引きつり、体が震え出しました」〉

 世烈さんは差別的なヤジだけはやめるよう懇願したが、彼らは取り合ってくれなかったという。
 日本語が不自由な順南さんも、世烈さんの通訳を介して、こう声を振り絞った。
〈「広島に生まれ、原爆をうけた者をどうして広島市民が罵倒せないかんのか。もう広島市民球場には二度と行きたくありません」〉

 心の痛みは、バットで小突かれるよりも痛いはずだ。

一攫「六千万円」をネラう風景

▲「週刊新潮」’76年5月20日号

 5月31日に東京競馬場で行われる日本ダービー。年末の有馬記念と並び、競馬ファンが1年で最も盛り上がる日だ。午年の今年はどんなヒーローが誕生するのだろうか。

「週刊新潮」20日号では、2週間後に迫ったダービーに向け、緊張感が高まる関係者の様子を追っている。
〈一着賞金五千万円。ほかに生産者の賞金から騎手の賞品(乗用車)までひっくるめれば一日に六千万円――という大ニンジンが目の前にぶら下がっているんだから、冷静になれといったってムリなんだなあ……。“一攫”をネラう男たちの目も一段ときびしくなった〉

 当時の6千万円は間違いなく大金であるが、現在の1着賞金は5倍の3億円まで跳ね上がっている。そして、賞金だけではなく、サラブレッドの取引価格も当時とは比較にならぬくらい高騰している。

〈昭和四十八年春に日本で生れたサラブレッドは約七千頭。その中から二十八頭しか出られぬレースがダービーだ〉
 2024年の生産頭数は7925頭。この数字が半世紀前とそう変わっていないのは意外だが、昔も今も北海道の主要産業であることに違いはなく、全体の約98%を北海道、そのうち日高地方が約80%を占めている。
 ちなみに、現在のフルゲートは18頭。ハレの舞台に立つための「狭き門」は、いっそう狭くなったわけだ。

 この年の主役は、“天馬”と称されたトウショウボーイだった。
〈保田調教師は「このごろ目覚めが早くなったよ」という。午前五時には馬房をのぞくのが日課になったとか。朝の運動のあとで主食のエンバクにニンジンを入れるかダイコンをまぜるか。ニンニクミソにしようか……このあたりのメニューが最大の“企業秘密”だ〉〈午後のトレーニングはふつうは厩務員の担当だが、本番で乗る池上騎手もヒマをみてはやってくる。居ても立ってもいられないのだ〉

 ダービーに大本命馬で挑む、関係者の落ち着かぬ心情が伝わってくる、レース前の数日間は、不審者の侵入を防ぐため、ガードマンが徹夜で巡回するほどの物々しさだったという。
 で、結果はというと、断然人気のトウショウボーイは2着に惜敗し、4番人気のクライムカイザーが栄冠に輝いた。その後、トウショウボーイと何度も激闘を繰り返し、海外遠征前の壮行レースで非業の死を遂げたライバルのテンポイントは7着だった。

「ダービー馬の馬主になるのは一国の宰相になるより難しい」(ウインストン・チャーチル元英国首相)という有名な格言がある。ちなみに、昨年のダービーは2人しかいなかった女性馬主のひとり、石川達絵さんが所有する「ショウヘイ」が3着と健闘したのだが、とてつもなく強い女性宰相が誕生した今年はどうなるか――。

 そして、余談をもうひとつ。2022年までダービーの前週、長きにわたり新潟競馬場で「早苗賞」というレースが実施されていた。中止理由はわからないが、同レースを復活させれば盛り上がると思うのだが。

ぽっくり往生したい老人たち

▲「週刊新潮」’76年5月27日号

 最近は「ピンピンコロリ」という生き(逝き)方が理想とされているが、半世紀前には、同じ意味の「ぽっくりさん」を祈念する寺院へのお参りがブームとなっていたようだ。「週刊新潮」27日号が、遠方からも続々と団体が押し寄せる奈良県香芝町の阿日寺の賑わいを伝えている。

 阿日寺が「ぽっくりさん」と呼ばれるようになったのは、念仏の始祖といわれる恵心僧都が母の死に際、手ずから浄衣を着せて祈願したところ、母は微笑を浮かべ安らかに安楽往生した、という故事に因む。

〈連なってやってきたバスから、ぞろぞろ降り立つ老人たち、混み合う山門の道を思い思いに歩いていく。“ぽっくり往生祈願”――奇妙な流行と言い捨ててしまうことは易しいが、いったい何が老人たちをこうやって集めるのだろうか〉

 3年を費やして全国の「ぽっくりさん信仰」の実態を調べ、著書にまとめた東北福祉大学の塚本哲教授はこう説明する。
〈「昔は嫁にくることは老人の面倒を最後までみること。そして自分もまた嫁にみとられてゆくということだった。そういう家族制度のライフサイクルが急速に壊れてきている。その不安が、こういったブームを呼ぶわけです。ただ、商売に走るお寺が出てくることは困るんだ」〉

 さすがに仏門に帰依する身、そう阿漕な金儲はしていなかっただろうが、高額な「お布施」を求める寺もあったに違いない。
〈「年をとってから、嫁に下(しも)の世話をかけることなく、ぽっくりといけたらなあ」〉
 病気や体力の衰えなど、悩みはいろいろあれど、特に「下」の問題が切実だったようだ。

〈老人たちは、肌着、腹巻、ハンカチなど身につけるものを持ってやってくる。これを祈願してもらい、肌身離さず身につけていれば、“安楽往生”まちがいなし〉というもので、寺ではこれを「浄衣祈願」と称していた。

「死」と向き合う儀式の割には、参加者の表情は明るい。
〈境内あふれんばかりの老人たちは、お弁当をひろげたり、ベンチに座っておしゃべりしたり〉
 深刻になっては「ぽっくりさん」の精神に反するから、これが正しい姿なのだろう。