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NHK元集金人に 「扇動」された深川市三千世帯

 NHK受信料を巡るトラブルは、いつまでたっても有効な解決策が示されないが、半世紀前にも同様の問題が頻発していたようだ。「週刊新潮」1975(昭和50)年10月2日号が、元集金人の男性が起こした騒動の顛末を報じている。その舞台は北海道の深川市。当時、人口約4万人の小さな市で、実に3千世帯が不払いに同調していたというから驚きだが、ここまでNHK側と対立が深まった背景には何があったのだろうか――。

不払いの「へ理屈」とは

▲「週刊新潮」’75年10月2日号

〈口やかましい人種にこと欠かぬ大都市ならいざ知らず、こんな人も景色もゆったりしたところで、月額四百六十五円(注=カラーテレビの場合)の受信料を断固として払わぬ人たちが、そんなにたくさんいるのかと驚いた〉

 カラーテレビの場合という注記が時代を感じさせるが、50年前とはいえ、465円ならば高い金額ではないだろう。日本放送労働組合がこの年の8月にまとめた「放送白書」に、北海道支部岩見沢分局の報告として、深川市での騒動に関する記述が盛り込まれていた。
〈「岩見沢放送局の管内には深川市という受信料不払いで有名なところがある」との書出しではじまる。以下、この不払いはNHKの元再委託者が解雇されるときのこじれから、不払いを主張するチラシをまくなかで続けられているのが特徴であり、これに対して戸別訪問による説得活動を続けたが効果はあがらず、ワラをもつかむ気持で放送利用活動、番組派遣が行われている、などと述べている〉

 難しい用語がいくつか登場するので、簡単に説明しておこう。再委託者とは、要するに受信料集金人のこと。NHKは集金業務の大部分を外部に歩合で委託しており、その委託先から孫請けしているので「再」がついているのだ。

 放送利用活動と番組派遣とは、取材班が出向き深川を取り上げること。わがまちが好意的に紹介されているとなれば受信料を払わなくては、と思ってもらうことを期待しての戦略である。
 ただ、その効果は限定的だった。最近は司法が滞納者に対して厳しくなってきたが、基本的に支払いを拒否しても、法的な罰則規定は適用されなかったからだ。「白書」でも、〈「精神面の苦痛は大きい。特に営業部では著しい。深川に出張が続く。しかし、はたしてこれでどうなるというのだ」〉と、集金の難しさを嘆いている。

 では、問題の元NHK集金人とは、どんな人物だったのか。
〈“獅子身中の虫”は、下川増夫老人だ。まず、彼が今年六月の市議会議員選挙に立候補したことにふれておこう。初出馬の下川老人は落選したが、四百四十二票を集め、最下位当選者との差は三十八票だった〉
「新潮」の記事は、文中で「下川老人」と称しているが、年齢は65歳である。全体的に下川氏と不払い者に批判的な論調であるから、わざわざ老人呼ばわりしているのは、ちょっとした侮蔑の意味が込められているのかもしれない。

 それはさておき、38票差ならば大善戦といえるだろう。
〈下川老人の立候補の目的は、つまりは「NHK受信料不払い」を宣伝するためである。スローガンはそれだけ。家の前に大きな看板を立て、同じことを書いたノボリを担いで、自転車で走りまわった〉
 折しも市長選が同時に行われていたので、多くの聴衆が集まる市長候補の街頭演説に“乱入”し、妨害こそしないが、幟を掲げてアピールする作戦も一定の集票につながったようだ。やっていることは、まさに元祖“NHK党”である。

 NHKを敵視するようになった理由について、本人はこう語っている。
〈「ちゃんと立派な玄関を構え、職を持った人が支払いに応じない。ところが、母子家庭で雨降りの白黒テレビを見ているような家に行くと、そこの主婦は何をおいても受信料を払わなければと、家じゅうの小銭をかき集め、さらに子供の貯金箱までひっくり返して払う。無料になる手続きをしてあげたのですが、数カ月後には、NHKの調査員なる者が行って、また支払いさせるようにしていたんです。バカバカしくなり、私自身も不払いを始めました」〉

 弱者への同情が出発点とはいえ、ここまでNHKを憎悪する執念は尋常ではない。不払いの輪は、高校の教員、市役所の係長、深川駅の駅員など、本来であれば「公」の立場に与するはずの人たちにまで広がっていた。深川地区を担当する集金人は、下川氏の活動の影響について、こう吐き捨てる。

〈「三割減ったなんてことはありゃしません。ただ、下川さんのおかげでやりにくくなっているのは事実です。見せてもらっているんだから払うのが常識でしょう。日本は法治国家なんですから、決められたことは守るべきです」〉

 このままでは埒があかないと、3年前からNHK側は、岩見沢や札幌、さらには東京をはじめ全国からベテランの営業スタッフを隔月で深川へ派遣していた。彼らの定宿を知る関係者はこう証言している。
〈「今年の六月はすごくて、一度に三十人が一週間泊っていたね。朝は九時から夜は八時、九時まで外へ出て仕事。帰ってきても、ソロバンはじいて帳簿の整理。大変な働きぶりだったよ」〉

 その後の下川氏との暗闘がどうなったかはわからないが、「みなさまのNHK」を支える現場の苦労は並々ならぬものがあったようだ。

阿寒湖でガイドした岩淵サチ子さん

▲「週刊文春」’75年10月9日号

 昭和29年8月、札幌で開催された国民体育大会にご臨席された両陛下は、道内巡幸の途次、阿寒湖に立ち寄られた。その際、観光船でのガイドという大役を務めた岩淵サチ子さんの「いま」を、「週刊文春」9日号が特集している。当時、18歳だったサチ子さんは3年後に結婚し、取材時は39歳で2人の子どもを育てていた。

 岩淵家は土地の名士で、親の代から遊覧船のオーナー。加えて〈一家に伝染病にかかったことがある者がいなかったこと〉が、15人いたウグイス嬢の中から選ばれる決め手になった。
〈「説明する内容はふだんとちがわないのですが、敬語を多くしなきゃいけない。その練習が大変で……」〉と振り返る。当日、皇后様は体調を崩され、陛下がおひとりで乗船された。マリモと湖岸の高山植物に、ひときわ関心を示されていたそうで、同行した村長に「マリモって何だい」と尋ねられた際、緊張した村長は「植物です」としか答えられなかったという。

 村は歓喜に包まれたが、一方でこんな「悲劇」もあった。大金を投じて大改築した滞在先の旅館は、客を選ばざるを得なくなり経営危機に。結局、本州大手に買収されてしまった。「文春」の記事は〈二十年の歳月はときとして残酷でもある〉と結んでいる。

人馬ともにクタクタ 「ムツゴロウ杯」

▲「週刊文春」’75年10月16日号

 半世紀前はムツゴロウこと畑正憲氏が浜中町に開いた「動物王国」が全国的なブームになっていた。「週刊文春」16日号が、その「動物王国」で開催された「ムツゴロウ杯第1回日本オープン」の熱戦の模様を伝えている。

 同大会は、日本初の本格的なクロスカントリーレースで、道内各地から51頭の馬が集まった。参加者には、「はじめ人間ギャートルズ」でおなじみの漫画家・園山俊二氏の姿も。
〈大自然のなかで楽しくワイルドに!というムツゴロウ氏の大会宣言どおりワイルドなこと。全コース54㌔を走りぬくレースなのだ〉

 コースは絶景の連続であったが、同時に過酷だった。石ころだらけの急な坂道や砂浜に人馬とも体力を奪われ、完走したのは36頭。主宰者のムツゴロウ氏は愛馬ゴンべと参加したが、〈頑張って7着でゴールインした。しかしもう、ゴンべは汗まみれでフラフラ。騎手のほうもただしがみついているだけで、ウマ酔いとでもいうのか、顔面蒼白、足腰も立たなかった〉という有様だった。

 このレースでは倒れる馬が続出し、うち7頭が命を落としてしまった。これにはムツゴロウ氏もショックを受け、〈「もっと準備に万全を期すべきだったなあ」〉と反省の弁を口にしたが、現代ならば動物虐待との批判は免れないだろう。精も根も尽き果て、ぐったりと横たわる馬の写真が痛々しい。

 その後、「動物王国」は東京移転に失敗し、北海道へUターンするなど迷走を続けたが、現在は王国の流れを汲む中標津町の「ムツ牧場」が観光客の人気を集めている。

最後の蒸気機関車を求めてSL無宿

▲「週刊文春」 ’75年10月9日号

 昭和100年の今年は、昭和の日本を牽引したSLが引退して50年目の年でもある。「週刊文春」9日号では、迫りくるSL終焉を前に、北海道へ殺到するファンたちのフィーバーぶりを批判的に伝えている。

〈急に寒くなった北海道の原野に、夏姿のままカメラをかかえた一団がうろついている。いよいよことし限りで姿を消す蒸気機関車を追いかけて、夏からずっと居座っている連中だ。なにしろ四国や九州などからきているマニアである〉

 写真をみると、高価なカメラを構えた「撮り鉄」がズラリと並んでいる。もっとも当時は「撮り鉄」なんて言葉はなかったのだが、列車にカメラを向けるファンの行動パターンは、半世紀前からそう変わっていないようだ。彼らは夏から滞在しているとのことだが、そんなに長く仕事を休める身分だったのだろうか。

〈早朝の室蘭本線。けたたましい汽笛と共にあらわれたのは、わずか五両の客車をひいたポンコツD51。それに百人近いマニアがカメラを三つも四つも吊るして群がる。汽笛が大げさなのは彼らが邪魔で走れないからだ。駅員が追払ってもハエのようにあらわれる〉
 ラストランの舞台は12月14日、室蘭本線の室蘭―岩見沢間であった。

山道で生れた赤ん坊の行方

▲「週刊新潮」’75年10月9日号

 全国のB級ニュースを拾い集めた「週刊新潮」の「新聞閲覧室」。9日号から「北海道新聞」のネタを紹介したい。だいたいこの欄で取り上げられるのは、マヌケな話や呆れた話ばかりなのだが、珍しくホロリとさせられる「イイ話」を選んでいる。

 舞台は小樽市。松ケ枝町に住む主婦から、「山道に女性が倒れている。産気づいているらしい」との通報が市の消防本部に寄せられた。
〈すぐに救急車が現場へ行き、主婦A子さん(28)を産婦人科医院に収容した〉
 しかし、話はこれで終わらない。
〈こんどは医院から消防本部に電話があり、「A子さんは倒れていた場所の付近で出産したようだ。その赤ん坊を助けてくれ」〉

 再び救急車が現場へ急行したが、そこは藪が密生した場所で、捜索は困難を極めた。隊員に焦りの色が滲む。
〈新生児はほうっておくと、体温が下がってしまううえ、へその緒から出血するので、見つけるのが遅れると命が危ない〉

 救急隊長の山田英二さんは、当時の状況をこう述懐する。
〈「どうしても見つからないのであきらめかけたが、もし自分があの出産した女性だったら、子を産み落した時どうするだろうと考え、A子さんが行動したと思われる跡をたどっていくと見つかった。A子さんが倒れていたところから約四十㍍離れたガケの上に、ショールでくるみ、さらにトタンでかぶせてあったが、トタンをかぶせたのは、野犬に見つからないようにという、とっさの処置だったのだろう。気を失うまでに、これだけのことをやれたのは、母親の生命力だと思う」〉

 まさに「母の愛は海よりも深し」である。救出されたのは女児で、生命に別条はなかった。当時は赤ちゃんをロッカールームなどに置き去りにする事件が多かっただけに、この美談に読者は胸を打たれたに違いない。

廃墟となった“紛争学園”

▲「週刊新潮」’75年10月16日号

 続いても「週刊新潮」の「新聞閲覧室」16日号から。同じくネタ元は「北海道新聞」である。
 釧路市内の私立高校で校舎がめちゃくちゃに破壊され、入学式が延期される異常事態となったのだが、これはいわゆる「校内暴力」ではなかったようで――。騒動の経緯をみていこう。

〈四月以来、三人の教諭に対する懲戒解雇処分をめぐって労使の紛争がつづき、深刻化する一方の釧路第一高校の校舎は無残な姿に変身した〉
 同校は鉄筋コンクリート4階建てのデラックス校舎で評判だったのだが、窓ガラスの約6割が叩き割られ、机や椅子も30組以上が窓から地面に叩きつけられた。
〈修学旅行の中止が決まった八日ごろから、やり場のない怒りを爆発させた生徒たちによる破壊行為が目立つようになり、二十五日の夜、頂点に達したらしい〉

 暴れたのは不良ではなく、ごくふつうの生徒だった。大人たちの内輪揉めのせいで、授業に影響が出ているだけではなく、楽しみにしていた修学旅行まで中止になったのだから、激怒するのも無理はない。そんな生徒の思いは届かず、対立は泥沼化の様相を呈していた。
〈紛争が十月初旬までつづけば、生徒の全員が留年、廃校という最悪のことが予想され、すでに生徒も一人、二人と転校手続をすすめているそうだ。辞職を決意した教職員もいる〉

 道新の記事では、労使紛争の経緯については触れられていないが、保護者の間では生徒を擁護する声がほとんどだった。ある生徒の父親はこう憤る。
〈「学園側も組合側も、生徒の行為を責める資格がありませんよ」〉
 結局、その後、新年度の生徒募集を停止する事態に追い込まれ、翌年、学校側は1978年での廃校を発表するに至った。生徒不在の闘争に明け暮れた関係者は、何を思ったのであろうか――。

蒸発娘を思う父親の情

▲「週刊新潮」 ’75年10月16日号

 今回はもうひとつ「週刊新潮」の「新聞閲覧室」16日号から北海道の話題を。こちらのネタ元は「北海タイムス」である。
 当時は若者の家出、蒸発といった事案が、今よりもずっと多かった。これは行方不明となった娘を必死に探す、父親の涙ぐましい話である。

〈かわいい娘が理由もなく家を出たのは四年前。当時、彼女は二十歳だった。神奈川県の会社役員Aさん(52)は、娘の消息をたずねて八方手をつくしたが、すべて徒労。ただ二年前、札幌にいることがわかった。ワラをもつかむ思いで、Aさんは札幌で評判の老祈禱師の門をたたいた〉

 父親の切迫した心情は理解できぬではないが、警察や興信所ではなく、なぜ祈祷師などを頼ってしまったのだろうか。この判断が、思わぬ騒動を引き起こすことになる。
〈その老祈禱師は低くうめいて、「娘さんは札幌の丘珠飛行場近くの土中に埋められている。男にベルトで絞め殺された。そばに別の死体もある。早く助けて、と言っている」と顔をひきつらせてご託宣〉

 事もあろうか、Aさんの娘が、すでに仏様になっていると断言したのである。動揺したAさんは、家族も呼び寄せ、祈祷師とともに札幌北署へ。
〈さっそく刑事が出向いて、指定の草地にシャベルを突き立てたが、出てきたのは赤茶けた泥炭ばかり。「こんなはずはない」と首をひねる老祈禱師のかたわらで両親は、「これでいいのです。無事で生きている望みが出てきた」と。「子を案ずる親の気持ちにうたれた」と刑事たちもしんみりしていた〉

 わずかな手がかりでも、と思ったのかもしれないが、何の根拠もない祈祷師の言葉に従い、刑事が動いたことが驚きだ。そして、そんな怪しげな祈祷師が絶大な人気を得ていたことに、「昭和」を感じずにはいられない。
 両親の心配をよそに、元気にすすきので働いていた、なんて結末であったならいいのだが。

ガルバー投手のあきれた内職

▲「週刊文春」’75年10月2日号

 これまで本欄では、日本ハムファイターズの歴史に汚点を残した、残念な外国人選手を何度か取り上げてきたが、「週刊文春」2日号が報じているジョージ・ガルバー投手もなかなかといえる。

〈巨人―阪神戦試合開始前の後楽園球場に、日本ハムのジョージ・ガルバー投手が通訳をつれて姿をあらわし、王選手に会いたいと申し入れた〉〈巨人軍の広報担当は「事前の申し込みはなかったけれど、別に断る理由もない」のでOKを出したのだが、二人を会わせてみて驚いた。会見の目的はなんと、アメリカの新聞の特派員として記事を送るためのインタビューだったのである〉

 いわば投手と記者の“二刀流”だが、広報担当が「開いた口がふさがらなかった」と呆れるのも無理はない。しかも、本人は2軍落ちしており自由の身だったとはいえ、その日、1軍は試合をやっていたのである。
〈野球規約には、所属球団の事前の同意がなければ他の仕事をしてはならないと明記されている。あとからガルバー投手の所業を聞かされた日本ハムの広報担当も当惑して、「日本の習慣に慣れていないとはいえ、会社の許可も得ずに内職をしていたとはねえ……」〉

 当の本人は〈「来日前に新聞社と契約して、もう十二、三本は記事を送ったかな」〉と悪びれた様子はなかったのだが、アメリカではこうした行為は珍しくなかったようだ。
 メジャー在籍の実績を持つ190㌢右腕のカルバーは、「後期の切り札」として期待を集めていたのだが、終わってみれば1勝4敗の体たらく。当然、1シーズン限りでお払い箱となった。

 日本ハムの外国人投手といえば、この数年前にも、同僚選手と前代未聞の「家族交換」を行い、「スワッピング投手」と揶揄されたマイク・ケキッチがいたが、この2人で懲りたのか、このあと球団は1994年まで約20年も投手を獲得していない。ただ、94年に加入したキップ・グロスは、95・96年に最多勝のタイトルを手にするなど大活躍した。